第十話 記憶の底

 

 時間を遡って、王がいるはずの時間に向かう。エージュに課せられた使命はそれだけだった。

 その結果如何で、問題が解決するはずだと、アルトは告げた。ラナも黙って同意する。

 クオルは同行することを進言したが、アルトに止められた。その状態で行かせられないと。

 酷だとは知りつつも、ジノに頼るしかなかった。

 王にただ接触すればいいのではない。王を、よく知るジノだからこそ、行かなければならない。自分に残っているその記憶を、差し出さなければならない。

 医務室へ戻ってきたジノは、それに対して一つ頷いただけだった。

「分かった」、と。

 葛藤はあるのだろう。

 でも、監査官として、人としてジノはそれを受け入れた。

 余計なエネルギーを消費しないために、王がいるであろう世界で時間を遡ることとなった。

 そこへ出向いたのは、最終的にはジノとエージュだけだった。

「もしも、すばるが記憶に囚われているんだとしたら、きっとここにいる」

 ジノが案内したのは、廃墟となった学校の校舎だった。爆発でもあったのか、壁は無残に崩れ落ち、コンクリートの塊を晒している。

「教官……」

「行くか。……昔話でもしながらな」

 それはジノらしい、最後の抵抗だった。

 そして、その話が永遠に失われるものかもしれないということを、寂しく考えさせられた。

「俺がすばると出会ったのは、偶然といえば偶然で。ただの知り合いだったならこんな事にはならなかったと思う。俺は、今でもあの時から自分の心が一歩も進んでないのを自覚してるから。それは、あるいは決められた運命だったのかも」

 

◇◇◇

 

――八年七か月前。

 退屈な言葉が耳から入って、通過する。脳というフィルターに引っかからない。退屈な言葉の羅列。

 平和すぎる、授業風景。

 真面目なふりをして、ノートにペンを走らせる。さらさらと、空中で描かれる虚空の文字。紙の無駄だ。書かない方がいい。どうせ、ノートも知識も使わないのだから。

 やがて、五十分の拘束時間終了を告げるチャイムの音が聞こえた。これでやっと午前中が終わる。

 チャイムと同時に室内が見る間に喧騒に包まれる。昼休みだ。

 整然と並んでいた机ががたがたと動かされて、あっという間に混沌とする。

 仲がいい者で寄り集まって、同じ傾向の話題で盛り上がる。そんな場所に、俺の場所はない。

 机の脇につるしていた鞄を掴んで、教室からするりと抜けだした。

 廊下は廊下で、食堂へ向かう生徒や、購買から戻ってきた生徒で盛況だった。いつものことながら、見ただけで嫌気がさす。

 そしてこんなところで足止めを食らっていると、

「あ、ジノ! 見っけー」

 案の定、見つかった。

 ため息をつきたいのをこらえて振り返る。

 黒髪の少年が何がそんなに嬉しいのか笑顔で歩み寄る。三十度を越えている夏だというのに、何故かいつも長袖の少年。

「……すばる……」

「お昼だろー? いこー」

 人懐っこい笑みで、こっちの感情など知らない言葉を投げる。

 それが、いつものすばるだった。

 

◇◇◇

 

