「――ブレン! おい、大丈夫か!」

 唐突に聞こえた声に、ブレンは我に返る。

 肩を掴まれた感覚。

 驚いて顔を上げると、そこには見知った顔があった。

「エリオ……?」

 気づけば周囲は闇に包まれていた。

 村に着いたのは夕方前だったはずで……何時間が経過したのだろう。

「お前、今までどこにいたんだよ。探してたんだぞ! 怪我はないか?!」

 真剣な表情で問いかけるエリオに、ブレンは自分の目を疑っていた。

 いるはずがない、とブレンの理性が否定している。

 ここにエリオがいるという事は、すなわち、騎士団本部がこんな田舎まで出てきているということで。

 そして、エリオは『探していた』と言ったのだ。

――つまりは、クオルを捜索しているに違いなかった。

「っ!」

 思わずブレンは一歩後ずさった。

 がちゃがちゃと甲冑がぶつかる音がブレンの耳に聞こえる。

 それとなくブレンが視線を巡らせると、帝国騎士団の兵が忙しく動き回っていた。

 咄嗟にクオルを探しかけたブレンだったが、不意に思い出す。

――今まで、ありがとうございました。

 そう微笑んだクオルの心中は、ブレンでは測り兼ねた。

 だが、その笑みはブレンの心をどうしても抉る。

 一方で、それを止められなかった自分を、責められないブレンもいた。

「どうした? ブレン」

 再び掛けられたエリオの声に、ブレンは視線を向けた。

 心底不思議そうな顔をしたエリオがそこにはいる。

「心配してやったのに、なんつー顔してんだよ、お前は」

 呆れた様子で吐き出したエリオに、ブレンは警戒しながら、口を開く。

「……探した?」

「そーだよ。お前、脅されてたんだろ」

「な……っ」

 絶句するブレンを他所に、エリオは肩をすくめた。

「脅した挙句、村壊滅させるとか。人の心なんて持ち合わせちゃいないんだな。だから、監禁されてたんだ」

 エリオの言葉には、確かな憎悪が潜んでいた。

 それは当然だ。エリオも昔はここに住んでいた。知人だって、いるのだから。

 だが、それよりも気になるフレーズが、ブレンの思考に引っかかる。

 エリオは、暗にクオルの事を、言っている気がしてならない。

 嫌な予感しか、ブレンの胸中には広がらなかった。

 乾いた口で、ブレンは声が震えないことを祈りながら問いかける。

「……何の話を、してるんだ?」

 ブレンの問いに、エリオは不思議そうな表情を浮かべ、返した。

「だから、お前の警衛対象だよ。お前を脅して城から逃げ出して、ここを壊滅させたんだろ」

「な……――」

「きっと、この程度殺したくらいじゃ足りないんだろうけどな」

 そのエリオの言葉に、ふっとブレンの脳裏に蘇る。

 シェマの手を最後まで離さなかったクオルを思い出す。

「あの人はそんな人じゃない!」

「ふーん……」

 突発的に反論したブレンに、エリオの瞳が、観察するように細められる。

 それはどこか爬虫類じみていて、ブレンは肌が粟立った。

――何だ? 何かが、おかしくないか?

