第三話 赤い弾痕

 

 耳栓をしても、鼓膜を震わす轟音と、腕に伝わる衝撃。

 考えずとも跳ね上がる腕をすぐに水平に戻し、一翔は正面を真っ直ぐに見つめ、引き金を引く。

 最後の弾丸を吐き出した拳銃を静かに下ろして、一翔は息を吐く。

『流石。早坂2尉は特級かぁ』

 耳栓代わりのイヤーマフに内蔵されたマイクから聞こえるりりあの声。

 一翔は隣のレーンに並ぶりりあへ目をやった。

 偏光グラスを装着したりりあの口元が笑みの形を作っている。

 ちらりと、りりあの標的を確認すると、思ったよりも弾痕が散乱していた。

 標的から外れた弾はないようだが、一級が良いところだろう。

『あ。今護衛班の割に下手だなって思いましたね!』

 顔に出たかと眉をひそめていると、りりあは軽く肩をすくめる。

『固定標的でスコア競っても、意味ないですからね。私は』

「負け惜しみにしか聞こえないぞ」

『うわっ、酷い! 酷いです!』

『おい。早く出て来い、秋田、早坂2尉。撤収時間だ』

 防弾ガラスの向こうで腕を組んで立つ横白(よこしろ)に、一翔とりりあは黙って動き出した。

 怒らせると、横白は鬼の形相で、黙りこくるから怖い。

 短く刈り上げた頭に、深い傷跡の刻まれた右腕。獲物を射抜くような鋭い視線に晒されてぎくりとしないものはいないと、周囲で囁かれているほどだ。

 年に一度の射撃訓練。一翔は今年度もどうにか特級をとることが出来た。

 

◇◇◇

 

「横白2曹! 早坂2尉が馬鹿にします! 護衛班の癖にって!」

「な、なにも言ってないだろ!」

「目と態度から滲み出てます」

 じろりと睨みつけたりりあは、短い髪を手で整えながら口を尖らせていた。

 一翔が言葉に窮していると、りりあの頭を横白の大きな手ががっしりと掴む。

 その目は怒ってはいないが、慰めてもいなかった。

「ええと。……次は特級とります!」

 空気を読んだ様子で、りりあが手を上げて宣言する。

 横白はあまり表情を動かさず、だがしっかりと頷いた。

 まだ三十五歳だという横白だが、死線を潜り抜けてきた猛者だけあって、年齢よりも老けて見える。

 本人曰く、悲しいとのことだが表情に出ないせいで、それもあまり知られていなかった。

「失礼しました、早坂2尉。……でも、秋田の腕前は、信用に足ると私が保証します」

 りりあの頭から手を離した横白が一翔に告げる。

 一翔は慌てて首を振った。

「いや、腕前を疑ったりはしてないですよ」

「ほんとですかぁ?」

 じろじろと一翔を観察するように覗き込むりりあ。

 即座に横白がりりあの肩を掴んで引き戻す。横白はりりあの数少ない先輩で、何かと世話を焼いている。

 警備職種の二人は、一翔と同じく、機動救護隊という衛生職種の中では異端の二人だ。

「秋田と、横白さんだけでしょう。この隊で、まともに武器を扱えるのは」

「一応、牧田先生も持てますよ。自衛のため、患者の命を守るためには。でも、そんなもの持ってたら、治療なんてままならないって、牧田先生言ってました」

「……牧田1尉らしいな」

 海は生粋の医者だと、つくづく思う。

 だが、医者という仕事をしたいならば軍人でいるべきではないだろう。

 患者の数は少ないに越したことはないのだから。それは自ずと、医業とは離れる結果になる。

 それでも、今の仕事を海は誇っていた。

(理解不能だな、牧田先生は)

 分かる日が来るかどうかさえ、一翔には不透明な未来でしかなかった。

 

◇◇◇

 

「ところで、早坂2尉今週末暇ですか?」

 がたがたと揺れるカーゴ車の荷台で、不意にりりあが切り出した。

 腕を組んで半分微睡んでいた一翔は重い頭を上げて、りりあを見やり首を傾げる。

「……特に予定はないけど」

「じゃあ、空けといてください!」

 胸の高さでぐっと拳を握りしめて目を輝かせるりりあ。

 思わず眉をひそめた一翔に、りりあがゆらゆら左右に体を揺らしながら笑った。

「今週末、牧田先生の誕生日なんですよー。一緒にご飯いこーって約束してたんですー」

「待て。何でそこで俺に話題を振るんだ?」

「え、だって人は多い方が牧田先生も嬉しいじゃないですかー。あ、大丈夫です。檜2尉も呼んでますよ!」

 何一つとして納得できる発言ではなかった。

 

◇◇◇

 

