第四話 交差 –open gate-

 

 かたかたと、揺れる車内。

 悪路を走ればその振動がそのまま伝わってくるという、さすが馬車の荷台。

 あと、三十分くらいだろうか。

 かれこれ馬車に揺られて数時間。太陽が傾き始めている。

 そんな荷台で、ブレンは地図を手に、眉間に皺を寄せて黙り込んでいた。

「……ブレンさん、顔が険しいです」

 くすっと隣で笑ったクオルに、ブレンは目を向ける。

「険しくもなります。迂回に時間をかけすぎました」

 不思議そうに首を傾げるクオル。

 ブレンは地図を畳んで、ため息交じりに吐露した。

「部隊交代の時期で、軍が多い時期なんです。……厄介ですよ」

「そうなんですか?」

 どこか他人事のクオルがそう聞き返した。ブレンは一度クオルを見やり、それからため息をついた。

 クオルに常識は期待できない。ずっと籠の鳥の生活だったのだから。

 帝国の王城から逃げ出して、約三ヶ月。

 今のところ追手と遭遇していないのが救いだった。

 だが、確実に追手は差し向けられているはずだ。

 出来れば、諦めて欲しいとブレンは常々考えていたが、無理な相談だろう。

「とりあえず……次の村に着いたら、何か考えます」

 どこか不安げな表情を向け、クオルは確認するように尋ねた。

「独りで考えるのは、なしですよ?」

「……分かりました」

 ほっとした様子でクオルは表情を和らげる。

 そしてブレンは、安堵してくれたクオルを見て、胸を撫で下ろした。ブレンは、クオルには勝てない。

 立場とかそういうのではなく……どうにも、弱い。

 もっとも、ブレンが少しだけ寂しい思いをしていることを、多分クオルは気づいていない。

(……ブレンさん、か)

 未だにクオルは、そう呼んでいた。癖であることは、間違いない。だが、シェマとノウェンは呼び捨てだった事がブレンの中で引っかかっていた。

 同じ特殊警衛班で、この対応の差。決して冷遇されているわけでもないのだが。

 それでも、ブレンは未だにその一点でクオルとの心の距離を感じてしまう。

 信頼されていないわけではない、と頭では分かっていても。

 膝の上のライヴを撫でながら、穏やかな笑みを浮かべるクオルを横目で見ながら、ブレンは小さな悩みを抱えていた。

「クオル様……あの」

「はい?」

 即座に反応して、きょとんとした顔を向けるクオルに、ブレンはぱっと顔をそらした。

「……なんでもないです」

「……?」

 今日も、あと少しの――恐らく不要な勇気が踏み出せないブレンがいた。

 

◇◇◇

 

 馬車が止まって、幌の向こうから声がかけられる。

「着いたぞお二人さん。乗り心地は聞かないでおこう」

 気のいい男性の声に、ブレンは先に馬車を降りた。

 一応、先に危険を確認する役目を果たすために。

 こじんまりとした、長閑な空気の漂う村がそこにはあった。

「ここが、ブレンさんの故郷ですか?」

 荷台から降り立ったクオルが傍らに立って、ブレンに問いかける。ブレンは首を横に振った。

「いえ、この一つ先の村です。半日もあれば着きますよ」

「そうなんですか……楽しみです」

 大したものはありませんけどね、とブレンは苦笑する。

 それでも故郷には違いない。

 二人は、ブレンの故郷を目的地にして、ここまで来ていた。

 あてがなかった、というのもある。

 だが、クオルの願いだったのだ。

 ブレンの育った場所が見てみたいと。

 それは、故郷というものに憧れるクオルのささやかな願いだったのかもしれない。そしてブレンがそれを拒否する理由がなかったからこその、結果だ。

 その目的地が、目前に迫ってきている。ブレンも、どことなく自分の心が浮ついているのを感じていた。

 

◇◇◇

 

