第一話 深海の巫女の憂鬱
ぽこぽこと、上へ上へと昇っていく気泡を見つめる幼い少女。
彼女はその幼い顔には不釣り合いな深刻な表情を浮かべていた。エメラルドグリーンの双眸は、揺らめく光が降り注ぐ天を見据える。
「クスフェや、どうかしたかえ?」
少女が振り返ると、ゆっくりと近づく老婆の姿。
「ばば様……皆の様子は?」
「水宮(すいぐう)の官女たちが上手く対応しておるがの……根本の解決ではないからねぇ」
「分からないの。私でも、どうにもできないなんて……こんな事、今までなかったんだよね?」
少女が問いかけると、老婆は眉根を寄せる。
「記録にはないねぇ」
「さっき、死神の人にも聞かれたの。どういう事だって。これは、本当に異常事態なんだ……」
少女は震える両手を握りしめて、瞳を閉じる。
普段ならば、この場所は祈りを捧げる神聖な場所で、少女の一番落ち着く場所だった。
円形の光が降り注ぐ台座には、大きな水晶が光る。その水晶の輝きはいつもと変わらない。
それ故に、この場所の静謐さが残酷にも感じるのだ。
「ばば様、どうしたらいいの? 私は、どうしたら……」
ちらりと、老婆は少女を見やる。
少女の小さな肩には、この重圧はさぞ重い事だろう。
「クスフェ……それを考えるのがぬしの役目だえ」
「でもっ……」
「出来ることをする。それをせずに諦めるというならば、その座を明け渡すしかないね」
「そんな事出来ないよ!」
強く否定した少女に、老婆は一瞥寄越し、そして正面の水晶へと視線をやった。
「ならば考えよ。それがぬしの役目だえ。……のう、巫女にして第十一の座 海蓮(かいれん)や?」
きゅ、と少女は唇を噛み締める。
全ての大陸が海の底に沈んだ世界『海宮(かいぐう)』。
魔導評議会第十一の座・海蓮の世界は未知なる危機に怯えていた。。
◇◇◇
世界という器そのものの管理を担当するのが次元総括管理局。
世界に生きる魂の管理を担当するのが死神協会という組織だ。
魔導評議会は次元総括管理局のトップに位置する。
魔導評議会定例会議は本部世界時間で二週間に一度開かれていた。
議長は持ち回り制で、今回は風龍(ふうりゅう)が担当だった。
「……以上で議題は終わりですが、他に何かある方はいらっしゃいますか?」
良く通る穏やかな声音で、風流は全員を見回す。
いつも通りの、異論のない沈黙。
「では、今回はこれで終了といたします。お疲れ様でした」
風龍の解散宣言の後、張り詰めていた空気が微かに緩んだ。
議員同士の仲が良いかと問われたら、それは否である。
同じ目的は持っているが、基本的に価値観は違う。何もない限りは、積極的に関わりを持とうとはしない。
――ただ一人を除いて。
「海蓮、大丈夫か?」
「え……?」
自分でも気付かぬうちに顔を伏せていた海蓮はゆっくりと頭を上げた。
心配そうな顔をして傍らに立っていたのは、同じ議員の一人、水虎(すいこ)。金髪碧眼の少年は、少し躊躇した素振りを見せたが意を決して問う。
「何か、困ってるなら……出来る事なら協力するぞ?」
「どう、して?」
問い返した海蓮に水虎は呆れたと言わんばかりに告げる。
「お前、最後に何か言いかけてやめてたろ」
図星だった。位置的には水虎とは対角線上にいる。
そのお陰で海蓮の小さな挙動にも気づいたのだろう。水虎は、そういう所に敏感だから。
黙って肯定した海蓮に水虎は殊更大きなため息をついた。
「ほら、行くぞ」
「行くって、どこへ?」
「俺の執務室。ここじゃ落ち着いて話もできやしないからな」
くるりと踵を返して歩き出した水虎に、海蓮は慌てて尋ねる。
「何で、そんなに構うの?」
「はぁー……っ」
足を止めて大きくため息をつくと、水虎は振り返ってそっけなく言い放った。
「仲間だからだろ。馬鹿か? お前」
「なか、ま?」
「そ。議員仲間。……ほんっとお前らって馬鹿だよなぁ」
言うだけ言うと、水虎はさっさと歩き出した。
海蓮は水虎の背中を茫然と見つめ、「仲間……」と口の中で転がした。