 休日が完全なる休息日と言い難いのは、軍人の常識だ。

 いつ呼び出しがあるかも分からない。思い立ったように旅行に行くなんてもっての外で。

 窮屈な生活を強いられて、挙句謂れのない非難を受けながらも日々を過ごす。

 損な仕事だと、時折思う。

 一つため息を吐いて、一翔は壁に背中を預けながら腕を組んだ。

 往来激しい池袋駅。いつもの埼玉の閑散とした住宅地と比較すると、くらくらしそうなほどの人の多さだ。

「やっほー、早坂先輩っ!」

 べしっと腕を叩かれ、一翔は視線を右へスライドさせる。

 頭のてっぺんだけが辛うじて視界に入った。

 そのまま視線を落とすと、はじける笑顔を浮かべたりりあ。

「俺はお前の高校や中学の先輩じゃないぞ」

「うわっ、嫌だな。外で階級つけて呼べるわけないじゃないですかー」

 けたけた笑うりりあに、一翔は流石に反論できなかった。一理ある。

 意外にも、シフォンワンピースという柔らかな服装なりりあ。普段の猫のように駆けまわる姿からは想像できないセンスだった。

「そういうわけで、今日は無礼講な感じで! ね、海せんせー」

 くるっと振り返ったりりあの視線の先。つられて目を向けた一翔は、思わず呆気にとられる。

「そうだな」

 小さく苦笑した海は、ジーンズにオレンジのパーカーという、地味極まりない恰好だった。

 一翔の勝手な想像では、もっと大人っぽい服装だと予想していた。

 オレンジのパーカーではなくて、パステルカラーの七分カーディガン。

 ジーンズではなく、オフホワイトのシフォンスカート。

 黒のスニーカーではならない、靴音を響かせる高いヒールの靴。

 それが一翔の用意していた海のイメージで。

 予想外極まりなかった。

 言葉もない一翔に海は不思議そうに首を傾げる。いつもは後ろで小さく丸められた髪だが、今日はその抑圧から解放された反動か、さらさらと海の肩を滑った。

「どうした? 早坂」

「あれじゃないですか。牧田さんの私服に、吃驚してるとか」

 海の傍らで、徹は笑いを堪えつつ、そう返す。

 若干不愉快そうに眉をひそめた海の表情で、一翔はハッと我に返り、慌てて首を振った。

「いやただ、まさか三人一緒にくるとは思ってなかっただけで」

「ああ、檜が当直明けだから、りりあと一緒に出るという話だったんだ」

「で、じゃあどうせなら海先生も一緒に駅で合流しようって話になったんですよ」

 ふふん、とない胸を得意げに反らすりりあに、一翔が冷ややかな視線を投げる。

「何で俺だけ各個前進なんだよ」

「あー、不貞腐れてんですか、先輩」

「だ、誰が!」

 にやにやと楽しそうなりりあから視線を引きはがし、そっぽを向く。

 まったく、恐ろしい部下だと思いつつ。

「まぁまぁ、ほら、秋ちゃん。油売ってる時間が勿体ないよ」

 緊張感のない笑顔で混濁した空気を切り払う徹に、海が静かに頷いた。

 ごもっとも、と言わんばかりに。

 一翔とりりあは目を合わせて、次いでそれぞれにため息を吐いた。

 まったくだ、と。

 

◇◇◇

 

