第三話 nothing

 

 遠くで雷が鳴っていた。雨脚も徐々に強まってきている。これは一日外には出られない天気だろう。

「にーちゃんにーちゃん! あそぼー!」

「片づけと掃除した?」

「どーせ出すから大丈夫だって! 雨だから外でれないし!」

「駄目だよ。ちゃんとやらないと、お昼ご飯はなしだからね」

「ひでぇ! 兄ちゃんがあくまだー!」

 やれやれと肩をすくめつつ、ファゼットはごねる声を背中に受けながら、朝食の片づけに戻る。

 エリキルトが見たら、笑うかもしれない。背伸びをしてエリキルトの様に振る舞おうとしている自分を。

 それでも、恥じない姿で居たいとは思うのだ。そして、普通に親元で育った子どもたちと比較して、卑屈にならないような生活をさせてあげたいと、思う。最も、相変わらず金銭的援助は、巣立っていった≪家族≫頼りではあるのだが。

「にーちゃんにーちゃん大変!」

 ばたばたとキッチンに駆け込んできた足音にファゼットはため息を一つ。雨だろうが晴れだろうが、彼らの元気は常に有り余っているのだ。

 仕方ない事ではある。そして、元気で居てくれるのは何よりだった。呆れつつも、常に安堵は勝る。

「今度はどした?」

「めっずらしーんだけど、ガディが起きてきた!」

「え?」

 きらきらと目を輝かせる四つの瞳に、ファゼットは目を瞬かせる。確かにそれが本当ならとても珍しい。

「でも眠そーだから、イスに座らしといた! ごはんごはん!」

「ああ、うん。そうだね」

 自分の事のように急かす様子に苦笑を返しつつ、ファゼットはガディのために用意しておいたお粥の鍋を手に取った。

 少し冷めてしまってはいたが、ガディにはこれくらいがちょうどいい。その間に、ミルクやらスプーンやらをせっせと準備する姿に、ファゼットは笑みをこぼす。何かと甘えたがる年頃ではあるのだろうが、それでも他人の世話を焼くことに対しては積極的だ。

 年長者というわけでもないが、皆で協力して生きて行かなければならないことを、よく理解しているのだろう。

 そんな成長を喜ばしく思いながら、ファゼットはガディの分の朝食を片手に、ダイニングへと足を向けた。

 雨がざあざあと激しく地面を打つ音が、窓の向こうから聞こえる。くぐもった、それでも存在を主張するような雨音。

 窓のすぐ傍。窓枠に半ば頭を預けるようにして、ガディは外へと視線を向けていた。

 といっても、半分閉じた瞳で、窓の外に焦点の合わない瞳を向けているだけだが。それでも久しぶりに自力で起きた姿に笑みが零れる。

「おはよう、ガディ」

 声をかけると、ぴくりと微かに睫毛が震えた。ゆっくりと、瞬きを一つ。それでもまだ瞼は重そうで。テーブルにはすでにスプーンとミルクが準備されている。手は付けていないが、気付いていないだけだろう。正面に座って、ファゼットはガディへ微笑んだ。

「もうちょっと早く起きられたら、みんなと一緒に食べられたんだけどね」

「ガディはおねぼーさんだからしょーがないよ」

「あはは、そうだね」

 ファゼットは笑って返しながら、ガディの様子を見つめていた。特に反応らしい反応は示さない。

 だが聞いてはいるようで、視線はぼんやりと声のする方向へと向けていた。

「さ、ご飯にしよっか。食べられる?」

 ファゼットの問いかけに、ガディは鈍く頷いた。油の切れた機械よりも遅く、ゆっくりと手を伸ばす。覚束ない手ではあったが、スプーンを手にして、緊張してしまうほどゆっくりとした速度でお粥を口に運んだ。

「熱くない?」

 頷く。低速ながら胃に流し込む様子にほっと胸を撫で下ろし、ファゼットは席を立つ。

「じゃあ、ガディをよろしく頼むね。僕は片付けしてくるから」

「はーいっ」

 元気な返事に頷いて、ファゼットは再度ガディに視線を向ける。鈍いながらもきちんと食事は喉を通っているようだった。

「ゆっくり食べてていいからね」

 そっと声をかけ、ファゼットは片付けへと戻る。心の底で、気にはなりながら。

 