「……安心しろ、俺もそれを信じてるわけじゃない」

 ぽつりと零したエリオ。

「むしろ探してたんだ。……どこに、行った?」

「エリオ? お前何、言って……」

 エリオが口元に笑みを浮かべる。しかし目は、笑っていない。

 ぞっとするような狂気がそこに潜んでいるのを、ブレンは見てしまった。

「クオル様の力が、俺達にはまだ、必要なんだよ。ブレン」

「なんでクオル様の……名前っ……」

「その名を聞いて泣いて喜ぶ奴らがどれだけいるか、お前知らないもんな。まぁ、いいけどな。……敵を討ちたいだろ、ブレン」

 悪魔じみた言葉だった。

 息をのむブレンに、エリオが笑みを浮かべたまま言う。

 寒気が、する。

 関わってはいけない、そう警告がブレンの中で鳴り響く。

 だが、ブレンは絡めとられたようにエリオの視線から逃れることが出来なかった。

「クオル様と、居たいだろブレン」

 否定はできなかった。もっと、色々なものを見せたいという願いは、消えてはいないのだから。

 だが、ブレンはエリオの言葉がひたすら恐ろしかった。

「……だったら一緒に来い。そしてクオル様と一緒に今度こそ成し遂げるんだ」

「俺は……」

「お前も知ってるだろ。帝都と、この辺境の村との格差。この格差は広がる一方だ。それで良いわけない」

 エリオの口調に力が入っていた。そして、その分だけ、怖くなる。

 友人に対して、ブレンは初めて人としての恐怖を覚えた。

「だから、今度こそ成功させなきゃいけないんだ。今度こそ国を取り戻すんだよ、ブレン」

「エリオは……最初から、分かって、たのか?」

「何を?」

 ぎゅっと手のひらを握り込み、ブレンは精一杯の抵抗を込めてエリオを睨む。

「最初から、特殊警衛班がクオル様を隠すために編成されてたってことをだよ!」

「いや?」

「じゃあ、何で……」

「くっ……ははっ!」

 ふとエリオが笑いを零した。

 その意味が分からないブレンは警戒レベルを引き上げる。

 笑いを収めて、エリオは肩をすくめる。

「お前が、連れてるのを見たからだよ。町でさ」

「……!」

「ブレン、言ってたろ。世話係だって。来たばっかりのブレンに、知り合いがいるわけもないし。ましてや仕事中の時間帯だったら、そりゃ世話してる人間だってのはすぐ分かるだろ」

 確かにエリオの話は筋が通っている。だが、それではクオルへはたどり着けないはずだった。

 自分の落ち度を呪いながら、それでもこの違和感を解消すべく思考するブレンに、ふとエリオが言う。

「なぁブレン」

 声をかけたエリオの瞳は、憐れみを映し暗い光を宿していた。

「お前は、いつもまっすぐだから、世の中には表しかないってきっと無意識で信じてるんだろうな」

「そんな事、ない……」

「いいや、あるよ。お前は、光と闇は反対にあるんだって思ってる。光がある間は闇がないって。……だけど、それは違う。両方同時に存在するから、お互いが存在を主張できるんだよ」

「話をそらすなよ、エリオ……っ」

 エリオはふっと息を吐き出して、冷たく言い放った。

「調べれば、すぐ分かるんだよ、ブレン。……だから答えろ」

 それはもう、友人としての言葉ではなかった。

「……クオル様は、どこにいる?」

 

◇◇◇

 

 少しだけ時間は遡る。

 ブレンと別れ、クオルは例の男と共に村の外まで歩いてきた。

「……聞いてもいいですか?」

「町ならこの道まっすぐ」

「貴方は、何者ですか?」

 男の言葉を無視して、クオルは問いかける。

 男は小さな笑みを浮かべ、言う。

「……どういう意味かな?」

「この世界の者では、ないだろう」

「うわ、キミ二重人格だったんだ?」

 軽く驚いたそぶりを見せる男に、クオルから切り替わったイシスが言う。

 イシスは鼻を鳴らして、冷たく問いかけた。

「そんなことはどうでもいい。他世界から何故、干渉する輩がいる?」

「別に、干渉するつもりはないよ。ただ、暇だったもんで、見学してただけ」

「悪趣味だな」

「褒めてもらってどうもね」

 イシスは不愉快そうに男を見つめながら、さらに問いかける。

「いつまで、いる気だ?」

「うん。そうだねー……」

 男はイシスへ顔を近づけて、笑みを浮かべる。

「もう少し、観察したくなった、かな。キミをさ」

 つ、とイシスの頬へ手を滑らせ、そう囁いた。

「私では、なかろう」

 男の挙動に微動だにせず、冷静な態度でイシスは言い切る。苦笑して、男は触れていた手を離した。

「さぁ、どうだろうね」

 視線を外して、イシスはさっさと歩き出す。

 男は楽しそうに笑って、その後ろについて歩き出した。

「自己紹介しておこうか?」

「要らない」

「そういわずにさ。僕は、シス。キミは?」

 鬱陶しい。心底そう思いながら、イシスは答えた。

「イシスだ。……もう一人が、クオル。で、この竜がライヴ」

「そう。しばらくよろしくね、イシス」

 ため息をついて、イシスは空を見上げた。

 黒い雲が空を覆い始めていた。……嫌な予感が、イシスの胸中で静かに広がり始めた。

 

