第五話  memoria

 

 ちらちらと降り続く、白くて冷たい水の塊。

 雪。

 私の知っている景色は、いつもこれだけだ。

 白く閉ざされた、冷えた世界。空の色は、ずっと鼠色のまま。

 真っ白な世界で、私はただ、祈りを捧げる体勢のまま瞳を閉じていた。雪のような白に近い銀髪は、毛先に向かうにつれて色味を帯びている。組んだ手は、とうに寒さなど忘れ、硬直して動かない。吐き出す息だけが白く、温度の存在を、生きていることを証明する。

 ぼやけてきた視界で、私は強く思う。

 こんな世界、滅んでしまえばいい。

 ちっぽけな犠牲で世界が救えると信じている愚かな人々など、存在する価値もない。

 失われる命の中で、私は世界に対して黒い感情だけを募らせていた。

 真っ黒に塗り潰された私の感情を救ってくれたのは、彼とも彼女とも説明のつかない存在だった。

 その名を、ヘリエルと言った。

 

◇◇◇

 

「まったく、何で僕があんな奴の事を探してやらなきゃいけないわけ?」

 ぶつぶつと文句を言いながら、キアシェは歩き続けていた。

 ココルから単独シスを探すよう命じられたのだ。

 キアシェは、シスが嫌いだった。

 大切な人にまた一つ厄介なものを背負わせたシスを、赦すわけには行かないと決めていたから。

 だが、仕事は仕事だ。気配を追いながら、キアシェは歩く。

「……近いな」

 ぽつ、と呟いてキアシェは足を止める。

 見渡す限り、漆黒の闇。この場所の景色は、さまざまに形を変えていく。恐らく、ココルの言っていた『夢』の形によって、景色を変えるのだろう。

 その人が願う世界を再現して飲み込む、ヴァニティの真実。

 そのために、記憶さえ侵食するというのだから、厄介この上ない。

「……ここかな」

 ある一点で視線を止め、すたすたと歩み寄る。

 姿はどこにもないが、気配がする。

 キアシェは黙ってその手に鎌を握りしめた。この場所が死神の管理下にあるのであれば、この鎌で道は開けるはずだ。

 ひゅっ、と鎌が空を切った。そこからぱっくりと割れるように景色が広がり、キアシェはその光に思わず目を閉じた。

――そっと目を開くと、どこかの家の中で……キアシェは咄嗟に叫んでいた。

「ちょっ……何してんのキミッ?!」

「は……な、んだ……いたんだ……」

 かすれた声で答えたシスにキアシェが再度言葉を紡ごうとして、それより早く、赤が舞った。

「あ……がっ……」

 びく、とキアシェは身を震わせ思わず足を止める。

 シスは、確かにそこにいた。だが、それはとても直視できるような状態ではなかった。

 ぼたぼたと、とうに致死量を超えた血を流しながら、シスはそれでもなお、表情を失った少女から刃の洗礼を受けていた。

 振りかざされた包丁が光を閃かせた瞬間、キアシェは我に返って鎌を手に地面を蹴る。瞬く間に肉薄し、キアシェは少女をその勢いで容赦なく蹴り飛ばした。

 少女の体は簡単に吹っ飛び、壁に叩き付けられる。

「何なの。何で、どういうことか説明しろッ!」

「この世界は……一番幸福な夢で、出来てる……」

 ふらつきながら立ち上がったシスは、とても生きているとは思えない状態だった。

 ぐしゃぐしゃになった腹部から、本来出てはいけないものが零れかけているし、血が足りないのだろう。すでに出血さえしていない。生命活動が停止しないことが異常だ。

 とても直視できないキアシェは背を向けたまま、その言葉を聞いていた。

「彼女と、僕の夢が同じなんだよ。だから、同調して……こうなった」