「今日さぁ、小テストどーだったー?」

 コンビニ弁当のラップをはがしながら、すばるが問いかける。

 四階建て校舎の、三階北側階段。日が当たらないので、夏場でも割と涼しいスポットだ。

 俺とすばるは、たいていここで昼休みをつぶしていた。

「別に、普通」

「ジノ頭良いもんなぁ。普通のレベルが高い」

「別にそんなことない」

「てわけで、今度の定期テストも先生よろしくー」

 すばるはそう言って、弁当のさくらんぼを俺に献上する。

 別に、貰っても嬉しくない。俺は好きじゃないし。

 俺はもともとこの学校に転校生としてやってきた。一年くらい前のこと。

 当時同じクラスだったすばるは、別に学級委員でもないのに、俺の世話をよく焼いた。

 購買の場所を教えたりとか、移動教室の時には大抵一緒に行くとか。

 いつの間にかそれが当たり前と感じるようになったのか、二ヶ月くらい経ってもすばるは俺の傍にいるようになった。

 普通の、友達みたいに。

 普通。

 それが俺にとってどれだけの意味を持つかなんて、すばるは多分知らない。

 俺はもとから話すのが苦手で、すばる以外に話す人間はいなかった。学年が上がり、クラス替えですばると別になった時点でそれが終わるのだと思っていた。

 でも、今でもこうしてすばるは隣にいる。それこそ、それが当然の関係のように。

「……そろそろ涼しくなんないかなー」

「そんなかっこのお前が言うなよ」

「あはは。それもそうだなぁ」

 けらけらと笑うすばるだが、一度たりともすばるが半袖を着ている姿を俺は見たことがなかった。

 制服だけじゃなく、私服も。体育の時でさえ上だけはジャージを着る万全具合。他のクラスメイトから「日焼け対策の女子か!」と茶化されても。

「あ。またあったのかぁ……」

 不意に携帯電話をいじっていたすばるが呟く。

 俺はぼんやりと校外の道路を行き過ぎるトラックの荷台の絵柄を追いかけていた視線を、すばるに向ける。

「何が?」

「ほら、失踪事件。ここんとこ、一週間に一人くらい失踪してるし。この間は変死体で見つかったろ? ……治安悪くなったなぁ、ここも」

 ぽちぽちと情報を検索するすばるを見ながら、俺は沈黙した。

 失踪事件に、変死体。治安が悪い、で済むような問題でもない。

 不意に、俺のポケットに突っ込まれていた携帯電話が振動する。

 短い振動。メールだ。

 面倒に思いながら、ポケットに手を突っ込む。ていうか、俺……面倒だって、思うようになったんだな。

 この振動を前は心待ちにしていたはずなのに。

「なー、ジノー」

 お互い携帯電話を触りながら、すばるが言う。

 メール画面を開く。受信ボックスに、一通。真ん中の、決定キーを押す。一番上の行に未開封が一通。

 決定キーを再度押すのと、すばるが次の言葉を言うのはほぼ同時だった。

「今日帰り暇だったら、遊ぼー」

 ぴたりと、手が止まる。

 そして、俺は少しだけ。ほんの少しだけ、トーンを落として返した。

「……ごめん、無理」

 すばるは携帯電話をぱこん、と閉じて、首を振った。

「謝ることないって。次な、次」

「……うん。ありがと、すばる」

 ああ、俺はもうだいぶ使い物にならなくなりつつある。

 普通に慣れすぎて、それが大切になってる。

 

title:No.34

本文:2245、四丁目六番通り。

 

 今日も深い闇に、俺は呼ばれていた。

 

◇◇◇

 

 授業が全て終わり、掃除や部活に生徒が散っていく。

 俺は帰宅部なのですることが済んだら、さっさと帰る。

 放課後、普段すばるは部活だ。すばるはああ見えて美術部。

 本人は大したことないというが、部員仲間から言わせると印象的な絵を描くらしい。色彩にインパクトがあるとか。芸術はよくわからないので、俺がその話題に触れることはない。

 アパートの鍵を開ける。

 誰もいない、がらんとした空間があるだけだ。

 生活感も何もない。それが、俺の暮らす場所で、俺の心そのものでもある。

 電気もつけず、鞄を放り投げると、制服からさっさと着替える。後は、時間まで仮眠をとる。

 その前に。

 古びたクローゼットを開ける。制服と、数着の私服だけの寂しい中身。

 吊るされたそれらの下に、段ボールが二つ。サイズはそれほど大きくはない。一つは空いているが、もう一つはまだ開けていない。

 空いているほうに手を突っ込み、必要なものを引っ張り出す。

 ごとりと重い、金属の塊。拳銃。サイレンサーがついているから、より重たい。

 それと空の弾倉を二つ。それに込める弾丸十八発。

「…………いつまで、俺はすばるをだませるんだろう」

 自嘲の笑みを浮かべ、俺は黙って弾倉に弾を込めだした。

 何も考えなくたって、体が勝手に続ける。

 当たり前のこと。そこに迷いを生じ始めた俺は、きっともうすぐ、処分されるに違いない。

 でも、それはそれでいいのかもしれない。

 俺は、そろそろすばるに嘘をつくのが辛くなってきたから。

 

◇◇◇

 