◇◇◇

 

 シスと歩くこと三時間ほど。

 すっかり日が暮れて、星も見えない曇天の中、町へとたどり着いた。

 先ほどの村に比べれば栄えているが、帝都と比べれば大したものではない。

「そーいえば、イシス。キミ、無一文じゃなかったっけ?」

 シスに痛いところを突かれて、イシスは不機嫌な表情で振り返った。

 楽しげな笑みを浮かべたシスからすぐに視線を外す。無一文どころか、ほぼ手ぶらであることは今更言うまでもなかった。

「うるさい」

「クオルと代わってみない?」

「断る。お前はろくでもない気配しか感じない。世間常識から隔絶されてるのを良いことに、クオルに何をしでかすかわかったもんじゃない」

「あははは、面白いこと言うね」

 ちっとも面白くはない。

 イシスはシスの相手を辞めて、視線を巡らせながら、歩を進めた。

 シスは黙ってその後に続く。通りのあちこちで、布をかぶせられた荷台が目につく。ちらりと、その布から見える紋章に見覚えがあった。

(……帝国、か。ここを拠点に先ほどの村を殲滅させたということだな)

 歩調を速めながら、兵に見つからないよう、イシスはなるべく人ごみへ紛れる。

「この世界は、本当に戦争が好きだね」

 不意のシスの言葉。

 その真意が読めず、イシスは怪訝そうに振り返った。

「キミは……そんな世界で、何を願ってここにいるんだい?」

「私の願い、だと?」

「そう。クオルの願いでもいいよ」

「……そんなの、簡単だ」

 ふ、とイシスは息を吐いて笑みを浮かべる。

 そう。願いなど、ずっと変わっていないのだから。

「ともにあり続けること。そして……自由な形で、死を得ること。それだけだ」

「……なるほどね」

 納得した、という表情でシスが頷く。

 イシスには全くもって、シスが何を考えているのかわからなかった。

 ただ、敵ではないことだけは確かだった。信用できる味方でもないけれど。それが、イシスが簡単にシスを振り払えない理由でもあった。

 クオルを守るには、自分とライヴだけでは心許無いのは確かで。

 その場所にいたはずのブレンを、クオルは切り捨てた。

 痛みも構わず、ブレンのために。

 だからこそ、クオルの決断をイシスはそう簡単には覆さない。

 代理がシスと言うのには、大いに不平不満が募ってはいたが。

「これから、どうするつもり?」

「お前には関係ない」

「この世界に未練がなくて、他に当てもないなら、一緒に来る気ない?」

 イシスは不機嫌な表情でシスを一瞥し、鼻を鳴らした。

「その答えは私にではなく、こちらに聞け」

「え?」

 すう、と色を失うように、イシスの瞳の色が変化する。

 紫から、青へ。イシスからクオルへと交代する。

「……あっ、す、すみません……あの、話は伺ってました」

「なんか、結構……面倒になったね」

 若干残念そうにシスが言った。

 クオルは不思議そうな表情を浮かべて、尋ねる。

「どういう意味ですか?」

「いや、別にいいんだけどさ。面白いし。……で、聞いてたなら、答えは?」

 シスの問いかけに、クオルは小さく微笑んだ。

「他に当てもありませんし、ご一緒していいというなら、それは嬉しいです。でも……」

「でも?」

 クオルは目を伏せ、寂しそうにぽつりと答えた。

「未練がないわけじゃ、ありません。僕は、どんなに残酷な過去と未来しかなくても、この世界が好きです。だから……今は、一緒には、行けません」

「……そう言うと思ったよ」

 軽く肩をすくめて、シスは小さく笑った。

 クオルは表情を曇らせて、頭を下げる。

「ごめんなさい。折角の厚意を無駄にして」

