第7話 出張兄弟

 

 診療所を構えた街から、南へ約120km進むと王都がある。馬車で約一日、車で半日、ヘリで一時間かからない。テレポートだと大体一瞬。そこまで一発で飛べる魔導士は少ないだろうけど。

 それくらいの時間をかけて、人々は様々な想いを抱えながら王都へ向かう。俺はもう、疲労感と不安しか募らないけど。

 バラバラバラバラ……

 頭上で回るローターの激しい音が、ほとんどの音を飲み込んでいた。ヘッドフォンで鼓膜保護してるのも相まって、何も聞こえないに等しい。

 周囲の情報を得るには視覚頼りになるのだが、目の前にいるサチコから情報を得たくはない。

 にこにこと楽しそうに俺に対して小型機銃の銃口を向けているサチコは、鼻歌でも歌ってるんだろう。左右にふらりふらりと傾いでいる。ちなみに俺を狙ってるわけじゃなくて、手入れの最中だ。

 暴発させそうで怖いけど。

『ふふっ、そんなことしないわよ?』

 俺の心に直接語り掛けてきたサチコ。離陸の準備が次々進む様子を見ていた俺は、横目でサチコを見やる。

 視線がぶつかったサチコは優雅に微笑んでいた。

『それにしても、あの子からすっかり信用を失ったのかしらね、私は』

 あの子、とはエコデの事だろう。エコデはこの所、サチコが来ると物凄く怯えるからな。

 段ボールに捨てられた子犬みたいで超絶可愛いんだが、それと同時に物凄く申し訳なくなる。

 そもそもは、俺がどうしようもない奴だからそうなってしまったわけだし。でもまぁ、半分はサチコにも非があった。だから努めて素っ気なく反論。

『反省しろ、反省』

『もとはと言えば、貴方が無知で無能だからいけないのよ。困った子ね』

 肩をすくめてみせたサチコに、俺はそっとため息を吐く。

 サチコとの付き合いは、転生してからの腐れ縁だ。巫女としての能力が高く、ついで要らない破格の能力まで備えたサチコくらいしか、心での会話を成立させるなんて真似は出来ないだろう。

 俺もできるだろうけど、興味ないからしない。心って、プライベートな部分だから覗くのは失礼だろうし。

 俺だって、それくらいのマナーは心得てる。サチコと違って。

『二人きりで秘密の話をしているつもりですか?』

 するっと心の隙間に入り込んだその声の主も、そういう常識やマナーが欠落している。

『あら、流石ね。そんな事も出来るのね』

『お褒めに預かり光栄です』

『うふふ。心無い言葉をどうもありがとう』

『どういたしまして、巫女様』

 俺の隣にいたラフェルは黙って目を閉じたまま、サチコとテレパシー戦争を開始していた。

 悪霊払いのプロ巫女と、悪霊をそそのかす悪魔が仲良くやれるはずもないよなぁ。

 ほどなくして、ヘリが地上から飛び立ち、いつも暮らしていた街が、見る間に小さくなっていく。

 あぁ、気が重い。

 

◇◇◇

 

 俺は、こんなでも一応この辺り一帯を治める王国の跡継ぎだったりする。転生して第一皇子という立場を与えられた俺だったけど、色々あって全部投げだして逃げ出した。そうして、今の診療所までたどり着いたわけである。