水虎は、いつもそうだ。
何かを守る事に手を惜しむことは、絶対にない。
その手を自分にも差し伸べてくれたのだ。
扉の近くまで行くと水虎は振り返って「置いてくぞ」と告げる。我に返った海蓮は慌てて席を立つと、水虎を追いかけた。
◇◇◇
各議員には執務室が割り当てられている。
部屋の広さと構造は同じだが、議員によって雰囲気が異なってくるのは当然といえば当然で。水虎の部屋は、何というか……海蓮からすると、生活じみていた。
いや、それとも少し違うかもしれない。
「砂糖とミルクはいるのかな?」
「え、あ……いただき、ます」
海蓮が頷くと、水虎の付き人らしき男がテーブルの上に紅茶とスティックシュガーとミルクポーションを置いた。
水虎は海蓮の正面でココアの入ったカップに口をつけている。
この部屋は、人の気配がする部屋だ。
生きている、あったかい空気の流れる部屋。
こんな執務室、他の議員では有り得ない。
海蓮が戸惑いながら黙って膝の上に手を乗せて水虎を見つめていると、水虎は微かに眉根を寄せた。
「取り敢えず、飲めよ。俺、堅苦しいの嫌いだし」
「水虎はそういうところ、ありますね」
「アルト」
少し不機嫌そうに、水虎は言う。
海蓮が首を傾げると、カップを置いて水虎が海蓮を真っ直ぐ見据えた。
「ここは会議室じゃないし、俺は個人的に話聞こうとしてるだけだから、……アルトでいい」
そう告げた様子は、どこか恥ずかしそうだった。
水虎とは、そういう人物だ。海蓮は少しだけ肩の力を抜いて、頷いた。
「……クスフェ・マリエルです。……ありがとう、アルト」
◇◇◇
クスフェはミルクと砂糖を混ぜた紅茶で喉を潤し、一呼吸を置いた後アルトに視線を向けた。
アルトの座るソファの後ろでは、アルトの付き人であるらしいシスと言う男が控えている。
「私の属する世界で、異常が起きているのです」
「異常って……具体的には?」
「私の世界は、海中にあります。その海が、濁り始めているんです」
「濁るって……それは別に異常じゃないだろ?」
どの世界においても、生命は循環する。その循環の過程では当たり前の話だ。
「原因が、ないんです」
「は……?」
「本来の、私たちの世界の循環経路から外れた『何か』が海を濁らせているんです」
そう説明を加えたクスフェに、アルトは眉根寄せて、カップに口をつける。
今回の定例会議で調査課から問題として提起されていないことも踏まえると、そもそも異常を観測できていない可能性も捨てきれない。
「それだけならまだしも、問題は私では対応できないのが、最大の問題です」
「特権を使っても、か?」
確認するアルトに、クスフェは暗い表情で頷いた。
魔導評議会議員にはそれぞれ担当の領域において『特権』を付与されている。
クスフェの担当は『海』であり、水中の組成を意のままに操作する能力を与えられている。
それを以てしても対応できないとなると、いよいよ問題である。
「場所とか時期とか特定はできるのか?」
「はい。……局地的だったものが、徐々に勢力を拡大するように広がっているので」
「……なるほど」
頷いたアルトに、クスフェは若干身を乗り出すように続ける。
「このままだと、皆が死んでしまうんです。私は、議員である前に、巫女なんです。私を信じて推してくれた皆を救えないなんて、私は……何のために巫女であるのか、分からない」
巫女候補は何人もいた。だが、クスフェを巫女とするために、一族や村の人々がどれだけ頑張ってくれたのかをクスフェは身に染みて理解している。
そんな人々を、そして巫女を信じて仕えてくれる人々をクスフェは守りたいと強く願っていた。
「……要は、まずは原因が何かを確実に掌握しないと駄目って展開だよな?」
そう言ったアルトに、知らず目を伏せていたクスフェは顔を上げる。
アルトはクスフェではなく、後ろにいたシスに確認したらしく、シスが頷いていた。
「となると、暇な奴ら斡旋するか……」
通信機を取り出し、検索をかけ始めたアルトに、クスフェは軽く驚く。