「殺され続けるのがキミの夢なわけ?」

「違う。……確かに、殺されたい人はいる。だけど……そうなれないからこそ……こう、なるんだよ」

 壁に叩き付けられた少女は、震えながら腕を支えになおも起き上がろうとしている。凄まじい執念としか言いようがない。

 だが、シスが言う事が本当ならば、彼女はこうして誰かを殺し続けることが幸福なのだ。それは最早、狂気だ。

「酷い呪いだよ。……だけど、確かに僕の、幸せなんだ」

 横目で見やったシスの浮かべた笑みは、本当に嬉しそうで。

 キアシェは奥歯を噛み締めた。

 それは悔しさや怖気ではなく。ただ純粋な、怒りだった。

「ふざけんな。……キミは、キミが帰らなきゃいけない場所を忘れてるだけだよ」

「彼女たちの……傍だよ」

「違うッ! キミが帰らなきゃいけないのは、キミを必要としてるたった一人の傍だよ!!」

 シスの表情が、珍しく停止する。

 その間に、ふらつきながら、少女は再起していた。

 足元に落ちていた包丁を拾い上げ、少女はしっかりと握り直す。迷うことなく、少女が再度こちらに向けて駆け出した。

 キアシェは舌打ちして、鎌を構える。

 ふと。

「……二人とも、ごめん……。やっぱり僕は……あーちゃんを一人にはできない」

 シスが呟くと同時に、少女もろとも、景色が欠片となって崩れ落ちた。

 再び漆黒の世界に放りだされたキアシェは、それでも安堵から深い息を吐く。

 振り返ると、シスはうずくまって、荒い息遣いを繰り返していた。キアシェは眉を顰める。

「ちょっと、キミ……本気でやばいんじゃないの?」

「問題……ないよ。死なない、から。……ありがとう」

「何が」

 突き放すように言い返すと、シスは苦しげな笑みをキアシェに向けた。

「……君の言葉で、僕は自分の今いる意味を、思い出せた。……あーちゃんとの約束を、失わずに済んだ」

「……キミの夢は吐き気がするよ」

 まったくだね、と相変わらず苦しげに同意して、シスは息を深く吐き出した。

「キアシェ、シス?!」

 切羽詰まった声に二人で目を向けると、ジノが血相を変えて駆け寄ってきていた。その後ろに、景色を引き連れたココルたちが見える。

 ココルが一歩歩くたびに、穏やかな草原の景色がその歩に合わせて動いていく。

「な、なんだよこれ?! 酷すぎるだろ……!」

「あぁ……悪いけど、応急手当を頼んでいいかな……。さすがに、動けないんだよね……」

「ば、馬鹿! そんなレベルじゃない!」

「いや、平気だから……せめて、これ以上酷くならないように」

 ジノは躊躇しながらも、仕方なしという様子で渋々頷いた。

 傷口に手をかざし瞳を閉じる。仄かな光が傷口から広がり、薄い膜を構成した。

 止血程度なものだろう。だが、止血するだけの血がないので、効果は保証できないはずだ。死ねないというのは、いよいよ本当なのかもしれないと、キアシェは背筋が少し寒くなる。

 異常もここまでくると、閉口してしまう。

「ふむ。ひどい夢を抱えてるね、君は」

「みたいだね」

「まぁ、分かったかな? ここは、こういう場所なんだよ。だからこそ、ここに堕ちる魂は増やしたくないんだよ」

 ココルの言葉に、ジノは表情を陰らせ、シスは苦笑した。

「さぁ、動けそうなら行こうか。ロゼが待っているよ。王の記憶を探す余裕があるといいんだけどね」

「嫌な気配がします……総統」

 ネシュラが身を震わせ、ココルは小さく嘆息した。

「少し、生者を入れすぎたかな。急ごうか」

 

◇◇◇

 

