第三話「誰にも触れられない世界へ行くことを受け入れるの?」

 

 小さく抑えられたチャイムの音が聞こえ、彼女は伏せていた顔を上げた。

 左手の腕時計で時刻を確認すると、すでに二時間目が始まっている時間だった。

「……どうして……」

 ぽつりと、零す。

「……どうして、こんなことに、なるの……」

 今にも泣きそうな、震えた声。ベッドに腰掛けたまま、もうすでに一時間は経過しようとしていた。

 彼女は……冬木美緒は、ただ祈るしかできないでいた。

 大切な幼馴染の、回復を。

 医学の知識も何もない、ただの高校生である自分の限界は知っていた。

 出来るとすれば、面会に行って、声をかけることくらいだろう。

 泣きたいほど、恐ろしい。あまりにもあっけない命が、美緒には恐怖だった。

 テレビや新聞で殺人事件の報道が毎日頭に流れてくる。それでも、それはあくまで他人で、絵空事に近いものだった。

 何もない、空虚な情報でしかなかった。

 でも今は違う。誰かがいなくなるという喪失感が、美緒の傍にぴったりと寄り添っていた。

 それも、何も今日じゃなければよかった。

 もしも明日や、昨日だったらこんな事にはならなかった。

「……なんで、今日なの……」

 それだけが、ぐるぐると頭を駆け巡る。

 

◇◇◇

 