「いいよ、別に。こっちだって気まぐれみたいなもんだし。それに」

 視線で、シスはクオルの背後を示す。

 クオルはそちらを見やって、絶句した。

「……まだ、さよならには早いみたいだし」

 異常に人目を引きながら、しかし誰にも気づかれていない様子の女性。

 赤に黒のドットのワンピースと、真っ白なロング。

 一目でわかる。

――ノウェンだった。

 ノウェンは楽しげな、しかしどこか邪悪な笑みを浮かべて、そこにいた。

「お久しぶりですね、クオル様」

 クオルは黙って、ノウェンを見つめていた。

 何故ここにノウェンがいるのかが、分からないのだ。

「ブレンはどうなさったんです? まさか、どこかではぐれたのですか?」

 どこか白々しい問い。

 クオルの肩にいるライヴが警戒して、ノウェンを睨んでいた。

 ノウェンの視線は、過ぎ行く人の目には映っていないようで、素通りしていく。

 よくよく観察すれば、ノウェンだけではない。クオルやシスまでもが、人々の視線から切り離されたように、素通りされていく。

 恐らくは、ノウェンの封術で。

「ノウェンが……どうして、ここに?」

「反帝国組織の鎮圧のため、ですよ」

「……鎮圧?」

「ええ。このすぐ先の村が、組織の中心となっているようです」

 クオルはそれだけで全てを悟る。

 誰が、ブレンの故郷を破壊したのか。 

 身体が、震えた。

 クオルの震えは、ノウェンに対する怯えではなくて、それに気づけなかった自分への憤りだった。

「ご安心ください。今更貴方を捕まえようなど考えていません。私では精々人目につかないようにこんな風に結界を張るくらい。もっとも……」

 ノウェンは心底楽しげな笑みを浮かべて、言った。

「シェマが居たなら、貴方やブレンを囮に使うなどさせはしなかったでしょうね」

 その言葉に、クオルは絶句した。

――囮。

 ノウェンは、全て計算して動かしていたのだ。

 あるいは、シェマが戦いの最中に唐突に限界を迎えたのも、ノウェンが何か細工をしたのかもしれない。

 しかし、それより問題は……――

「……ブレンさんも、囮なんですか?」

「だった、ですよ。もう役目は果たしてくれました。彼の知人に反帝国組織の一員が居たのは分かっていましたから。それを呼びよせてくれた。十分です」

 めまいがする。

 ノウェンの言葉を信じたくなくて、クオルは頭を振った。

「貴方も、巻き込まれないうちに去った方がいい。静かに暮らせる場所を見つけられるといいですね」

 そう告げて、ノウェンは一礼した。

 見る間にノウェンの姿は霞んでいく。

 術を自分にだけかけたのだろう。

 止める気力も失ったクオルは、じっと口を閉ざしていた。

 シスがノウェンの消失を見届けた後、声をかける。

「大丈夫かい?」

 こく、と頷いてクオルはシスを見やった。

「ごめんなさい、シスさん。……僕は……」

「一人で行ったらそれこそ、あの女の思う壺だと思うよ、僕は」

「それでも、僕は」

「だからさぁ」

 シスがやれやれ、と首を振った。

 表情を曇らせるクオルの頭にぽん、と手を乗せ、シスは言う。

「二人で行こうってことだよ。……言ったろう? 面白そうだから、見学に来てた、ってさ。もう少し楽しませてもらうよ」

「シスさん……」

「だからクオルも、好きにしなよ」

 クオルはじっとシスを見上げ、やがて小さく頷いた。

「…………このお礼は、必ずいつか、します」

「そう? じゃあ楽しみにしておくよ」

 あと数時間で日が変わる。多分、残された時間は少ない。

 日の出までに手を打たないと、取り返しがつかなくなる。

 そんな気がした。

 

◇◇◇

 

