第28話 夢と現実

 

 雨がテントを打つ音が聞こえてきた。

 ずっと空は堪えていたようだったけど、限界だったみたいに。

 ざぁーっと降りだした音は、何だか泣き出したみたいに聞こえる。

「あぁ濡れたぁ……」

 テントの外にいたダンダさんが慌てて戻ってきて、そうこぼした。

 パタパタと制服についた雨粒を払い除けるダンダさんへ、僕はタオルを差し出す。

「はい。使ってください」

「あ、……ありがとうございます」

 ダンダさんは恥ずかしそうに笑ってタオルを受け取り、水気を拭き取り始めた。

「うわー、いーよなぁ」

「従兄弟はギリギリ犯罪だからな!」

「ちょ、変な言い掛かりはやめてくださいよ先輩っ」

 慌てて同僚の警察の人達へ言い返すダンダさん。顔真っ赤で、何だか可笑しい。

 思わず笑っていると、ダンダさんは困った様子でタオルに顔を埋めた。

「そんなんじゃないんですよ……私はぁ」

 タオルの内側でくぐもった声を漏らしたダンダさんに、同僚の警察の人達が更に大きく笑いながらダンダさん背中を叩いた。つられて僕も笑ってしまったのは、秘密です。

 

◇◇◇

 

 この町に来て一ヶ月くらいが経った。

 久しぶりと言っていい故郷は、やっぱり僕には馴染めなかった。

 昔は、平気だったのに。今ではどこか暗い思い出に濡れている。

 知り合いに会うことはほとんどない地域には住んでるものの、ダンダさん……ダリアくん、というべきなのかな。いずれにせよ、ダンダさんの両親とはたまに会うし……それはやっぱり少し、怖い。

 母親の面影を感じてしまうから。気を使ってくれているダンダさんには悪いけど、やっぱり僕はここでは暮らせない気がする。

 でも、僕には居場所がもうない。

 先生、元気にしてるって……ロヴィさんが言ってたっけ。

 良かった。どんな形でも先生が元気なら嬉しい。それを信じて生きてくことだって出来るから。

 後悔は……してない。

「エコデさん?」

 不意にダンダさんが僕を呼ぶ。

 吃驚して視線をあげると、心配そうに僕を見つめるダンダさんと目が合った。

「……考え事ですか? ぼーっとしてますよ?」

「あ……いえ、ごめんなさい。何でもないです」

 笑顔を作って僕は返す。

 ダンダさんは何か言いたそうにしていたけど、曖昧な笑みで頷いた。

 ……また、やっちゃった。

 いつもダンダさんには気を使わせてしまう。心配してくれてるのに、僕はここでは素直にそれを出せなくて。

 折れるのはいつもダンダさんだった。

 絶対に深くは切り込んでこない、ダンダさんの気遣い。せめてそれに報いたくて、地震が起きてから警察の手伝いを買って出た。お陰で少し周囲の人とも仲良くなれて、嬉しかったけど。

 でも、肝心のダンダさんとの距離感は変わってない。これで、いいわけないのに。

 やっぱり僕が、一人で立てないのが一番いけないんだ。

 先生の存在に頼って、今度はダンダさんの好意に甘えて。最悪だ、こんなの。

 不意に周囲の人々がざわめき出す。好奇と畏怖が周囲を駆け巡る。

「……!」

 ダンダさん以下数名の同僚の方が一斉に敬礼。

 びしっと揃った見事な動きに何となく僕が目を奪われていると。

 赤いマントを翻し、颯爽と歩み寄ってくる姿が見えた。

 傍らにいたウサギの耳を持つ、夜色の髪のメイドさんが傘を持ち、雨から防護している。

 ぴたりと僕のいるテントの前で足を止め、笑みを向けた。

「お元気ですか? エコデさん」

「ロヴィさん……」

 手のひらに汗が滲んだのは、緊張のせい、だと思う。

 

◇◇◇

 