「おい、キアシェ。財布はあるんだろーな? 俺は奢れないからな?」

 近くの喫茶店に入り、ひとまず情報共有からスタートすることとなっていた。

 キアシェの目の前にある、パフェがそんな神妙な空気をぶち壊していたが。

「何その自意識過剰。何様?」

 パフェの生クリームにスプーンを突っ込みながら、キアシェは返す。

 呆れて物も言えない拓巳に、クオルが苦笑した。

「まぁ、いいじゃないですか。こちらが出しますから、ご心配なく」

「あんたも甘やかすなよ……」

 そう拓巳が咎めると、だん、とキアシェがテーブルの下で、力いっぱい拓巳の足を踏みつけた。

 強烈な痛みが拓巳に襲い掛かる。

 拓巳が声もなく背中を丸めて震えるのを冷たい目で見やり、キアシェは言い放った。

「使徒様に態度が大きいよ。命知らずだね」

「何で、物理的に攻撃できるんだよ……」

 呻きながら問う拓巳を、キアシェは鼻で笑った。

「僕を何だと思ってんの? しにが……」

「暴力女子中学生」

 せめてもの抵抗を見せる拓巳に、キアシェは笑顔を向けた。

「そっかそっか。キミはそんなに現世に別れが告げたいんだね」

「踏むな! ローファーの踵でぐりぐり小指を痛めつけるなぁぁっ」

 ちっとも先へ進まない会話を繰り広げていた。

 不毛なやり取りをしていた二人の正面では呆れた表情のブレンと、小さく微笑むクオルがいる。

 クオルはカプチーノの入ったカップを手に、ぽやんとした空気で口を開いた。

「仲が良いんですね、お二人は」

「どこが。……大体、ほんの数時間前に会ったんだぞ?」

「そういえば、そうだっけね」

 パフェのアイスクリームを掬い上げながら、キアシェはさして興味もなさそうに同意する。

 その態度に一瞬悪態をつきかけた拓巳だったが、代わりにため息で昇華した。

 頬杖をついて正面のクオルが静かにカプチーノに口をつけている様子を見ながら、拓巳はなんとなく損をした気になる。

「どうせ出会うなら、キアシェみたいな暴力死神じゃなくて、クオルみたいな清楚系に先に会いたかったな、俺」

 ため息交じりに呟くと、ぴくりとブレンの眉が跳ね上がる。

 笑みを浮かべてはいたが、確実に何か、怒りの琴線に触れた。

 それを感じ取った拓巳は、表情を強張らせる。

「それはまた、よほど命が惜しくないんですね」

「え、ブレン……その言い方ひどくないですか?」

 思わず言い返したクオルに、ブレンは笑顔で……しかし確実に怒っている様子で、口を開く。

「そもそも。なんでそんな格好してるんですか」

「す、好きで着てるんじゃありませんよ? これはその、陽明さんが……」

「あの色ボケ妖怪……」

 ぼそりと呟いたブレンに、クオルは困った様子でカップに視線を落としていた。

 まるで痴話喧嘩に見える二人である。

 ブレンが可愛い彼女を心配する気持ちも分かるが、拓巳は思わず口を挟む。

「いーじゃん。似合ってるし、勿体ないって!」

 むしろ目の保養、と声を弾ませる拓巳。

 だがクオルはより一層、困り果てた様子でカップの淵に指を滑らせていた。

 ブレンがまた深くため息を吐く様子が、さすがに拓巳にも違和感を与える。

 不意に、かちゃん、とガラスの音が場に響く。

 拓巳が視線を横に移すと、パフェを綺麗に平らげたキアシェが素知らぬ顔で口元をペーパーナプキンでぬぐっていた。

 ぱさ、とテーブルの上にペーパーナプキンを置き、キアシェがようやく口を開く。

「キミの目が節穴なのか、使徒様が完璧すぎなのか分からないけど。使徒様、男だからね。そこ間違えると痛いよ?」

「キアシェ、さすがにその僻み方はどうかと思うぞ、うん」

「いえあの、その通りです」

 控えめに訴えたクオルに、拓巳は硬直する。

 ぎこちなくクオルを見やると、困ったような笑顔を向けていた。

 クラスメイトに居たらまず間違いなく、クラス中の男子が殺到する威力の笑顔。

「嘘だ……!」

 強く拳を握りしめ、拓巳はわなわなと拳を震わせる。

 かくん、とクオルが首を傾げた。

「あの……?」

「俺は信じないぞ! 男がそんな女子高生の格好して、落ち着いてカプチーノなんて飲んでられるわけないだろっ!」

 拳をテーブルに叩き付けて、拓巳はクオルへ反論した。

 クオルは恥ずかしそうに目を伏せる。

「……すみません……カプチーノ好きなんです……」

「クオル様違います。そこじゃありません」

 冷静にブレンが口を挟む。クオルは視線を上げて、不思議そうに首を傾げる。

 その様子に、ブレンは大きくため息をついた。

「クオル様の場合、ただの慣れ過ぎです。ともかく、貴方がどう思おうが構いませんが事実は事実です」