 はっ、と我に返ると、ロゼは真っ白な空間に一人だった。

「ここ……私は……」

 ふらふらと立ち上がると、ロゼは周囲を確認する。

 誰もいない。生命の気配が、何ひとつない。

 だが心が、記憶が教えるのは、たった一つの存在。

「ヘリエル……、どこにいる、ヘリエルっ?!」

 呼びかけても、答えは返らない。

 どこまで続いているかもわからない空間の中に、ロゼの声は空しく響いた。

――ああ、思い出した。

「頼むから、返事をしろっ……ヘリエルッ!!」

 涙が滲み、それでもロゼは叫び続ける。

――私は、ここに居た。ここにヘリエルと堕ちた。だというのに、ヘリエルはどこにもいなかった。

 長い間探し続けた。それでも見つからなくて、ロゼはこの空間に見切りをつけて飛び出したのだ。ヴァニティを飛び出し、世界へと。

「ヘリエルっ……――!」

 その名を、ひたすらに叫び続ける。

 その名は、かつての王の名前だった。

 

◇◇◇

 

 ふと目を覚ますと、ロゼ≪私≫は翠の絨毯の上に寝転がっていた。

「……?」

 意味が分からず混乱しながら、それでも体を起こす。正方形の翠の絨毯の淵沿いに、透明なガラスが壁を作っていた。そこから先は、真っ白な雲が絶えず流動しているだけ。

 どこ、なのだろう。

 きょろきょろと周囲を見回しても誰もいない。

 何となく、上を見上げて、ようやくその存在に気づいた。

 薄く桃色に色づいた髪を風にはためかせ、柔らかな衣服に身を包んだその存在を。翼もなく、宙に浮く姿を。

 息を呑むほど、美しい光景だった。

 ふと、視線を落としたその瞳と視線がぶつかる。

 ぴくん、と肩が跳ねてしまった。

 じっと見据えた瞳には、特に感情が見えない。まるで、その辺りに転がる石でも眺めているような視線だった。

 事実、その時はそうだったのだろう。

 私は、彼……あるいは彼女からすれば、ちっぽけな作品群の一つにしか過ぎなかったのだから。

 

◇◇◇

 

 私は膝を抱えて、じっと黙っていた。

 視線は膝頭に向け、身じろぎひとつしないままに、私は時間が過ぎるままに任せていた。

 とん、と気配が傍らに舞い降りる。

 視線をスライドさせると、薄いクリーム色に色づいた裾がふわりと揺れていた。

「……貴方……誰?」

 意を決して問いかけた私に、その存在はひたりと視線を合わせ、ぽつりと言った。

「ヘリエル。世界の王」

 その答えに、私は凍り付いた。

 ヘリエルと言ったその存在は、私の存在を完全に無視した様子で、背を向ける。

「世界……って」

 何とか紡げた言葉は、自分でも情けなくなるほどに、弱々しく震えていた。問い自体、最早質問としての意味を成してはいない。

 ヘリエルは一瞥寄越し、やはり感情の薄い声で尋ねた。

「君は、何が目的でここにいる?」

「え……」

「ここは世界の出発点であり、終着点。王の柱。それを管理するのが私の与えられた役目。……君の存在は、何のためにある?」

 私は答えられなかった。

 何のためにだなんて聞かれても正直分からない。

 私は私が望んでここにいるわけではないから。

 私は、世界の王になるために捧げられた。

 世界の王がすでに存在するのなら私がいる意味など、ない。

 沈黙する私に、ヘリエルは興味を失ったようだった。

 それもそうだと、振り返ってみれば思う。

 ヘリエルにとって自分以外は全て、等しく同じ価値を持っていたのだから。

 

◇◇◇

 

 それから私は、一言もヘリエルと会話をすることなく、時間を無為に過ごしていた。

 ヘリエルが何をしているのか、私の目では理解できなかった。

 ただ立ち尽くして遠くを見つめているときもあれば、膝を抱えて瞳を閉じているときもある。

 休んでいる、というわけではなかったと思う。

 絶えず、ヘリエルは何かをしていた。私では知覚できない、理解できない何かを一人きりで、ずっと。

 そんな、ある時だった。

 時間がどれだけ過ぎたか分からないが、不意に周囲に立ち込めていた白い雲が色味を帯び、朱色から紫、そして黒へと染まっていった。

「な……なに?」

 不安から言葉を零すと、ヘリエルは一瞥寄越して、再び周囲へ視線を走らせる。

「一つ壊した、その欠片」

「壊したって……」

 私が言いかけた時だった。

 唸るような音が徐々に大きくなっていることに気づく。肌が粟立つような恐怖が、音と共に大きくなる。

――……ゥオオオオオオオオン……!

