第四話 迎え人
朝日が、世界を照らしていた。雨上がりの朝は、それだけで世界が煌めいているような気がするほどだった。
日課の結界の点検へと、ファゼットは歩を進めていた。
木々に覆われた道を抜けると、やっと村へとたどり着く。ファゼットが引き継いだ、エリキルトの孤児院は、村からすら少しだけ離れた位置にある。
うっすらと冷たい空気を肺に吸い込みながら、ファゼットは顔を上げた。
村を囲うのは、身の丈より低い柵だけ。魔物はおろか獣に対する防護策としても立派なものではない。
村としての安全を確保するため、そして自分たちが居ていい理由にするため、ファゼットは村の中心にある巨木を軸として、結界魔法を張り巡らせている。これも、エリキルトから継いだものの一つでもあった。
それでも、引き継ぐことが出来たからこそ、今でもこの場所に居られるのかもしれない。だから、この日課を怠ることは出来ないのだ。
見た目には、普通の木と変わらない、一本の木。少しだけ大振りではあるが、それでも余程の高位魔導士でもなければ見抜くことは出来ないだろう。
枯れ葉の落ちた木と変わらぬ姿の向こう側に、生い茂る巨木が存在する事を。
ぴたりと、足を止める。
木の下で、興味深そうに結界の主軸となる木を見上げる黒髪の少女がいた。セミロングの髪が、朝日の輝きに、光を散乱させる。
直感的に、悟る。彼女は、見えている。
「……君、何者？」
「ん？」
ごく自然に視線を向けた少女。それでもファゼットは警戒を緩めず、じっと少女を見据えていた。
緑の丸い瞳をぱちくりさせ、小首を傾げる。
「何者って聞かれると、困るんだけど……私はエルミナ。エルミナ・ドーヴァ。貴方は？」
悪意の欠片もない、屈託のない笑顔が向けられる。
年の頃は、十代後半だろう。ファゼットと外見的には変わらないように見える。もっとも、ファゼットの年齢はそれ以上であり、比較には適していないことは自覚していたが。
エルミナの無垢な笑みに、警戒が解けそうになる。自分でも分からない心の揺らぎをぐっと堪え、ファゼットは口を開く。
「……ファゼット。……こんな何もない村に、君みたいな高等魔術師が、何の用？」
「人探しだよ。高等魔術師、って言われるほど、私は魔法得意じゃないなー」
くすくすと楽しげに笑ったエルミナ。確かに、物々しい気配は何一つ感じない。
ただ、少しだけ纏う空気は、異質だった。それは言葉で説明するには難しいのだが。
「ところで、知っていたら、教えてほしいんだけど……ガディって子、知ってる？」
ぴくりと指先が震えた。
よもや、見知らぬ少女から紡がれるとは予想だにしない名前。脳裏に過ったのは、初めにガディに出会ったあの惨劇の光景。
ぎゅっと手を強く握り締めて、ファゼットは感情を押し殺してエルミナを見据える。
「会わせて、くれないかな？」
「……知らないね」
下手な嘘だと、自分でも思う。だが、認めることなどできはしない。
エルミナの目的が分からないのだから。もしも、ガディを奪いに……最悪殺しに来たのだとしたら、身を挺してでも、ファゼットは守らなければならない。
緊張が、場に張り詰める。
「にーちゃん、こんなとこにいたぁー！」
どたどたと駆け寄る小さな足音に、ファゼットは慌てて振り返った。
六人のまだ子供たちがファゼットに一目散に駆け寄って、あっという間に群がる。
「腹減ったよ、にーちゃん！」
「くつしたに穴空いちゃったよーおにーちゃぁん」
「遊ぼ遊ぼー！！」
それぞれの主張を叫ぶ子どもたちはいつも通りだ。こんな時間に起きて来るのは珍しい。
とはいえ、そんな和やかな驚きに構っている場合ではなかった。
「分かった分かったから。後でね」
それでもまだ自己主張する様子に、頭が痛くなる。微笑ましい光景なのだが、今は和んでいられる空気ではないのだから。
どうしたものかと必死に思考を回転させていると、ふと。
「人気者だねぇ」