「くぅっ……。この差が恨めしい……!」

「何言ってんの、キミ」

 キアシェが冷めた視線で問いかけると、がっくり肩を落とした拓巳は言う。

「……あっちは超絶可愛い女子高生なのに、こっちは女子中学生……」

「……」

 だんっ、と再度足を踏みつけられ、拓巳は再び蹲って悶絶する。

「キミ、少し黙っててくれるかな?」

「は……はひ……」

 ふん、と鼻を鳴らしてキアシェはクオルへ視線を向けた。

「……さてと、それじゃあ」

「お互いの情報を総合して、今後の方策を立てましょうか」

 先を述べたクオルに、キアシェは神妙な顔をして頷く。

 和やかだった先ほどまでの空気は一瞬で消え失せた。

「ゲートが観測されてるって、どういうこと?」

 拓巳はそんな会話を聞きながら、道すがら受けた簡単な説明を思い出す。

 ゲート、とは世界と世界を繋ぐ橋のようなものだそうだ。しかも世界はごまんとあるらしい。

 そのゲートはクオルの所属する次元総括管理局という組織が数や場所を掌握している。だからこそ、それ以外のゲートが見られたことについて調査に来たのだそうだ。

 拓巳の思考を他所に、クオルはキアシェに返す。

「小さな歪みとして観測されています。問題は、このゲートの不安定さ……それから、その数です」

「数……?」

「最大五つのゲート反応が、ごく狭い範囲で現れることが確認されています。管理局で把握していない、個人用とも言えない、小型のゲートです」

 数の問題や、不安定がどうのは、拓巳にはよく理解できない。

 そしてクオルやキアシェも拓巳の理解を求めてはいないのは見るも明らかだった。

 ふと、拓巳はテーブルの上に置かれた、三つのグラスに視線を伏せる。

 キアシェとクオルと、ブレンの前にだけ置かれた水の注がれたグラス。

 透明な水に浮かぶ氷が溶けて、くるりと回転する。氷と氷、そしてガラスにぶつかり、かろん、と小さく音を立てた。

 拓巳の前だけがぽっかりと空いていた。

 やはり、自分の姿は誰にも見えていないと突きつけられ、唐突に拓巳は寂しさに襲われた。

 存在を証明できないもどかしさとは、こういうものなのだろうか。

「それがどう問題なのか、全然わからないんだけどね」

 キアシェの言葉に、拓巳は現実に引き戻された。

 そっと隣のキアシェを見やると、頬杖をついて、クオルに視線を向けていた。

 監査官と言う仕事については、拓巳と同じようにキアシェも詳細は知らない様子だった。

 何だかそれだけでほっとする自分に、拓巳は心の奥で苦笑する。

「いくら小さなゲートと言えど、不安定なゲートは互いの世界に歪みしか与えない。歪みは、悪意を呼びやすくなるものです」

「つまり、その不安定なゲートが、この世界に悪影響を及ぼす可能性が高い?」

「最悪、魔物が呼びこまれる可能性もあります」

「それはそれで面倒だね」

「それを未然に防ぐために、こうして出向いているわけです」

 なるほどねー、と興味のなさそうな態度で、キアシェは頷く。

 片や完全に会話から取り残された拓巳はどこのRPGの世界に紛れ込んだんだろうなぁ、とそろそろ現状把握を放棄し始めていた。

 朝から、立て続けに襲い掛かる非日常に拓巳の脳は疲れを見せていた。

 キアシェたちと会話できているだけに、拓巳は自分が死にかけていることさえ忘れそうだった。

「キアシェさんは、あそこで何を調べようとしていたんです?」

「僕が本来狩りに来た魂が、何故あそこに寄らなかったのか分からなかったんだよね」

「分かるものなんですか?」

 ブレンが驚いた様子で問い、キアシェは頷いた。

「それが分かるから死神なんだよ。だけど……実際にあの場所で死んだのはこれってわけだよ」

 キアシェは嫌そうな顔で拓巳を指さした。拓巳はため息で答える。

「だから、キアシェが道路のど真ん中に居なきゃ俺は……」

「問題は」

 拓巳の発言を遮って、キアシェは言う。

「代理の存在を立てた、ということにあるんだよ」

 死神が仕事をミスしたというと、主に二パターンに分けられる。そうキアシェは説明を始めた。

 二パターンとは、連れていく魂が現れなかった場合と、狩る魂を間違えた場合。

 前者は事前に死神に届いた情報から対象が逸脱した場合に多い。原因は種々あるが、情報の間違いが多い。この場合は対象について回り、適切な時期を見計らって連れてくのが基本となる。

 後者は複数人でいる場所で、魂を狩らなければならない場合に起こりやすい。もっとも、この場合は死神協会本部に連絡をして適切に処理されることとなる。正しい魂を連れ、間違った魂を肉体へ再び戻すのだ。

