第13話 戦略的療養計画 

 

この街は平均気温が低い。日の出も遅いし日の入りも早い。昼より夜が長くて、太陽より月の下でいるほうが多い。

そして、この時期は雨が多くて、重い雲がずっと街の上を覆ってる。

洗濯ものの乾きが悪くて、何だかじめっと気分まで重くなる。そんな、季節。

でも。

「んー……熱は下がってきたな。気持ち悪くないか?」

先生の声に、僕はぼーっとする頭で頷いた。

ふっと先生が優しく笑って、くしゃっと頭を撫でてくれる。

それは、反則です。

「じゃあ、午後の診察してくるからな。何かあったら、ナースコール鳴らせよ?」

右側の枕もとに操作ボタンを置いて、先生は白衣を翻して部屋から出て行った。

あぁ……先生行っちゃったぁ。

ポアロさんの蛇に咬まれた毒で寝込んじゃうことになったけど、先生が面倒見てくれるから悪くないかなぁ。

僕は、自室じゃなくて、何かと設備の整ってる病室で寝かされていた。

殺風景で、何か寂しいけど、先生の仕事を考えれば、これが一番いいのも、分かってるし。

ナースコール押したら、先生は飛んできてくれる。

……用もなく押したら怒るかなぁ。

うー……、やだな。こんな気持ちを抱えてるのは、良くないのになぁ。

「はぁ……」

「ため息と吐くと、幸せが一つ逃げると聞いたことはないかい?」

……は、い?

そろそろと視線を右から、左へ移す。

真っ白なスーツに、さらさらのブロンド。静かな湖畔を映したような青い透明な瞳と、目が合う。

そしてその背中に輝く白い羽根。

「サタンさん……?」

天使のサタンさん。前会った事がある天使さん。

人の魂の道案内が役目の天使……咄嗟に僕はナースコールを押していた。

数秒遅れて、激しい足音と共に。

「エコデどうしたっ?!」

「エコデさん!?」

あれ、何でビクサムさんいるのかな?

しかも花束持ってるし。

サタンさんは晴れやかな笑顔で先生に……

「性懲りもなくお前はぁぁっ!!」

何か言う前に、床に蹴倒された。

「おい。エコデは早いだろ。な? 俺でも感知してねーぞ?」

「ははは、相変わらずだね、リリバスさん」

「ご無事ですかエコデさ」

僕に駆け寄ろうとしたらしいビクサムさんは、何にもないところで転んで、激しい金属音と花弁を病室に撒き散らして、静かになった。

気絶した、みたい?

「せ、せんせ……」

一苦労しながらやっと体を起こす。

床に倒れこんだサタンさんの胸辺りを踏みつけて、睨み付けてる先生が見えた。

先生、かっこい……じゃなかった。

「ご、ごめんなさい。つい……呼んじゃいました」

「いや、エコデは正しい」

「で、でも……」

サタンさん何もしてないですよ?

それに、僕を迎えに来た、って一言も言ってないし……。

でも、そうだったらどうしよう。僕死んじゃうのかな? そんなのは、やだ。

「まぁまぁ、落ち着こうじゃないか。迎えに来たのは確かだけど、彼じゃないよ」

「じゃあ誰だ」

「分かっているんだろう? キミは」

踏みつけられながらも、笑顔を見せるサタンさん。

先生は苦しげに表情を歪めて、サタンさんを踏みつけていた足をどけた。

僕には、その意味がよく、わからない。

「先生……?」

先生は無言で歩み寄ると、乱暴に頭を撫でる。

ちょっと痛いです。

「ゆっくり寝てろ。ナースコールは遠慮すんなよ」

頷いては見たものの、先生が何だか酷く寂しそうな顔をしているのが、引っかかった。

するっと先生の手が離れる。

先生はぱたぱたと服の埃を叩いていたサタンさんの襟元を掴んで、そのまま有無を言わせず連れて行った。

良く、わからないけど。

何回か無意味にナースコール押してもいいかな。

駆け込んできてくれた先生、かっこよかったぁ……。

「あ」

ビクサムさんが床に伸びたままだった。これは、押すしかないよね。

ぽちっと。

ナースコールを再度押すと、先生はさっきと同じで駆け込んできてくれて、ビクサムさんを面倒そうに引きずって行った。

 

◇◇◇

 

……なんか、くすぐったい。何だろ、微妙に冷たいし。頬に触れる、この感覚ってどこかで……

「あ、起きた」

目を開けると、うねうねしてる、青白い細長いもの。

確か、これ……ポアロさんの蛇っ?!

「大丈夫。噛まない」

でもあの、頬を蛇の舌先が這ってます! 怖いですっ!