 話がしたいと言うロヴィさんに、ダンダさんの同僚が派出所の一室を貸してくれた。

 外にメイドさんを控えさせ、ロヴィさんは土に汚れた椅子に座る。

 あ、そうだ。お茶……

「お気遣いなく。ここではまだ、衛生的に安全な水は貴重でしょう」

 お茶を出そうと動こうとした僕を、ロヴィさんはそう制した。

 確かにロヴィさんのいう通りでまだライフラインはやっと回復してきた所。特に飲み水は、給水車依存がまだ強い。

 多分ロヴィさんはちゃんと分かっている。しっかりしてるんだなぁ、って思わず感心してしまうくらい。

 先生とは大違い。反面教師、みたいなものなのかな。本当の兄弟じゃないとは言ってたけど……でも、そういう優しい所は先生と同じ。

「座ってください。落ち着きませんから」

「あ、はい」

 腰を下ろした僕に、ロヴィさんはまずはいきなり、頭を下げた。

「兄さんが大変失礼しました。長いことご迷惑をおかけして、お詫びの言葉では足りないくらいです」

「え、あ、頭あげてくださいっ。あの、誰かに見られたらっ」

 ロヴィさんは次期国王様なんだから、そんな姿を見せたらいけない。学がない僕だって分かる。

 戸惑う僕に、ロヴィさんは顔をあげて苦笑した。

「いいんです。兄さんの悪癖を謝るのは弟の努めです」

「悪癖……ですか?」

 先生、何かしたっけ。

 ご飯は残さず食べるけど、デザートがないと元気がなくなること? それともピーマンとトマトが嫌いな所? 寒がりでなかなか起きてこないこと? 誰にでも優しくて鈍感な所……とか?

 でも、僕は別に気にしてなかった。

 考えても答えのでない僕に、ロヴィさんは嘆息する。

「すみません。兄さんが女性服ばかり着せて」

 あ、なるほど。それを気にしてたんだ、ロヴィさんは。

 ほっとして、笑みが零れた。

「気にしてないです。僕、昔からこうですから。謝ることなんてありません」

「……それはそれで、どうかとは思いますが」

 う。

 鋭い指摘に、僕は口を濁す。確かに変だって思う。思ってた。

 でも、いつからだろう。それでもいいから、って思うようになったのは。

「兄さんは……何だかよく、分かりませんけど……頑張ってるみたいですよ、今」

 ロヴィさんが微笑む。

 先生、頑張ってるんだ。それは元気って事だよね。

 あ、駄目だ。目頭が熱くなってきた。視界が微かに滲み出す。

「正直、あんな前向きな兄さん見たことがないです」

 ポジティブな先生は確かに珍しいかもしれない。

 甘いものに目がなくて、まるで子供みたいに喜ぶ。でも、それでも割り切りは早いと思う。

 先生は意外と諦めが早い。駄目だと分かったら、すぐに手を引く。それは、凄い能力を持ってるからじゃない。

 先生は……孤独だった。人と一歩外れた場所を歩くような人だった。きっと、怖かったんだ。

 死という恐怖を知ってる先生は、他人と仲良くなることが、痛みを伴う別れに直結するって、知ってたから。

「多分、ですけど」

 思考に沈んでいた僕の目の前で、ロヴィさんは苦笑する。

「貴方の為なんだと思いますよ」

「え?」

 僕の……ため?

 ロヴィさんはこくりと頷いて、視線を窓の外へ向けた。

 僕もつられて、視線を移す。まだまだ、瓦礫撤去の途中の町並み。小さい町だからこそ、人手が圧倒的に足りてない。

「兄さんは……貴方に会いに来る為に、いえ……多分、貴方とまた一緒に暮らすために頑張ってるんだと思います」

 予想外のロヴィさんの言葉に、僕は思わず目を向ける。

 楽しそうに微笑むロヴィさんの横顔が見えた。

 僕の視線に、ロヴィさんは視線を合わせて寂しそうに笑った。

「何となくそう思う、だけなんですけどね。貴方は……それをどう思ってくれますか?」

「どう、って……」

 先生が僕に会いたいって思ってくれてる。その上、また一緒にいたいって、思ってくれてる?