「どちらにせよ……今回の件には当てはまらない」

「どういう意味ですか?」

「前者であるなら、その場で誰も死なない。後者であるなら、その場に当人がいる。だから、今回は違う」

 断言したキアシェに、拓巳はようやくその意味を悟る。

「俺はキアシェを助けようとして、轢かれた。その場に、本来居るべき美緒も、いなかった……」

「重なるケースは?」

 クオルの質問に、キアシェは首を振った。

「死神の情報が間違ってて、かつ狩り損ねなんて……協会がすぐに代わりを寄越すよ」

 死神の行動は、死神の属する組織『死神協会』の本部でも掌握している。

 キアシェがこうして捜査を続けているのは、本部の許しがあってだ。勝手に行っているわけでもない。

 本部でも疑問を抱いているからこそ、キアシェに単独捜査をさせているということだ。

「まったく、ちゃんと対象を把握してた僕だったからいいけど。適当な仕事してる死神だったらキミ今頃は本当に死んでるよ?」

「そりゃどうも。……でも、何で、命の危険にさらされてまで、見知らぬ相手を助けようとしたんだかな……」

 拓巳は正直、それほど正義感が強いという意識はない。

 ましてや自分の命さえ天秤にかけたようなものだった。

 キアシェはそんな拓巳を一瞥し、言う。

「さっきちょっと調べたけど、精神系魔法の名残があった。何か、施されてたのは確かだね」

「あの場所に?」

「さぁ。それは、僕には分からないよ」

 肩をすくめたキアシェに、拓巳は沈黙する。

 キアシェの態度は、何か感づいていて隠しているようだった。

 だが、その『何か』に触れることを拓巳の本能が拒否している。

「今回の件が故意であるなら、死神の事を見くびってるか、あるいはまったく理解してないね」

「なぜ、です?」

「もしも死神の仕事をよく理解しているならば、死神がそんな単純な手に簡単に引っかかるはずがないことも……それから」

 くす、とキアシェが邪悪な笑みを浮かべた。

「死神が、執念深く追い続けるってことも……知ってるはずだからね」

――誰しも、死からは逃れられない。それは絶対に逃がしはしないという、強固な意志を持った死神が存在しているからなのだ。

 死神として、確実に死者の魂を刈り取るという使命感。

 キアシェの根底にも、渦巻く執念。暗く淀んだ、漆黒の意思だ。

 それに触れてしまった拓巳は、肌が粟立つのを隠さずにはいられなかった。

 キアシェは死神で……生存本能を持つ限りは、本来相容れない存在であることを思い出す。

「ところで、そろそろキミの肉体の様子でも見に行こうか?」

「……は?」

 唐突な話題転換に、拓巳は呆気にとられる。

 キアシェを見やると、スマートフォンで地図を検索していた。

「なんでそうなるんだよ?」

「心肺停止で棺桶に入ってたら面倒だし、どれくらい持つかは確認しないとね。それも僕の仕事のうちだよ」

 火葬されたら流石に打つ手がないしね、と付け加えるキアシェは完全に他人事だった。

「それならとっとと戻してくれよ……」

「それは、駄目だよ。言ったよね? 世界には許容限界があるって。世界はね、そんなに甘くできてないんだよ。差し引きゼロで上手く行くようになってるんだ」

 あくまで拓巳が保険であることを強調し、キアシェは拓巳の言葉を切り捨てる。

 だが、答えたのは意外にも……クオルだった。

「……そうかもしれませんね」

 そう、寂しげに同意したクオルに、キアシェがちらりと視線を寄越す。

 ブレンが何か言いかけた瞬間、ガタン、とキアシェが席を立つ。

「さ、行くよ。遊んでる時間なんてないんだからね」

 何とも形容しがたい空気をキアシェの素っ気ない言葉が切り裂く。

 キアシェは伝票を掴むと、一人でさっさとレジまで向かっていった。

「……パフェ堪能してたやつが言う台詞かよ」

 思わず苦笑し、拓巳も席を立った。

 

◇◇◇

 

 電車で二駅先の、大学病院に拓巳は入院しているらしい。

 キアシェの鞄は、それこそ魔法のように見慣れた日常アイテムが登場するのだから、拓巳は不思議でならなかった。

 改札はICカードで通過し、財布には学生証まで入っていた。

 本当は高校の女子生徒なんじゃないか、という疑問が鎌首をもたげそうなほどだ。

 今だって、スマートフォンの地図アプリで病院までの道をチェックするキアシェがいる。

 熱心に地図を確認しているキアシェを横目に、拓巳はそっとクオルへ問いかけた。

「えと、質問していい?」

「はい。どうぞ」

 すんなり頷いたクオルに、拓巳は気になっていたことを問いかける。

「キアシェとは、知り合いだったのか?」

「……どうして、です?」

 疑問で返したクオルに、拓巳は頬を掻きながら答えた。

「何となく……そうかなって」

 クオルはキアシェへ視線を向けて、寂しそうに笑った。

「だったら、良かったんですけどね」

「え?」

「死神は、生前の姿とは違う事もありますから。きっと勘違いだったんです」

 生前?

 クオルの言葉に、拓巳は首を傾げる。

 拓巳の様子に、クオルはくすっと笑みを見せた。

「死神は、未練のある死者なんですよ。だから、そういう事があるんです」

「え……じゃあ……」

「キアシェさんも、何かしら未練を抱えているんでしょうね」

 未練。

 だから、キアシェは拓巳によく考えろと言うのかもしれない。

 短絡的な考えで命を失う事を許さないのは、きっとそこに起因するのだ。

「死神も、監査官も……その身を削ってでも、世界を守ろうとしています。誰かに称賛されることなどない、と分かっていても。特に死神は死を招く。……とても、歓迎はされないでしょう」