 そこまで至るにも、それなりの苦労は重ねたけど。

 で、今何故また王都へ戻る途中なのかと言えば、帰省だ。俺の感覚では帰省よりも出張に近いが、名目上は帰省。

 簡単にヘリを用意してくるあたり、流石我が弟の愛情は例に漏れず苛烈だ。しかしこれで、また国の税金を無駄に使っている自覚はないんだろうな。

 ちなみに以前、サチコにこの往復代がいくらかを聞いたところ、とても俺の稼ぎでカバーできる金額ではなかった。

 もちろん以降は聞いてない。払える額じゃないし。俺が考えるべきは、留守番してるエコデへの土産についてで十分だ。

「あー……着いたぁ」

 ローターの停止したヘリから降り立ち、俺は腕を伸ばす。

 王城の最上階にあるヘリポートはあの街とは違い、優しい温度の風が頬を撫でた。

「お久しぶりです、リリバス様」

「ん?」

 丁度視界から外れていた右手。

 夜色の短い髪と、白いうさ耳のすらっと背の高いメイドが腰を折っていた。ツキコだ。

「元気してたか、ツキコ」

 ツキコは頭を上げ、穏やかな笑みを向ける。

 いつも思うけど、ツキコは青空の下って何だか似合わないよなぁ。月明かりの下に居るのがごく自然に思える。

 俺のどうでもいい思考を他所に、ツキコはスッと一歩進み出た。

「ええ。お陰様で。先にお荷物、お預かりいたします」

「あぁ、頼んだ。ロヴィは……執務室か?」

 静かに頷いたツキコに俺はスーツケースを預けて、同じく降り立ったラフェルへ視線を移した。

「じゃあ俺はロヴィのところへ顔出すから。ラフェルは……」

「エコちゃんを心配させないように、りぃくんを見張るのが私の役目なのです」

 しれっと真顔で言い切ったラフェルに、苦笑を返す。

 まぁ、そのためにラフェルはついてきてるようなもんだしな。あれこれ言って、ヒールで足を踏みつけられるのはごめんだ。

「じゃあ、行くか。ツキコ、後は任せた」

 ひらっとツキコに手を振って、俺は歩き出す。

 家出同然に飛び出した俺が生まれ落ちたこの城。でももう、俺にとっては故郷じゃないんだよな。

 

◇◇◇

 

 ロヴィは王位継承者としての仕事を今日も淡々とこなしているんだろう。

 あいつ、スペックが高すぎて引くレベルだからな。現在の王たる親父様とは大違いだ。

 年季の入った、執務室の木製の扉。金属のドアノブはピカピカに磨かれ抜いて、何か指紋つけるのが申し訳ないくらいだ。この扉の向こうで、ロヴィはせっせと仕事に勤しんでいることだろう。

 正直、一年前まではロヴィと顔合わせるのが苦手だった。今でも苦手は苦手だけど、それでも俺はたまに会いに来るようにはなった。

「よー、ロヴィ。仕事ご苦労さん」

 ノックもなしで扉を開け放った先に居たロヴィは、書類に囲まれていた。

 ばっと顔を上げ、手にしていた羽ペンを机に放り投げて、机を颯爽と飛び越え。

「兄さぁぁぁんっ!」

「ぐはっ?!」

 勢いを殺すこともなく、今日も嬉しさ全開で抱き付いてきた。

 隣のラフェルが心底冷たい目で俺を見やり、盛大にため息をつく。

「あぁ、このまま事故死で片付けばいいのに」

 物騒な言葉を吐き捨てたよ、この悪魔っ?!

 幸いと今回は首に入らずに済んだ俺は、若干ロヴィの腕力に息苦しさを感じていたが、辛うじて声を絞り出す。

「お、ぅ。じゅ、順調そー……だなぁ」

「すみません! 兄さんが来るまでにちゃんと片づけようと思ってたんです。でも思ったよりも多くてっ……」

 更に力を込めたロヴィの腕により、肋骨が軋みを上げてる。

 もしかして俺、負傷してまた城に拘束されるんだろうか。それは困るっ!

「わか、分かった……からっ。とり、あえず、離れてくれ……」

「あ。すみません、兄さん」

 照れ臭そうに笑ってロヴィはようやく俺を解放してくれた。

 思わず肋骨をさすって無事を確認する。痛みはあるけど、折れてはいないな。ヒビくらいなら、まぁよしとしよう。生きてるだけ万歳だ。

「チッ」

 思わずラフェルを見やる。

 するとラフェルはにっこりと笑顔を返してきた。悪魔が見せる、天使の笑顔で。

「どうかしました? りぃくん」

「今、舌打ちしませんでした? ラフェルさん」

「女の子が舌打ちなんてするはずがないのです」

「いや、ラフェル悪魔だし」

 瞬間、ラフェルの笑顔が微かに揺らぎ。

――だんッ!