◇◇◇

 

 ガディは、基本的に部屋から出ることが極めて稀だった。さらに言えば、起きている時間の方が余程短い。

 一日の大半を寝て過ごし、たまに起きたとしてもぼんやりとして過ごすだけ。本当にごくまれに、子ども達と遊んではいるようだった。

 遊んでいる、というよりは話しかけられたのに鈍く反応しているだけかもしれないが。

 それでも、部屋から出ることが増えただけでも、幾分ましだった。

――今のガディは、声を完全に、喪っていたから。

 機能的には話せるはずだった。恐らくはあの惨劇によるショックで、言葉を忘れ、さらに言えば生きる事すら忘れてしまったようだった。

 目を覚まして数日は、怯えきって顔を合わせるどころか、すぐに失神してしまうほどで。慣れたかと思って食事を用意しても、体が受け付けないのか戻すことの方が多く、やっと生きているような日々だった。

 今では自発的に部屋から出ることもあり、食事は出された分は食べる様になってきた。といっても、相変わらず負担の大きな食事は受け付けないようだが。

 いつか、話すことが出来るようになるといい。せめて人並みの生活だけは、送らせてあげたかった。

 ……難しい事なのかも、しれないけれど。

「ファゼ兄、聞いていい?」

「ん? どした、メアリ?」

 隣で食器の水拭きをしていたメアリ。赤毛のおさげを肩に垂らした今年で十二歳になる少女は、不思議そうにファゼットを見やる。

「ファゼ兄も、ガディも、どうして大きくならないの?」

「うーん……そうだな。……ちょっとね、人より大きくなるのが遅いんだ。……たぶん」

「そうなの? ふぅん……なんか、不思議だね」

「そうだね」

 それ以上、返す言葉が浮かばない。適切な説明をしようと思うのだが、言葉に出来ないもどかしさがファゼットの良心に負荷をかける。

 もちろん嘘は教えたくない。だが、真実は理解されないだろう。

「でも、ファゼ兄もガディも、わたし好きだから、全然いいよ!」

 屈託なく笑ったメアリに、ファゼットは胸に痛みを覚えながら笑みを返す。

 素直に喜べない自分がまだ、いた。

 

◇◇◇

 

 エリキルトがこの世を去って七年。ガディがここへ来てから、十三年が経とうとしている。

 考えれば恐怖が忍び寄りそうで目を反らしていたが、ファゼットがエリキルトの元に来てから数えれば、もう二十五年もの月日が流れたことになる。

 あっという間だった。エリキルトが亡くなって一年は、自分で課した責任に狂いそうになったこともあった。それを助けてくれたのは、他ならぬ孤児院から旅立っていった『家族』で。

 今でも彼らは定期的に顔を見せにくるし、ディーンは改築作業に一番に賛成してくれた。信仰活動をしていないのにいつまでも教会の形のままだったことは、ディーンも気になっていたらしく。お陰で今では少し大きな屋敷だ。以前より孤児院らしさはなくなり、『家』らしくなったことがファゼットとしては嬉しかった。他の子ども達も嬉しそうだったのは救いだ。

 そんな彼らも、いずれこの世を去って行く。

 自分の終わりは、明確ではなく。

 ただそれでも感じることはある。

「う……!」

 ずきりと、唐突に胸に激痛が走る。息が詰まり、シンクに手をついて倒れまいと手に力を込める。

 ぱた、と汗が一粒手の甲に落ちた。

「……はぁ……」

 すっと刺すような痛みが引き、ファゼットは息を吐く。額に浮いた汗を拭おうとして、手が震えていることに気付いた。

「まずい、かな……」

 時折襲い来る死の気配。着実に、近づいている気がしてならない。

 一般的には目に見えて起こるはずの老化が起こっていない。それでも、ファゼットの命が『普通の人間』と同じである可能性もある。

 もちろん、それより短い可能性も。

 気にも留めなかった終わりを、ひしひしと感じる。終わることは、それほど怖くはない。

 だが、ファゼットは今のままでは、終われなかった。

 まだここにいる子ども達を置いて、簡単には死ぬことはできない。

 

◇◇◇

 