 ぴぴぴっ……

 電子音で、目が覚める。携帯のアラームだ。

 のそりと起き上がって、アラームを止める。

 枕にしていたクッションの下から、銃と弾倉を取り出して最終確認。

 時刻は二十二時。仕事の時間だった。

 必要なものは、銃と弾倉。それだけでいい。

 アパートから出ると、指定された場所へ徒歩で向かう。距離はそれなりにあるが、自転車を使うと目立つ。

 無灯火で警察につかまりでもしたら面倒だし、そもそも自転車を置いて逃げなければならない事態になったら、取り返しがつかない。

 指定された四丁目六番通りは人気が少ない。工場地区のど真ん中だ。昼間ならともかく、夜は無人に近い。

 俺には、こうやって生きるしか道はない。

 空に浮かぶ白い月を見上げながら、そんなことを思う。空には星も見える。

 遠くで自分の存在を伝えようと輝く星。やましいことなんてない、光。

 こんなこと、思えば思うだけ、自分がきつくなるのに。

 俺に与えられた自由は、任務を果たす時の方法だけ。教えられたことは、人を殺すための技術。

 他人を遠ざけて、任務のためだけに生きる精神。

「……ジノ?」

 びく、と人生で一番驚いた。

 つ、と冷や汗が頬を伝う。心拍数が跳ね上がって、俺は息をのんだ。

 恐る恐る、ぎこちなく、振り返る。自分の息が、うるさく感じるほどに、呼吸が荒れる。

「……ここで何してんの?」

 心底不思議そうに首を傾げたのは、間違いようもない。

 六連すばるだった。

 その姿を認めると、俺の思考は冷静さを瞬く間に失っていた。

「お前こそなんでここに」

 ここにいたら、俺がしようとしていることが見られてしまう。

「あー、怪しいなぁー」

 ここで任務を失敗したら、それこそ俺は殺される。

 そんなのは嫌だ。俺はまだ、死にたくはない。

「治安悪くなってるんだろ。早く帰れよ」

 治安を壊している俺が言うのもなんだけど。

 すばるは苦笑して、頷いた。

「でもさ、俺ここに用があるから。待ち合わせ、みたいなもんかな? ジノこそ帰った方がいい」

 ……え? 

 嫌な予感が、した。

「ここ、多分誰か死ぬ」

 ひゅ、と夏の宵に冷たい風が吹き抜けた。

 すばるは相変わらずの長袖のTシャツ。その左の裾を掴んで、強く握りしめながら、俯いて、言う。

「俺は……」

 嫌だ。聞きたくない。

「…………ジノを信じてるから」

 すとん、とその言葉が俺の心に落ちる。

 すばるは小さな笑みを浮かべて、俺に歩み寄った。

「信じなくてもいい。ただ、一つだけ教えとくな」

 すばるは、左のTシャツの袖をめくり上げた。白い腕があらわになる。

 その手首から肘にかけて、幾筋もの横向きの線が走っていた。一本や二本ではなく。それこそ、何十本も。

 薄く、深く、皮膚の凹凸がすぐにわかるほど。

「……夢で、いろんなものを見るんだ」

 そう、すばるは寂しげに口を開いた。

 俺はそんなすばるの表情を見られなかった。傷から視線が離せなくて。

「俺はそれが怖くて、痛くて、気づくとこうなることしてるんだ」

 その先を聞いたら、俺は戻れなくなる。

 俺の罪を掘り返すすばるを、俺は殺さなければいけなくなる。

「だから、今日もここで誰か死ぬって夢を見た。本当かは別として。俺はもう、逃げるのはやめるんだ」

 だけど、そんなのは嫌なんだ。

 だって、俺にとっては大切な……

「ジノが俺の友達でいてくれるために」

 すばるはそう微笑んだ。

 それが一番、俺には堪えた。

「何が、言いたいんだ?」

 自分でも嫌になるほど、冷たい声だった。

 すばるは少しだけ悲しげな表情を浮かべて、首を振った。

「何にも。ただの独り言」

 袖を戻して、何事もなかったように、すばるはいつもの笑みを見せる。

「……まぁ、俺、帰るな。……明日、な」

 踵を返して、すばるは歩き出した。

 遠ざかっていく背中を黙って見つめる。

 明日。それでもまだ、そんな言葉をかけてくれる、すばる。

 まだ、友達で居ようとしてくれる、すばるがいる。

 多分感づいたはずだ。……なのに。

「……すばる!」

 思わず、そう呼び止めた。すばるは驚いた顔で振り返る。

 俺はどんな顔だったんだろう。

 すばるが不思議そうな顔をしていた意味が、知りたかった。そして、呼び止めたはいいが次の言葉が浮かばなかった。

 数秒の沈黙。

「……その、………おやすみ」

 精一杯絞り出した言葉がそれだった。

 すばるは呆気にとられた表情を浮かべ、次いで苦笑した。

「おやすみー、ジノ。寝坊すんなよー」

 また明日。

 その言葉が、どれほど幸せなことか、俺はやっと知った。

 幸せには限りがないという。届かないから、幸せなんだ。

 幸せは今にはなくて「過去」と「未来」にしかない。

 俺はそれを知ることになった。

 その日、俺は初めて任務を放棄して、翌日を迎えた。

 