 危うくヒールで踏みつけられるところを、間一髪で逃れた。ラフェルはにこにこと笑顔を浮かべているが、その足は即死を狙った攻撃だったな。まったく、悪魔と女は怖い。

「兄さん、昼食は食べてます?」

「おー、食ってきた。エコデの飯を一回分逃すのは勿体無いからな」

 食料自給率維持のためにも、これは重要なミッションだ。

 ロヴィは若干寂しそうな気配を見せたが、ちらっと時計を確認する。現在時刻、午後二時十五分。

 ぱっと表情を明るくして、ロヴィは俺に問いかけた。

「じゃあアフタヌーンティーにしましょう! 少し早いですけど、これ片づけたら一緒にっ」

「それはいい考えだな」

 三時のおやつは一日のうちでも一番大事だ。診療中はないから、休みの日の三時が楽しみで仕方ない俺がいる。

 俺とロヴィはそれぞれ別方向の思考で、表情筋を緩ませていた。

 それを横目に、ラフェルは冷たい目線で「駄目な兄弟なのです」と暴言を吐いていたような気がするが、気のせいだ。

 いいじゃないか。これで何とか兄弟としての体裁を保てるなら安いもんだ。ロヴィの精神安定のため、ひいては国の安定の為にはさ。

 

◇◇◇

 

 俺の前に動員されたのは、三段のティースタンド計四台。そして優雅な茶器に注がれた紅茶。

 甘い香りの中に、爽やかな香りを添えるのが紅茶の役目だ。この絶妙なバランスこそ、俺の最大の幸福な時間を生み出してくれる。いいよなぁ、軽食も入ってるし、小腹の空いた三時にはぴったりだ。

「流石王城なだけあって、茶葉は良いのを使ってらっしゃるのですね」

「ありがとうございます」

 ラフェルに深々と頭を下げるツキコ。メイドも大変だよな。

 水分しかとらないラフェルだが、それゆえ飲み物にはうるさい。

 今のそれは、社交辞令と嫌味が含まれているようだが、俺には関係ない。

「このマカロン美味いなぁ」

 さくっとした表面に、アプリコットのジャムが絶妙。紅茶については、俺はダージリンをセレクトしたけど、まぁ正直どれでもいい。

 ラフェルに言わせたら罵倒されそうだけども、俺にとって重要なのは水分じゃなくて、甘味の方だからな。

 ぺろっと一台を完食すると、続いて二台目。全四台、全部内容を変えてくれたツキコに心の中で感謝する。

「兄さん、本当に甘いものが好きですね」

 俺の正面で、二段のティースタンドにほとんど手を付けてないロヴィがそう苦笑する。

 スコーンを上下二つに分けていた俺は顔を上げて、首を傾げた。

「ロヴィは食わないのか?」

「ゆっくり戴きます。あ、必要でしたら僕の分あげますよ」

「心配すんな。まだこんだけあるし」

 残り三台を指さして、俺はロヴィの提案を辞退する。

 さて、まずはクロテッドクリームにするかなぁ。

 意識を再びスコーンへ戻しかけた俺に、ロヴィがぽつりと言う。

「……兄さんがそんなに甘いもの好きだなんて、最近まで、知らなかったな」

 思わず手を止めてしまった。

 すごく小さな声だったから、多分俺に聞こえてはないと思ったんだろう。

 事実、ロヴィを盗み見ると、カップに視線を落として、口元に薄く笑みを浮かべていただけだったから。

 あー……何か、痛いな。だから、嫌なんだよな……。でも。

「ロヴィ、明日は公務か?」

「えっ? えっと……午後は、慰霊祭に出席します」

「へー、そっか」

 スコーンにクロテッドクリームを塗りつけながら、俺が相槌を打つと、ロヴィは若干身を乗り出した。

「に、兄さんも一緒に行きませんか? 兄さんだって少しくらい公務をした方が……」

「いーって。でも、そうだな」

 かちゃっとバターナイフを置いて、緊張の面持ちのロヴィへ返す。

「ロヴィの仕事ぶりでも見学に行くか。父兄参観」

「あ、わ、分かりました! 頑張ります!」

 いや別に頑張ることは何もないんだけどな。俺、参列しても立ったまま寝れそうだから嫌なんだよ。

 しかも俺がいると何かと公務キャンセルしようとするからな、ロヴィは。

 それを事前に防ぐのも兄貴としての務めだ。何か嬉しそうなロヴィを見てるのは、いつもながら、複雑だ。

 最も。

「兄さんが見に来てくれるなんて、良い席を確保させないと」

 とか危ない笑いをしてることは、見なかったことにしよう。

 怖いから。

 