 深夜、ちょうど日が変わった頃だった。

 ブレンはエリオの監視下に置かれながら、反乱兵の詰所にいた。

 帝国へ反旗を翻すために集っている彼らがいたがために、この村が壊滅したのだと、ブレンはエリオの情報から理解した。

 全ては、クオルの能力一点に賭けた、脆くも最強の一手。

 だが、ブレンは反乱も悪くはないと、どこかで思っていた。

 もしも本当に、これでクオルが帝国の追手に怯えずに済むのなら、と。しかしそのためには、クオルの力が必要なのだ。

 それだけはさせないと、ブレンは固く決めていた。

 だとすればあるのは無残な敗北しかない。

 淡い夢と、暗い絶望。それと同じ色染められたような、漆黒の空が頭上には広がっている。

「ブレン、大丈夫っ?」

「母さん……?」

 見れば、ブレンの母がそこには立っていた。

 地味な綿のブラウスに、紺色のスカート。その上に薄汚れたエプロンをする、いつもの、母だった。

 だがここに居るという事は、母も反乱軍側の人間と言う事なのだ。その現実がブレンの胸を刺す。

 駆け寄ってきた母に、ブレンは返す言葉が浮かばなかった。

 それでも母は嬉しそうに笑顔を見せる。

「良かったわ、無事で。本当に良かった……」

「ごめん、母さん。……俺は」

「いいのよ。心配しないで。全部母さんが解決してあげるわ」

 ぎゅっと手を握り締め、母はそう断言した。

 ブレンはその母の感覚に懐かしさと、寂しさを覚える。

 きっともう、互いが見ている世界は、全く異なる色をしているのだろうから。

「……大丈夫よ。ブレンの願いは、きちんと母さんが叶える」

 母がそっと顔を近づけ、ブレンの耳元で囁いた。

――クオル様には、その力を使わせないわ。

 ブレンは思わず母を凝視した。

 母は、静かな笑みを浮かべて、そっと頷く。

 子供のころから、母はいつだって味方で居てくれた。

 そんな母の言葉を信じられないブレンではない。

「母さん……それ、どういう……――」

 ブレンが言いかけた言葉を掻き消す様に、外からわっと歓声が木霊した。

 ばたばたと出て行く、反乱兵。

 意味が分からず立ち尽くすブレンの耳に、その言葉が聞こえる。

――クオル様が我らの元へ来てくださった!

 表情を強張らせたブレンの様子に、母は穏やかに微笑み、その手を引いた。

「行きましょう、ブレン」

 その手をブレンが振り払う事は、出来なかった。

 

◇◇◇

 

 村の中心にはひときわ大きな屋敷がある。

 それがこの小さな村の村長の家だ。

 村長宅の前には、広場があり、集会場としてよく利用されていた。

 今も、人が多数集まって異様な熱気といってもいい。

 そこにいるのが、村人だけではなく、甲冑や鎧を着こんだ人々までいるのだから、異常な光景だった。

 どよめきで満たされた空気の中を、ブレンは母に連れられ中心へ向かっていた。

「お陰様で、怪我人が大幅に回復しました。貴方がいてくだされば、勝ちは決まったようなものです」

 誰かの感謝の言葉が聞こえる。

 そして。

「何か、勘違いしてらっしゃいませんか」

 その声だけで、ブレンは悟った。

 本物の、クオルだと。

 思わず足を止めたブレンを、母が怪訝そうに振り返り、手を引く。鈍い反応を返し、ブレンは歩調を緩めて中心へ向かう。

(俺は、一度離れて……それでも、会いに行って、本当に……いいのか?)