 どうしたものかと、淡いランプの光で照らされた手元に、視線を落としていた。

 魔導具による明かりの設備がないわけではない。ただ、ファゼットが落ち着くだけで。

 太陽が沈み、星が瞬く宵の空気は、静かなものだ。顔を上げれば正面の窓の向こうに星空が広がっている。

ずっと、平穏は保たれてきた。

 いつかガディを探し当ててこの家すら血に濡れる日がくるのではないかと、ずっと不安はあった。それでも、何もなく、ただ平穏な日々は、ここにある。それは一筋の救いでもあった。

 だが、自分が居なくなればそれすら難しいかもしれない。たった一つ山を越えた向こう側で起きた惨劇は、いつもたらされるか分かったものではなかった。子ども達を託すあては、ないわけではない。

 ここを巣立っていった何人かは、同じように身寄りのない子供を育てる施設で、働いている。頼る術は、まだ残されている。

 だが、ガディはどうだろう。ガディがもたらすかもしれない災厄を避ける手段は、ファゼットには浮かばなかった。

 隠れるように生き続けてきたからこそ、今も平穏が続いているのかもしれないのだから。

「……はぁ」

 ため息を吐いて、ファゼットは広げていた日記に左頬をつけた。

 エリキルトは偉大だったなとつくづく思い知らされる。

 ファゼット自身に追手が掛かっている可能性も、否定はできない。そもそも、どういう経緯で迎えに来てくれたのかは分からないが『逃げ出した自分たちを受け入れるつもりで』エリキルトは現れたのだから。今でも何故逃げ出そうと思ったのか、思い出せない。だが、その決断は間違いではなかったのだと、今は思えていた。

 たった一人、自分しか残っていなかったとしても。

 瞼を閉じれば、エリキルトが微笑む姿が思い出せる。温かく、見守り続けてくれたその存在は、今はもうない。

 そしてエリキルトの代わりに、今のファゼットはいる。

 思い出すだけで安堵を与えてくれるような存在に、なれているのだろうか。ただただ、不安だった。

 ゆらゆらと揺れるオイルランプの淡いオレンジの光に、徐々に睡魔が手を伸ばしてくる。

 瞼が重くなって、目がかすみ始める。ふと、小さな物音が聞こえた気がした。

 目を擦りつつ、ファゼットは体を起こして振り返る。

――半分ほど開いた扉の隙間に、ガディが立っていた。

「ガディ?」

 思わぬ存在に目を丸くする。日中よりしっかりと立ってるような気がした。瞳も真っ直ぐにファゼットを見つめ、眠気はなさそうに。

「どうかした? 寝れない?」

 問いかけると、ガディは何か言いかけたのか、口を開いたがやはり言葉は紡げず。唇を噛んで顔を伏せる。

 ふっと表情をやわらげ、ファゼットは告げる。

「おいで。……寝れないなら、一緒に起きててあげるから」

 恐る恐ると言った様子で、ガディが顔を上げる。ファゼットは笑みを崩さず頷いた。

 ガディは逡巡し、そして一歩踏み込んだ。ゆっくりと、着実にファゼットへと歩み寄るガディに、ファゼットは安堵を覚えていた。

 少なくとも、距離を取られなくなったのだ。それは少なからず、自分に心を開いてくれているからだろう。

「ベッドで横になっててもいいし、膝の上でもいいけど、どうする?」

 二択を提案すると、吃驚したようにガディは微かに目を見開いた。やはり日中よりは意識が覚醒しているらしい。

 きょろきょろと、視線を伏せながら床に視線を彷徨わせ、ガディは小さな手でファゼットの袖を掴んだ。

 膝の上、ということだろう。苦笑して、椅子を軽く引いた。

「はい、どーぞ」

 不思議な感覚だった。日中でもこんなに距離を詰められたことはないのに。それでも膝の上に乗ったガディの重さは、以前よりも軽くなってしまった気がした。食事もあまり食べていないのだから、仕方ないとはいえ、微かに胸が軋む。