 お世辞にも栄えているとは言えない村だった。

 村の中央を貫く通りに面して店が並んではいるが、必要最低限……あるいは足りないかもしれない。

 もちろん娯楽施設など、個人経営の小さな酒場位だ。

 宿さえ、二十人を泊めるのがやっとの大きさ。

 かつては、この村でさえそこそこ発展していると認識していたブレンは、心境の変化に苦いものを感じた。

 だが、懐かしさも確かに存在する。

 この穏やかさを、隣で興味津々で周囲を見回すクオルにも、忘れないでいて欲しい……、そうブレンは強く願った。

 ブレンの故郷は、明日の朝に出発すれば、昼頃には着く予定だった。

 その、はずだった。

「……すみませんクオル様。非常に言いづらいのですが」

「え、はい」

 店頭に並んでいた林檎の赤を眺めていたクオルに、ブレンが意を決して声をかける。

 クオルは不思議そうな顔をして、首を傾げた。

「宿が取れませんでした。ので、少し早いですが向かおうと思います。夜半にはつくと思いますが、最悪野宿を……」

「それは構いませんけど。……大丈夫ですか?」

 逆に問いかけられ、ブレンは心の中で首をかしげる。

 クオルは心配そうに、言った。

「資金、底をついたんじゃ……?」

「そそそ、そんなわけないじゃないですか! ていうかそんな心配はしなくて大丈夫ですから!」

 見るからに動揺したブレンに、クオルは言葉を濁した。

 図星だったのだ。

 これは、常識から離れた場所にいるクオルには絶対に感づかれないと踏んで切り出した、ブレンの失敗だった。

 実のところ、宿の部屋自体は空いていたのだが、予算をオーバーしていたのだ。

 何とかしたいのはやまやまだが、生憎と稼ぐ手段が今はない。

 売れるものは、ほとんど売り切ってここまで来た。

 故郷にまでたどり着ければ、ひとまずは安心だと思っていたのだが、それでも不足していた。もっとも……帰ったところで、元の生活に戻れるかは、不明なのだが。

「ほんとに、大丈夫なんですか?」

 再度確認を取るクオルに、ブレンは虚勢だけで頷く。

 クオルはじっとそんなブレンを見つめて、やがて寂しげに目を伏せた。

 その挙動がブレンの罪悪感を掻き立てる。

 心配させたくはない。

 だが、自分一人で解決することが本当にクオルのためかと問われたら……ブレンは肯定する自信がなかった。

 何しろ、今目の前ですでに、悲しませているのだから。

「あの、クオルさ……」

「お前は、馬鹿か?」

 不意の暴言。

 ブレンは表情を引き攣らせ、クオルを凝視した。

 クオルは大仰にため息をついた。いや、正しくは、イシスが。

 つい、と上げた瞳の色は青ではなく紫に変化していた。

 冷たい光を宿す視線を向けて、イシスはブレンに断言する。

「資金の問題はお前だけの問題ではなかろう」

「だからそれは……ああもう、クオル様となんで突然変わりますか!」

「それはお前にとやかく言われる問題ではない」

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いたイシスは、外見こそ同じながらクオルとは全く違う。

 ブレンですら、今では気配だけで見分けられる。

 どこにこの感情をぶつけていいのか分からないブレンは、頭を掻きむしった。

 イシスの肩に鎮座するライヴが、微笑ましげに目を細める。

「……安心しろ、少し休ませているだけだ。聞いてはいない」

 そっと呟いたイシスに、ブレンは確認するような視線を送る。

 イシスは深く頷いて、それを肯定した。

「……なら、しばらくは休ませてあげてください」

「お前に指図されるまでもない」

 どこまでも素っ気なく、イシスは返した。

 その素っ気なさは最初こそ不安を覚えたものだが、今ではブレンでもその意味を分かるようになっている。

 イシスは、基本的にはクオルのためにしか行動しないのだから。

 だから、クオルに関する情報には、嘘はほとんど含まれない。

 嘘を混ぜるとしたら、それは嘘でクオルを守れる場合だけだった。

 休ませる……そう、イシスは言った。時折、クオルはイシスと交代することで休息をとっているのだ。

 身体は共通であるため、肉体的な疲労は共通。

 ただ、問題はクオルの精神負荷だった。

――この三か月で、前よりはクオルについて、ブレンは理解していた。

 クオルが亡国の跡継ぎであったこと。

 イシスを宿した後の罪の数々。

 巨大な力を宿したゆえの、反動としての精神負荷。

 特に日常生活においてはこの精神負荷の影響が大きい。

 クオルが力を使えば、その分の罰として、相手の苦痛を受け取る。精神だけでなく、時には肉体へその結果が現れることもあった。その上肉体への反応は、治癒魔法が効かないのだから、たちが悪い。