 人の往来激しい地下道から、階段を上ってようやく地上へ出る。

 ビルに遮られながらも、その存在感を誇示する太陽の光がアスファルトを照らしていた。

 人が雑多に溢れた狭い通りを、車がすいすいと抜けていく。

 そんな駅前のロータリーに、横断幕を掲げて拡声器で声を撒き散らす集団が居た。

「……うわ出た」

 ぽつ、と零したりりあの声には、紛れもない嫌悪感が過っていた。

 徹は苦笑し、海は相変わらずの冷静さだが、一翔はどちらかと言えばりりあ寄りで、眉をひそめてしまう。

『国防軍の防衛予算を縮小させましょう! 私たちの生活を守るためには、まずは私たちから相手に心を開きましょう!』

 年若い女性が、声を張っていた。

「これはまた……」

 ご苦労な事だ、と海が呟いたのを一翔は意外に感じる。

 嫌悪こそ抱いてはいないようだが、海らしからぬ若干の軽蔑がこもっていたからだ。

 相手にしていない、というほうが正しいかもしれない。海の対応は、まさしく大人の対応で。

「かつく。あーいう奴、マジ嫌い」

 ぶつぶつと憎悪を込めたりりあの対応は、子どもの反応だ。

 一翔としては、りりあの気持ちも、よく分かる。

「気にするな、りりあ。……周囲を見ろ、誰も聞いちゃいない」

 そっと宥める海の発言に、一翔もぐるりと周囲を確認する。

 確かに足早に行き過ぎる人が大多数で、聞いているのはよくて四、五人。待ち合わせの音楽程度の人間だっているだろう。

 大体、そんなものだ。

 自分に関係がないから、誰も耳を貸さない。いつも通りの光景に過ぎない。

 ここは、ただ通り過ぎればいいだけだ。

「分かってるけど。でも……」

 言いかけたりりあの前に、一人の中年女性が立つ。吃驚した様子で身を引いたりりあに、女性は笑顔で一枚の紙を挟んだバインダーを差し出した。

「署名、お願いできるかしら」

「は?」

 露骨に顔をしかめたりりあ。一翔たちも、差し出された紙の内容を確認する。

『防衛予算削減に対する署名』――どうやら、主張活動中の同類だったらしい。

 にこにこと悪意なく微笑む女性は、きっとそれで本当に日本からテロリストが消えると思っているんだろう。

 その楽観的思考に、一翔は憐れみと安堵を覚える。

 そう思えるのは、まだ……日本が、平和な部分を抱えているからだ。

 徹は苦笑する始末で。ふと、りりあがバインダーを手に取った。

 それは正直意外な行動で、一翔は目を丸くする。

「……ふーん。書いてもいいけどさ。そしたら教えて、おばちゃん」

「何かしら?」

「何で日本には、未だに隣人を殺す人がいっぱい居るのかな?」

 唐突な問いに、女性は表情を曇らせる。りりあはバインダーに挟まれていたペンを手で弄びながら首を傾げる。

「つまりさ、お隣さんが武器を持ってなかったら平和なんだよね。でもさ、日本って銃刀法で基本的に武器なんて持てないでしょ。でも、人を殺すんだ。嫌いだから、うるさいからって。それって不思議じゃない?」

 女性はりりあの発言にただ唖然としていた。思わぬ切り替えしだったのだろう。

 一翔や海までも、驚くほどなのだから。

「……軍がなくなるって、そういう事でしょ? 違うの?」

 純真無垢に問いかけたりりあに、女性は言葉を紡げなかった。

 りりあは小さく息を吐くと、ぽすっと女性の胸にバインダーを押し付ける。

「はい、落第点。主張ってのはさ、徹頭徹尾、自信もって言わなきゃ意味ないんだよ。……良い歳してさ、少しは世間を知りなよ」

 さっと女性の顔が赤くなる。怒りで、だろう。

 涼しい顔で女性の脇をすり抜けていくりりあの後ろ姿は、清々しささえ、過ぎらせていた。

「……怖い。やっぱ女って何歳でも怖い」

 徹が震えた声で呟いた。海は苦笑し、怒りに震える女性を残してりりあを追いかける。

 一翔はちらりと、主張集団を見やって、微かに目を細めるとすぐに海たちの後を追った。

 

◇◇◇

 

「あーっ! ほんっと、ああいう頭がお花畑な奴らって大っ嫌い! 世間知らずの上に図々しい!」

 だんっ、とテーブルを叩きつけて、りりあは荒々しくメロンソーダのストローに口をつけた。

 ライト全開のカラオケの一室は、秘密基地のようにも感じられるほどだ。

 怒り冷めやらぬりりあが、まずカラオケに行きたいと騒ぎ出したのが発端で。

(そもそも、牧田先生の誕生日を祝うための食事会がどうこう言ってなかったか?)

 予約しているのかは聞いていないが、どうにも忘れ去っている気がしてならない。海が何も言わないので、一翔としてもそれ以上の口出しは控えていた。

 ふと、徹が乾いた笑いで選曲しているのを指さし、りりあが吠える。

「檜さんは悔しくないんですか! 下手したら、檜さんの給料半分にされちゃうんですよ!」

「いやうん。分かってる。分かってるよ」

「分かってないですよ! 私、ああいうの大嫌いです! あんなのを守らなきゃいけないなんて、反吐が出そうです!」

「りりあ」

 ぽん、とりりあの肩に手を触れて、海が名を呼ぶ。

 りりあは海の静かな視線に、爆発していた勢いが見る間に収まり、目を伏せた。

「……殺しちゃいけないなんて、知ってますよ。でも、撃たなきゃ、私が殺されるんです。相手は、弾を込めた銃を持って、立ちはだかるんです。撃たない保証なんてないのに。戦うのは、あの人じゃなくて、私なのに。……私が無抵抗で撃たれても平気なんですよね、あーいう人たちは」

 りりあの言い分も、分からなくはない。

 未だに日本は志願制だ。だからこそ、武器を持たずに済む人は大勢いる。

 でも、守られているという自覚がある日本人は多くはないだろう。むしろ、武器を持つ軍を嫌う人の方が多くなりつつあるかもしれないのだ。その最前線にいるりりあとしては、面白くないどころか、傷ついても不思議ではなかった。