 拓巳も、その点については同意する。

 最初にキアシェの口から、死神だと聞いたときは衝撃だったのだから。

「それでも、彼女は孤独な戦いをずっと続けているんですよ。世界を守るために。……自分の、最後の願いを叶えるために」

「願い……?」

「その願いだけで、彼女たち死神は、死神で居続けるんです」

 スマホを手に、黙って検索を続けているキアシェの背中を見やる。

 どう見ても、年下にしか見えない少女。

 でも、すでにキアシェの命は存在しない。

「家族のところとか、行けばいいのに」

 拓巳の素直な思いだった。

 だが、静かにクオルは首を振る。

「死神は、仕事以外では勝手に出歩けませんから」

「そう……なんだ。……そっか」

 だからかも知れない。

 命の尊さを知っているからこそ、キアシェは拓巳を救おうとしているのだ。

「……嫌われても、頑張ってんだな。……損な役回りだろーに」

 その重責が、小さな肩に圧し掛かっているのだろう。

 それでも、キアシェは凛と前を向いている。

「……だから、ちゃんと考えて答えを出してあげてくださいね」

 クオルからの警告に、拓巳は一瞥寄越す。

「俺だって、死にたがりってわけじゃないんだけどな」

 ぽつりと零した拓巳に、クオルは小さく笑った。

 ホームに、電車が滑り込む。

 くるりとキアシェが振り返った。

 遠心力で、長い髪がふわりと広がる。

「さて、行こうか」

 死神で、死者で……それでも健気な少女。

 そして、意外と甘いものが好きらしい、少女。

 何だかそのアンバランスさに、拓巳は見えないように笑みを零した。

 

◇◇◇

 

「大きな病院ですね」

 大学病院を見上げながら、クオルが零す。

 キアシェは鞄にスマートフォンを仕舞い込み、言った。

「四階の病室……アイシーなんとかって部屋だって」

「集中治療室かよ。どんだけ悲惨なんだ、俺……」

 自分の肉体の不安が大きくなるばかりの拓巳は肩を落とす。

 そういえば、朝見た自分の手足は反対方向に折れ曲がっていた。間違いなく、瀕死の重体だ。

 集中治療室でも、何ら不思議はない。

 思うだけで痛いような気がして、拓巳は意味もなく肘や腕をさすった。

 肉体の感覚を忘れた方が楽だとキアシェは言っていたが、そうそう忘れられるわけもない。

「……キアシェ、正面から突っ込むつもりか? ICUだと家族以外の面会は多分無理だぞ」

「ふふ、馬鹿だな、キミは。僕を誰だと思ってるのさ?」

 危険な笑みを浮かべたキアシェに、拓巳は一歩身を引く。

 刺激しないように、ぎこちなく笑みを浮かべたが、冷や汗が流れ出す。

 数時間でも分かる。

 今キアシェの浮かべている笑みは非常に危険だ。

 拓巳の本能が警鐘を鳴らしている。

「肉体が傍にいるんだよ? 気になるよね? 知りたいよね?」

 一歩キアシェが近づいて、反対に拓巳は一歩下がろうとして……足が地面に縫い付けられたように動かなかった。

 恐怖に体が凍り付いてしまった拓巳は、かろうじて動く首をぶんぶん横に振る。

「知りたくないです結構です」

 せめてもの抵抗を見せるも、キアシェはさらに近づき、体を傾ける。

「そんな遠慮しないでよ。こんな僕でも、たまにはキミに優しさをかけてあげることもあるんだよ。……さぁ」

 ひた、とキアシェの手が拓巳の頬に触れる。その手は氷のように冷たく、瞬く間にそこから温度と意識が奪われた。

 

◇◇◇

 