 だからこそ、クオルには定期的な休息が必要だし、……少しでも戦いの場所から遠ざかる必要がある。

 そして、そのために移動しているというのが、ブレンとイシスの共通認識だった。

(それに気のせいならいいんだけど……反動が徐々に、重くなってきている気がするんだよな……)

「……聞いているのか?」

 苛立った声で、イシスが言う。

 ブレンは思考の深みから慌てて浮き上がり、頷いた。

「あと少しですから。だから……」

「その確信はどこにある?」

 イシスの冷静な……あるいは感情の浮かばない紫の瞳が問いかける。

 ブレンはその質問の意図が、良く汲み取れなかった。

「……確かに、お前にとっての故郷はそこなのだろう。だが、そこで平穏に暮らせると誰が保証している」

「それ……は」

 ふ、と口元に笑みを浮かべて、イシスはブレンに一歩、歩み寄る。

 その笑みは、ブレンにとって恐れしか与えない。

 クオルの浮かべる笑みとは、肉体を共通としているのに、違いすぎる。

 動けないブレンに対し、イシスは静かに手を伸ばす。

 ひた、とイシスの手がブレンの頬に触れた。

 ひどく冷たいその手が、ブレンから温度を奪うようだった。

「希望を持つことは良いだろう。だが、世界は希望通りにはいかない」

 そんな事は、分かっている……――そう言いたいのに、ブレンは体が動かなかった。

 イシスの紫の瞳から目が、そらせない。

「知っているだろう。こやつが、どんなに渇望しようとその願いは、叶えられることはなかった」

 外界と引き換えに、クオルはまた一つ、罪を犯した。

 イシスが言っているのは、そういう事だ。

 だが、今更それを突きつけるイシスの意図がブレンには読めない。

「だから、お前がしたいことは、どこまでか。その線引きだけはしっかりとしておけ」

「線引き……?」

 ようやく絞り出した言葉に、イシスが幾分柔らかい笑みを浮かべる。だが、それでもその笑みはクオルのそれとは明らかに異なっていた。

 ざぁ、と不意に風が鳴る。

「お前には感謝している。あの牢獄から連れ出してくれたこと。ここまで面倒を見てくれたこと。……でも、どこまでこれを続ける?」

「これ、って……」

「お前は……まさか永遠に、これと生きていくつもりではなかろう」

 イシスの言葉が、ブレンの心に、冷たく突き刺さる。

 目を背けていた事実を、抉ってくる。

 する、とイシスの手がブレンの頬から離れた。

 そして、イシスは問いかける。

「いつまで、お前は……縛られ続けるつもりでいる?」

 ブレンは……答えが、出てこなかった。

 黙り込むブレンに、イシスはくるりと背を向ける。

 そうしてすたすたと歩き出した背中を見て、ブレンは我に返って慌てて追いかけた。

「い、イシス様っ。待ってください、どちらに?!」

「早めに出るのだろう。なら、今すぐでも問題はない」

「いえ、でも、休んでからでも十分で……」

 ぴたりと足を止め、肩越しに振り返るイシスの瞳は、冷たかった。

 背筋がぞっとするほどに。

「ここまで来て、時間稼ぎなど、意味のないことをするな」

 

◇◇◇

 