 視線を落とせば、栗色の頭。その視線は若干上を向いていた。

「星が見えるね」

 こくりと一つ頷くガディ。鈍くない反応に、ふと可能性が過ぎる。

「……ガディ、もしかして日中眠そうなのって、夜起きてるから?」

 ぴくりとガディの肩が小さく震えたのをファゼットは見逃さなかった。図星。

 いつからだったのだろうか。最初の頃は、あまりにも拒絶反応が強すぎてそっと窺うのが限界で。やっと慣れたと思ったら、日中は眠そうで。きっといつからか、昼夜逆転の体質になってしまったのだろう。

 忌まわしき記憶が、そうさせてしまったのだろうか。

「……夜の方が、怖いかなって、思ってた」

 ガディが顔を上げて、ファゼットを見やる。その横顔は、不安げだった。

 そっと頭を撫でながら、ファゼットは思いを零す。

「あんな場所に閉じ込められてたから。……暗闇は、怖いかなって」

 ガディは目を細め、小さく首を振った。何か言いたげにファゼットを見るも、言葉は紡がれず。

 不意に、机の上のペンに手を伸ばした。意外な行動に驚いていると、ガディはファゼットのつけていた日記のページを捲る。

 まっさらなページに、ぎこちなく文字を記すガディ。声は忘れても、文字までは忘れていないということで。ほっとすると同時に何を書いているのかが、気になってくる。ちょうど頭に隠れて見えないのだ。

 数十秒程度の沈黙と、紙の上にペンが走る細やかな音。ことりとペンを置いて、ガディは日記を右へとずらした。ファゼットの目に、見える様に。

 小さく、微かに震えたような文字。そこにガディの思いが綴られていた。

――真っ暗な世界で、ぜんぶなくしたから。暗闇がなくなったら、ぜんぶ、なくなってたから。

「あ……」

 ようやく合点する。ガディは暗闇自体が、怖いわけではないのだと。

 闇が晴れた時に、何もなくなってしまう事が怖いのだと。だから夜から朝へと簡単に越えられない。闇が明けたときに、変わっていない確証をなくして、安堵できないのだと。

 たった一人で、十三年もの間、その恐怖と戦ってきたのだろう。

「ごめん」

 ぎゅっとガディを抱き締める。

 見ていたつもりだった。守れていたつもりだった。

だが、実際は何も分かって居なくて。そんな自分が情けない。そしてガディに対する申し訳なさだけが、募る。

「気付いてあげられなくて……ごめんよ」

 ふるふると、ガディは首を振る。そして再びペンを手に取った。日記帳を手元に引き寄せ、再び文字を書き記す。

――ごはん、いつもありがとう。

 当たり前の事を、感謝されてしまう。それしか出来なかったと言っても、過言ではないのに。

「ガディ……」

 顔を上げて、ガディはぎこちないながらも、笑った。小さく、どこか照れくさそうに。

 初めて、そんな表情を見た。

 息苦しさで、喉がつまりそうだった。情けなさと、安堵と、感情がまとまらない。

 たったそれだけの言葉を、ガディはずっと温めてきたのかもしれなかった。

 すれ違い続けた生活だった。それすら、ファゼットは気づけずにいた。

 でも。

「……一緒に寝ようか。そしたら、少しは怖くないだろうし」

 ガディの表情が微かに強張る。ファゼットは苦笑を返し、そっと頭を撫でる。

「ゆっくりでいいよ。……でも、昼間起きてた方が、みんなと遊べるし。僕も、ガディともっと一緒に色々、やりたいな」

 洗濯でも掃除でも、日常的な事からでいい。少しずつ、普通に近づけていきたい。

 多大な魔力のせいで外見的な変化はないとしても、いつかはきっと、ガディも成長していくはずなのだから。

「まぁ、今日は折角だから、いっぱい話をしようか」

 声と文字で、それぞれ会話が出来るだけでいい。ガディは小さく、頷いた。心なしか、嬉しそうに。

 やっと今が出発点だった。遅すぎた出発とは、思っていない。

 ファゼット自身、始まりは遅かったのだから。新しい自分に変わるには、時間が要る。

 ガディもそうだろう。家族を失って、新しい環境になじむには時間がかかった。そして今度は、距離を詰める時が来たのだ。

 ファゼットの終わりは、自分でも分からない。すぐそこまで来ているのは、確かだろう。

 だが、ギリギリまで諦めない。みっともない最期になるとしても、それがファゼットにとって誇れる自分なのだから。

 

 

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