◇◇◇

第8話 アンダーグラウンド聖戦

 

 二泊三日の出張。

 兄弟に会いに来るのに出張と言わしめるのはリリバスくらいなものでしょう。

 別に嫌ってるわけじゃないのは、百も承知なんだけれど。

 つい弄りたくなるのが、同郷のよしみってやつじゃないかしら。

 あ、ごめんなさい。貴方を困惑させたかしら?

 今日はリリバスがロヴィについて公務見学に行ってるから、私が貴方の相手をしてあげるわね。

 どうせ寝て起きて、ご飯食べてなんていう怠惰な生活してるだけのリリバスを見ても面白くないでしょう?

 だから、今日一日、このサチコさんの生活を覗いていくといいわ。

 あら、ブラウザバックは無粋よ。落ち着いて、ゆっくりして行って頂戴な。

 たまには、血と涙に濡れた生活も必要でしょ?

 

◇◇◇

 

 リリバスがロヴィと一緒に出て行って、約一時間。そろそろ頃合いかしらね。

 黒い正装に身を包み、私は城内を颯爽と歩いていた。

 行き過ぎる兵は私が通り過ぎるたびに、慌てて顔を背ける。あぁ、美しいのって罪だわ。

 かつんっ、とブーツのヒールを響かせ私はその部屋の前に立ち止った。

 中流用ゲストルーム。ベッドとクローゼット、それからメイドを呼べるベルを置いた来客用の一室。

 ちなみに上流用だと個々にメイドがつく仕様になっているの。

 流石王城でしょう? あら、そうでもない? まぁ何でもいいのよ。ただの与太話と聞き流して。

 さて。扉に手を触れて、私はその手に力を込めた。

――バゴン!

 木の扉がへし折れ弾け飛ぶ音が響き、同時に私は部屋へ体を躍らせた。

 床に足を着くや否や、手にした自動機関銃を構え、フルバースト。

 撒き散らされる弾丸が壁を抉り、空薬莢がしゃらしゃらと床に跳ね返って音を立てる。

 ガラスが叩き割れて悲鳴じみた音を響かせた。

「……流石、逃げ足が速いわね」

 弾を打ち尽くした銃を捨て、私は自慢のオレンジのロングヘアーをかきあげる。

 室内は銃弾によってボロボロ。ベッドも机も何もかも、使用可能な状態のものは一つもない。

 かつては窓ガラスがあった、今は窓枠だけのそこに視線を向けると、それはいた。

 真っ赤な蝙蝠のような羽根を広げ、空中に浮かぶ赤い髪の悪魔。

 新しいライフル銃を服の中から取り出しながら、私は微笑む。

「危機察知だけは一人前、という所かしら? ねぇ、イスラフェル」

「その名はあまり好きではないので、止めていただけます? まるで天使のようです」

 くすくすと黒い笑みを浮かべる悪魔。まったく、リリバスも厄介な悪魔を拾ったものね。

 ほんとに、悪魔らしくない名前だこと。天使に土下座して頭を踏みつけられるといいわ。

 じゃこん、とライフルの銃口を悪魔に合わせ、私は警告する。

「一撃で仕留められることを受け入れなさい。でなければ、痛い思いをして消滅することになるわよ?」

「ふふ。同じ事を聞いたような気がします」

 ……ムカつくわ。

 まったく、この悪魔がリリバスと来るのは二回目だったかしら。

 最初は即座に撃とうとしてリリバスに邪魔されて未遂に終わったけれど。

 でも今回、リリバスはいない。悪霊バスター『巫女』の名に懸けて、この悪魔は、仕留める。

「滅しろ、悪魔が!」

 引き金と共に、轟音と爆風が響き渡った。

 

◇◇◇

 