 疑問と不安が膨らむ中、クオルの凛とした声が響いた。

「僕は、もう戦争にかかわるのは……嫌です。邪魔なんて、もちろんしません。だから、放っておいてください」

「では、なぜこちらへ参られたのですか?」

「それは……」

 口を濁したクオルに、ブレンは心が痛んだ。

 こんな時、加勢できなくて何が世話係だったのだろう、と。

 しかし。

「……ブレンさんを、迎えに来ました」

「はっ?」

 人垣から抜けた瞬間の言葉で、思わずブレンは呆けた。

 その瞬間、青の澄んだ瞳と目が合った。

 周囲の鈍い光に照らされる、白いシルエット。

 この場の誰よりも幼い外見をした、孤独な存在。

 それは、ずっと見てきた……家族のような存在だった。

「……クオル、様」

 やっとの思いでその名を呼ぶと、クオルは複雑な笑みを浮かべた。

 嬉しそうな、しかし悲しそうな。そんな相反した笑みだった。

 その傍らにはシスがうるさそうに眉をひそめている。

 ブレンの中で、どうして、という言葉が脳内で反響する。

 どうしてここに居るのか。

 どうして自分を迎えに来たのか。

 どうして……それでもまだ、笑みを向けてくれるのか。

 ふわりと白い法衣を翻し、クオルが一歩、ブレンへと進んだ。

 言うべき言葉を模索するブレンの視界の隅を……影が、過ぎった。

――きん、っと甲高い音が唐突に木霊す。

 少し遅れて、ちょっとした悲鳴が遠くで聞こえた。

 何が起きたのか、把握できないブレンの視界の中で、シスが剣を握っていた。

 ブレンとクオルの間、ちょうどその間に立っているシス。

「ふーん。いきなり殺しにかかってくるとはいい度胸してるもんだね」

 褒めてるんだか、怒っているのかわからない口ぶりのシスの前。そこで、膝をついているのは、――ブレンの母だった。

「母、さん……?」

「心配しなくていいのよ、ブレン。母さんは……貴方の願いを叶えるわ」

「意味が……母さん……?」

 ブレンの声が震えた。

 母はどこからともなく、ナイフを取り出す。

 周囲にいた村人から悲鳴が上がり、反乱兵が剣に手をかけた。

 ひたり、とブレンの母はクオルを見据えた。

 その瞳は狂気に濡れて、思わずクオルは青ざめる。

 本能的に恐怖を感じたのだろう。

「ブレンは、貴方に戦って欲しくはないの。優しい子だから」

 ずっ……と地面を擦るようにして母が、一歩クオルへ近づく。

 シスが少し後退し、クオルを庇うように立った。

 だがブレンの母の視界に、シスは一切映っていない。

 ぼそぼそと、その口から言葉を紡ぐ。

「だから私はブレンの願いを叶えるわ。……それにね、私は貴方の事を……許したわけじゃないの」

「っ……」

「貴方は、私の父を骨まで焼き尽くした。お陰で母は壊れてしまったわ……」

 クオルの表情が凍り付いた。

 蒼白な顔で、にじり寄る姿を見つめるクオルと、狂気を帯びた母の姿が、ブレンの心に突き刺さる。

「め……ろ。……頼むから」

 かすれる声で、ブレンは訴える。

 母は、クオルが戦中『兵器』として扱われていたころを知っている。

 そして、息子の願いをゆがんだ形でも叶えようとしている。

「だから……私の仇と、ブレンの未来のために死んで頂戴ッ!」

「母さん、やめろ!」

 地面を強く蹴り出した。

 そして。

「……か……はっ……」

 どさりと目の前で崩れた母の姿に、ブレンは絶句した。

 あと少しで手が届いた。

 その前に、母は。

――エリオが、冷たい表情で切り捨てたのだ。

「母さ……っ! 母さんッ!」

 みるみる血だまりを広げる母の姿。

 ブレンはその脇に膝をついて必死に母を呼びかける。

 溢れる激情で視界が滲み、体が震えた。

「何で、どうしてっ……!」

「大丈夫です」

 耳を掠めたその声に、ブレンは顔を上げる。

 クオルが傍らで膝をついて、母へと手を伸ばして魔法を発動しようとしていた。

「あ……」

「余計なことは、しなくて結構です。クオル様」

 ぐいっと腕を引かれ、無理矢理剥がされたクオル。

 慌ててブレンが顔を上げると、エリオがクオルの腕を捕らえていた。

「……ぅっ……」

「クオル様!」

 苦しげな声を漏らしたクオルに、引き離されたライヴが悲痛な声を上げる。ブレンは我に返るとすぐさま立ち上がった。

「エリオ、クオル様を離せ!」