「え、あの、何を……?」
「知り合いの暇な監査官探して原因究明の手伝いしてもらうのが一番いいだろ」
「アルトが直接協力してくれるのではなく?」
さすがに他人にこの事を知られたくないという意識が働いたクスフェに、アルトは不思議そうに目を向けた。
「俺はそーいうの向いてないって知ってるだろ? こういうのは向き不向きがあって、向いてる奴に任せるのが良い」
「で、ですが」
「なぁ、クスフェ」
アルトは小さくため息をつくと、困り果てるクスフェをじっと見据える。
「一人で出来る事には限界がある。だから、他人がいるんだ。他人って、協力するためにいるんだと俺は思う。じゃなきゃ、人は一人で生きて行けばいいんだから」
「アルト……」
「だから、俺が信じてる人を、クスフェも信じてほしい」
迷いなく、まっすぐな瞳で告げたアルトに、クスフェは否定する言葉は浮かばなかった。
相談しようと決めたのは、最終的に自分なのだ。
そんな自分のために協力してくれるアルト。
協力とは直接の協力だけを指すわけでもない。
必要な人材を斡旋してくれることも、十分な助力だ。
クスフェには、出来ないことなのだから。
だからこそ、クスフェは頷いて……深く頭を下げた。
「お願いします。……私の世界を助ける力を、貸してください」
「わ、馬鹿。頭あげろよっ……これは仕事でもなんでもなくて」
――ただ、俺がしたいって思っただけなんだから、とアルトは恥ずかしそうにそっぽを向いて呟いた。
◇◇◇
「うぉー……緊張する」
「うるさいな。とっとと行きなよ。別に仕事ってわけじゃないんだしさ」
ばっさり切り捨てられ肩を落とす死神、ペイル。
黒のワンピースの上に羽織った赤いジャケットを整えていたキアシェに、恨みがましい視線を向けた。
「いやむしろ仕事の方が緊張しない。ヤバくなると絶対キアシェが助けに来てくれるという自信が、俺にはある!」
「は? 何それ。僕はそーいうヤバい事態になってたら、ここから『せめて苦しまずに消滅できますように』って祈っててあげる優しさしか持ってないよ」
しれっと返すキアシェ。そっけなくされることなど慣れているペイルは軽く笑って返す。
「ははは、流石ツンデレの女王キアシェ様」
未だにその言語はキアシェの脳内では謎である。
だが、不快にさせてくる言葉であることは間違いない。
死神の鎌でその首を切り落としてやろうかと真剣に思う時もあるが、先輩として自制していた。
外見からはキアシェの方が年下に見えるが、実際はペイルの方が年下である。
死神は、死亡年齢時の外見と死神となってからの外見が異なることなど当たり前で、外見から年を判断するなど無意味だ。先輩後輩を正しく示すのは死神歴の長さだった。
「とにかく早く行きなよ。仕事じゃないにせよ、監査官と待ち合わせてんでしょ。文句言われても知らないよ?」
ため息交じりに窘めたキアシェに、ペイルは拗ねた様子で視線を向ける。
「じゃあせめて見送りのハグを……」
そうペイルがなおも食い下がる。
キアシェはため息をついて、ペイルに向き直った。
何を考えたのか、途端に緊張した様子のペイルに、キアシェは呆れ返りながら。
「キミは、僕をどんな軽い女だと思ってるのかな?」
「すいませんでした行ってきます」
極寒吹きすさぶ絶対零度の瞳で、キアシェが冷たく突き放すとペイルは土下座する勢いで頭を下げた。
いつまで経っても成長の見込めない後輩に、キアシェは頭が痛い。
◇◇◇
ペイルが呼び出されたのは、通称十三世界と呼ばれる世界の一つ、『海宮』である。
大陸の全てが海に沈んだ、海中の世界。そんな海の世界で、管理局側で未観測の異変があるとのことだった。
監査官側で掌握できなくても、死神の目で見ればあるいは何かわかるかもしれない……――そういった理由から、個人的な依頼が、ペイルの属する機動班『セイヴァー』に来たのだ。
セイヴァーの班長であるロアが軽く探りを入れたところ、協会本部でもいくつか報告は上がってきていたらしい。