 だが、一翔にはりりあを激励する適切な言葉が、浮かばない。

「……気にするな。少なくとも、私たちはりりあの存在に感謝している」

 海の言葉に、りりあは悲しげに笑った。

 らしくない表情だが、それもりりあの本心だろう。視線を伏せたまま、りりあは想いを吐き出す。

「あの人たち、知らなすぎるんですよ。自分たちの頭上を爆弾搭載した別の国の飛行機が飛び回ってること。撃たれなきゃ分からないんですかね。撃たれて、それでも武器なんて持たないって言えるなら、尊敬するけどな」

 りりあは、戦闘班だ。テロリストや敵性勢力から機動救護隊を守るために居る。

 つまり、りりあが居なければ、機動救護隊は自己防衛さえできない。一般市民と同じだ。

 ジュネーブ条約は、あくまで締結国家間で適用される。そうでなくても、テロリストが適用する保証はどこにもない。

 本来、テロリストの相手は警察の役目だが、世界情勢はそうも簡単ではないのだから。

 りりあや横白の存在は、機動救護隊を守備する唯一の力だ。海の、言ったように。

「……秋田」

「はい?」

 顔を上げたりりあの表情は、いつもよりは暗い。

 それは普段一翔には見せないりりあの顔で。何だか、少しおかしい。

「何だよ、その顔。……お前の取柄は、馬鹿みたいに元気なだけなんだから、落ち込むとか似合わないぞ」

「なぁっ! 酷い!」

「それよりとっとと歌え。採点機能付きだぞ」

「うわ、負けませんからね!」

 別方向へ闘志を燃やし始めたりりあは、徹からデンモクを奪い取る。

 選んでたのに、と嘆く徹は見事に無視された。

 別の事を言おうと思っていたはずの一翔だが、りりあの表情で言葉が全て吹き飛んでしまっていた。

(らしくないことを言おうとしてたんだろうな)

 小さく自嘲しながら、何の気なしに視線を巡らせると、海と目が合った。

 意外そうな顔をしている海に、一翔は首を傾げる。

「どうか……しました?」

「……いや」

 海はそっと瞬きをして、目元を微かに緩める。

「早坂……は、……たまに予想以上の事をする」

 一翔の頭の上に疑問符を躍らせるには十分な、海の発言だった。

 

◇◇◇

 

 カラオケの次はスイーツだと息巻くりりあは、徹にあれこれ指図して店の検索指示。

 見つけた店舗は駅の反対側らしく、今は来た道を戻っている途中だ。

 主張活動も終了したらしく、すでにあの女性たちの声は響いていない。

 それがりりあの気をそれ以上損ねなかったのはあるいは救いかもしれない。

 徹の脇で行き先をちらちらとチェックしているりりあの後ろ姿。

「りりあを、ちゃんと見ていろ。早坂」

 その背をのんびり追いかけていた一翔に、隣を歩いていた海が告げた。

 意味が分からず、小首を傾げた。海は正面に視線を固定したまま、続ける。

「一番気を張っているのが、護衛班だ。下手をすれば、自分の命よりも、護衛対象……つまり救護隊の命を優先するだろう」

「……それは、そういう任務でしょう?」

「それを否定はできない。だが、早坂。……りりあや横白さんを失えば、私たちは盾をなくすのと同じだ。ただの的だ」

 海の主張も、間違ってはいないだろう。だが、同意するには感情論が入りすぎていると一翔は感じていた。

「これは私の考えだがな。……自分の命を守れない人間は、誰も守れないと思う」

 ひやりと、海の言葉が一翔の思考を冷やす。

 思い出すのは、白い箱。幼き日の幻。

「俺は……そうは思いませんよ。……命を賭けて守った人がいるなら、それは立派だと思います」

 でなければ、一翔は父を否定することになるのだから。

 強く拳を握りしめた一翔に、そっと海が視線を向けた。

 しかし何を言うでもなく、するりと瞳をそらす。

「……構わない。私の考えを押し付けるつもりはない」

「そうですか」

「だが、りりあは貴重な戦力であり、仲間だ。……それを無駄死にさせる真似だけは許さない」

「もちろんです」

 護衛班は、一翔の立派な部下だ。そんな戦力を失うことなど、一翔としても望まないのだから。

 海と、思想は一致しなくても、導きだす答えは、違えてなどいない。

 遅いですよー、と手を振るりりあと、苦笑する徹。

 そのどちらも、喪えない仲間には、変わらないのだ。

――刹那、凄まじいブレーキ音と、金属がぶつかりひしゃげる音が、池袋の駅前ロータリーに響き渡った。

 

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