 空気を振動させながら駆け抜けた声に、私は思わず目を閉じて耳を塞いだ。

 嘆きを乗せた、声だった。世界の、悲しみの叫びだった。

 やがて音が遠ざかり、再び静寂を取り戻したころ、私は震える手を下げ、ゆっくりと瞳を開いた。

 ヘリエルが、静かに私を見下ろしているのに気付き、私は思わず呆気にとられる。

「……どうかしたのか?」

「どう、って……今のを聞いて、何も思わない……の?」

 ヘリエルは表情らしい表情を浮かべず、微かに首を傾けただけだった。

「今壊したっていう世界は、悲しんでいた。それを聞いても、何とも思わないの?! 世界の王なら、それを受け止めるべきじゃないの?!」

 思わず声を張り上げた私を、ヘリエルはじっと見下ろしたまま何も言わなかった。

「……悲しいとは、何だ?」

 ヘリエルから紡がれたその言葉に、私は唖然となる。

 何を、言っているの……この、人。

「私は、壊れた世界を受け止めている。新しく世界を生み出すために。それが私の役目。何かおかしいのか?」

「そ……それは、そうだけど。そうじゃなくて……だ、だって、作り出した世界が悲しんでいるのに……それを助けるのが王の役目じゃ……」

「……君ならそうすると?」

 逆に問いかけられ、私は言葉に詰まった。

 私は、家族にも周囲の人たちからも見捨てられて、ここにいる。世界の王になる、といえば聞こえはいいが、結局は生贄と変わらない。

 そして私は、心底故郷を憎悪したのだ。そんな世界が悲しんだとして、私は救いの手を差し伸べられるだろうか。

――無理、だ。そんなの。

 ましてや、ヘリエルはたった一人この場所で世界を管理し続けている。たった一つの世界でいちいち悲しんだりしている場合ではないのだろう。

 悲しみなど受け止めていたら、自分が壊れてしまう。

 ヘリエルは……そんな悲しい強さでここに存在するのだ。

「……寂しく、ないの?」

「何だ? それは」

 さも当たり前に問いかけられ、私は胸が詰まった。

 私が世界を憎悪できたのも、誰かを大切に思い、誰かに大切に思われていたからで……きっとそれがなかったなら、こんなにも黒い感情を募らせずに済んだはずだ。

 今目の前で、理解できないという表情を浮かべたヘリエルのように。

――王は、孤高にして孤独な存在なんだ。

 そして、その孤独さえ知らない、儚い強さで立つ……それが世界の王で。

 世界は、こんなにも脆く出来ていたんだ。

 

◇◇◇

 