呑気な声に、ファゼットは視線を向ける。エルミナが苦笑していた。
思わず表情が渋くなる。敵意こそ感じないが、警戒すべき相手であることは間違いないのに。
「あれっ、もしかしてファゼット兄ちゃんの知り合い？」
「じゃあ一緒に遊ぼっ！」
「行こ行こー！」
「ちょっ……駄目だよ？！」
思わぬ発言に面喰っていると、子ども達はファゼットからエルミナへと興味をシフトさせ、駆け寄っていく。
止める暇も与えないほど素早く、嬉しそうに。
「だから駄目だってば！」
しかし駄目と言っても聞かないのが、子供というものだ。
ファゼットが止めても子供たちはエルミナの手を引いて歩き出していた。
◇◇◇
あれだけ自分たちで遊ぼうと騒いでいた割には、落ち着くと同時に、全員が昼寝をし始めるあたり流石である。
朝食まで付き合わせ、挙句の果てには表で追いかけっこまでエルミナに強いて、それでも彼らは昼前の休憩に入っていた。
今更邪険には扱いにくい、というのがファゼットの本音だった。
ダイニングで紅茶を用意したファゼットは、ようやくエルミナと再び対峙する。
「ファゼットくんは子供に人気なんだねぇ」
先に口を開いたのは、エルミナだった。にこにこと、嬉しそうに微笑みながら。
「別に、人気ってわけじゃないよ。……あの子たちは、他に頼る人がいないから」
「そうなの？」
頷く。今も昔も、変わっていない。
カップを手に取りながら、その水面に映った自分の瞳をじっと見つめる。
「戦災孤児、ってやつだよ。……僕が預かって、面倒見てるだけ」
「ファゼットくんが、一人で？」
よもや君付けで呼ばれるとは思わず、どこかくすぐったさを覚える。
年上として、保護者として、あるいは邪険に扱われることには慣れていたが、同等の立場に近い扱いは初めてだった。
「一応ね」
「そうなんだ。偉いなぁ。あの子たちがおっきくなるまででしょう？」
「……まぁ、来週にはもっと大きな町のちゃんとした孤児院に入るんだけどね」
そう。やっと、引き取り先が見つかった。ここを旅立っていった一人が、話を繋いでくれたのだ。
正直、助かった。ファゼットに忍び寄る死の気配は、着実に、迫っているのだから。
不安と寂しさはあれど、彼らの未来を潰す選択だけは、したくない。
紅茶で喉を潤し、ふとエルミナを見れば、驚きの表情を浮かべていた。
「な、何？」
「ううん……単に面倒見るだけじゃなくて、色々考えてるんだなぁって」
「まぁね」
「……ねぇ、どうして私の事追い出したりしないの？」
不意に切り出したエルミナに、ファゼットは目を丸くする。
「……今更そんな事聞く？」
呆れずにはいられない。追い出す暇も与えなかったといえばそれまでだが。
ファゼットは嘆息すると、子供たちの寝顔を思い出しながら、小さく笑う。
「……あの子たちは人一倍警戒心が強い。自分に害を及ぼしそうな相手は感覚的にわかるんだよ」
「私はそうじゃなさそうだったってこと？」
「まぁ、僕がどう思おうと、あの子たちはおとなしく聞き分けてくれるとも思えないけどね」
正直な感想でもあるが、ファゼットとしても敵ばかりを増やしたいわけではなかった。頼りに出来る存在は、今では居ない。
出来るなら、助けになってくれる存在を心の奥底で切望するほどには。
「……君は、本当に何者？」
だからこそ、問いを切り出す。エルミナは、視線を伏せた。
自分の中で、折り合いをつける様に。あるいは、答えたくないのか。
沈黙するエルミナにファゼットは嘆息した。
「理由もなしで人に会わせろ、なんてのはずいぶん失礼な話だと思うよ？」
ファゼットの言葉に、エルミナはようやく顔を上げる。ばつが悪そうな、表情で。
見れば見る程、言葉を交わすほど、この少女の本質が見えない。
悪意はないだろう。だが、ガディを知っていることの意味が分からない。そして、その先に何を考えているのかが、見えない。