 結局、イシスに押し切られる形で、ブレンは出発を余儀なくされていた。

 馬車が一台通れるくらいの道。樹木に囲まれた未舗装の道を歩きながら、ブレンは考えていた。

 村に帰って、どうするつもりなのだろう。

 クオルを、村で暮らさせることが本当に幸せなのだろうか。

 それを、クオル自身が望んでいるかを確認できずに、ここまで来てしまったのに。

――分からない。

「……血の匂いがする」

 ぽつりと、イシスが呟いた。

 ブレンはイシスの言葉に警戒レベルを引き上げる。

 剣の柄に手を添えて、イシスとの距離を詰めた。

「……ライヴ」

「はい」

 ブレンの存在をまるで無視して、イシスはライヴの名を呼んだ。

 それだけで意思疎通が完了しているライヴは、こくりと頷いてイシスの肩から離れた。

 数メートル離れたところで、ライヴはくるりと宙を舞うと、見る間にその姿を巨大化させた。全十メートルを優に超える青い竜が、そこに姿を現す。

「……そんなこと出来たんですか」

 息を呑んだブレンに、イシスは一瞥寄越して頷いた。

「人前では使えんがな。……今は問題ないだろう」

 視線で乗るように促し、イシスはブレンと共に、ライヴへ歩み寄る。

 身を低くして、ライヴは二人を背中に乗せた。

 鱗のざらついた感触が、ブレンにライヴが竜であることを再認識させる。

「精々振り落されるなよ」

「き、気をつけます……」

 びくつきながら返答したブレンに、イシスは苦笑した。

 ぽん、とイシスがライヴの首元を叩く。

「最初だけ、加速します」

 ぐ、と四肢に力を込めて、ライヴが翼をはためかせた。

 大きな翼で起こった風が木々を揺らし、ライヴが舞い上がる。

 上方向に対する加速。だがすぐに加速に対する浮遊感は消えた。

 ひゅん、と耳元をかすめる風の音。

 スピードは速いが、風圧等の抵抗は感じない。

 ライヴが自動的に結界を張っているのだと、ブレンはすぐに気づく。

「……嫌な、匂いだな。久々だ」

 ぽつ、と風に乗ってイシスの言葉がブレンの耳に届いた。

 その声は、酷く怯えているように聞こえた。

 

◇◇◇

 

「なん……で」

「…………」

 ざり、と一歩踏み出す。

 ブレンは体の震えが、止められなかった。

「どうして、……何が……」

 思考がまとまらない。

 久しぶりの故郷の空気は一変していた。

 一変、というのも言葉足らずなほどだった。

 ブレンはしゃがみこんで、震える手を伸ばす。

 そっと、とその手が、掴まれた。ブレンが驚いて目を向ける。

 左側にいたクオルが、静かに横に首を振った。

「もう……」

「……っ」

 ブレンは目をそらして、唇を噛み締めた。

 傍らのクオルが心配そうにブレンの肩に触れながら、視線を巡らせる。

――ブレンの故郷である村は、沈黙していた。

 村人は物言わぬ死体となって、赤い血だまりを広げる以外、何も答えを与えはしなかった。

「……ブレンさん、立てますか?」

 そっと問いかけたクオルに、ブレンは歯を食いしばって頷く。クオルは黙って頷き返すと、そっとブレンに耳打ちをした。

「血が乾いて間もない。……犯人はきっとまだ、近くにいます」

「!」

 ばっ、とブレンはクオルを見やる。

 クオルは静かに頷くと立ち上がった。肩にいるライヴも警戒している様子で周囲を見回している。

「……こっちです」

 歩き出したクオルに続き、ブレンは歩き出した。

 ブレンは剣の柄に手をかけ、膨張する憎悪を辛うじて押しとどめながら。

 村の規模は大きくはない。精々百人から二百人程度の村だ。

 その、約半数程度が死んでいる。

 魔物による襲来も考えられるが、家屋に対する被害が全くないのがブレンの中では引っかかっていた。

 獣の爪痕も足跡もない。魔物は考えづらい。

 となると、あとは人の手によるものだった。

 ……あるいは、自分のせいかもしれない。

 ブレンはそんな考えに行き当たっていた。

 

◇◇◇

 