 それから、私はヘリエルの仕事風景を眺めて過ごした。

 何か特別するわけじゃなかったけど、それくらいしかすることはなかったから。

「……何か、悩んでるの?」

 ある時、ヘリエルが思考にふけっていた。

 いつもよりその思考時間が長く感じた私は、ごく自然に問いかけていた。

 ヘリエルは視線を寄越し、ぽつりと言う。

「破壊と再生の優先順位を考えている」

「えっと……」

「破壊を続ければ世界はなくなる。再生を続ければ、世界同士がぶつかって無駄な崩落を招く」

 淡々と語るヘリエルに、私は首を傾げた。

「いっぺんに両方は、出来ないんだ? 王でも」

「私の意識と肉体は一つだ」

 それはそうだけど。王は完璧じゃないのか。

 それもそうか。……神様では、ないのだから。

「私、手伝えることあれば……手伝うよ?」

 ここにいて、何もしないままでは、いる意味がない。

 私の提案に対し、ヘリエルは不思議そうな顔をした。

「てつだう?」

「そう。……出来るか、分からないけど。一人で出来ないなら、二人でやればいいと思う」

 ヘリエルはしばし沈黙した後、静かにゆっくりと頷いた。

 ここに居る私には、きっと資格は持ち合わせているとヘリエルも判断したに違いない。

 私はヘリエルに破壊の側を任されることとなった。

 方法をヘリエルに教わったが、言葉にするのは難しく、実に感覚的だった。

 手の中に、世界全てを掌握した感覚……というのが一番近い。

 とにかく、私はヘリエルに見守られながら、初めて王の柱での役目を果たそうとしていた。

 そうして、何度か繰り返すうちに、ヘリエルは新生へと着手し始めていた。

 恐らく一番忙しい時期だったのだと思う。

 ようやく息つくころには、ヘリエルも私も疲れ果てていた。

「大変だね……世界の王も」

 小さく笑いながら、私が声をかけるも、ヘリエルは視線を寄越しただけだった。

「これが仕事だから」

 さらりと答えて、ヘリエルは私に歩み寄る。

 私は戸惑いながら、息を呑んでヘリエルを見つめていた。

「君は……何者?」

 問いかけたヘリエルに、私は思わず苦笑する。

 今更、そんな問いかけをするとは。さすが世界の王は、感覚がずれている。

「……ロゼ。貴方の代わりに、あるいは貴方と一緒に世界の王になるためにきたんだよ」

「そうか。…………ロゼ」

 ふわりと、初めてヘリエルが表情を見せた。

「……君が居たことに、感謝するよ」

 それは多分、世界中で私だけが見た、王の笑顔だった。

 

◇◇◇

 

