◇◇◇

 

 休日の学院の様子といえば、平穏そのもので。

 一時帰宅をする生徒や、学院の近場にある街で買い出しや娯楽にいそしむ生徒が多い。

 アルトも普段ならば、自宅に戻って昼寝を貪ったりしている。今日は、そうはいかなかっただけで。

「あー、これ懐かしい。去年、販売開始時刻まで粘って買った限定の……」

 ひょいと手から奪われて、半透明のビニール袋へ吸い込まれる。反論の言葉もなく少しだけがっかりしながら、アルトは物の仕分けをしていた。

 シスに部屋の清掃を「命じられて」の結果がこれだった。

 生活に必要なもの、あるいは貴重そうな魔導書等は棚や引出しに綺麗に陳列されている。あとはほとんどが確認途中のゴミばかりだ。

 むくれながら、アルトは再び黙々と仕分け作業に戻る。

 朝の九時ごろから開始して、同室のドゥーノはその前に退避していった。入れ違いにシスがやってきて、ともに清掃開始となったわけである。

「あーちゃん、あと一人で出来るよね?」

 声をかけたシスに目を向け、アルトは渋々ながらに頷いた。

 シスは笑みを見せて、頷く。

「じゃあ、あとよろしくね。僕、少し出てくるから」

「仕事か?」

「うーん、まあそんなところかな」

「とっとと行け」

 しっしっ、と手で払ってアルトは三ヶ月前に買った雑誌を掴む。

「じゃあちょっと行ってくるね」

 そう告げて、シスは出て行った。横目でそれを追いかけ、扉が閉まるのを確認すると、アルトは小さく息を吐いた。

「なんで俺、あんな奴の言うことに素直に従ってるんだかな……」

 言いながら、手だけは動くのだから何というか、複雑だ。

 黙々と作業に没頭し、やがてほとんどがゴミ袋に収納されて、部屋はすっきりと片付いた。

 体を伸ばして、アルトはベッドに転がる。

「あー……くそ。眠い」

 いつもなら、十二時前後まで寝ているのだ。朝から体も使ったし、だいぶ眠気が迫ってくる。

「……捨てない、と……こ……ら、れ……」

 瞼が重くなってきて、意識が遠くなっていく。

 

◇◇◇

 

――笑い声が、聞こえた。

 こんな声、知らない気がする。見える景色は少し霞んで、その上、何だかひどく、遠く感じる。

 見覚えのある、自宅の一室。応接室の上等な黒のソファーに、分厚い魔法書を枕がわりにして寝転がる姿。

 クオル……のはずなのだが、何だか少し違う。背中を向けているので、判別は出来ない。少しずつ近づいて行く。自分の意思はまるで無視。

『まったく……またこんなところで寝て……』

 呆れた口調は、クオルそのものだ。今、しゃべったのは……自分?

 そっとブランケットをかけた相手は、アルト自身だった。

(ああ、なるほど)