ファゼットは、何よりもガディを守らなければならない。だからこそ、譲れない。
エルミナが、一度ゆっくりと瞬きをする。そして開いた瞳は、真っ直ぐにファゼットを見つめた。
「前置きしていいかな」
「うん」
「信じられないかもしれない。だけど、嘘は言わない。それを踏まえて、聞いてね」
頷いたファゼットにエルミナは微かに笑みを浮かべた。
「私は、破損した魂を修復する輪廻の輪っていう場所から来たの。私の仕事は、そういう魂を輪廻の輪へ連れて行くことと、実際に修復される過程を見守る事。だから、私は迎えに来たの」
唐突な発言に、ファゼットは表情を曇らせる。
突拍子もない話だった。だが、エルミナの瞳は嘘を言っていない。そして、否定できる材料も、ファゼットにはなかった。
自分の存在そのものが、異端なのだから。エルミナの言う『仕事』がないとは言い切れない。
そしてエルミナは、ガディを迎えに来たという。その魂を迎えに。
すっと、思考が冷える。
「……つまり、平たく言うと命を狩りに来た、ってわけだね」
「あはは……まぁ、そうなるかなぁ」
乾いた笑いで同意したエルミナ。ファゼットは視線を伏せる。
ガディの命を、エルミナは奪いに来たという。それは、すぐになのだろうか。
「……待ってもらうことは出来ない？」
「え？」
思わぬ問いかけだったのか、エルミナは首を傾けた。
エルミナが唖然とした表情を浮かべている中、ファゼットはかたん、と静かに席を立つ。
「来てもらっていい？」
それだけ告げるとエルミナの答えを待たずにファゼットは歩き出す。少し遅れて、小走りで追いかけてきたエルミナの足音を聞きながら、ファゼットは一つ、賭けに出る決意を胸に。
◇◇◇
二階へ延びる階段を上り、左へ曲がる。左右に伸びた寝室へ続く廊下。他の子ども達も今は静かな寝息を立てているはずだ。
二つある扉のうち奥の扉の前に立つと、ファゼットは一旦エルミナを見やった。
何の説明もなしにここまで来たことに戸惑いを隠せないエルミナの表情。ファゼットはぎゅっと手を握りしめて口を開く。
「今すぐ連れて行かないって、約束してもらっていい？」
「それは……」
「会ってからでも、遅くないんだろう？ お茶飲む時間はあるわけだしさ」
図星だったのか、エルミナは言葉を詰まらせた。
確証はなかったものの、それだけでもファゼットには一つの希望だ。安堵を悟られないように表情を引き締めながら、ファゼットは問いを重ねる。
「いいかな？」
「……分かった」
エルミナも覚悟を決めたような真剣な表情で頷く。
ファゼットはエルミナに頷き返すと、扉へと向き直った。小さく息を吸って、声をかける。
「ガディ、入るよ」
返事は当然待たず、ファゼットは扉を開く。窓を開けていたのか、隙間から風が吹き抜け、髪を揺らした。
室内は背の低いクローゼットとキャビネット、そしてベッドだけの簡素なものしかない。薄いクリーム色をしたレースのカーテンがそよいでいた。
ベッドに半身を起こしたガディは、不思議そうな表情を浮かべている。相変わらず、眠そうではあったが、その様子だけでも安堵する。
「寝てた？ そろそろお昼だから、何か食べたいものある？」
歩み寄りながら問いかけると、ガディはふるふると首を振る。
その意味は聞かなくても分かる。いつものように、皆と同じ食事が良い、ということだ。あるいはその為にこの時間に起きたのかもしれない。
ガディも、必死に自分を立て直そうとしている最中なのだ。
視線をファゼットから外した刹那、ガディはびくりと身をすくませ、ファゼットの袖を掴んだ。
目を軽く見張り、袖を掴んだ手は、小さく震えている。視線の先を辿れば、困った様子で立ち尽くすエルミナが居た。
「あぁ、お客さんだよ。大丈夫、悪い人じゃないから」
恐らく、ではあるが。少なくとも、ガディの古傷を抉るような存在ではないはずだ。