 それから、ヘリエルとは多くの言葉を交わした。

 ヘリエルも私と同じようにここへ放り込まれた事。

 代々の世界の王の記憶を継いでいること。

 世界の仕組み。

 理解するにはだいぶ時間がかかったけれど、私達には無限と時間はあるから、ヘリエルは根気よく付き合ってくれた。

 ヘリエルも心のどこかでは寂しかったのだろう。話し相手もいないこんな沈黙の世界に一人きりでいるのは、感情を殺すしか、なかったのだから。

 だけど多分、私の存在はヘリエルに希望を与えると同時に……絶望を育ててしまった。第三世代目の世界の終わり……それが、ヘリエルの絶望のなれの果てだったのだから。

「ロゼ、どうしても、分からないことがある」

「ヘリエルで分からなくて、私にどうして分かる?」

 苦笑して、私は返す。

 ヘリエルの淡々とした物言いが、すっかり私にも移ってしまっていた。気を付けていても、やっぱり移るものだな、と頭のどこかで思う。

 だが、私のそんなどうでもいい思考を他所に、ヘリエルは深刻な顔をして視線を伏せていた。

「……ヘリエル?」

「世界は、私が知らない感情に溢れている」

 ヘリエルは未だに感情が薄い。ただ、出会ったころに比べれば遥かに多くの感情を映すようにはなったはずだ。

 そんな自分を、見つめることができるようになったのだから。

「だというのに、何故彼らは奪い合い、殺し合う? 自分たちが助かるために、他を犠牲にする……そんな世界を、私はいつまで守り続ければいい?」

「ヘリエルが悪いわけじゃない」

 そっと寄り添いながら、私はヘリエルに告げる。

 ヘリエルは、世界のひな形を作るに過ぎない。

 あとは、世界が独り立ちをしていく。

 その間に、文明の差は確かに生まれていく。

 高度な文明は世界と言う枠を超え、別の世界へその手を伸ばし、自分たちの世界を満たしていく。消えていくのは、そんな生存競争に敗れた世界ばかりだった。

 ヘリエルには、それが辛いのだ。

 ヘリエルは、どの世界も平等だった。

 何かを大切にするということを理解してしまったヘリエルは、どの世界も、等しく愛していた。

 子供同士が殺し合うようなものだ。同じように愛情を注いでも、結局は強い子供たちだけが生き残る世界。

 親はたった一人だから……弱い子供を守ってくれる存在が、ないから。

「ロゼ……私はもう、疲れた。……この世界構造も、間違っていたんだよ」

「終わらせるつもり?」

 こくん、とヘリエルが頷いた。

 その表情は、痛みに満ちていた。

「でも、このまま次へシフトしても……きっと同じようなことを繰り返す。そうは、思わない?」

「ならどうすればいい?」

 すがるように問いかけたヘリエルの手に触れ、私は微笑んで見せた。

「……ヘリエルが必要だと思ったもの……あって、良かったものを残せばいい」

「私が……」

「そう。王であったヘリエルだからこそ、出来る最後の仕事」

 私の言葉に、ヘリエルは深く頷いて……そして最後の歯車が回り出した。

 

◇◇◇

 

 崩れゆく第三世代目の世界の中で、私はヘリエルの隣にいた。

「私たちは、どうなるのだ? ヘリエル」

「崩れゆく破片と共に、無の空間に堕ちていくのだろうね。……だけど、それでいい。王の記憶は代々引き継がれるものだけれど……こんな記憶、私には要らなかった」

「要らない?」

 問い返した私に、ヘリエルはゆっくりと頷いた。

「私が必要だと思ったものは全て残した。それを使って、どう世界を導いていくのかに期待したい。……私は、過去の失敗を恐れて踏み出す勇気を、忘れていたから」

 無色の実像(アリシア)と夜闇の幻影(エリス)。

 十三世界の議員たちと、ナイトレイの一族。

 輪廻の輪と、王の柱。

 その全てが、ヘリエルの託した希望だった。

「ロゼ……最後まで付き合わせて、すまない」

「構わないよ。私は……ヘリエルと一緒だから、後悔はない」

――私は貴方に出会えたから、世界へ絶望したまま終わらずに済んで……嬉しいと思えたから。

「……ロゼ、私は……」

 言いかけたヘリエルの言葉を掻き消すように、崩落の轟音が私たちを虚無へと飲み込んだ。

 

◇◇◇

 

 どこまでも続く白の世界にロゼは茫然と座り込んでいた。

 どれだけ叫んでも、ヘリエルの姿はない。声すら反響しない、無限と続くこの世界で、ロゼは一人膝を抱えていた。

 あの時と同じように。

 こうしていればヘリエルが帰って来てくれるような気がして。

「そんなわけが、……ないのに」

 呟いて、ロゼは顔を上げる。

 虚無の世界は、希望を願い続ける永遠の地だ。死と言う恐怖から解放された、閉ざされた希望を繰り返すだけの永遠の場所。

 それは幸福と言えるのか、ロゼには分からない。

「……私は、夢さえ見られないのだな……」

 ヴァニティで見る夢は、魂が共鳴して見ることができる。

 ロゼは生きていても、魂がどこにも共鳴できないために、この世界の夢へ浸ることさえできない。

 同調できる魂が、どこにもいないから。

 ロゼは絶対的な孤独に放り込まれたのだ。

「私はもう、一人きりなのだな……ヘリエル」

 抱えた膝に、顔をうずめてロゼは呟いた。

――世界は代わってしまった。ヘリエルの望んだ変化かどうかは分からないけれど、世界は続いている。だけどヘリエルがいなくなった世界で、私は何を支えにすればいい……?

「私は…………どこへ、帰ればいい?」

 もう、家族どころかロゼのいた世界は存在しない。

 たった一人だった。

 ヘリエルを覚えている者がどれだけいるのだろう。

 ロゼにとって、たった一つの支えだった存在を、誰も覚えていない今の世界。

 また孤独に戻ってしまった。

 あの白い世界で、世界の全てを憎悪した時と同じ。

 ヘリエルにまで見捨てられたのかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうだった。

「どうして、私は生きている……? ヘリエル、どうして……」

 どうして、私を一人残して逝ってしまった?