 クオルとアルトの魔力波数は全くの同一なのだ。魔力は生体活動の基礎となる。そのせいで、記憶が混同しているのかもしれない。

 ……迷惑な話だ。

 さら、とクオルの手がアルトの髪を撫でる。そんなことしてたのか、とこんな時に知って、恥ずかしいやら、悔しいやら。

『……もう、少しですから』

 不意に、クオルが呟いた。その声音は、切ない響きを伴っていた。

『だから、あと少しだけ……兄でいさせてくださいね』

 言葉の真意が、読めなかった。負けることなど、考えていないはずなのに。アルト自身、まだ勝てる段階にあると感じていないのに。

 すぅ、と景色が遠のいて、霞んでいく。

――目を開くと、そこには古ぼけたいつもの天井が見えた。

「……気分悪ぃ」

 ただの夢……あるいは、クオルの記憶の断片だというのに、酷くもやもやする。胃が重い。それどころか体全体が重い気がする。

 何とか体を起こして、アルトは頭を振る。

「……あれ、ドゥーノ?」

 見れば、反対側のベッドでドゥーノが横になっていた。床に足をおろし、ぺたぺたと歩み寄る。

 顔色は悪くないが、声をかけるかどうか、逡巡する。

「ああ、あーちゃん起きた?」

 ノックもなしで扉を開けてすたすたと入ってきたシスに目を向け、アルトは黙って頷いた。

「……アルト……?」

 細い、ドゥーノの声に、はっと視線を戻した。薄く開いた目で、ドゥーノが笑う。

「あー……心配してた?」

「ば、馬っ鹿。ちょーし乗んなよ」

「素直じゃないなぁ」

 横槍を入れたシスを睨みたくなったが、とりあえず無視。

 ドゥーノは重い空気を吐き出すように、ゆっくりと息をして、再び目を閉じた。

「……ごめん、アルト」

「何だよ? もしかして、俺が知らないうちに隠してた限定茶菓子詰め合わせ食ったとかじゃねーだろーな」

「甘いもの好きだよねー、あーちゃんは」

 傍らで笑っている存在を無視して、アルトはドゥーノを見ていた。

ドゥーノは静かに首を振って、唇を震わせた。

「……ドゥーノ?」

 不安に駆られて、アルトは名を呼ぶ。

 ドゥーノは目を開いて、アルトに視線を合わせた。その瞳は、不安げに揺れていた。

「時間が、そこまで来てるんだ。……そろそろ、限界……みたい」

 限界。

 その言葉が、すとんとアルトの深いところに堕ちる。

「……なんか、手伝いは……要るか?」

「今のところは、大丈夫。ありがとう、アルト」

 アルトは無表情に、首を横に振った。

「遠慮なんかすんな。俺は、お前の……ルームメイトだから」

「……ありがとう。……ごめん、少し……寝るよ」

 こくん、と頷いて、アルトは静かに目を閉じたドゥーノを見届けると、適当な靴をひっかけて、部屋から出る。

 奥歯を噛み締めて、人気のない寮の廊下を足早に歩く。

「あーちゃん、どこに行くのさ」

 背後からかけられる、そんな淡白な声。アルトはそれを振り払う勢いで歩調を速めた。

「あーちゃんてば!」

 再び強い口調でシスが声をかける。アルトは勢いよく振り返った。

「るせーなっ! ついてくんなよ! お前には関係ない! 構うなよっ! 何も知らないくせに、何にも、わかってないくせにっ!!」

 一気にまくし立て、アルトはシスを睨みながら、肩で息をする。

 シスは黙ってアルトを見つめる。その表情からは感情が読み取れない。怒っているのか悲しんでいるのか、あるいは、楽しんでいるのか。

 嫌な沈黙が降りて、アルトは顔を伏せ、唇を噛む。再び背を向けようとして、シスが口を開いた。

「ドゥーノの状況は、分かってるんだね?」

「……る……さい」

 監査官であるシスが、ドゥーノの状況を知らないわけがない。だとしたら、感づいている。そこから紡がれる言葉を、聞きたくない。

 ふわりと、アルトの頭にシスが手を置いた。

「……偉いね」

「え……」

 思いもよらぬ言葉に、アルトは思わずシスを見上げた。いつもの笑みを浮かべたシスは、くしゃっとアルトの頭を撫でる。

「それも分かってて……ドゥーノと一緒にいるんだ」

「あ、当たり前だろ! ルームメイトで大事なダチでっ……」

「後は、独りで頑張りすぎちゃ駄目だよ?」

「うっせぇな馬鹿っ!」

 手を払いのけて、アルトは背を向ける。本当に、シスがいると調子が狂って仕方ない。

 

◇◇◇

 