 空中戦では悪魔に理がある。

 羽根によりひらりひらりと、銃弾を躱されてしまうから。

 こういう時、私も羽根を用意しておけばよかったと思うわ。

 でなければ、空気を圧縮して足場にするなんて面倒な真似、しなくて済むもの。

 ぽいっと拳銃の空弾倉を捨て、新しいのをすかさず装填。

 足を組んで、余裕を見せる悪魔は私の様子にパチパチと嘲りの拍手を送ってきた。

「素晴らしいです。一体どれだけ隠し持っているのですか?」

「手の内晒す馬鹿ハンターが居ると思うな、悪魔が」

「そうですか? 何人かいましたけどね? もっとも……」

 くす、と目を細めて、悪魔は唇に指を当て、首を傾ける。

「そんな愚行を犯す狩人は、一瞬で魂を攫わせていただきましたけど」

 悪魔め。悪霊をたきつけるだけならいざ知らず、討伐隊の命を奪うなんて。腹立たしい。拳銃を握る手に力を込めた。

 だけど、冷静さを失うわけにはいかないわ。銃撃の基礎は集中力なんだから。固定標的ならば、集中力さえあれば百発百中な自分を、失っては駄目。

 そもそも、悪魔の言葉は嘘が潜む。だからこそ悪魔との会話は、危険な行為の一つなんだから。

「今すぐ、リリバスの元から離れるなら見逃してあげなくもないわよ?」

「それは難しい相談です」

 こいつ、本当に何を考えてるの?

 私の攻撃を全て躱しながら、しかし反撃はしてこない。

 攻撃能力がないのか、あるいはこちらを弱らせてからのつもりか……ムカつく悪魔ね。けどリリバスの魂を狙ってるなら、とうに奪っていても、変じゃない。リリバスの能力はチートだけど、使い方を分かってないから、防御できるわけもないし。かといって、エコデの魂でも同じ。リリバスが守れる能力を使いこなせてるわけもないし、そもそも『奪われる』可能性さえ考えてないだろうから。

 ……そう考えると、馬鹿よね、リリバスは。

「ご安心ください。私は、悪魔ですが、あまり人の魂は好みではないので」

「は……?」

 悪魔は、軽く肩をすくめた。

 人の魂こそが食事の悪魔とは思えない発言ね。

 これも、何かの罠かしら。警戒を緩めず睨む私に、悪魔はうすら寒い笑みを浮かべて言う。

「私はどちらかと言えば、人間の感情が好物です。絶望や不安、恐怖や憎悪。そう言ったものが、堪らなく美味と感じます」

 こいつ、恐ろしい悪魔ね。

「……その為に、絶望の種や恐怖の罠を仕掛けるのが好きなのかしら?」

「それも嫌いではありませんが。……でも今は」

 ふと、悪魔は柔らかな笑みを浮かべた。

 あまりにも不釣り合いなその笑みに、私は思わず呆気にとられる。

「今の生活が、気に入っていますよ。平穏で、温かくて、慎ましい生活が」

「似合わないわね」

 即断する私に、悪魔は苦笑して頷いた。

「そう思いますよ。……でも、本心なのですけど」

「……そう」

――パチン。

 私が指を鳴らすと、悪魔の腕に、赤い円が浮かび上がった。

 その円の中に、見る間に蛇が絡まる様な赤黒い模様が刻まれていく。

 ……この悪魔、本気か?

「まぁ、愉快な魔術を知っていますね」

 大して驚いてもいない様子で、悪魔は驚きを演じる。

 腹立たしい悪魔だこと。だけど、いずれその余裕と油断を後悔させてやるわ。

「悪魔に説明は不要でしょうけど。私特注の呪いよ。精々、今の言葉に偽りがないことを、願ってあげるわ」

「それはどうもありがとう、巫女様」

 優雅に一礼してみせた悪魔。

 私の施した呪いは、悪魔を呪い殺すもの。『今の生活を気に入っている』とのたまった悪魔が、リリバスの生活を脅かす行為に出た場合に、その呪いが発動する。

 苦悶と絶望を延々と彷徨う悪魔だなんて、実に愉快だわ。ふふ、考えただけでたまらないわね。

「巫女様の方が余程悪魔に適した思考をお持ちのようですけどね」

 黙れ悪魔。私のように天使のごとき慈愛に満ちた美人の巫女は、二人と存在しないわよ。

 

◇◇◇

 