硬直する僕に、仕方ない、と呟いて、ポアロさんは蛇頭を適当に紐で一つに結んだ。

蠢くポニーテール……恐怖映像以外の何物でもないんですが。

「具合、どう?」

「えと、大分、いいです」

先生が看てくれてるから。むしろ幸せ……かもしれないです。

ふとポアロさんは表情を緩めた。

「よかった」

あ……心配してくれてたんだ。

すとん、と傍らの椅子に座って、ポアロさんはじっと僕を見つめて来る。

な、何だろう。どうしたらいいんだろう。

「天使、知り合い?」

天使、っていうとサタンさんかな?

「リリバスと話してた」

「あ……お茶……」

出さなきゃ、駄目だよね。

すっとポアロさんが、僕を手で制した。

意味が分からなくて戸惑う僕に、ポアロさんはさらっと言う。

「私がやった」

「そ……そ、ですか……」

複雑。それは普段、僕がしてることだから。

でも、ポアロさんは何だかむすっとした表情を浮かべていた。どうしたんだろ。

「でも、リリバスが捨てた。まずいって」

せ、先生……それは、酷いです。

折角ポアロさんが協力してくれたのに。

「リリバス、この所機嫌悪い。……食事、機嫌に影響大」

食事? そういえば、先生ちゃんと食べてるのかな。

僕は点滴だから、気にしてなかったけど。

「早く、元気になれ」

「あ、はい……ありがとうございます」

「そしたら」

え?

ポアロさんは、何だかすごく楽しそうな笑顔を見せた。

初めて見たけど、可愛い感じの笑顔。

「対等に勝負」

勝負、って……

何の、って考えるまでもなく。

僕は咄嗟に布団の中に隠れた。

くすくすと笑うポアロさんの声に、余計に恥ずかしさが増幅する。

対等なんて存在しないじゃないですかっ!

僕がポアロさんに勝つなんてことは、世界がひっくり返ったり、生まれるところからやり直さない限り無理です!

「大丈夫、エコデ」

ぽす、っと布団の上からポアロさんが僕を叩く。

そろそろと顔を出すと、苦笑するポアロさんが、自分の頭を指していた。

「私は、これがネック」

……それは、そうかもですね。

何だか、妙な仲間意識が出来てきてるかもしれないです。

それもこれも、全部先生がみんなに平等に優しくするのがいけないんですからねっ!

 

◇◇◇

第14話 遥かな空の果てまでも、キミと飛び立つ

 

サタンを見た瞬間、俺の体は基本的に、反射で動く。

しかもエコデの傍らに現れた瞬間には……尋常じゃない焦りが俺の中に生じた、というのは本人には秘密だ。

何かこっぱずかしいから。

「うん、このインスタント丁度いい薄さだね」

悪かったな! エコデがいないと俺は分量も湯加減も分からないどーしようもない野郎だよっ!

この天然系天使、本気で俺とは合わない……。

飯食ってないのも災いして、苛立ちが半端ないな。

早く回復してくんないかな、エコデ。

でもいつも頑張ってもらってるし、俺が頑張るターンなんだよなぁ。

にこにこしてるサタンに苛立ちがMAXまで溜まる前に、俺は問いかける。

「で? 何でエコデの前に」

「はは、いや湿気ると飛べなくなるからね。偶然、窓の鍵が開いていたのがちょうどこの診療所だったわけさ」

きらきら星が飛び交う笑顔に正拳突きを喰らわせたい。

マジで繰り出したいが、我慢だ。

「僕が言うのも変だけれど、不用心だよ、リリバスさん」

「ほんとになッ!!」

そこから侵入したお前にだけは、言われたくないわ。

サタンはスーツの内ポケットに手を入れ、すっとそこから一枚のカードを取り出した。

そして、それを机の上に置き、俺の前へ。

白地に、青い囲いの入った紙製のカード。表面がきらきらと光って見える。天使の羽根と同じ光り方。

そのカードには、名前と時刻が書かれていた。

それが、俺の心に、深く突き刺さる。

くしゃっと、俺は前髪を掴んで俯いた。

「……覚悟は、さ。してんだけどな。俺、一応医者だし」

「そうだね。今更リリバスさんに伝えるのも、失礼な話だった」

「いや、助かる」

前髪を掴んでいた手を離し、俺は心配そうな顔をしている殿堂入り美麗天使とやらを見やった。

折角の美貌が台無しだな、サタン。思わず苦笑する。

「時間は、あるんだな。まだ」

「そうだね。僕も、彼には世話になった身だ。だから……甘さが出てしまうのかもしれないね」

「お前の話はあれ以来何回か聞いたよ。……いっつも同じことしてるだろ」

サタンは苦笑を返した。

こいつ、相当な甘ちゃんだよな。まぁ、……いいか。

視線を再度、サタンの差し出していたカードへ落とす。

「最後に何か、してやらねーとな」

ギフォーレ爺さん。あんたとの付き合いも、ここまでになるんだな。

 