 ドゥーノの状態に、パニックに陥りかけたのは事実だ。

 シスの言葉と行動でもって、冷静に戻れたのは不本意だったが、お蔭でもう一度状況を整理する余裕ができる。

 食堂の一角。カップを間に、アルトとシスは向かい合って座っていた。休日の食堂はがらんとしている。優に三百人は座れる食堂が、ぱらぱらと居るだけだ。

 まともにシスと会話をするのは初めてだった。涼しい顔でブラックコーヒーを啜るシスの冷静加減が少しだけ腹立たしい。

「……お前が知ってること、とりあえず教えろ」

「データ的なものを、だよね?」

 こく、と頷いて砂糖とミルクを大匙二杯ずつ入れたコーヒーにアルトは口をつける。シスはカップを置くと、監査官用の通信端末を取り出した。

 手のひらに載るくらいの、小さなものだった。アルトも、現物は初めて見る。

「……調査課の出してる試算では、こんなところかな」

 シスが差し出した端末には数字が表示されていた。

――二百五十八時間。

「これだけ、なのか?」

 問いかける声が震えた。シスは無情にも頷いて、端末を再び仕舞い込む。

「世界が完全に消えるまでは、ね。ドゥーノが、っていうわけじゃない」

「もっと、短いってこと、か?」

「うん。可能性としてはね」

 ぎゅっと手のひらを握りこむ。シスはアルトの様子に微かに目を細める。

「あーちゃんは? ドゥーノから、何を聞いてる?」

「大したこと……聞いてない。ドゥーノは、世界がもうすぐ終わるから……その時に自分が消えるって、言ってた。どうやって消えるのかはわからないけど、って」

「そっか」

「お前なら知ってるだろ。これから……ドゥーノはどうなるんだ?」

 シスは首を横に振った。

「分からない。ぎりぎりまで普通に暮らす人もいる。徐々に消えていく人もいる。世界によっても違う。だから、ドゥーノがどうなっていくのかは、答えられない」

 アルトはシスの答えに、残念そうに顔を伏せた。

「でも、ドゥーノは、最後の一人で……だからこそ、学院にいた。それを考えれば、ソルナトーンになる可能性は、高いね」

「……そる……?」

「ソルナトーン。世界の記憶だよ」

「世界の……記憶……」

 知らなかった。茫然と復唱するアルトに、シスは小さく笑った。薄っすらと聞いたことはある。管理監査官が最期に回収するものだという事は。だが、よもやドゥーノの末路がそんな無機質な形とは、思いたくなくて。

「あーちゃんは、自分のできることをすればいい。で、困ったら僕を頼ればいいよ。ね?」

 じ、とアルトはシスを見やる。何の根拠もないくせに、シスはそうやってアルトにあっさりと道を示してくる。正しいかどうかさえ分からない。

 それでも、差し出してくれたその手が、アルトには救いだった。

「……お前くらいなんだ」

 ぽつりと、アルトは口を開く。潰れそうな心で、噛み締めるように。

「俺に、出来ることがあるって言ってくれたのは。……俺はいつでも兄貴の影で、何も期待なんてされてないから」

「あーちゃん……」

「だから。今だけでいい。ドゥーノが消えるまでは、逃げ出そうとする俺を、その言葉で奮い立たせて欲しい。……駄目、か?」

「……なーに言ってんだか」

 呆れた口調で、シスが返す。思わず、アルトは目を伏せた。

「……あーちゃんは、僕が守るよ。だから、何も心配しないでいい。逃げたかったらそれでもいい。僕は……あーちゃんの願いを一番にするからさ」

 シスの言葉はどこまでも真意が読めなくて。だけど一つだけ分かるのは、シスは本気でアルト自身の願いを優先しているという事。

「……ばぁーか」

 苦笑いで、アルトは返す。本当に調子が狂って仕方ない。クオルがシスを寄越したことが、心のどこかで引っかかっていた。でも今は。

 シスが自分のためにいてくれる。それが分かるだけで十分だ。

 

◇◇◇

 

 残された時間は、約十日。その間に、アルトがドゥーノのためにしてやれることなど、ほとんどなかった。

 今更、欲しいものなどあるわけがない。あったとしても、なんの慰めにもならない。消えること自体は、変わらないのだから。

 何より、ドゥーノは最後まで普通の生活を望んでいた。

「不思議なものでさ」

 起き上がれる状態まで回復したドゥーノは、そう切り出した。

 宿題のレポートに頭を悩ませていたアルトが一瞥寄越すと、ドゥーノはシスの用意してくれたホットミルクの入ったカップを手に、その水面を見つめていた。

「もうすぐ消えるっていうのに、考えるのは明日の昼ご飯とか、課題どうしようとかそういうのなんだ」

「平和で良かったな。俺はあの馬鹿からどうやって逃げ出すか真剣に考えなきゃいけなくて困ってるとこだ」

 ドゥーノは笑みを浮かべて、アルトに目をやる。アルトは軽く肩をすくめてみせた。

「アルトがあんなに楽しそうなの初めて見たよ?」

「楽しくねーから。鬱陶しい。執事とかその辺なら黙って自分の職務を遂行すればいいんだ。いちいちコメントがうぜぇ」

「好かれてる証拠だよ。安心した」

「何がだよ?」

 苦笑して、ドゥーノが返す。

「アルトは一人じゃないってことがだよ」

「……意味わかんね」

 ぷい、とテキストに視線を戻して、アルトは頬杖をついた。その横顔に、ドゥーノが穏やかな笑みを浮かべ、カップに口をつける。微かに眉をひそめ、そして小さなため息をついたが、アルトが気づくことはなかった。