「……ロヴィ、俺の寝泊まりしてる部屋が見事に粉砕されてるんだが」

「大丈夫です。兄さんには僕のベッドをお貸ししますから」

「いやいや、一緒に寝ないからな? ロヴィ」

「何故ですかっ?!」

 俺が逆に聞きたいわ。

 何で部屋が吹き飛ばされてて、ラフェルとサチコが怖い笑顔で牽制し合ってて、ロヴィが一緒に寝るという選択肢に辿り着いたのか。是非に誰か説明して欲しいもんだ。出来ればまともな常識を持った、第三者からの説明が欲しいところだが。

 ……俺の周りにまともな人がいないのは、どうしてなんだろう。あ、何か目から鼻水が零れそうだ。

 

◇◇◇

第9話 Not home alone

 

 ふと、外を見れば通りを小走りで駆けていく人や、慌てて傘をさす人が見える。雨、降ってきたんだ。

「あっちゃぁ、降ってきたかぁ。ごめん、エコデ。ちょっと洗濯仕舞ってくるね」

「あ、はい」

 そう告げたヴィアさんは慌てて、自宅へ続く扉の向こうへ消えた。

 傘、忘れちゃった。帰りまでに止むといいけど……。

 店内に人もいないので、僕は外の様子を窺いに、店内入口へ向かう。そっと扉を押し開けると、雨の降り始めの独特の匂いが滑り込んだ。空を窺うと、真っ黒な雲が完全に太陽を覆い隠している。

 止まない、かも。通り雨じゃないみたいだし。困ったなぁ。

 ぱた、と扉を閉めて僕は小さくため息をついた。

 先生とラフェルさん、何してるんだろう。

 ぎゅっと胸が締め付けられるような感覚。言い様のない不安と、寂しさが僕を包む。

「帰って、来ますよね……先生」

 当たり前だけど、当たり前じゃないそれが、いつも苦しい。

 

◇◇◇

 

 王族で、しかも第一皇子。それから、先生がどういう『生まれ方』をしたのか聞いたときは、正直最初は信じられなかった。よくわからない事ばっかりだったし、僕が先生に出会ったときにはもう、先生は『先生』だったから。

 だから先生はずっと何も言わずに一緒に生活してきたんだと思う。

 でも、それが崩れてしまって、一度は先生はこの街から姿を消した。もう帰ってこないんだって、突きつけられた。

 だけど、先生は帰ってきてくれて、全てを話してくれた。あまりにも現実離れし過ぎてて、信じるのは難しかったけど。

 でも、僕はもう、先生しか信じられるものが、なかったから。それに一番不安だったのは、きっと先生だったから。

 僕はやっぱり、先生が幸せになってくれるのが嬉しい。

 だから弟さんとの関係に悩んでる先生を笑顔で送り出すのも、僕の役目。

 もしかしたら、和解して戻ってこない可能性もある。それも飲み込んで、いつも送り出す。

 でも、勝手に帰ってきて欲しいって願うのは、我儘、なんだよね。

「遅くなりました、エコデさん!」

 息を切らして店に飛び込んできたのは、ダンダさんだった。

 僕はすでに帰りの支度を終えて、ヴィアさんと他愛無い会話をしていたところだった。

 ヴィアさんに軽く会釈をして、僕はダンダさんへ歩み寄る。

「いえ、あのすみません。お手数おかけして」

「お気になさらず。市民の安全を守る警官の務めを全うしてるだけですから」

 さらっとそんな言葉を紡ぐダンダさん。

 未だ降り続く雨に打たれたらしく、ダンダさんはびっしょりだった。でも、何故かその手には黒い雨傘。

「はい、これ使ってください。取りに帰ったら遅くなっちゃって。ほんとにすみません」

「え? ダンダさん、自分のは?」

「私は雨衣がありますので」

 にこっと爽やかな笑みを向けたダンダさんから傘を受け取った。

 僕が持ってる、っていう可能性は最初から排除してるのかな。それに、雨衣があるなら来る前から着ていればいいのに。

 ダンダさんは、面白くてすごく優しい警察官さんだなぁって、つくづく思う。

 

◇◇◇

 