◇◇◇

 

 翌朝。制服に着替えて、ぱったりと静かな携帯電話を掴む。

 任務を放棄して、てっきり何か一言ぐらいはあるかと思っていた。

 だが実際はない。

 もはや切り捨てられて、処分対象かもしれない。

 それでもいい。最後くらいは、普通の生活を享受したい。

 鞄に護身用として銃と弾倉を三つ突っ込んで、俺はアパートを出る。学校までの徒歩二十分程度の道のり。

 遠いと思っていた道も、今は新鮮だった。

 角の本屋の軒先にはいつも猫が丸くなって寝ている。古い喫茶店のマスターはこの時間外に出て店の前を掃除している。そんな当たり前の風景。一年間、ずっと見てきた景色。

 そこへ少しでも溶け込めたら、俺はそれだけで十分だ。

 血と硝煙の匂いしか知らない俺だったから。人生の最後くらい、普通っぽく過ごせたら。

 やがて、校門が見えてきた。門に吸い込まれていく、制服の学生。

 俺も、その一人になれてるんだろうか。今更かもしれないけれど、勇気を出してクラスメイトに挨拶をすることから始めよう。

 そうして一人でも多く、友人を増やしたい。一緒に笑える仲間を、俺も見つけたいから。

 さぁ、と夏の生ぬるい風が頬をかすめた。

 

――爆音が響き渡ったのは、その数秒後の事だった。

 

 瞬く間に、悲鳴が広がる。

 そんな悲鳴を聞きながら、俺は茫然とその光景を見つめていた。

 昇降口付近のコンクリート壁が崩れ落ち、ひしゃげた鉄筋がのぞいていた。

 爆弾。誰が。まさか、俺を……? 

 背筋が寒くなる。

 恐怖と絶望が黒く胸の中に広がっていく中、俺は引き寄せられるように歩み寄っていた。

 倒れた生徒が呻き、血を流している光景。

 そこに倒れた生徒は六、七名いる。性別も学年も、まるで関係のなさそうな生徒たちだった。

 ふらふらと視線を彷徨わせていると、その一人に、すばるが、いた。

「すばるっ?」

 咄嗟に名を呼ぶと、俺は慌ててすばるへと駆け寄った。

 一目でわかる。すばるは重傷だった。

 一応四肢はくっついているが、かろうじて、というところだった。右腕は二の腕あたりの肉がごっそり持っていかれて、骨を晒していた。腹部には金属片による衝撃で潰れてとても見れたものじゃない。死体はいくつも見てきた俺だったのに、何故か冷静な思考を保てなかった。

「すばる、すばるっ! 返事しろ!」

「……じ……、の……?」

 かすれた、声とも息ともつかない言葉だった。

 ただ、まだ意識はある。それだけで俺は何とか自分を保つ。

「すぐ救急車来るからっ! しっかりしろよっ!」

 頷くことさえできないすばるに、俺は必死になって声をかけるしかできなかった。

 殺すための能力はあるのに、それは助けるための能力にはならない。無力感に苛まれそうだった。

 いつしか様々なサイレンの音が校庭に響き渡り、救急隊が駆けてきた。

 一番重傷だったすばるが一番に救急車で運びこまれる。

 俺はどうすることもできず、それをただ見ていた。

 すると、救急隊の一人が俺に目を向けて言う。

「一緒に来てくれませんか。声をかけてあげてほしいんです」

「え……あ……、はい……」

 そういうものなのか。よくわからない。

 ただ、すばるが心配なのもある。俺はそれに従うことにした。

 ストレッチャーを収納し、俺が乗るのを確認すると、ばん、と荷台が閉められる。

 間もなく、救急車も発進した。

 てきぱきと、止血を済ませ、点滴を用意する救急隊員。

「……さて、ここで問題です」

 不意に、明るいトーンで救急隊員が口を開く。

 俺は何事かと目を向ける。

 救急隊員は注射器を手に、俺にうすら寒い笑みを向けていた。

 なんだ、こいつ。何かが、おかしい。

「この中身はなんでしょう」

「……は?」

「いや、違う。これを打たれて死にたいのは、どっちでしょう」

 こいつ……!