 問いかけたくても、届かない思い。渦巻く問いが、じわじわとロゼの心を痛めつける。

「私は……どこに、いればいい……?」

「ロゼが望む場所でいいと思う」

 不意に聞こえた声に、はっとロゼは顔を上げた。

 そこにいたのは、紺のブレザーにベージュのコートを羽織った、黒髪の少年……現在の世界の王、六連すばるだった。

 小さく微笑んで、すばるはしゃがみこむとロゼと視線の高さを合わせ、言う。

「……ロゼは、どこにも属してない。だけどそれは裏を返せば、どこにでも行けるってことだと思うよ」

「どこへ、でも……」

「うん。俺、ロゼの事情はよくわからないけど……ロゼが今も生きてるってことは、それを願って守ってくれている誰かがいるってことだと思うから」

 すばるの笑みに、ロゼはふと、最期のヘリエルの姿を思い出す。崩落の中、ヘリエルが告げた言葉を。

「あ…………ぁ……」

「……ロゼ?」

 あの時、ヘリエルの言っていた言葉が、ようやく聞こえた。

――私は君が、一緒にいてくれて、幸福だと思う。だからロゼ。君は今度こそ、幸せな世界で生きておいで。

 世界の王が最後まで失わなかった愛情が、ロゼの心にようやく届く。

 染み込んだ言葉が、鋭い痛みとなって体中を駆け巡った。

 捨てられたんじゃなかった。絶望を抱えていた自分を、最後に幸せを願って送り出してくれた。

 自分の存在を……感謝してくれた。

「私は……っ、ヘリエルと、一緒に生きたかった……! 一人じゃ……なく、て」

――二人で、一緒に笑ってまだ見ぬ青空を見たかっただけなのに。

 ぼろぼろと零れ出す涙を抑えきれず、顔を覆って嗚咽するロゼに、すばるはおろおろと視線を彷徨わせる。

「だい、じょうぶ……だから」

 恐る恐る、すばるはロゼを抱き寄せた。

「……俺は、ロゼが幸せになれる世界を、頑張って作るよ」

 すばるは、全ての事情を知っているわけではない。

 それでも持ち前の優しさで全てを背負う覚悟だけは、持っているのだ。その優しさが、ロゼに伝わる温もりそのもので……先ほどとは別の涙が、ロゼの瞳から零れ落ちる。

「一緒に帰ろう、ロゼ。……一緒に、ロゼの幸せを見つけよう」

 こく、とロゼは頷く。

 どこにも帰る場所などないかもしれない。それでも、ロゼは差し伸べられたすばるの手を拒絶出来なかった。

 否、したく、なかった。

 この手は、ヘリエルが残した希望で……ロゼに与えられた、初めての優しさだったから。

――ぱぁん、と真っ白な世界に亀裂が入り粉々に割れて崩れた。

 

◇◇◇

 

「……すばる?! どうして……」

 溶け出すように姿を現したすばるに、ジノが驚いた声を上げる。すばるは気を失ったロゼを抱いたまま、曖昧に笑う。

「えっと……なんとなく」

「そんなの理由になるか?!」

 呆れた、と込めたジノの言葉にすばるは苦笑いを崩さなかった。あるいは、それ以外適切ではないのかもしれない。

「ロゼさん、大丈夫ですか?」

 ネシュラが歩み寄って問いかけると、すばるは頷いた。

「うん、大丈夫。怪我とかはしてないから。頼んでいい?」

「はい。王……記憶は見つかりましたか?」

 ロゼを引き渡して、すばるは首を振った。

 表情を曇らせたネシュラの肩をぽんと叩き、すばるは明るく笑って見せた。

「大丈夫。俺は一人じゃないから、世界を守れる。だからこそ、記憶がないのかもしれないしさ」

「王……」

「さぁ、帰ろう。ロゼの魂の糸は、俺が繋いだから大丈夫。シスの怪我も、そろそろ限界だろうし」

「よろしいので? 王」

 再度確認をとったココルに、すばるは頷いて見せた。

 

――夢は、永遠じゃない。いつか醒めるものだから、と。

 

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