◇◇◇

 

サタンはギフォーレ爺さんのところへ顔を出すと、雨の中徒歩で出て行った。

流石に哀れなので傘を貸そうとしたら、羽根が入らないから無用さ、とか訳の分からん理由でもっていかなかった。

いやな、サタン。傘は羽根を雨から守るためだけにあるわけじゃないんだが。

まぁ、あいつも大概馬鹿だから、聞く耳は持ってないけどな。

「さてと。どーするかな」

「リリバス。私、帰る」

エコデの見舞いに来ていたポアロの声に、俺は振り返った。

ポアロは何やらうすら寒い笑みを浮かべている。

何か、怖いな。取って食われそうなんだが。

「また来る」

「あ、……あぁ……うん」

ご機嫌な様子で出て行ったポアロを見送り、俺は身震いした。

なんだろ。凄い怖いものを見てしまった気がする。

診療所入口の扉を閉めて、俺は深く息を吐き出した。

「……先生?」

振り返ると、まだぼんやりした顔でエコデが顔を覗かせていた。

寒そうに、カーディガンを肩に羽織って。

「エコデ、まだ寝てろ。熱が下がってないだろ?」

「だいぶ元気になりました。えっと……お腹すいたなぁ、って」

はにかむエコデに、俺は表情が凍り付く。

……マジか。俺にそれを期待するか、エコデ。

俺に何か作らせたら、黒焦げか、どろどろに溶けてるか、色味が明らかに怪しいか、基本的に食材が原形をとどめていないんだが。間違いなく腹を壊す。それでも良いというのか?!

ていうか、俺は嫌だぞ。そんなの病人に食わせるのは!

ぎこちない笑顔で誤魔化していた俺に、エコデはくすっと小さく笑う。

「だと、思いました。ご飯、作りますね。簡単なのですけど」

「いやいやお前は寝てろって! 頑張って俺が作るから!」

「先生、作れないでしょ」

返す言葉もない俺に、エコデはまだ元気なさそうな笑顔を向けた。

「ほんと、困った先生です」

すみません、エコデさん。お手数おかけします……。

 

◇◇◇

 

空腹って最高のスパイスだ。

かつてもそんなことを思ったことがあったけど、何だろうな。

それを越える感動がここにある。

「すみません、先生……これくらいしか出来なくて」

「いやいい。最高。胃に染みる……」

卵雑炊を作ってくれたエコデがこんなに輝いて見えたことない。

まだ苦しそうなのが、何か申し訳ないけど。

「……先生、聞いて良いですか?」

「んー、どした?」

診療件数は聞くな。

エコデの見舞いに来た野郎は湧き出る蛆虫のごとく大量に来たが、肝心の稼ぎはゼロなんだ……!

エコデは微かに首を傾げて、問いかける。

「サタンさん、誰を迎えに来たんです?」

俺は思わず手を止めた。

エコデも、天使の仕事は分かってるはずで。

ましてや、自分の隣に居られたら気が気じゃないよな。

「エコデじゃないから、安心しろ」

「答えてください」

強い口調で問い詰めたエコデに、微かに俺は怖気づく。

何だか、誤魔化しは認めないって目で訴えて来た。それにはどうも、逆らえない。

「……ギフォーレ爺さん。……明後日の二時」

エコデは微かに目を見張ったが、取り乱したりは、しなかった。

何か、そういう時強いよな。エコデは。俺はサタンが来た時点でパニックになるってのに。

「……先生、何か手伝えること、ないですか?」

「え?」

唐突な申し出に、俺は面喰う。

エコデは俺をじっと見て、答えを待っていた。

「先生は、何かしてあげようって、考えてるでしょう? ……その手伝い、させてください」

「エコデ……」

まだ自分だって熱で辛いだろうに。

気を使わせるなんて、俺はまだまだ、駄目だな。

だけど、その気持ちは正直有難い。俺には頼れるやつって、少ないから。

「ありがと、エコデ」

俺以上に嬉しそうに笑ったエコデには、何か敵わない。

 

◇◇◇

 

けどなぁ、何をしてやればいいんだろうな。俺と爺さんって、結局患者と主治医の間柄だし。

それでも、何か悲しくなるのは……なんでだろう。

俺が死んだときも、あの時の先生は、悲しんでたんだろうか。

……なんか、そんなこと今まで考えたことなかった。

俺は、やっと楽になれるなぁ、とか思ってたのに。残される人の気持ちって、こうなんだな。

俺の生前の主治医の先生は、若かった。インターン終わったばっかり、初心者マークが外れたばっかりの、そんな感じの先生。なのに俺に当てられちゃって、随分苦労したんだろうな。