それも踏まえて、ロアはこの依頼をあくまで個人的な範囲で受けることを決定した。
ただ、手隙な死神が少ないのが現実だ。
ベテランを割くとその動きを本部や管理局側から怪しまれることも予想される。
そのため、ようやく独り立ちを許可されたペイルが出向くことなったのだった。
それまではキアシェの元で仕事をこなしていたので、今回が初めての一人任務だ。
仕事ではないというが、問題に直面する可能性が捨てきれない中では、油断は命取りだった。正直、気が重い。
「優しい監査官だといいなー……可愛いとなお良し」
待ち合わせの神殿へと悠々向かいながら、ペイルは一人妄想を巡らせる。
揺らめく光がペイルの歩く海底を照らしている。頭上を頭が明らかに人間でない姿がすいすい泳いでいく。
生憎とペイルにはヒレも尾もないのでああも簡単に泳ぐことは出来ない。悠々と泳いでいく彼らと並んで、海中で必死にクロールするのは滑稽でしかないだろう。
それと同時に、揺らめく青の世界の美しさに、ペイルは感動を覚えた。
海の底の世界など、お伽話の中だけだと思っていた。
だが実際の世界は、自分がいた世界以外にも多くの色を煌めかせている。そんな数多の世界をこの目で見ることができるのだから、案外と死神生活も悪くはない。
たまに泳ぎ行く人魚の姿に心躍らせながら歩いていたペイルは、目的の神殿へとたどり着いた。
海神の巫女がいる、白い石柱の神殿だった。
「ここ、かな?」
石段を登り、中へ踏み込む。
高い天井は緩やかなアーチを描き、淡い光を放つ石で彩られて、思っていたよりも中は明るい。
入口から正面には、上半身は人間で下半身は海蛇という海神の石像が銛を手にして屹立し、無言で参拝者を見下ろしていた。
「お待ちしておりました」
その下で、優雅に一礼したのは、一人の少女だった。
青い髪が真珠の飾りできらきらと輝き、海流の影響でゆらゆらと髪が揺れている。
着物に似た青い衣装が、少女にどこか大人びた印象を与えていた。
「えっと、君が一緒に調査する監査官?」
「いいえ。私はクスフェ・マリエルと申します。海神の巫女にして、魔導評議会十三議員の一人、海蓮です」
「えっと?」
いまいち状況の掴めないペイルが首を傾げると、クスフェが小さく微笑んだ。
「今回の件をお願いしたのは、私です。お手数おかけします」
「あ、そーなんだ。議員さんも忙しいもんな」
ペイルの言葉に、クスフェが微かに表情を曇らせた。
それに引っ掛かりを覚えたペイルだったが、クスフェはすぐに表情を変え、穏やかな笑みでペイルを奥へと促した。
石像の後ろから続く奥の部屋へ案内されたペイルは、部屋に入るなり思わず嘆息する。
その部屋の奥には、大きな水晶が降り注ぐ光を受けて輝いている。海面の波に合わせて揺らめく光が、水晶の輝きをより幻想的にしていた。
青く照らされた部屋には、二人の人影があった。
「……あれ? クオルと、ブレンさん?」
「池本……さん? どうして貴方が?」
ペイルは久方ぶりに聞いた生前の自身の名に、思わず苦笑した。
奥にいたのは、ペイルも会った事がある人物だった。
金髪で、どうみても少女にしか見えない小柄な少年のクオルと、その付き人であるブレン。
生前最後に出会った、監査官だった。
「お知り合い、ですか?」
クスフェがペイルに尋ねる。ペイルは曖昧に笑った。
知り合いと言うには、他人で。
「その格好……死神になったんですね。驚きました」
「俺もまさか、未練を抱えてたとは思ってなかったけどな」
クオルの言葉に、自嘲気味にペイルは返し、改めて二人へと歩み寄って手を差し出した。
「改めて。死神協会、機動班セイヴァー所属……今は、ペイルだ。よろしく」
「はい。次元総括管理局、管理特級監査官のクオル・クリシェイアです。よろしくお願いします。……ペイルさん」
クオル、ブレンと順に握手を交わし、ペイルは心の底で安堵する。
この二人が一緒なら、少なくともキアシェと一緒に仕事をするのと同じくらい安心できる。