 村は中心に生活区画が集まっており、そこを取り巻くように田畑と牧場が広がる。北側には湖が、東方向へは町へ続く道が伸びている。

 南と西側には奥深い森が広がるだけの静かで、何もない場所。

 そんな場所は、今や血の匂いが充満していた。

 牧場の牛が、緑の芝生の上でじっとこちらを見つめて居る。

 彼らは、この惨状をその目で見ていたのかもしれない。

「……相手は……気づいているんでしょうか」

「気づいているとは思いますよ。ライヴで飛んできたんです。見ていないとは考えにくい」

 物陰に身を隠しながら、ブレンはクオルの後ろにいた。

 立場が逆転している気がするが、生憎とブレンは気配を探れない。

 土を均しただけの道には、何人もの人々が倒れ事切れていた。

 性別や年齢に共通性は見えない。ただ、誰もが血だまりを広げているだけ。

 見知った人間がほとんどで。

 目を背けることでしか、ブレンは絶望に抗うことができない。

 不意に、クオルがブレンの肩に手を触れた。

 ブレンが驚いて目を向けたが、クオルは前方を見つめたまま。

 吸い寄せられるように、ブレンもそちらへ視線を移す。

――人が、いた。

 面白くもなさそうに、倒れこんでいる村人を見下ろす男の姿。

 さらさらと、黒髪と深い緑の外套を風になびかせていた。

 血液が沸騰したような、そんな感覚がブレンを襲う。

 音が、感覚が遠ざかっていく。

 聞こえるのは、自分の心臓の脈打つ音だけ。

 破れそうなほどに拍動数あがっていく。

 こちらに気づいていないであろう男は、ひらりと裾を翻して背を向けた。

「……! 駄目です!」

 クオルの声が聞こえた気がしたが、遅かった。

――がきんっ、と金属が激しくぶつかり合う音が静かな村に響き渡った。

「……折角、見逃してあげたのになんで出てくるかな」

 呆れたような、少しだけ笑みを含んだ声が言う。

「ふざけるな! 許さない……お前だけは、絶対許さないっ!!」

 ぎりぎりと、剣の刃がこすれ合う。

 切りかかったブレンを、男は驚きもせずに受け止めた。

 今にも折れそうな細身の剣だが、刃をうまく使って受け流す。

 相当な、手練れだった。

「待ってください! 落ち着いてください、ブレンさんっ」

 飛び出してきたクオルがブレンを止めに入る。

 男はクオルに一瞥寄越し、微かに表情を変化させた。

「止めてくんない? じゃないと……」

 一旦、男が言葉を切る。

 ブレンの怒りに震える瞳を見やって、男は冷たく笑った。

「……殺すよ」

 怖気がブレンの背筋を這い上がった。

――殺られる。

 思った瞬間にブレンには、隙が生じた。その隙を逃すことなく、男はいとも簡単にブレンの剣を弾き飛ばす。

 衝撃がブレンの手に走って、膝をついてしまった。

 弾かれた剣は数メートル先まで飛び、地面へと突き刺さる。

 力量差が、歴然だった。

「……何それ。さっきまでの気迫はどーしたのさ?」

「くっ……」

 男を見上げながら、ブレンは歯噛みする。

 確かに怯んだのはブレン自身の油断だった。だが、冷静になってブレンは肌で感じてしまった。

 自分では、この相手には勝てない、と。

 男を睨み付けるブレンの頬を、つう、と冷や汗が伝った。

 動けないブレンに、男は冷たい視線を寄越して、言い放つ。

「つまんないな。いっそ死んどく?」

「させません」

 ざりっ、と石を踏みしめ、クオルが間に割って入った。

 男は一瞬呆気に取られたが、ついで楽しげな笑みを浮かべる。

「へぇ……君は楽しませてくれそうだね」

「……お断りします」

 断言したクオルに、男は得体のしれない笑みを浮かべるだけ。

 ブレンはそんな様子を見つめながら、動けなかった。

 鉄の匂いの混じった風が、吹き抜ける。

 この場には、死の気配しかなかった。

「……教えてください。何があったのか。……見ていれば、ですけど」

 クオルが言う。それはブレンにとっては意外な問いかけだった。

 男は小さく肩をすくめて、返す。

「さぁ、来てみればこんな状態だったよ」

「そうですか……」

 残念そうに目を伏せたクオル。

 男は苦笑しながら、クオルへ尋ねた。

「何それ。信じるわけ?」

「え? 嘘……なんですか?」

 逆に驚きを見せ、クオルは問いかけた。