俺は夜中に何度も危篤状態に陥った。その度、先生は必死になって処置してくれた。

何か、その気持ち、今なら少しわかるかも。

……そう、か。

俺が、一番爺さんの気持ちを分かるんだ。

俺が、死ぬ間際に思ったこと。死ぬ直前に、したかったこと。それはきっと、一番近い答えだ。

うーん。俺が、先生にしてほしかったこと、なぁ。

「先生、思いつきました?」

ベッドの上に半身を起して、ホットミルクの入ったカップを抱えて居るエコデが問いかけた。

俺は曖昧に笑って、頭を掻いた。

「うーん……思い出してみては、いるんだけど」

「僕も考えましたけど、思いつくのって一つしかないです」

「え? なになに?! 参考に!」

食いついた俺にエコデは困ったように視線を伏せた。

何だ? 言いにくい事なのか?

……はっ!

「まま、まさか俺の秘蔵コレクションをじーさんにやろうってんじゃ……!」

「まだ隠してたんですか、先生」

おぉ、弱ってるエコデのその冷たい目も悪くないな!

あれ、俺最近変態レベルが上昇してる気がするけど……まぁ、いいか。

エコデは小さく息を吐くと、ぽつりと告げた。

「イフェリアのシフォンケーキです」

「あぁ、なるほど。あのシトラスシフォンは俺と爺さんの戦いの歴史そのものだからな……」

その苛烈にして華麗なる歴戦こそが、爺さんと俺の戦友の証だ。

今でも瞼の裏に思い出せる。財布から金を取り出し、店員に渡すまでのコンマ一秒の世界を争った日々を。

あれほどの僅差で勝利をしたことを、俺は一生忘れることはないだろう。

「でも……今は、季節じゃないんですよね」

「あー……あれ、季節限定だからなぁ」

「だから、別のを考えなきゃ、駄目ですね」

そうでもないぞ?

シトラスシフォンの原料さえ分かれば、何とかなる。

季節限定、というあたり、恐らくその季節の果物だろうな。裏ワザで簡単に手に入る、けど。

それを使ったら、俺は自分の能力に甘えてることになるよなぁ。

エコデにもどう説明していいやら。

残念な事に、この世界は中途半端に科学が発展している。

ミサイルや自動車はあるけれど、ハウス栽培や養殖魚は、存在しない。お陰で店先に並ぶ生鮮食品はいつでも旬のものだ。

……つまり天然物は、今の時期存在しない。

「でも、ギフォーレ爺さん、あんな高齢でも甘いもん好きだよな。俺、尊敬してるよ、そういうとこ」

「先生の甘い物好きも、晩年まで続くといいですね」

続かせて見せるぞ?

俺、生前は基本的に美味いものを食ってこなかったから、今回の人生は美味いものを食って、老衰で死ぬのが目標だからな!

「……ていうか、考えて見れば、俺と爺さんってそれしか接点がないな」

「逆に、そういう接点があるって珍しいですよ? だって先生はお医者さんで、来る人はみんな患者さんですし」

それは確かに。うーん、と唸る俺に、エコデは笑顔を向けた。

「先生がそこまで考えてくれるなんて、ギフォーレおじいちゃんも、嬉しいと思いますよ」

「……どーだかなぁ」

「前に、言ってました。ギフォーレおじいちゃんにとって、先生って孫みたいなもんなんだって。……ほら、お孫さん、遠くに暮らしてるらしいから」

初耳だ。受付でエコデは、そうやって患者とコミュニケーション取ってるのか。

俺が知らなくて、エコデが知ってる情報もあるんだ。

「孫、なぁ……何か、……うん」

くすぐったい、そういうのって。

でも、孫なら……何でもないふりして、いつも通りにしてやるのが、きっといいんだよな。

「っし。じゃあいっちょ奮発してやっかな!」

季節外れだなんて、気にするな。俺には俺なりの、爺さんへの最後の贈り物を、してやるか。

「エコデ、お前シフォンケーキ作れるよな?」

「え? は、い」

「手伝うから、作ってくれ。爺さんに、最後の美食だ」

目をぱちくりさせるエコデの頭をわさわさ撫でて、俺は笑った。

材料もレシピも、俺に取り敢えず任せとけ。

 

◇◇◇

 

イフェリアを遠隔透視してレシピを模写。材料はちょこっと時間を歪めて最低限の分を調達。

正直、こんだけ私情で能力使うのは気が向かない。俺はこの無駄に付加された能力を、あんまり活用しないで、平穏に生きていたいから。

エコデは、材料とレシピをそろえた俺を若干不審がったけど、すぐに作成に取り掛かってくれた。

手際がちょっと危ないから、材料を図るのとか、切るのは俺が引き受けて。

流石に材料の加え方とか、混ぜるのとかはエコデに任せた。そういう微妙な所は、むやみに手を出すと後が怖い。

大体俺はそこで失敗するし。

「はい、先生、これ」

そうして完成したシトラスシフォンを綺麗にラッピングしてくれたエコデには、感謝しても、しきれない。

本当なら、エコデも一緒に行かせたい。でもまだ熱もあるしな。

「ごめんな、留守番頼む」

「いいえ。……行ってらっしゃい、先生」

「ん。行ってくる」

そうして、俺はやっと雨の止んだ夜の空の下へ踏み出した。

湿った匂いがする、薄暗い町。せめて、明後日は晴れるといいな。

 