「で、何でまた任務でもなく、調査依頼なんだ?」
「それは、私から説明いたします」
凛とした、クスフェの声が響く。
それぞれが視線を向けると、クスフェは深々と一礼した。
「改めて、御礼を申し上げます。此度はご協力感謝いたします」
「いやいや、まだ何も終わってないから、御礼は後でいーって」
ぱたぱたと手を振ったペイルに、クオルが小さく笑った。
クスフェは苦笑いを浮かべ、そうですね、と頷いた。
「……私の能力で対応できない濁りが発生している地域があるんです」
「えーっと、確認しとくと、通常では考えられない状態、なんだよな?」
「はい。管理局でも観測できていない異常が広がっています。通常、その世界で起こるはずのない事態には大抵ゲートの関与が見られます。ですが、今回はそれがない。その上、私の力でも太刀打ちできていない」
「その世界で起こりうる事象に対しては、普通ならば対応できるって考えていいのか?」
ペイルの言葉に、クスフェはゆっくりと頷く。
「加えて言えば、濁りであるならば私の領域内の話です。それが通じないという事は、有り得ない」
「領域?」
「議員には王より『特権』が付与されています。私であれば、水中の組成を自在に操る能力を。これは、どんな魔法や科学技術にも押し負けることのない、圧倒的優位に立つ能力です」
「なるほど。で、調査してほしいと」
「お願い、出来ますか?」
不安げに問いかけたクスフェに、ペイルは迷いなく頷いた。
「もちろん。じゃなきゃ何のために来たんだか分かんねーだろ」
自分より幼い少女が自分の世界に住む人々を守るために救いを求めてきたのだ。
そんな願いをペイルが無下にできるわけもない。
誰かを守るために、力を揮う。それは、ペイルが一番願う自分の在り方なのだから。
クスフェはそっとクオルとブレンに視線を投げる。
クオルは苦笑しながら、クスフェに告げた。
「僕もブレンも、そのために来たんですよ」
「……はい」
「案内、してもらえますか?」
そう促したクオルに、クスフェは力強くしっかりと、頷いた。
◇◇◇
――魔法学院ランティス、異種魔導研究室。
今日も仕事や資金集め用の薬品調合をしていたジノは、近づいてくる足音に顔を上げた。
試験管が所狭しと並ぶ机の上に、手にしていたフラスコを置き、ぎい、と苦しげな音を立てて押し開けられた扉に視線を向ける。
「ただいま帰りましたー、教官……」
「おかえり、ソエル」
がっくり肩を落として帰ってきた愛弟子に、ジノは思わず苦笑してしまった。
その挙動だけで、結果がどうだったか明白だ。
「まぁ、次回頑張ろうな」
励ましの言葉を贈ると、ソエルはこくんと一つ頷いた。
ツインテールがソエルの感情をそのまま表しているかのように、力なく垂れている。傍らにいたソエルの相方であるエージュが心配そうにソエルを見守っていた。
ソエルは常に明るく元気なのが役割のようなものだ。
思い込んだら突撃していくエージュを、ソエルがその明るさと機転の好さでやんわり止めるのが通常である。
落ち込むソエルは珍しいものであり、それほど長く続かないだろうとは思っていても、心配になるのは相方としての情というものだ。
二人が受験してきたのは、監査官としてのランクを示す昇級試験だった。
初級から特級まで設定されたランクで、現在ソエルは中級後期、エージュは上級前期。
上級まで来るとそこからの昇級は難易度が跳ね上がる。
ソエルが今回落ちた上級前期の合格率は極めて低く、百人受験して五人受かれば高確率だった。
そこまで落ち込むことはないのだが、教官であるジノのお墨付きを貰っての受験であり、それなりの自信をもって受験している。
教官の期待に応えられなかったことと、自信に対しての結果で落ち込むのはエージュもソエルも同じだった。
「エージュは?」
「その……奇跡的に、受かりました」
どこか申し訳なさそうに、エージュはジノへ返した。
「え……ほんとに? うわ、おめでとう、エージュ!」
エージュが受験したのはさらに難易度の高い上級後期。合格は奇跡的と言ってもいい。