 嬉しくないわけ、ない。

 でも、胸がぎしぎしと痛い。

 僕は先生と一緒にいたら、駄目だから。一緒にいたら僕は先生の人生を邪魔しちゃうから。

「嫌ですか?」

「そんなことない!」

 思わず大声で反論した僕は慌てて口を閉ざした。皇子様に、失礼だ、僕。

「なら、良かった」

 ロヴィさんは怒った様子も見せず、安堵の表情を浮かべた。

 でも、僕は。

「僕は先生とは一緒に……いちゃいけない」

 ロヴィさんが、不思議そうな顔をする。

 僕は顔を伏せたまま、膝の上で握り締めた拳をじっと見つめ、思いを吐き出した。

「僕は先生が好きです。おかしいけど、好きなんです。だから、僕は先生といたら、先生の邪魔をしてしまう。僕は先生の願いを、夢を叶えてあげられないのに、その夢を邪魔する事しかきっと出来ない」

 先生はきっと気付いてない。

 でも、僕は薄々感じてた。

 先生は……自分の家族に、手塩をかけて育てた自分の子供たちの幸福に囲まれて、静かに息を引き取る事が、夢なんだ。

 何でこうなってしまったんだろう。頭がガンガンする。気持ち悪くて吐きそうで。

 だけど、僕は感情を必死に飲み込む。会いたくて、苦しくて、会っちゃいけなくて、悲しい。

「だったら、貴方が願いを叶えてあげればいい」

「そんなの無理っ……!」

 反論しようと顔をあげた僕を、ロヴィさんは至極冷静な表情で見つめていた。

 背筋が凍る。

「兄さんだって、多分、無理を通そうとしています」

「で、も。でも……」

 こんなの、どうにも出来ない。

 それをどうしたらいいのかなんて、僕には分からない。

 ロヴィさんはふっと表情を和らげた。

「すみません。一番苦しいのは貴方ですよね。……でも、忘れないでください」

――兄さんがここまでまともに生きようって思ったのは、貴方のお陰なんですよ。

 そう言って、ロヴィさんは席をたち、赤いマントを翻して去っていった。

 僕は声をかけることも出来ず、ただ呆然と、その背を見送った。

 ……僕、は……先生のために、何が出来る……?

 

◇◇◇

第29話 願望契約

 