◇◇◇

 

爺さんの状態を、一番理解してたのは、俺だ。

そして、人が通常死ぬ間際になる状態を一番知ってるのも、俺だった。

それでも、俺は医者を選んだ。最初は気まぐれだったけど、それでも俺はこの街で、医者として生きる道を決めた。

そしてこれは、医者としての通過儀礼。

ありがとな、爺さん。俺の最初の看取りが、ギフォーレ爺さんで良かったよ。

もう、爺さんは意識がない。サタンは家族の誰にも見えないように、結界張って、眠る爺さんの傍に立っていた。

きっともう、爺さんがシトラスシフォンを食べてくれることはないだろうけど。

それでも、俺は家族にそれを渡して、帰路についた。

……そして、約束の日は、良く晴れた日だった。

 

◇◇◇

 

快復したエコデとギフォーレ爺さんの葬式に参列した、帰り道。

俺とエコデは無言で歩いていた。

遠くで見送りの鐘の音が聞こえる。

何だろうな、複雑な気持ちだった。

人はいつか必ず死ぬ。通常、年齢の順に。でも、じーちゃんより俺は先に死んじゃったんだよな。母さんと父さんよりも先に。すっげー、親不孝もんだな。今更、痛感する。

何だかすごく、気が重くなる。

ギフォーレ爺さんの家族は、俺にありがとうと頭を下げた。最後を見てくれたことと、病気を見てくれていたことに。俺が医者として、ちゃんと対応してくれたことに。

「……俺は、医者に向いてないな」

ぽつ、と呟いて俺は自分で傷ついた。

ちゃんとやっても、救えないものは救えない。俺の望む、老衰って本当に幸せなのか、よく分かんなくなってきた。

「……先生」

「ん?」

そっと俺の腕に触れて、エコデは心配そうな目を向けていた。

「先生は、先生のままでいいですよ」

「え?」

「医者だから、患者さんと距離を保とうとか。……そんな器用な先生じゃ、ないですよ」

それは言えてる。

俺は自分でも思うけど、生きるのが下手だしな。

そして、エコデはいつもみたいに、ふわっと笑う。

「先生が先生らしく居られるように、僕がちゃんと美味しいご飯作りますからね」

人間の三大欲求の一つ。死んだらなくなる、大事な欲望。

俺の大事な生き方の一つだ。

「じゃあ俺、今日は久々に、シチューパンが食いたい」

「はーい」

俺は、今度はちゃんと、順序を守って生を終えなきゃなぁ。それがせめて、前世への罪滅ぼしだ。

やっとたどり着いた我が社の入口。少しは、この診療所も役に立ってんのかな。

そして扉を開けると、

「ふぉふぉふぉ、今帰りかの。戴いとるよ、先生」

俺しか見えないギフォーレ爺さんが、凄く嬉しそうにシトラスシフォンを食べながら、受付の椅子に座っていた。

ほんと、爺さんは甘いもんが好きだな。

思わず、足を止めてしまう。

「先生、どうしたんですか?」

不思議そうに首を傾げるエコデに、俺は首を振った。

「何でもない。また今度、季節が来たらシトラスシフォン作ろうな、エコデ」

「あ、そうですね。味見もしてなかったし」

心配いらんぞ、美味い美味い、と嬉しそうな爺さんがエコデにも見えればな。

死んでも甘党か。やっぱギフォーレ爺さん、あんたは俺の尊敬する本物の甘党だよ。

でもまぁ、俺は総入れ歯にはならない人生を送る事にしよう。

 

◇◇◇

第15話 delinquent

 

休日に当たる金曜日。休日の過ごし方は割と決まっていて、大抵はエコデと買い出し。

俺の重要ミッションは来週の献立についてのアドバイスと、荷物持ち。誰に代えることもできない、俺に与えられた過酷ミッションだ。

……なのに。

「先生、何か食べたいのってありますか?」

少し派手な色合いの食材が並び始めた八百屋で、エコデが振り返った。

さらっと空色のショートカットが遠心力で広がる。

そのすぐ隣で。

「そうじゃのぉ、やっぱりこの時期ならスイートポテトが食いたいのぉ」

腰の曲がった爺さんが、寝言をぼやいている。

「そうだな。俺、栗の」

「スイートポテトが食いたいのぉ」

若干声を大きくする爺さん。ていうか、それ俺にしか聞こえないんだよ!