それに受かったというのだから、ジノのテンションも上がるというものだ。
「……あ」
だがその傍らにいるソエルの存在に、ジノはそれ以上言葉を紡げなくなった。
こういう時、合否は残酷である。
「エージュ受かってたの?」
どこか恨みがましく、ソエルは隣にいたエージュに尋ねる。
エージュはそろそろと視線を明後日の方向へ向けて、ソエルの言葉を聞き流す。
「嘘つきぃぃ!」
ソエルはエージュの頬を思いっきりつねり、言葉をぶつけた。
「そえひゅ、いひゃいっふぇ」
「そんな気づかいしなくていいのーーーっ!」
そう怒鳴って、ようやく手を離すと、ソエルは腕を組んでぷいっと顔を背けた。
エージュは頬をさすりながら、機嫌の傾いたソエルに言葉を探す。
「ごめん……ソエルが落ち込んでたから俺だけ喜ぶわけにもいかないと思って……」
エージュなりの気遣いのつもりだったのだが、逆効果だったようだ。
ソエルはそれでも顔をそらしたまま。
「……その、ごめん……」
それ以上弁明の言葉を紡げず言葉を濁したエージュ。
ソエルは、小さくため息をつくと、困った表情をしているエージュに視線を向けた。
「もー、分かってないなぁ、エージュは!」
ぱし、とエージュの腕を軽く叩き、ソエルはいつもの明るい笑みを浮かべた。
「悲しいのは二人でなら半分にして、嬉しいことは二人で二倍以上にしよーって言ったでしょ!」
「ソエルが落ち込むからだろ……」
ほっとすると同時に、あんまりな論理に呆れてしまったのか、エージュがため息をつく。
片やソエルは、やれやれと言わんばかりに頭を振った。
「そこを励ますのが相方の役目でしょー。もー……、しょーがないなぁ、エージュは」
反論の言葉もなく沈黙するエージュ。エージュは、ソエルの存在に何度救われたか分からないのだから。
そんないつも通りのやり取りをする愛弟子二人。ジノはつくづく教官として居させてくれることに感謝していた。
もっとも、エージュとはそろそろ教官と弟子という関係から離れる時期に差し掛かっているのかも、しれないけれど。
そう思い当たると、寂寞がジノの脳裏に去来する。
「教官? どうかしたんですか?」
声をかけたソエルにジノは慌てて顔を上げ、笑みを向けてみせた。教え子に心配させてしまうなど、まだまだ師として未熟だな、と思いながら。
「何でもない。けど、そうなると、エージュはそろそろ単独で動けるような訓練をする段階だな」
「ソエルとのコンビを解消する、ってことですか?」
「上級後期となると、単独ミッションも増えてくるからな」
ジノの言葉に、エージュは表情を曇らせた。
ソエルがちらりとエージュを見やる。コンビを組んで、四年以上になる。
常に隣で、あるいは背中を守ってきてくれた存在との別れ。
唐突な話に、エージュは戸惑いを覚えたに違いない。
「私、エージュの足手まといになるのだけは、嫌だよ?」
不意にソエルがそう告げた。
エージュはその発言に軽く衝撃を受けた様子で、ソエルを見やる。 ソエルもジノと同じく、エージュが何のために自己研鑽を続け、監査官としての力量を向上させてきたかを一番傍で見て来ている。その覚悟も、想いも、背負った罪さえ理解しているからこそ、ソエルは傍で支えてきた。
それは誰よりもエージュが理解しているはずだ。
エージュはソエルに対する感謝の言葉を、ジノの前では時折吐露するのだから。足手まといだなんて、そんな事を思うエージュではない。
「俺は、ソエルがいたからここまで来れたんだ。そんな理由でコンビ解消するわけないだろ」
「でも……」
なおも食い下がるソエルの思いは、ジノにも痛いほど分かる。
ジノでも、ソエルと同じ立場なら、同じことを言うはずだ。
それは、相手を思うが故の言葉で。
背中を押したいという、想いがそこにあるからこその発言であることは明白だった。
「一人での仕事はそうする。だけど、二人でやる仕事は、俺はソエル以外に背中を預ける気はない」
「エージュ……」