 毎晩毎晩、考えて眠れない。毎日毎日、悩んで注意力が散漫。気付けば僕は熱を出して救護所へ担ぎ込まれていた。

 今ではほとんど重症の患者さんはいなくなって、風邪とか胃腸炎で苦しむ人が顔を出すくらいになってきたらしい。

 ほとんど空っぽの、テントの中。

 僕も風邪だろうと解熱剤を貰って、ダンダさんに付き添われながらベッドで休んでいた。

「ごめんなさい、ダンダさん……」

「いいんですよ。疲れ、溜まってたんですね。エコデさん、頑張ってくれてましたから」

 そう、なのかな。

 僕はきっと、現実から目をそらしたかっただけじゃないのかな。

 本当は帰りたいって、言い出さないように。もしかしたら、先生が来るかもっていう期待と共に。

 僕は……我が儘、だ。

「ダンダさん……ごめんなさい」

「だから気にしなくてい……」

「連れてってください」

 僕の言葉に不思議そうな顔をするダンダさん。

 いくらでも謝る。どんな謗りも受ける。何も、言い訳もしない。

 それでも。

「診療所に、帰りたいです」

 つうっと、頬を涙が滑り落ちた。

 先生がいないのは百も承知で。帰ってくる見込みが限りなくゼロに近いのも、わかってる。

 今更患者さんが来ることもない。それでも、僕はあの場所が全てだった。

 自分の意思であの場所に居続けた。初めて自分で選択した事だったから。

「ごめんなさい、ごめんなさいダンダさん。でも、僕はここでは生きられない。例え先生が戻ってこなくてもいい。それでも……」

「それでも?」

「僕はずっと、待ってます。それが僕の生き方だから……後悔なんてしない」

 ダンダさんはじっと僕の視線に話に耳を傾けてくれていた。

 そして淡く微笑み、頷く。

「そういうと、いつかはそう言い出すだろうって、思ってましたよ」

 ダンダさんの言葉に僕は胸が痛んだ。

 でも、僕が口を開くより早く、ダンダさんが笑顔で言う。

「じゃあ、荷物用意しますね。車も手配しますから」

「ダンダさん……」

「謝らなくていいですよ。……ディーは、ディーの生き方を、貫いて欲しいから。今のディーは、やっぱりエコデさんですよ」

 どっちも僕を示す言葉にはかわりない。

 過去の僕はディーだった。先生に出会ってからの僕はエコデになった。

 そして、僕はエコデとして生き続けたい。

 

◇◇◇

 

 空っぽ。がらんどうの、診療所。

 王都を経由したものの、僕はその間ずっと寝ていて、何も覚えていなかった。

 ダンダさんがそうしていくよう言ったのもあるけど、まだ下がっていない熱で意識が朦朧としてたのも大きい。

 それでも僕はここへ帰ってきた。

 診療所の空気を肺に吸い込むと、それだけで安心感が胸のうちに広がる。

 簡単な心だけど。それでも自分にとっていかに大事かを痛感する。

「ガスとか水道は……止めてるんですかね、先生は」

 僕をリビングの椅子へ座らせると、ダンダさんが首を巡らせる。

「先生の事だから……そこまで気は回ってないと思います。ラフェルさんが、していれば……別ですけど」

 なるほど、と苦笑してダンダさんはキッチンへ消える。蛇口を捻った音に続き、水が流れ出る音。ガスコンロのノブを回せば点火。

 やっぱり、忘れてる。

「帰ってくるつもり、って事ですね」

 水とガスを止めて戻ってきたダンダさんはそう苦笑する。

 僕は静かに首を振った。

「先生は忘れてるだけです。ほんとに……先生は僕がいないと、生活基盤がぼろぼろなんですから……」

 それが嬉しいって思うのはずるいのかな。

「少し、出てきますね」

「あ……はい」

 どこ、行くんだろう。

 何だか急に不安が襲い掛かる。

「大丈夫ですよ。すぐ戻りますから」

 僕の感情の変化を汲み取り、微笑んだダンダさんに、僕は頷いた。

 我が儘を、また聞いてもらってしまった。

 でも、ダンダさんはそのまま背を向けて出ていってしまった。

 凄く、申し訳ない気持ちに囚われる。ちゃんと、お礼しなきゃ。

 小さなため息をついて、僕はぐるりと室内を見回した。

 たった一ヶ月で、こんなに懐かしくなるなんて思ってもみなかった。

 凄く、落ち着く。

 僕は重い体を動かして、診療所へ続く扉を開けた。

 しん、と静まり返った待合室。寂しい感じがする。

 受付カウンターの上をなぞって、ふと僕は診察室へ視線を向けた。

 何だか……凄く気になって。

 興味と不安を同程度ずつ抱きながら僕は診察室へと歩を進める。

 閉じられた扉の向こうに、誰もいないのは分かっているのに。どうして、こんなに緊張するんだろう。

 ぎゅっと手を握り締め、ドアノブを掴む。

 小さく息を飲んで、ノブを回し、ゆっくりと扉を引いた。

 真っ黒の髪に真っ黒のスーツ。中に着たシャツさえ漆黒のその人は、先生がいつも座る椅子に座ってこちらを向いていた。表情は長い前髪で隠れ、口許だけが大きく歪められている。

 笑って、る?