ったく……何だその、寂しそうな眼は。勝てるわけねーだろーがっ!

「先生? どうかしました?」

「……スイートポテト食いたいです」

棒読みで告げた俺に、エコデはくすっと笑った。

そのすぐ隣で、年甲斐もなくガッツポーズなんてしてみせる爺さん。

別に、爺さんのためじゃないからな! 俺だって、スイートポテトが好きなだけだ!

「じゃあ、今週のお楽しみデザートはそれにしますねー」

中身がばれててお楽しみとは笑わせる、とか思った奴出てこい。

このお楽しみは、エコデがいつ作り、いつデザートとして出してくれるか分からないから、お楽しみなんだ。

目の前に人参吊られてる馬と一緒。

ん? てことは……俺は馬と同格か?

まぁいいか。それよりは。

「楽しみじゃのぉ、楽しみじゃぁ」

ほくほくと嬉しそうな顔をしている、ギフォーレ爺さん。

いつまで居る気なんだ。

 

◇◇◇

 

爺さんの葬儀から、早一週間。

あれからずっと爺さんは居ついている。

サタンがいい加減引き取ってくれればいいのだが、何故かサタンはあれから行方をくらませている。

爺さん曰く、別件で至急向かわなければならない用件があるとのこと。

それまで預かってろというらしい。別に、それはいいんだが。せめて静かに、見えない居候として慎ましく過ごしてくれないだろうか。

特に。

「いいのぉー、わしも食いたいのぉー」

食事時にべったり横に張り付くのはやめてくれ。鬱陶しい上に、食べにくい。

エコデは見えないから、俺だけの苦労。

いつか暴れたらすまん、エコデ。だが、俺は気が狂ったわけじゃないんだ。

せめて冤罪で女子高生から痴漢と間違われたサラリーマンを見るような、冷たい視線を向けてくれたら本望だ。

何とか爺さんの存在を肘で突き返しながら黙殺し、俺は夕飯を終える。

皿の隅に残しておいた赤い悪魔は、エコデに見つかる前にさらっと消去。

「エコデ、俺ちょっと出て来るな」

「え? でも、もう外、暗いですよ?」

さも当たり前のように真顔でエコデは返した。

いや、俺、子供じゃないからな? エコデより年上だから、そういう心配のされ方は悲しいんだが。

せめて、夜の街は駄目ですよ! とかだったら分かるけど。

まさか、俺にはそんな度胸がないと言いたいのか、エコデ……!

「夜は悪魔とお化けの街ですよ。危ないです」

「な、何その可愛いんだかホラーだかわかりにくい響き?!」

エコデの口から語られるだけでファンタジー感満載だな。

俺の戸惑いを他所に、エコデは大真面目な顔をしていた。

あ、マジなんだ。マジでそういう心配してくれてるのか。

可愛いところがあるよな、エコデは。

どうせなら、たまに我が社に降臨する食卓を脅かす悪魔も妨害してくれると有難いんだが。

「行くんですか……?」

若干の上目づかいで、診療所にやってきた男たちを何人撃ち落としてきたか。

だが俺は慣れてるからな。それには引っかからない。

「エコデに心配させたくないしな。やめとくか」

「はい! じゃあ、果物切りますねっ!」

ぱっと表情を輝かせて、食器を片しに行くエコデの背中を見送る。

断じて引っかかったわけじゃない。

これは戦略的撤退だ。戦略であり戦術の一つなんだ!

 

◇◇◇

 

ぼふっと背中からベッドに沈むと、その弾力に緊張が解れる。

俺、結構この瞬間が好きなんだよなぁ。

「はー、今日も俺は生きてるって実感したぁ」

「安い実感じゃのぉ、先生」

ふぉふぉふぉ、と笑うギフォーレ爺さん。

何か、俺のちょっと前の苦悩を返してほしい……。

まぁ、安いかもしんないけど俺にとっては食事が一番生きてるって感じるんだよな。

美味いもんを作ってくれるエコデには感謝だ。

「ていうか、爺さんいつまで居る気なんだよ?」

「そりゃあ、サタンが来るまではのぅ」

マジか。早く来い、俺の天敵。大魔王の名を冠した天使。けど考えようによっては、チャンスか?

「爺さん、しばらく留守を頼んでいいか?」

「ふぉふぉ、夜遊びか。先生も若いのぅ」

「そんなんじゃねーし……」

むしろそれがバレてエコデにまた飯抜きを喰らうリスクは回避だ!

男としてどうかと思うけど、こればっかりは命には代えられない。

「エコデを頼むな、爺さん。なるべく早く戻る」

「行くがよい行くがよい」

すっげー不安だけど。行くしかないからな。マジで後は頼んだ、爺さん。

 

◇◇◇

 

昼間は医者、夜は別の顔。 何かちょっと安っぽいドラマの設定っぽい。

いや、どうせならドラマみたいに颯爽登場! とかしてみたいけど。

俺には向いてないから、無理はしない。強がりなんかじゃない。絶対ないっ!