「わざわざお越し願ったのを、引き取ってもらってどうするんだよ」

 エリオたち反乱兵は、もともとクオルを必要としている。

 この機会をみすみす逃すわけはない。

 この状況を打開するためにブレンは必死に言葉を探すが、浮かんでこない。

 焦るブレンの肩へライヴが降り立ち、不安げにその横顔を見やった。

 エリオの向こう側で、シスが呆れた様子で肩をすくめていた。

「僕は……、あなた方の言いなりには、なりませんっ……!」

 ふと、クオルがエリオに対し拒絶の言葉を投げる。

 エリオはクオルを一瞥し、笑みを浮かべる。

「もちろんです。貴方は貴方の意思でその力を奮って貰います。……そのために対価をどれだけ払おうとも」

 クオルはエリオの言葉を徹底的に無視する。

「エリオ、やめろ。頼むから……やめてくれ……!」

 今も足元で冷たくなっていく母も、目の前で苦しむクオルも、ブレンはもう、見たくなかった。

 それをもたらすのが友人だったエリオだなんて、最早、悪夢だ。

「どうして、誰も……ちゃんと分かってやらないんだよ!」

 今この状況の、全ての原因はクオルなのかもしれなかった。

 それでも、それを一番望んでいないのがクオル自身であることも……ブレンは知っていた。

「分かってるさ、ブレン」

「分かってない。母さんも、エリオも、帝国の他の奴らも。クオル様の事分かろうともしてない……!」

 あの小さな部屋の中でずっと我慢していたことも。

 外に出ることをどんなに切望していたかも。

 普通の事を純粋に喜べることも。

 誰もいない、孤独の中で笑うことのできる強さも。

 自分を慕ってくれた存在の願いを叶えるために、その手で殺したことも。

 誰も、理解してやろうとはしないのだから。

「だから、クオル様を守るのは俺なんだ。帝国にも、お前たちにも、利用なんてさせない。これ以上……クオル様を傷つける真似だけは、許さない」

 その為に、……友人と一戦交えることになろうとも。

「かっこつけてるとこ悪いんだけど、どうやって逃げる気かな?」

 楽しげに余計な口を挟んだシスに、ブレンは睨みをよこす。

 つくづく腹の立つ存在だった。

 だが、シスはその視線に楽しげな笑みを浮かべる。

「ま、その意気に免じて……協力してあげるよ。貸しは高くつくからね」

「は……? 何を……」

 問いかけようとした瞬間、蒼い光が周囲に満ち溢れた。

 視界が青から白へシフトし、内臓が浮くような感覚が襲う。

 思わぬ感覚に目を、閉じた。

 

◇◇◇

 

 数秒か、数分か。いずれにせよ短時間でその感覚が消えた。

「はい、とーちゃく」

 シスの声にブレンは閉じていた眼を開く。

 見知らぬ、部屋の中だった。

「こ、こ……」

「ランティス学院の転送室。……っていっても、わかんないだろうし、説明を頼むとして……」

「人に頼むくらいなら、やらないって選択肢はないわけ?」

 呆れた様子で、腕を組むブレンと同い年くらいの少年。

 シスはいつもの全てを誤魔化しかねない笑みで告げた。

「それはそれで、面白くないよ?」

「……そーいうんじゃないし。まぁ、いいや」

 意味が分からず周囲を見回し、目が合った。

 茫然と座り込んでいる、クオルと。

「クオル様っ!!」

 弾かれるようにブレンは駆け寄った。

「ブレンさん……?」

 ぼんやりと呼びかけたクオルの声が、ブレンの耳元を掠める。

 ブレンは、クオルを抱き締めて震えていた。

「……どうしたん、ですか? 震えてますよ……?」

「すみません……クオル様……っ。……すみません……!」

「えっと……」

 困惑するクオルをようやく離して、ブレンはクオルと視線を合わせる。

「……怪我ないですか? 苦しくないですか?」

「大丈夫です。……僕よりは……、ブレンさんの、方が……」

 母とエリオの事を思い出したらしいクオルが視線を伏せる。

 ブレンは首を振って、小さく笑った。

「私は、大丈夫ですから。……クオル様が、無事なら……もう、いいんです」

 クオルは頷かなかった。だが、拒否もしなかった。

 それは案外答えなんじゃないかと……ブレンは安堵する。

「少し休んでから事情は聞こうか……」

「それがいいと思うよ」

「……そうやってまた全部投げるわけだね、君は」

 不服そうな視線を向ける少年に、シスは軽く肩をすくめた。

 