 

◇◇◇

 

 極力普段の生活を崩さないように配慮はしつつも、ドゥーノは二日と経たずに満足に歩ける状態ではなくなっていた。翌日に左手は動かなくなり、その日の午後には足が言うことをきかなくなった。

「……さすがに、堪えるなぁ、これは」

 暗い表情で、しかし声だけは明るさを保とうとしたドゥーノの声。アルトは努めて明るく、いつも通りに言う。

「らしくねーな」

「ほんとにね。けど、落ち着いてはいるよ。ただ、歩けないのは悔しい」

「安心しろ。飯は運んでやるから」

「そのことなんだけどさ、アルト」

 視線を合わせ、ドゥーノは複雑な感情を織り込んだ笑みを見せた。

「もう食べられないから、大丈夫」

「え……?」

「味がさ、分からないんだ。温度感覚もほとんどないし。もう、必要とする段階じゃなくなってるんだと思う」

 人間としての部分を、失いつつあるという事だ。精霊と人間の両方の性質を併せ持つ。人間としての部分が先に失われつつあるという事だ。遠からず、完全に動けなくなり、やがては意思の疎通も難しくなる。

「心配すんな」

「え?」

 ドゥーノが首を傾げた。アルトは笑みを見せて、頷く。

「それでも俺は、ドゥーノのルームメイトで、ダチだ。最期まで諦めんな」

「アルト……」

「お前が嫌がっても、俺は面倒見るからな」

 強い口調で言い切って、アルトは笑って見せる。ドゥーノはそれを半ば呆然と見上げ、それから顔を伏せると小さな声で呟いた。

――ありがとう、と。

 

◇◇◇

 

 他愛無い会話を続ける時間。それだけがアルトを支えていた。

 横になったまま、ドゥーノは語る。

「メギレス族って、精霊の手足と同じだって、言うだろう? それって半分正しくて、半分は間違いなんだ」

「どういう意味だ?」

「僕自身が精霊なんだよ。話す体が人間なだけで、思考しているのも、動かしているのも、全て精霊の意思なんだ」

「……それって、別のところで全然関係ないやつが同じことしゃべってるってことか?」

 アルトなりに考えての答えなのだが、いまいちピンと来なかった。

 ドゥーノは笑みを浮かべて、ゆっくりと、首を振る。

「同時に四体分くらいなら別々に出来る。今は、ドゥーノだけだからずいぶん楽だよ。だけど……この形はきっと失敗だったと思う」

「失敗……?」

 復唱したアルトに、ドゥーノは視線を合わせる。

「精霊と人間は確かに近くなった。だけど、精霊が直接世界に干渉することができるようになってしまった。良い点もあったよ。ただ、精霊同士がぶつかり合う機会も増えた。そのせいで、世界の魔力は想像以上に早く消費された」

「そう、なんだ」

「監査官……だっけ。その人たちも、流石に中の事には干渉してこないからね。それが正しいかは、僕にはわからないけど」

 監査官は各々の世界の主義を妨げることはしない。それが他の世界へ影響を及ぼさない限りは、何もしないのが通常だ。

 世界を維持管理する上で、どういう形をとるべきか。議会でさえ未だ模索している途中だった。

「一つの世界あたりに与えられた魂は、同量だって知ってたかい? アルト」

「え、そうなのか?」

「一つの命を世界が産み落とすのに使う力が尽きたとき、世界は消える。メギレス族は、一つの命で、二つの魂を使う。その上、半分は精霊だからね。精霊を産み落とす力は人間以上に消消耗が大きい」