「あー、いたいた」

ひょいっと路地裏を覗き込んで、やっと見つける。薄汚れた茶色の猫を抱いて、壁に背を預けて蹲ってる女の子。

俺は迷わず歩み寄って、女の子の脇に立った。

「!」

俺の気配に気づいたのか、吃驚した様子で顔を上げる女の子。エコデと同い年くらいか?

その目に、俺が映る。俺は表情を緩めて、女の子の頭を撫でた。

「よしよし、さぁ、行くか」

「あな……た、私が……見えるの?」

「おー。見えるし触れるし、聞こえるぞ」

ぱちぱちと目を瞬かせる女の子。

腰まで伸びた茶色のおさげに、近所の学校の制服。眼鏡があれば完璧なんだが。

ま、何事も完璧は美しくないよな。

「さ、行くぞ。いつまでも留まったら、悪霊化する率が上がるからな」

「誰が悪霊よ! 失礼ねッ!!」

その子はすっくと立ち上がると、俺の爪先を思いっきり踏みつけた。

唐突な衝撃に、俺は声もなく震える。

な、何で?

「あら? どうして物理攻撃が効くの?」

それは俺が聞きたい。何だ、この子。その子は顎に手をやってしばし思考した後。

「もしかして、私が天才的過ぎるからなのかしら……」

ああ、そうかも。

この子、『天災的な』悪霊かもしんない。いるんだよな、たまに。こーいう悪霊……。

「なら!」

は?

唐突に、その子はくるっと俺に背中を向けた。

ついでぽいっと抱いていた猫を放る。

猫は少女の手から離れると、音もなく消失した。

「お、おい?」

「ふふふふふ……そう。そうよ。私は悪霊」

おさげが不気味に揺れる。

あ、この子ヤバいタイプだ。どっちかって言えば、サチコが好きなタイプの悪霊。

俺は立ち上がって、少女の肩を掴んだ。

「まぁまぁ、落ち着けよ」

「あ、触らない方がいいですよ」

忠告にわずかに遅れて、

「あ……っつ?!」

あまりの熱さに手を離す。

思わず自分の掌を見て……絶句。

掌の皮膚が焼け焦げ、べろっと捲れ、肉を覗かせていた。重度火傷。

マジか。俺、医者じゃなかったら卒倒してたかもしんない。

「私、忠告しましたよ」

顔を上げると、頬を膨らませてみせる悪霊少女がいた。

いや……悪霊じゃなくて、そこらの生きてる女子高生ならまだ、可愛げがあるんだが。

ぴりぴりするし、微風でも叫びたいくらい、痛い。

だけど俺は成人男性だから。ぐっと我慢。

「とっとと成仏しろ。いつまでも現世に縛られても、意味はないだろ」

「あるわ!」

ヒステリックに悪霊少女が叫んだ瞬間、じりっと空気が熱を持った。

咄嗟に防御結界を張ってなかったら、顔が火傷してたな。

危ない奴。

キッと悪霊少女は俺を睨み付け、苦々しく吐き捨てる。

「ずっと、私はあの人を見てたのに。あの人は私の事なんて、微塵も気に留めてなかった……」

げっ……レイラと同じタイプか。

面倒なのが悪霊化してるな。

こんな事なら、サチコが居る時に頼めばよかった……。

今更俺は、後悔する。

「私のこの火傷するくらい熱い思いを受け取ってくれるまでは、諦めないわ……!」

超前向きな悪霊。

正直珍しいが、流石悪霊だ。恐らく焼死体を作れるだろうな。

ぐっと拳を握りしめて宣言する悪霊少女に、俺は冷めた目を向けてしまう。

あー……手のひらから血が滲んできて痛い。

「ちなみに、何て振られたんだ?」

俺の問いかけに、悪霊少女の周囲がびきっと停止する。

やば、直球過ぎたか? シールド出力を上げて、俺は少女の攻撃に備えた。

「……な……わ」

ぽそっと全然聞こえない声で、呟いた。

なんつった?

耳に手を添え、若干身を乗り出すと。

「ここ告白さえしてないわよっ!!」

「うぉあぁっ!」

ぶおわっと火炎旋風。

慌てて俺が消去しなかったら、この周囲一帯が火の海と化すところだった。

危ねっ……こいつマジで危ない。

なのに、何で乙女よろしく顔を真っ赤にしてスカートを握りしめるんだ。恋する少女か、お前はっ。

「……たく、しょーがねーな」

「何よ」

「結果は知らねーけど、告白だけでもしてみるか?」

「え」

「生き返るわけじゃないけど。……満足したら、お前だって次へ進めるはずだしな」

俺の提案に、悪霊少女はじっと俺を見つめる。

燃やし尽くされそうな恐怖を堪えながら、俺はその視線をきちんと受け止めた。

受け止めざるを、得なかった。本気出されたら、俺……負けそうだし。勝てない戦はしない主義だ!