エルミナは慌てて頭を下げて、どこか緊張を感じさせる笑みを浮かべる。
「はじめまして、ガディくん。私、エルミナ・ドーヴァっていうの。お邪魔してます……びっくりさせた、かな……？」
そろそろとファゼットに視線を移し、エルミナは問いかける。
ファゼットは静かに首を振って、ガディに視線を落とす。怯えは少しだけ和らいだようだった。
「降りて来られそう？」
ガディはファゼットを見上げると、少し不安げに頷いて見せた。あるいは、まだ体が覚醒していないのかもしれない。
そもそも、まだ出歩くには体力が足りていないのは事実だ。階段の往復だけでも体力を消耗して、すぐに眠ってしまうほどなのだから。
「いいよ、無理しなくて。あとで持ってくるから。一緒に食べようか」
こくんと頷いたガディの頭を撫でる。まだ、時間は必要なのに。
自分にもガディにも、時間はあまり残されていないのだ。
◇◇◇
部屋の外に出ると、扉が閉まるのを確認してからエルミナは肩を落として口を開いた。
「怖がらせたみたい……後で謝ってもらっていい？」
「ああ、いつも通りだから大丈夫だよ。むしろそんなに警戒してなかった方。凄いね、君」
眉根を寄せて、怪訝そうな瞳を向けるエルミナ。気持ちは分からなくもない。
エルミナの目には、怯えて口を開かなかったように、見えるのだろう。
胸に痛みを覚えながら、ファゼットは小さく笑みを浮かべる。
「……言葉、忘れてるんだ」
「え？」
「話すってことを、体が忘れてしまってる。聞こえるし、機能的には話せるはずなんだ。だけど、ガディは話すことを忘れてしまった。食べるのも、起きてるのもやっとだよ。もう何年も、ずっと」
驚愕の表情を浮かべたエルミナからそっと視線を外し、ファゼットは閉めた扉を一瞥する。あるいはもう、寝ているかもしれない。
ふっと息を吐いて、ファゼットは再びダイニングへ向けて歩き出す。
エルミナの戸惑いの気配を背中に感じながら、ファゼットは思いを零す。エルミナに、知っておいてほしい、願いを。
「僕はせめて、普通に戻してあげたい。普通に話して、好きなものを食べて、楽しいって思えることを増やしてあげたいんだ。じゃなきゃ、ガディは何のために生きているのか分からない」
「……そうなんだ」
「まぁ、それはこっちの事情なのは、分かってる。いつまであの状態かもわからない。もしかしたら、君に連れて行ってもらって、新しく人生をやり直せるならそれもいいのかなって……少しだけ、思ったんだ」
「どうして、って聞いてもいいのかな…？」
恐る恐るといった様子で問いかけたエルミナに、ファゼットは視線を向け、小さな笑みを浮かべた。
「詳しくは、知らない。でも僕が見たとき、ガディは……死体の下で、震えてた。暗闇で、怯えきってた。多分、君が言ってたように、ガディの魂はずいぶん傷付いてると思うよ。あの小さな体に、莫大な魔力を抱えさせられてるんだから」
「……そうなんだね」
沈鬱な表情で頷いたエルミナに、ファゼットは意外さを感じていた。
魂を狩る……命を狩りに来た存在だというのに、エルミナはどうにもそれらしくない。
来歴に振り回されて、結果を捻じ曲げることが許されるとは到底思えないのだから。知らなくていい情報に易々と振り回されていて、果たして仕事になるのかと、逆にファゼットが心配になってくる。
不意に、エルミナが顔を上げた。
「……ファゼットくんが良ければ、少し……居ちゃダメかな？」
「は？」
「私、知りたいの。ガディくんのこと。……そうじゃなきゃ、連れて行けない」
思わぬ提案に、ファゼットは動揺を隠せない。待ってくれることは有難いのだが、ここに残るのとは別問題で。
そして何より、エルミナは最初から連れて行く気でいたように、見えたのだから。
「いいけど……どういう心変わり？」
半ば疑いの眼差しを向けたファゼットに、エルミナは苦笑いを浮かべる。
「そう思わせたのは、ファゼットくんだよ」