「つまり、一度に二倍以上を消費して……メギレス族が増えれば増えるほど、世界は早く衰退するってことか?」

 アルトの問いに、ドゥーノは正解、と笑みを見せた。

 世界が一つ消えれば、一つ生まれることになる。時間差はあれど、王や議会が世界を一つ、再生する。そうやって世界は維持されてきた。

 一つ世界が消えるということは、全体としてみれば大した問題ではない。

 でも、それでいいのだろうか。

 世界を守るために、滅びゆく世界をただ黙って見守ることが、議会のあり方として、監査官の在り方として正しいのだろうか。

 ……分からない。

「アルトへの、宿題だよ、これは。議員になった時に、アルトがどうするか。今から考えておいて」

「な……馬鹿言うなよ。それは兄貴の役目だ」

 むっとして言い返すと、ドゥーノは静かに首を横に振った。

「なら、なおのこと。アルトの優しさのベクトルを定めておかないと」

 こんな状態でも、ドゥーノは自分らしさを捨てない。いや、精霊らしさ、なのだろうか。

「……このデータが、後世で役に立つことを祈ってるよ」

 ぽつりと、ドゥーノが言う。

「あの時、あの馬鹿と話してたのは……こうなるってわかってたから……か?」

「それもあったよ。……最後の一人が外部の世界で消えると、何が起こるのか。生き残る確率や、世界消失を遅らせることができるのか……とか、僕が知りたかったことを、ちょっと教えてもらってたんだ。あまり詳しくは教えてもらえず終いだったけどね」

 世界を維持管理する、次元総括管理局。

 しかし未だに、手探り状態で活動を続けている。正しいやり方などないのかもしれない。それでも、少しでも犠牲を減らせる手段こそが悲願だった。

 それは管理局の総意でありひいては王の願いのはずだから。

 以前の世界構造では成し遂げられなかったからこその、願い。

 ドゥーノが語る世界の形について、アルトは相槌を打つ程度の理解しかできなかった。それでも、義務とばかりにドゥーノは語る。

 それがアルトにとっては苦しかった。

 議員となるのは自分じゃないと、強く思うがゆえに。本当に聞くべきは、クオルだと思うのだ。なぜこんな時に限って、不在なのだろう。

「……聞いていい? アルト」

「何を?」

 ベッドに座り込んで好きでもない魔導書をめくっていた手を止め、アルトはドゥーノに視線を向ける。クッションを使って半身を起こした状態のドゥーノがアルトに尋ねる。

「アルトは、クオルがいて良かったって、思う?」

「なんだそれ?」

「兄弟って、どうなのかなってさ」

 質問の意図がよくわからないが、アルトはじっと黙り込んで、やがて小さく頷いた。

「俺は兄貴がいたから、馬鹿でも許されたと思うし。一人だったら、親父とか他の議員のプレッシャーで鬱だったかもな」

「そっか。……なら良いんだ」

「何だよ? 意味わかんねーぞ」

「何でもない。それよりアルト、お願いがあるんだけどさ」

 その言葉に、アルトはばっと立ち上がる。ドゥーノは苦笑して、視線で外を示す。窓の外は、ちらちらと雪が舞い降りていた。

 学院の季節は日をまたいだだけで大幅に変化する。規則性のないランダムな季節が日をまたいだ瞬間に訪れる。今日は、たまたま冬なのだ。ここ数日は、ずっと春続きで中庭の桜が花開いていた。

「外に、出てみたいんだ」

「分かった。車いす借りてくる」

「ああ、大丈夫」

 アルトの言葉を断って、ドゥーノは重そうにしながらも、ゆっくりと体を支えながら、床に足を下ろして、独力で立った。驚くアルトに苦笑して、ドゥーノは言う。

「温存してた甲斐があったかな」

「……しょーがねー奴」

 悪態をつきながらも、アルトは安心から、表情を緩めた。

 

◇◇◇

 

 歩く速度は以前の半分以下。たまにふらついているし、壁に手をつきながらという満身創痍の状態で、それでもドゥーノは一人で歩いていた。傍らでひやひやしながらアルトは付き添っている。

 現在は授業中で、生徒は少ない。アルトはすでに単位取得済みで、空き時間だ。

 ドゥーノは屋上がいいと階段を上り始める。さすがにきついらしく、息が上がっていたが、手を貸すことがドゥーノのプライドに傷をつけそうでアルトは黙って後ろから警戒してやることしかできなかった。