「なるほど。イスラフェルを見ているからか、特に驚きはしないのだな」

 抑揚のない、あまり感情を感じ取れない声。

 僕が唖然と立ち尽くしていると、その人は、ぎしっと椅子を軋ませて立ち上がった。

 ひょろりと長いシルエットは、ほとんどが黒に覆われていた。影みたい。

「さて、では交渉は如何かな?」

 暗鬱な声が僕の意識を覚醒させる。

 交渉、って、何? ラフェルさんを知っているってことは、悪魔なのかな?

「その通り。悪魔との契約を、如何かな?」

 一瞬、と言ってもいい。

 瞬きをしている間に、僕の目の前に、悪魔さんが立つ。

 背の高い悪魔さんに見下ろされるとそれだけで、恐怖心が沸き上がった。

 引いた扉をもとへ戻せば、遮断できるはずなのに、体が動かない。

「何を恐れているのだね? 貴様には願いがあるのだろう。だから私がここにいる」

「それって……」

「悪魔は願望に呼び寄せられる。それだけだ」

 語る悪魔さんの笑みが、嗜虐的に歪んだ。

 僕の願いを叶えてくれるという、悪魔さん。

 でも、そんな簡単に、叶えてくれる訳がない。

 もしもそうなら、きっと彼らは悪魔と呼ばれ、忌み嫌われるわけがないから。

「その通り。我らは、対価を頂く」

 ぎゅっとドアノブを握ったままの手に力が入る。

――やっぱり。

 でも、それでも悪魔さんから目が離せない理由も、僕は分かっていた。

「では先ずは、対価を教えておこう」

 す、と黒い手袋をした悪魔さんの手があがる。

 ぴたりと人差し指で僕の額に触れて、悪魔さんは口角を吊り上げ笑った。

「我に魂を捧げろ。今すぐとは言わぬ。貴様の魂を我に捧げ、死してなお、苦痛と恐怖、悲壮に暮れる日々を永遠に享受する……それを受け入れろ」

「え……?」

 何を言ってるのか正直よく、分からない。戸惑う僕に、指を離して悪魔さんは暗く笑う。

「それが、幸福と引き換えならば安いものだろう?」

 そうかも、しれない。このままじゃどのみち僕は、きっと苦しいままだから。

 僕だけが死後も苦しいだけならそれでもいい。

 両手をぎゅっと握り締めて、僕は悪魔さんを見上げた。

 闇そのものみたいな真っ黒な悪魔さん。

 ……僕は道を踏み外す。

「では、契約成立だ」

 黒い手袋をはめた手が、僕の目を覆う。

 闇に包まれた視界に、僕は少しだけ背筋が寒くなる。

 視覚を奪われた瞬間、周囲から音が消え、温度が下がった気がした。

「貴様の願い、しかと聞き届けよう」

 刺すような声音に僕は……――

「そうは問屋が卸さないのですよ?」

 ……えっ?

 目の前では赤が翻る。

 何故か周囲は真っ暗な闇に包まれて、僕と契約をしようとしていた悪魔さんは、遠くに行っていた。

 目の前にいる、赤い髪の人は……

「ラフェル、さん?」

 恐る恐る問い掛けると、苦笑いでラフェルさんが振り返る。

「何をしてるです、エコちゃん。悪魔と契約をするだなんて、りぃくんでもしないですよ?」

「で、も……だってっ!」

 反論しかけた僕にラフェルさんは、苦しそうな笑顔を見せた。

 どうし、て……そんな顔をするんですか、ラフェルさん……?