 男はしばし黙って、やがて。

「は……ははっ、面白いねぇ、キミ。いや、最高だよ」

「はぁ……」

「嘘じゃないけどさ。もう少し疑ってもいいと思うよ。キミが庇ってる後ろのみたいにさ」

 クオルがブレンを振り返る。

 ブレンは男の言葉を全く信用せず、警戒も露に未だ睨みつけていた。

 男は剣を収めて、一度周囲を見回した。

 見える範囲でも、四人が倒れているのを、再度確認したのだろう。

「目的は何だろうね?」

「しらばっくれるなっ!」

 怒鳴りつけて、ブレンは立ち上がるとクオルの腕を引いて、自身の後ろに隠すように下がらせる。

 クオルが何か言いかけたが、それを押しとどめて、ブレンは男を睨んだ。

「お前がやったんだろ。なんで、どうしてみんなを殺したんだよっ! 何をしたっていうんだよ!」

「…………」

 男は不愉快そうに眉根を寄せた。

 その挙動がブレンの怒りと悲しみに火を注ぐ。

「クオル様の事なら、俺が全部やったんだ。何でみんなを巻き込む必要があるんだよ!」

「……ふーん」

 まるで気のない返事が返ってきた。

 男はクオルとブレンを交互に見やって、意味深な笑みを浮かべた。

「つまり、キミはその後ろのお姫様をどこかから奪い取ってきたB級王子ってわけ?」

 男の言葉に、いちいち神経を逆なでされ、ブレンの苛立ちは募る一方だった。

 短い沈黙の後、男は軽く肩をすくめる。

「……ま、いいや。信じる信じないは勝手だけど、僕は何にも知らないから」

 男はくるりと背を向けて歩き出した。

 ブレンはその背を悔しさを堪えて、見つめるしかできない。

 能力に差がありすぎるのだから。

――だが。

「待ってください」

 不意にクオルが呼び止めた。

 ブレンと男がそれぞれ目を向ける。

 クオルはブレンの後ろから前へ進み出て、男へと歩み寄った。

「クオル様?」

「ここまでの、約束でしたよね」

「え……?」

 クオルはブレンを振り返ってそう、微笑んだ。

 その意味が分からず言葉を失うブレンに、クオルは言う。

「ここで、十分です」

「な……何が……ですか?」

 声が震えていた。

 血の気が引いていくのが分かる。

 クオルの笑みは、ここ最近では見たことがなかった笑みだった。

「この村をこんな風にしたのは、きっと貴方の言う通り帝国の者でしょう。きっと彼らはまた現れる。探しているのは、僕でしょうから」

「でも、それなら、なおさらっ……」

「いいえ、駄目です」

 クオルは静かに首を振る。

 絶句するブレンに対し、クオルはただ微笑を浮かべて告げた。

「貴方は、ここで僕に解放されたといえばいい。貴方は、ここまで僕に脅されてきた。それで、貴方は何の罪にも問われないはずです。だって、真実は誰も知らないのですから」

 ブレンはクオルの意図を悟った。

 クオルはここでブレンの元を去ろうとしているのだと。

 今更でもありながら、しかし、最後のチャンスであることを悟って。

 だが、ブレンはクオルの下した決断が、信じられなかった。

「勝手に話を進めてるところ悪いけど。誰も一緒に行くなんて言ってないよ?」

 男が呆れた様子で口を挟む。

 クオルは困った様子で苦笑した。

「大丈夫です。道だけ教えてくだされば構いません」

「あ、そ。まぁ勝手にしなよ」

 頷いて、クオルは再度ブレンに目を向ける。

 その瞳に、ブレンは思わず身を強張らせた。

「……今まで、ありがとうございました。そして、ごめんなさい。謝っても何の意味もないけれど……せめて、言わせてください。それと……」

 ふ、とクオルは泣きそうな笑みを見せる。

 それは、ブレンが一番させたくなかった、表情だった。

「……一緒にいられた時間の事、忘れません。……どうか」

――幸せになってください。

 そう告げたクオルは、踵を返して歩き出した。

 男と何事か会話をしたのち、遠ざかっていく。

 ブレンは、茫然と見送るしかできなかった。

 何が、起きたのだろう。わけがわからない。

 凍り付いたように、ブレンは動けなかった。

 止められなかった。思考がそこまで追いついていかない。

 思考回路が滅茶苦茶に結合と分離を繰り返す。

 もう何も考えたくない――

 

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