◇◇◇

 

 学生らしき少年少女とすれ違いながら、ブレンたちは一室へ案内される。

 やがてたどり着いたのは、ベッドが二つある、少し埃っぽい寝室だった。

「悪いね。学生が使ってない寮部屋ってここしかなくてさ」

「寮なんですか、ここ。……っていうか、状況が未だに掴めてないんですが」

 ブレンが思わず敬語で話しかけると、少年は苦笑した。

 なんとなく、年上な雰囲気があるのは気のせいか、とブレンは心の中で首を傾げる。

「その説明は、落ち着いてからね。今しても、混乱するだけだよ」

「はぁ……」

「あとで、お茶持ってくるから。その時にでも」

 それだけ告げて、少年は出て行く。問いを遮断する姿に、声はかけられなかった。ブレンは黙ったまま俯いているクオルに声をかける。

「少し、休んでください。……お疲れでしょう?」

「……ごめんなさい。僕のせいで、村の皆さんも……お母様も」

「聞いてもいいですか?」

 クオルがようやく少しだけ顔を上げる。ブレンは極力笑みを浮かべて、尋ねる。

「……どうして、……戻ってきたんですか?」

「それ……は」

「心配してくれてたってのは、なんとなくわかります。でも……私に会いに来てくれたって、言いましたよね」

 クオルは静かに頷いて、口を閉ざした。

 その挙動にブレンは息を吐いて、意を決して言う。

「言ってくれなくちゃ他人は分からないんですよ。怒ったり、悲しんだり、喜んだりが素直にできるから……人は、一緒にいられるんですから」

「……僕は」

「はい」

 ぎゅ、と手を強く握りしめて、クオルはブレンに目を向けた。

「一緒にいて欲しいって思ったから」

 そう告げたクオルは、ぽつりぽつりと言う。

「ブレンさんだけがあの場所で普通に接してくれたんです。それが嬉しかった。外じゃなくても良かったんです。ただ、毎日貴方が普通に話しかけてくれることだけが、救いだった。それだけで……十分でした」

「クオル様……」

「それで、我慢してれば……こんな事にはならなかったのに。ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 そう懸命に謝るクオルに、ブレンは首を振る。

 それでもクオルは涙を流すことはない。そうやって、感情にブレーキをかけている。それは、ブレンとしては……寂しい。

「……一つだけ、わがまま言っていいですか?」

 そう切り出したブレンに、クオルは不安げに顔を上げた。

 捨てられることを怯えた犬みたいに。

 小さく笑ってブレンは首を振る。

「大したことじゃないんですけど。……『さん』付け、なしにしてください。私は、クオル様が素直に甘えられる存在であるなら、それでいいです。貴方が間違ったときにはちゃんと、私が止めますから」

 それが多分、一番効いたのだろう。

 堰を切ったように、クオルは泣き出した。

 多分、何十年か分の孤独と、悲しみとともに。

 ブレンはただそれを受け止めるように頭を撫でる。

 年上だというけれど、今のその様子は外見相応に幼い。

 心が停止したまま、時間だけを重ねたに過ぎないのだ。

 罪だけが増えて、孤独だけが積み重なって。

 それでも、一緒にいたいと願ってくれたのだから。

 少しでも、願いを叶えてあげられたらそれでいい。

 どれだけ時間があるかはわからないけれど。

 少しでも多く、綺麗な思い出で、時間を埋められたらいい。

 そのためならば、多少の苦労や痛みなんて些細な事だ。

 クオルの優しさと痛みが、少しでも多くの人に伝わるように、傍で守り突けられるなら。

 

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