「ほんっとに、りぃくんはお馬鹿さんです。もっと前に気付いていたら……きっと、もっと……」

 がくん、と膝をついたラフェルさんに、僕は慌ててしゃがみこんだ。

「ら、ラフェルさん?!」

「のれ……おのれ、イスラフェルゥゥ!」

 震え上がるような強烈な声に目を向けると、真っ黒の悪魔さんが、同じく膝をついていた。長い前髪の隙間から覗く真っ赤な瞳がこちらを鋭く睨み付けている。

 その視線に、僕は首を絞められたような苦しさを覚えた。

「大丈夫ですよ、エコちゃん」

 ラフェルさんの手が、僕の手に触れる。

 視線を戻すと、ラフェルさんは優しく微笑んでいた。

「あんな下等悪魔、怯える必要はないのです。それに」

 よろよろとラフェルさんが立ち上がり、僕は慌ててラフェルさんを支えた。

 小刻みに震えているのは僕なのか、それともラフェルさんなのか。

「それに……一先ずは、ちゃーんとエコちゃんの願いは叶えてくれたみたいですからね?」

「え?」

「だから呪いも同時に発動したのですよ。ねぇ、下等悪魔?」

「何故だ。何故悪魔の貴様が呪いを引き受ける! 貴様に何のメリットがあるッ!」

 そう叫んだ悪魔さんに、僕は目を見張る。

 呪いを引き受けた……って。

「悪魔が悪魔を呪う負のスパイラル。ふふ、実に悪魔の最後にふさわしいのです」

「そんな、ラフェルさんッ!」

 僕は思わずラフェルさんの腕を強く掴んだ。

「どうして、僕の我が儘でラフェルさんが苦しむ必要があるんですか! 僕の罪は、僕が償わなきゃ……!」

「私は……エコちゃんとりぃくんと一緒に居られて、楽しかったですよ」

 唐突な言葉に僕は咄嗟に反応できなかった。

 ラフェルさんは、微笑んでいた。

「私は、二人が大好きです。鈍感で、エコちゃんに頼ってばかりのヘタレなりぃくんも、一生懸命りぃくんに尽くすエコちゃんも。だから私は、二人の未来を……守ってみたくなったのです」

「でも、でもっ……!」

 それでも、ラフェルさんが苦しんでいいわけないのに。

 じわじわと滲む視界の中、ラフェルさんは優しく微笑む。

「エコちゃん、忘れないで……くださいです。私のこと」

 忘れるわけない。忘れたくなんてない。それに何より。

「居なくならないで下さい、ラフェルさんっ……!」

 ラフェルさんは苦しそうに笑って、とん、と僕の額を指で突いた。

――ここに居るですよ。

 急激に薄れていく意識の淵で、ラフェルさんの声が、聞こえた。

『ありがとう、エコちゃん。幸せになってくださいです』

 

◇◇◇

第30話 転生希望アンケート

 

 

 俺の肉体維持に大いに貢献してくれた魔法陣が音もなく霧散する。

 魔法陣の光で辛うじて見えていたフロアは、見る間に闇に包まれた。

「兄さん……」

 カンテラを手にしたロヴィが不安げな視線を俺に送る。

 俺は苦笑した。

「ごめんな、ロヴィ。俺またお前を悲しませるかもしれない」

 いや、その確率の方が高いだろう。

 こんな分の悪い賭け、しないほうがマシだとも思う。

 でもな、俺は……

「僕なら大丈夫です。兄さんが居なくなっても、立てますよ」

「そっか」

 そう言って貰えると、俺としても嬉しい。諦めた訳じゃないけどな。

 しかし、ラフェルはどこに行ったんだ? こういう時率先して悪態をついてくれるはずの存在がないのは、何だか気持ち悪い。

「あの悪魔なら、エコデの所に行ったわよ」

「サチコ?」

 音もなくロヴィの脇に現れたサチコ。

 また無駄にチートな能力使ったな。

「エコデの願いを叶える為にね」

「エコデの願い……?」

「そうよ? 鈍感でヘタレで無駄に天然タラシのリリバス、貴方の子供の母親になるって夢のためにね」

 …………え。

「えええええぇ?!」

 叫ぶしかなかった。

 きき、気持ちは凄く嬉しいが、そんなこと出来るのか? 人生まるごと作り直すようなもんだぞ?