 音が聞こえた。

 ぴっ…ぴっ…ぴっ…

――ああ、心電図の音だ。テレビドラマでよく見る。

 しゅうしゅうと、一定のリズムで機械が動いている。

 遠く感じていた、音や感覚が徐々に鮮明になってきた。

 しゅう、と空気が肺に送り込まれたのだろう。

 胸が圧迫されるように苦しい。呼吸も浅い。息がしづらくて、仕方ない。

 酸素が一定の間隔で送られていれば、人間は自分の呼吸のタイミングでなくても生きていられるのだ。

 拓巳は人生の土壇場で、そんな事を理解させられた。

 頭は熱を持ったように熱い。そういえば、頭から血を流していたっけ。

 目は開けようと思っても、開かない。さすがに、そこまで動かせるような状況にはないらしい。

 とりあえず、今の拓巳に分かることは……とにかく痛くて、苦しい。

 あちこちが熱を持ったように痛み、思考も鈍い。

 魂が体に戻ったら、この状態になるわけか、と拓巳はぼんやりと思う。

 キアシェが何を狙ってこんな事をしたのかは分からないが、こんな状態を体感させられてはこのまま魂が戻らなくてもいい、と思ってしまう拓巳がいた。

 去来するのは、凄まじい孤独感だけしかない。この苦痛を、誰にも理解されないのだから。

 だから、拓巳はこの苦痛と孤独感と引き換えなら、と思考のどこかで思ってしまう。

――美緒が、生きていてくれるならなおさらだ。

 すう、と頭の芯が冷えたような気がする。

 それさえ受け入れれば何もかも、丸く収まるのだ。幸せな、事かも知れない。

 元々は、キアシェを助けようと思って飛び出した拓巳だった。

 間違いでも、人助けをしようとした思いに偽りはない。

 ましてや、幼馴染を救うことが出来るなら。

――キアシェ、もういい。俺が一緒に行ってやるよ。だから。

 拓巳の右腕が、不意に熱くなる。細胞が悲鳴を上げるように。何か薬を投与されたのだろう。

 状態は悪化するばかりの肉体へ。必死に拓巳の命を、繋ぎとめるために。

 拓巳の想いとは、裏腹に。

――美緒を見逃して、俺をこの苦痛から解放してくれよ。

「……何甘えたこと言ってるのさ」

 キアシェの不意の声に、拓巳は目を開ける。

 きょろきょろと周囲を確認すると電車の、中だった。

 誰もいない車両の中、席に座った状態で、拓巳は目を覚ました。

 拓巳は思わず熱を感じた右腕に触れたが、今や何の感覚も霞がかったように思い出せない。

 まるで化かされたようだった。

 隣に座ったキアシェは、正面を向いたまま、続ける。

「……自分の現状を嘆くのもいいけど、死んでしまったら全てを失うんだよ。確かに、痛みも苦しみもなくなる。でもその代わりに、キミの未来はなくなる。未来にあるはずの、夢や希望ごとね。……それをもう少し考えなよ」

 そう告げたキアシェの声音はどこか呆れを含んでいた。

「それが言いたくて、あんな……?」

「それもあるけど。……分かりやすくしてあげるとさ」

 キアシェが拓巳へそっと手を伸ばす。

 その仕草に思わず心臓が跳ねた拓巳だったが、次の瞬間、凍り付いた。

 とす、とキアシェの手が拓巳の体をすりぬけ、座席のクッションへと触れた。

 拓巳はその光景に、言葉を失った。

 腹部に突き刺さったキアシェの腕。だというのに、何の感覚も拓巳には伝わってこない。

「肉体がないっていうのは、こういう事だよ」

 ぎこちなく、拓巳はキアシェの表情を窺う。

 目を伏せていたキアシェは、小さく息を吐いた。

「キミは……」

 どこか影のかかった瞳をキアシェは拓巳へと向ける。

 拓巳はその瞳から、目がそらせなかった。恐怖が、もはや感覚でしかない体を支配する。

「このまま、誰にも触れられない世界に行くことを受け入れるの?」

「それ、は……」

 口を濁した拓巳から瞳をそらさず、キアシェは続ける。

「でもね、まだキミは見えている。僕と会話が出来る。……だけど、本当に死を選択したなら、キミは僕と会話さえできなくなる。……キミは感じたよね?」

「っ……」

 拓巳は堪らず、キアシェから目をそらした。

 その瞳に見つめられると、全てを見透かされてしまうように感じるのだ。

「その現実からは逃げられないよ。死の先に待つのは、孤独だけなんだから」

 突きつけられた言葉に、拓巳は歯を食いしばった。

 もう、キアシェが何をしたいのかが分からなくなってきている拓巳がいた。

 沈黙する拓巳から、キアシェは手を膝の上に戻す。

 かたん、かたん……と電車の車輪が回る音が一層大きく聞こえた。

 小さく息を吐いて、キアシェは口を開く。

「あの子を狩るまでだって約束、忘れないでよ」

 拓巳が視線を微かに上げ、キアシェの横顔を見やった。

 朝出会った時と何ら変わらない、凛とした横顔がそこにあった。

 目的のために、迷いを振り切った真剣な瞳だった。

 それは、間違いなく拓巳を救うために尽力してくれるキアシェの姿だ。

「キミが肉体に戻ってる間に、使徒様といろいろ分析してたんだ。で、おおよその目星だけはつけた」

「そこへ向かってる、途中、か?」

 何とか言葉を絞り出した拓巳に、キアシェはこくりと頷く。

  車窓から見える流れる景色に目を細めて、キアシェは拓巳へ告げた。

「冬木美緒。彼女に、僕らは話を聞きに行く」

 ごぅ、とトンネルに入る。

  この独特の音がキアシェの言葉を掻き消してくれればよかったと、拓巳は心底思った。

 

←第二話   第四話→