「……付き合ってあげなくもないわ」

そりゃどうも。

「で、相手はどこのどいつだ?」

「この方よっ!」

ずいっと眼前に携帯電話の画面を突きつけられる。

いや、近いから。近すぎてぼやけて逆に全然見えないから。それでも何とか焦点を合わそうと俺が四苦八苦していると。

「さぁとっとと案内しなさい、愚図っ!」

何で女王様モードなんだ。

そんなんで俺が喜ぶとでも思ってるのか、悪霊女子高生。とりあえず画面近いっての。

ったく……

「え?」

これは、マジですか。

 

◇◇◇

 

スキップなんてしてる、悪霊見たことない。だけど間違いなく悪霊。

周囲の落ちた紙くずや木の葉を瞬く間に焼き尽くし、あわや火事、という状況を作り出すという厄介な悪霊だった。

しかし、どーしたもんかね。

まさか、こんな展開が。何か……すっげー複雑だ。

「あっ!」

不意に声をあげて、足を止めた悪霊少女。

俺は首を傾げて、視線の先を辿る。

人通りのほとんどない、夜の大通り。次の角を曲がれば、診療所へ辿り着く。

そして、そんな通りに居たのは。

「やぁ、リリバスさん。夜の散歩……」

ぐしゃあっ!

「あ、悪いサタン」

悪い癖だ。サタンを見ると取り敢えず跳び蹴りをかましたくなる衝動が抑えきれん。

何でだろうな。きっと、今も何の落ち度もないのに蹴り倒されても、輝く笑顔で立ち上がってるせいだ。

「ふぉふぉふぉ、元気じゃのぉ先生」

朗らかに笑うギフォーレ爺さんに俺は深くため息をついた。

「これはもう、脊椎反射だな」

「はは、愉快な反射経路を持っているんだね」

天使スマイルを炸裂させるサタン。

我慢だ我慢! 耐えろ俺。大体、そんな事をしに来たんじゃない。

「あああ、あのっ!」

そう。メインは俺じゃなくて、この悪霊少女。

ぱっと駆け寄って、俺のすぐ脇に立たれると、凄い熱気が、ていうか最早熱がじりじりと迫ってくる。

そして、

「ず……ずっと憧れていましたっ! ギフォーレ様ぁっ!」

目を爛々と輝かせてギフォーレ爺さんへ告白を決めた悪霊少女。

爺さん、俺はあんたに初めて負けを認めるよ……。

「ふぉふぉふぉ、わしもまだまだ魅力的じゃったのぉー」

呑気に笑ってる場合か、爺さんっ!

こいつの携帯ヤバいんだぞ。何しろ、恋する悪霊少女の携帯電話の写真は、爺さんの盗撮写真に溢れていた。

凄まじいストーカーである。

ドン引きした。頑張れ爺さん。そしてもう、逝ってくれ。

「どれ、一緒に行くかのぉ、お嬢さん」

「よろしいのですか、ギフォーレ様っ!」

よいよい、と頷く爺さんの目には、こいつはどう映ってるんだろう。

自分を慕うかわいい孫みたいなもんだろうか。

つまり、俺と同列という事か?

いやいやいやいや、一緒にされたくないし。だけどもう、何か関わりたくない……。

ああ、爺さん、きっと遠くで孫が泣いてるぞ……。

「ははは、人間の愛とは不思議なものだね」

「語るな! とっとと行ってくれっ?!」

「ではのぉ、先生。世話になったのー」

「ふふ、うふふふふ……一緒だわ。これからは永遠に一緒だわ……」

悪魔の呪詛のように暗いトーンでぼそぼそと呟く悪霊。

あ、あぶねー……。こいつ、本気で滅したほうが良かったのかもしれん。

「サタン、ちゃんと爺さんを送れよ?」

「はは、任せてくれたまえ」

お前が一番心配なんだよっ!

 

◇◇◇

 

翌日、俺の診察室の上には何故かあの悪霊少女の秘蔵ギフォーレ爺さんコレクションの一つが置かれていた。

裏面には、恐らくあの悪霊少女の字だろう。

『お礼よ。取っておきなさい』と命令が書かれていた。

「爺さん……。あんたのことは、忘れないよ」

びりびりびりびり。

写真を再生不可能な状態へ切り裂いて、ゴミ箱へ放った。

俺の心には、爺さんと争ったあの輝く日々が今も残っている。それで十分だ。

誰が爺さんの乾布摩擦してる写真なんているかっ!

 

 

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