「俺は、ソエルならすぐ追いつくって信じてる。俺だって、上級前期に上がるのは大変だったんだ。それに」
エージュは小さく笑って、不安げなソエルへ尋ねた。
「俺がソエル以外とまともにコンビ組めると思うか?」
不器用な、エージュらしい言葉だ。
『素直になれない。曲がったことが許せない。目的のために命さえかけることをいとわない。そんな猪突猛進な自分だから。だから俺には、ソエルみたいなストッパーが必要なんですよ』
苦笑交じりにそう零したエージュが、ジノの脳裏を過ぎった。
ソエルはじっとエージュを見つめ、ふっと表情を緩ませる。
「……無理! しょーがないなぁ、エージュは」
――でも、ありがとう。
どこか泣きそうな震える声で、ソエルは顔を伏せて小さく呟いた。エージュも照れくさくなったのか、視線を逸らす。
ジノはそんな二人のやり取りに、安堵すると同時に、羨望を抱く。
自分には、届かない場所だったから。 それでも、それを覆い隠してジノは二人へ言った。
「その覚悟、忘れるなよ?」
『はい!』
見事に揃った返事。重なり合った心が積み重ねた時間の分だけ、二人の絆は強固になっていったのだから。
これから先、監査官として生きるにあたり直面するであろう苦難も、きっと乗り越えられる。
この二人だからこそ、ジノはそう信じられるのだ。
◇◇◇
クスフェが案内した場所は、神殿から離れた、底の見えない深い海溝の傍だった。
しかし、近づかなくても目に見える形でそこは濁っていた。
「……確かに、濁りですね」
海溝から吹き出すように、黒い淀んだ水が広がっている光景だった。濃いところでは向こう側の景色を完全に隠すほどだ。
海流に合わせてゆらゆらと境界が揺れるが、薄まる様子は一向にない。
じっとその景色を見つめていたペイルが、ぽつりと言う。
「濁りっていうか……これ、あれだろ? 何だっけ……影?」
その呟きに、クオルが怪訝そうにペイルへ視線を寄越す。
「影、って……どうして、この世界に」
影は、崩落した世界の名残と言ってもいい。そんなものが、この世界に溢れることは通常ありえない。
影の観測される場所と言うのは、一つしかない。
全ての世界が最後に通過する場所は、ランティス以外には有り得ないのだから。
「でも、変だな。……それにしては、輪郭が見えない。本体じゃないのか?」
顎に手を当て、首をひねりながら、ペイルはそうこぼす。
影の特性としては、違和感がある。
通常魔力の塊でしかない影は、その境界が崩れると霧散する。
その境界が曖昧でも存在するこの状態は、おかしい。あるいは、影の持つ魔力の量が莫大なのかのいずれかで……だとすると、非情に厄介だった。
周囲をぐるりと見回すと、この濁りの影響か、すでに息絶えたサンゴが白くなって沈黙していた。魚も、この周辺を避けるように回遊している。
生命の本能で、彼らは避けているのだ。
「……ペイルさん」
ふと、クオルが硬い声音でペイルに呼びかけた。
「分かってる。……クスフェ、この周辺から出来るだけ退避させた方がいい」
ペイルは海溝を見つめながら、不安げに見守っていたクスフェへ振り返ることなく告げる。
「分かりました」
「神殿に先に戻ってろ。あとで報告する」
「一時間経っても戻らなかったら、迷わずアルトに連絡をしてください」
クオルが付け加えて、クスフェはしっかりと頷いて見せた。
すでにクオルは月を模した杖を構え、ブレンはクオルの前に立ち、黒い剣を抜いている。
ふわりと音もなくクスフェは踵を返すと、言われた通りに動き出した。
揺らめく黒から、明確な輪郭を持ったシルエットが染み出す様に姿を現す。その数は徐々に増えていき、それに伴い肌を刺す敵意も濃くなっていく。
「やれやれ。独り立ち後初戦が影とか……俺ってやっぱついてないんだろうな」
ペイルはそうぼやきながら、その手に赤い鎌を握りしめた。
死神の代名詞である赤い鎌を構えて、ペイルは影たちに笑みを見せる。
「でもまぁ……頼まれた分くらいは働かせてもらうか!」