最終話 夢の続きは、ここで。

 

 どさどさばさぁっ。

 目の前に詰まれる始末書の数々。

 アルトは不機嫌な顔でその一つ一つに、判を押す。

 この山を処理する前に腱鞘炎になるに違いない。

――転送システム修理費……決裁

――管理監査官特別承認……合議

――臨時承認監査官葬儀費……決裁

――監査官傷害保険支払許可……決裁

――……

 眠くなる作業だった。

「んで、すばるの奴は少しはまともに仕事してんのか?」

「今はアリシアがついている。問題はないだろう」

 アルトの問いかけに、真っ黒なシルエットが答えた。黒いローブと、真っ黒な毛並みの猫族のエリス。金色の瞳が時折、瞬きする。

 ソファで紅茶の入ったカップを傾けるクオルの背後で、エリスは立っていた。

 エリスは大きな肉球の手で、古ぼけた魔導書をめくっている。アリシアの対をなす存在だけあって、行動パターンが真逆だ。

 アリシアなら今頃、あれやこれやと騒いでいるだろうから。

 ぽんぽん、と判を押しつつ、アルトは小さくため息を吐く。

「余計不安だけどな。まぁ、議会も静かになったし、いいっちゃいーけどさ」

「アルトは心配してるんですよね。すばるさんが無理してないかって」

「……うるさい」

 クオルに指摘され、気恥ずかしさで、アルトは視線をそらす。

 くすくすと笑うクオルに、エリスは納得した様子で頷いた。

「大丈夫だと、思いますよ。すばるさんは一人じゃない。アリシアも、エリスもいる。加えて言えば、先代の王の記憶もある」

「ああ、柱に?」

「それになにより、世界を守ろうと頑張ってくれるたくさんの部下がいる。これはとても心強いことだと思いますよ?」

 それについては、アルトは即答できなかった。

 議会だってもめているし、次元総括管理局も色々と意見が割れてきているのは事実だ。

 ましてや世界は議会だけで回っていない。もう一つの世界の守護組織、死神協会だってある。

 向こうは沈黙を守っているが、何かしら不満を抱いていることだってあるだろう。そう考えれば、解決らしい解決など、実はしていないに等しい。

 それが少しだけ、アルトの気分を沈ませる。

「誰も、正しい答えを探せなんて、言ってませんよ」

 クオルがアルトの葛藤を諭すように告げた。

 知らず目を伏せていたアルトは、職印を手にしたまま、クオルを見やった。

「アルトにとっての正しい答えは何ですか?」

「え? ……なんだろ。……誰も苦しまないやり方で世界を守ること?」

「実際、それは可能ですか?」

「……無理だろ。少なくとも誰かが苦労する」

 クオルは頷いて、そういうことですよ、と返した。

「自分が信じたやり方を貫けばいい。それを、誰に責められようとも。後悔は、そのあとで十分です」

「俺は……いつも後悔ばっかだよ。兄貴が思ってる以上に。ああ、あの時はよかったなって、時々思う」

 水虎になる前の方が、幸せだった。ずっと、水虎になることが目標だったのに。

 その座についてみれば、降りかかるのは自分一人では処理しきれない難題ばかりだ。それも、心を削る他ないほどの、残酷な結末を伴うものばかり。

 ぎゅっと胸が締め付けられる。

「兄貴は……後悔、してることってあるか?」

「ありますよ。……後悔なんて言葉じゃ、片づけられないくらいに。……死んでしまいたいって思う事が、たくさん」

「それでも、兄貴は……生きてる」

 クオルは静かに頷いて、ことりとカップをソーサーの上に戻す。

 不安の募るアルトに、クオルは淡く微笑む。

「幸せっていうのは、その時には気づけないから、幸せなんです。失ってからじゃないと分からない。それに……」

「それに?」

「気づいたとしても、それに慣れたら、もっと上の幸せを目指すものでしょう?」

 確かに、とクオルの言葉が、アルトの心に落ちた。

「この世界は、王の見る夢のようなものかもしれませんね」

 不意に、クオルがため息を漏らす様に呟いた。

 アルトはその意味が汲み取れず、思わず眉を顰めながらクオルを見やる。

「先代の王ができなかった夢を、次の王が次いでより良い世界を描く。一番幸せになりたいのは、王かもしれない」

「……ああ」

「裏を返せば、王の幸せな世界を創れたら、それがきっと、この世界で生きる僕たちの幸せでもあるんでしょうね」

 そう言った、クオルはどこか寂しげだった。

 アルトにもクオルにも、消し去りたい過去がある。

 それでもここに、いる。その理由は簡単だ。どんなに辛くても、まだ存在したい理由が、あるからで。

「兄貴」

「はい?」

 呼びかけたアルトに、不思議そうな瞳をクオルが向けた。

 アルトは職印にインクをつけながら、言う。

「少しこの件が落ち着いたらさ。すばるのこと、もう少し何とかならないか議会で相談してみる。でも、もしも……」

「大丈夫です。ちゃんと、援護しますよ」

 汲み取って返したクオルに、アルトは安心して笑みを浮かべる。

 信じていないわけではない。クオルという存在は、アルトにとってかけがえのない、信頼できる家族なのだから。

 それでも、きちんと言葉にされると、安堵が広がる。意識せずとも、自然と笑顔がアルトの顔に浮かんだ。

「ありがとう、兄貴」

「いいえ。……さ、話はその辺で終わりにして。書類を片づけてくださいね」

 笑顔で現実を突きつけてくれるクオルに、アルトはひきつった笑みを返すしかなかった。

 

◇◇◇

 

 世界は、循環を繰り返す。

 破壊と再生。王が描く世界を構築するために。

 第一代目の王が目指したのは、世界の文化の交流。

 第二代目の王が拒否したのは、世界の文明の流出。

 第三代目の王が恐れたのは、世界同士の喰らい合い。

 そして、第四代目の王が任されたのは、そんな世界から新たな一歩を踏み出すこと。

 幸福だった世界は、王の柱に無限書庫蔵書として記録されている。

 世界はいつだって、過去を振り返りながら新しく生まれてくる。

 より良い世界にするために。

 世界の記憶を振り返りながら、王は今日も楽園を目指して新しい世界を描き続けている。

 時折、悩んだり、苦しんだりしながら、人であった心のままに、世界を想い続ける。

 一番の願いは消えゆく世界が自分の世界こそ最高の世界だったと、思ってくれるように。

 そしてまた、いつかこの場所で会える日まで。

 

――……佳い旅を。

 

第二章 追憶のエデン 終幕

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