「明日、でしたっけ。先生が戻ってくるのは」

「予定では、そうです」

 そう。あくまで、予定でしかない。傘の柄を握る手に、力が入った。

 隣を歩くダンダさんは雨衣を着て、自転車を押している。

 先生がお願いして、ダンダさんが僕の送迎をしてくれていた。

 夜は泊まってくれて、ほぼ一日警護。ダンダさんも忙しいはずなのに、いつも快く引き受けてくれるから、僕も先生も厚意に甘えてるようなものだった。

「先生も忙しいですねぇ、出張だなんて」

 ざあざあ降りしきる雨が、ダンダさんの声を妨害する。

 出張、ってことにはしてるけど。本当は違うとは、流石に言えない。先生は正体を隠して、診療所をやってるわけだし。

「エコデさんは、いつもお留守番ですけど……いいんですか?」

「え?」

 どういう意味か分からなくて、僕はダンダさんを見上げた。

 ダンダさんは小さく笑みを浮かべて、首を傾ける。

「いえ、一緒に行きたいって顔してるのになぁと思って」

「……僕は、先生のところの、ただの居候ですから」

 あ、自分で言って、地味に痛い。ちゃんと笑えてるか怪しいな。

 ダンダさんはそうですか、と頷いて前を向いた。

 何故かほっとしながら、僕も視線を正面に戻し、

「エコデさんは……ずっと、先生のところにいるんですか?」

 唐突なダンダさんの言葉に、僕は呆気にとられる。

 どういう意味か、よく分からない……。

「居候なのは知ってますけど、ご家族のところには帰らないのかなって」

 家族。

 なるべく考えないようにしていた、そのフレーズ。嫌だ。目を背けていた感情が、僕に押し寄せる。

「エコデさん?」

「あ……」

 知らず、足を止めていた僕を、少し先に行っていたダンダさんが心配そうに見つめていた。

 慌てて歩き出す。だけど、何故か上手く体が動かなくて、足がもつれる。

「だ、大丈夫ですか?」

 手を伸ばしてダンダさんが僕を支えてくれた。それが、何だか無性に……悲しくなった。

「僕には……家族は、いません」

「えっ……?」

「だから、僕は……」

 もう、先生のところにしか、居場所なんてない。それを失ったら、僕は。

「良かったですね、先生が居てくださって」

 ダンダさんの明るい声に、僕は俯かせていた顔を上げた。

 しっかりと僕の手に傘を握らせ、ダンダさんは倒した自転車を起こす。

 僕はそんなダンダさんを見つめながら、リフレインさせていた。

「先生はとても優しい方ですから。エコデさんの事を責任もって見てくれてるでしょう。それってもう、家族みたいなものですよね」

「かぞ、く……」

「何かあったら、いつでも言ってくださいね。協力できることはしますから」

 ダンダさんはそう微笑んだ。

 不思議と、いつもダンダさんの言葉は素直に聞き入れられる。

 一緒に居て怖くないのは、先生以外じゃ、ダンダさんしかいないからかな。

 それも考えてみれば、不思議だけど。ダンダさんは初めて会った時から、初対面、って感じがしなかった。

 その理由は今でも分からないけど、不安と恐怖が覆いつくそうとしていた心が、明るくなる。

「ありがとうございます、ダンダさん」

「いいえ。それが警官の務めですから」

 ……その一言で片づけるダンダさんは、凄いなぁ。

 空を見上げれば、星の見えない夜が広がるだけ。目印のない空は頼りない。今の僕の心の中と、同じかもしれない。

「明日は晴れるといいですね」

「そうですね……」

「先生の事だから、エコデさんのご飯楽しみに帰ってくるんでしょうねぇ」

 そう笑ったダンダさんに、僕は苦笑した。

 だったら嬉しいなぁ、と思って。僕にとっては先生にご飯を美味しいって言ってもらえる日が続くなら、それでいい。

 安い、人生なのかなぁ。よくわからないけど。ひとまず今は。

「ダンダさん、食べたいものありますか?」

「えっと……じゃあ、良ければシチューを」

「大丈夫です。任せてください!」

 僕に出来ることを精一杯やろう。

 明日の朝までは、ダンダさんに。明日の昼以降は、先生のために。だから先生、ちゃんと帰ってきてくださいね。

 

 

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