 困惑する俺に、サチコは呆れた表情を浮かべる。

「リリバス……貴方がこうなる前だったら、それくらい多分、悩むこともなく、実行出来たわよ?」

 仮にもチート能力者でしょう、とテレパシーで付け加えたサチコに唖然とした。

 確かに、そうかもしれない。俺って全部、追い詰められてから気付くんだな。

 でも。

「よしっ!」

 ぱん、と頬を叩いて自分を叱咤する。

 回りの優しさや助力に依存できるのは、ここまでだ。

 ここからは俺と神様の一騎討ち。だけど、負けるわけにはいかない。

 いや、俺は負けない。

「サチコ、ロヴィ。行ってくる」

「気張りなさい、リリバス」

「信じてますから、兄さん」

 俺は、一人じゃないんだ。

 帰るべき場所と、守りたい人達がいるんだ。

 くるりと振り返ると、腕を組み、俺をじっと見つめるドクターがいる。

「ドクター、頼む」

「いいだろう。……足掻けよ、リリバス」

 頷いて、俺はドクターに全てを委ねた。

 必ず、帰るから。エコデを、俺が幸せにするんだ。

 

◇◇◇

 

 白く靄の掛かる、神様のいる場所。

 俺を見下ろす身長二メートルは固い神様は、ほっとした表情をしていた。

「よかったよー、ボロボロになるまで来ないかと」

「御託はいい。アンケート貸せ」

「うん、いいよ。でも今となってはほとんど回答権がなくなってるんだけどね」

 構うもんか。アンケートを差し出した神様から引ったくるようにして、俺はそれに取り掛かる。

 ドクターは黙って、成り行きを見守る体制だった。

『転生条件について、アンケートにお答えください。……』

 文面に目を通し、一旦深呼吸。羽ペンを握る手が、震えていた。

 もしも、これで失敗したら。

 今更後にも引けない。最後の一瞬に、後悔はしたくない。

 目を閉じて、まぶたの裏に思い出す。

 レイラ。

 ビクサム。

 ポアロ。

 ギフォーレ爺さん。

 サタン。

 ヴィア。

 シャルル。

 ダンダ。

 サチコ。

 ドクター。

 ロヴィ。

 俺は、たくさんの人に囲まれてた。

 そして、ラフェルは俺の仕事を手伝ってくれてた。

 エコデは……

「帰る、から。絶対、帰るから」

 だから、俺はもう、泣いたりしない。

 ぎゅっと羽ペンを握り直し俺はアンケートへ向き直った。

 

1.転生先の世界の希望は?

魔法世界

科学世界

どっちでもいい

 どっちでもあるあの世界。

 

2.転生先での性別は?

その他

 これは迷わず男。

 

3.転生先での職業は?

勇者

王様

その他

 医者にしておくのが無難だな。

 そして、残された質問は二つ。

 

4.転生先での寿命は?

 これは……どうしたらいいんだ?

 胸中に焦りが出てくる。

 落ち着け、次の問いを確認してからでもいい。

 緊張が高まるなか、俺は最終の問いへ目を向けた。

 

5.転生先に望むことは?