 十五分くらいかけて三階上にあたる屋上にたどり着く。

「はー……さすがに、きつい」

「大丈夫か? ドゥーノ」

 温度感覚がなくなったとは言うが、この寒さだ違和感程度はあるだろう。問いかけたアルトにドゥーノは笑みを浮かべた。

「うん。……久々に寒い。いいね。……生きてるって感じがするよ」

「そっか、良かった」

 一瞬でも、普通を取り戻せたならそれはそれでいい。

「不思議だね。世界が消えると自分が生きられそうでも消えてしまうんだから。世界が必死に生きようとしてて、どこも悪くないこっちから吸い取られてる感じがする」

「……親が子を殺して、親も死ぬ。心中みたいだな」

 ぽつりとアルトが呟く。ドゥーノは一瞥寄越して、空を見上げた。ふわりと雪が舞い降りて、頬や額に触れ、じわりと溶ける。それは温度差がある証だった。

「許せない?」

「納得はしない。ドゥーノは……怖くないのか?」

 うーん、と答えをすぐには出さず、ドゥーノは視線を落とした。

「僕はもう、独りきりだからね。あの世界の生き物は全て死に絶えた。植物も、動物も、命あるものは全て。僕を知る人もいない」

「ドゥーノ……」

「だけど、消えたら世界の器へ還れるんだ。そう思えば、僕は嬉しいかな」

 そもそも、精霊に死という概念がないのだから、仕方ないのかもしれない。アルトが寂しげに目を伏せていると、ドゥーノが微笑んだ。

「でも、アルトに会えてよかったよ。僕の消滅を悲しんでくれる人がいるなんて思わなかったから」

「な……何言ってんだよっ!」

 あまりの言葉に、アルトは思わず声を荒げた。

 ドゥーノは穏やかな笑みを浮かべたまま、言う。

「あの世界で、誰にも知られずに消えると思ってた。だけど、学院に招いてもらって、それが新しいデータ取りのためだとしても……アルトに出会えた」

「俺は……こんな早く、消えるなんて思ってなかった」

「でも、楽しかったよ」

「……ドゥーノ……お前……」

「ああ……時間かな?」

 淡い光が、ドゥーノの体を包んでいた。淡い、山吹色の光。

 ドゥーノという存在の境界をぼかすようにして、徐々に。

 すっとドゥーノはアルトに手を差し出す。

 アルトはその手を悲痛な表情で見つめ、しかし唇を引き結んで、手を上げる。

 別れの、握手。

 触れた手は、まだ温度があった。

「……ありがとう。アルトが最期まで逃げ出さずにいてくれて、良かった。ここでも孤独になるとこだったよ」

「俺だけだったら、逃げてた。……あの馬鹿が、来たから」

「クオルに、感謝しないとね」

 握手を解いて、アルトはドゥーノに問いかける。

「なぁ、ドゥーノ」

「うん?」

「世界には魂の量が決まってて、魂が循環し続けるなら……俺はいつかまた、お前に……会えるのかな?」

 ドゥーノは穏やかな笑みを浮かべたまま、こくりと頷いた。

 その姿は徐々に、空気と溶けるように消えている。

「信じていれば、きっと会えるよ。お互い、覚えていなくても。知ってるだろう? 魂の因果の話。僕らが因果でつながっていれば、きっといつかまた会える」

「うん」

「……アルトは、立派な議員になれるって僕は信じてるから。クオルがいるから、なんて駄目だよ。それは、逃げてるだけ」

「分かった。頑張る。……兄貴に、負けないように俺も努力する」

 満足そうに頷いたドゥーノに、アルトは微笑んだ。

 ドゥーノの姿は、もうほとんど霞んで代わりに丸い翠の石が浮かんでいた。

「じゃあ、もう行くから。……アルト、元気でね」

 その言葉を最後に、ドゥーノの姿は霧散した。翠の石はしばしその場で浮かんでいたが、やがて支えを失くしたように屋上の石畳に落下した。

 こぉん、と深みのある音を立て、少しだけ跳ね返り、ころりと転がった。

 それがアルトの初めて見たソルナトーンだった。

 

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