 ……望み、は。

 俺は目の前にいる神様を見上げた。

 無慈悲に笑顔の、神様。

 俺はこのアンケートでは、きっと帰れない。アンケートは所詮希望調査だ。

 確約じゃない。

 これでは、俺の望んだ場所へはきっと、たどり着かない。俺はまた、土壇場で間違いに気付く。

「神様……それが、俺への罰か?」

「君は、アンケートがよほど苦手なんだね?」

「俺は戻りたいんだよ! ただ、それだけなんだ!」

 噛み付いた俺に神様は表情ひとつ動かすことなく、じっと俺を見下ろす。

 俺は、奥歯を噛み締める。

 諦めるな。考えろ。俺が諦めたら、誰が……

 はっと顔を上げる。

 再度見上げた神様は、もしかしたら俺の答えを拒否するかもしれない。

 でも、これしかないんだ。

 チートな能力もいらない。無駄に丈夫な肉体も要らない。ただ、俺の人生を続けさせて欲しい。

 普通以下の体力でいいから、それなりに生きられる普通の肉体を。

 そして、それが駄目だとしても。

「頼む、神様……俺に」

――俺に、エコデと一緒に居られる時間をください。

 あの小さな診療所で、生活が苦しくてもいいから、また暮らしたい。

 俺の願いは、そういう小さな幸せでいい。脳裏に過る、エコデの笑顔を俺は忘れたくない。

「やっと、君は自分を選べたね」

 優しい神様の声。

 俺はぐっと涙をこらえて、アンケートを差し出す。

「これが、答えだ。俺の探しだした、最高の答えなんだ」

 する、と俺の手からアンケートが抜き取られる。

 俺の命と運命が神様の手に渡る。

「神様、君みたいな子、嫌いじゃないよ」

 それは有り難いけど。

 俺は自分があんまり好きじゃないな。

「好きになりなよ!」

 毎度毎度、元気な神様だな。

 思わず苦笑した俺に神様はにっこりと微笑み、そして。

 天使になった悪魔が、俺の脳裏に過って消えた。

 

◇◇◇

最終話 -6 years after-

 

 

 雪がちらつく相変わらずの寒い気候。

 コートを羽織り、マフラーを掴んで、俺はばたばたと駆け回っていた。

「リリー、間に合わないんじゃないのー? 愚図だよ愚図」

「うるさいっての!」

 だから急いでるんじゃないか。

 くそ、こいつ天使のくせして態度がデカイし毒舌が酷い。まったく、どっかの誰かみたいだ。

 診療所の午前の分が終わった俺は、急いで身支度を整えていた。

 といっても、白衣を脱いでコートを着込むくらいだけど。

「あ、リリー。待った待った」

 椅子から立ち上がった天使がすたすたと俺に歩み寄る。

 淡いピンクのロングヘアーがひらりと揺れた。

「これ持ってかないと!」

「うぉあっ! 確かに!」

 差し出されたそれを慌てて嵌める。

 診療中は外してるけど、こーいうときはしないとな。あとは忘れ物は……なし、と。

「よしっ、じゃあ行ってくる。留守番頼んだ、イース」

「リリー、こけてねー」

 何で転ぶことを望まれるんだ。酷い天使だな、全く。

 扉を開ければ冷たい空気が肌を刺す。一度身震いをして、見上げた空に苦笑して俺は走り出した。

 雪が舞い始めた空の下。行き交う人々は、国王即位式の噂で盛り上がっている。

 やれ后が美人だの何だの。残念ながら国一番の美人妻の座は后じゃない。

 ロヴィには悪いけどな。

「雪かぁ……また一段と寒くなって来たよなぁ」

 金属は特に冷える。イースに渡された、左薬指に嵌まった指輪もしかり。

 指でなぞると相変わらず何か、照れ臭い。にやけそうなのを堪えて、馬車の通行待ち。

 病院まで、まだ三十分は掛かる。なかなか遠いよな……。

 まぁ、そうも言ってられないんだけどさ。

 何たって、今日は家族が一人増える日なんだ。

 俺が望んだ夢への第一歩。

『Happyーbirthday』

 俺の新しい人生の始まり。

 俺は、守っていくんだ。なんの能力も持ってない、普通の人間だけど。

 家族は命懸けで守る父親になりたい。

 なんて、エコデには当たり前でしょって怒られそうだ。

 ん、待てよ? 今日からパパって呼ばれんのかな……?

 うわ、何か、照れ臭いな……。

「っと! 急がないとっ!」

 動き出した人波に、俺も慌てて走り出す。

 ああ、考えることは山ほどあるけど。

 まずはエコデに伝えたい。

 

――俺を父親にしてくれてありがとうって。

 

 真っ白な雪は、空からの祝福みたいだ。

 

 

無希望転生物語 fin

 

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