「動くな」

 冷たい声が、俺の動きを止めた。口元は笑っていたが、目が笑っていない隊員。

 鞄に忍ばせていた銃にかけようとした手を、止められた。

「動かないで、おとなしくしてればお前は助かる。まったく、手間をかける」

 やれやれ、と隊員はシリンジ内の空気を抜いて、打てる体制を用意していた。

「なんで、すばるを殺すんだよ……っ!」

 考えなくたって、こいつは仕事上の仲間だった。

 すばるが殺されていい理由なんて一つもない。

「そりゃあ、お前が使い物にならなくなると困るからだろうさ」

 しれっと返される。

 すばるの顔色は白く、どう見たって血の量が足りていない。

 早く、まっとうなところへ連れて行かないと、まずい。

 こんなところで、時間を食っている場合じゃない。

「俺を殺せばいいだろ! どうせ使えないなら同じだっ!」

「馬鹿か、お前。時間と金をかけて育てた駒を簡単に捨てるか? 普通」

 そんなことどうだっていい。すばるを殺させるわけにはいかない。

 それだけが、俺を奮い立たせる。

「安心しろ。お前は戻って再教育だ。お友達も一発で楽になる」

「ふざけんなっ!」

 怒鳴っても、そいつは笑うだけだった。手を伸ばすのが早いか、打つのが早いか。断然慣れた打つ方だろう。

 何もできない。どうしたらいい。

 冷や汗が頬を伝う。

「じゃあ、別れの言葉でもかけて最後の瞬間を拝めよ!」

「やめろっっ!」

 銃を掴むのと、そいつがすばるの腕に注射針を突き刺すのはほぼ同時だった。

 ばちんっ、と注射器がはじけ飛ぶ。

 へし折れた針が、足元に転がってきた。

「え……」

「ざけんなっ!」

 はっと顔を上げると、そいつはすばるの骨の見えた二の腕を踏みつけていた。

 すばるは声も出せないほどだ。

 恐らく、すばるが会話を聞いていて、針を払いのけたのだろう。

「どうせここで死ぬんだ。おとなしく殺されてばいいのになんで楯突いてんだよ、お前。そんなに苦しんで死にたいのか? だったら望み通り」

「消えろ」

 がんっ、と至近距離で俺はそいつを撃ち抜いた。

 ぐらりと、倒れこんだ死体。

 ここまで重症のすばるが動くとは思ってなかったんだろう。

 すばるのまさかの抵抗に逆上して、俺の存在を無視したのが隙だ。

「すばる、ちょっと待ってろ」

 運転席に向かって、運転手を脅し、近場に止めさせる。

 止めると同時に、もちろん撃ち殺した。

 足を失ったが、発信機でもついていたら意味がない。

 これでいい。

「すばる、すぐにまともな病院に連れてくから」

 そう声をかけた俺に、すばるは血の気を失った顔で、首を振った。

「い、い。……俺……も……、だめ、だし……」

 駄目。その言葉が頭に血が上っていた俺を一気に冷ました。

「何が……何がダメなんだよ。勝手に、諦めんなよ」

 俺は、すばるを助けたいのに。

 すばるが諦めたら、俺は何を糧に行動していいか分からないのに。

「だって、もう痛くないしさ」

 脳がついに痛みを拒否した。生命維持を放棄しようとしている。

 痛みは生きている証拠だ。脳が体に無理をするなという、警告。

 すばるの怪我の状態はそれを越えたのだ。脳が、思考活動をするために、痛覚情報を拒否している。

――ああ、もう、時間は少ししかないのか。

 俺は冷えた思考で、それでも必死に考える。

 すばるに、出来ることを。自分が、すべきことを。

「……俺、昨日あそこに行かなかったら、よかったのかなぁ」

 すばるがどこか解放されたように、呟く。

「でも……行かなかったら、ジノは、ずっと繰り返してたのかなぁ……」

「俺、昨日は何もしてない。……すばるが、俺を助けてくれた」

「そっか。……よかった。ああもう……眠くなってきた……」

 すばるの言葉でようやく悟る。

 俺は、普通に生きたいなんて願っちゃいけなかったんだ。俺が願った普通のせいで、他の生徒も巻き込んで、すばるは、死んでしまう。

 なら、俺は元の場所へ、帰るしかないんだ。

「すばる」

「ん……?」

 もう半分閉じた目で、すばるが視線を向ける。

 俺を地獄から救ってくれた、たった一人の……

「俺は、お前の友達になれたのかな……?」

 その問いかけに、すばるは笑った。

「ばーか。俺は、ジノの、親友のつもりで、いたんだけどなぁ」

「……うん」

 俺は、闇で生きていればよかった。そんな俺に手を差し伸べてくれた、たった一人の、初めての友達。

 そんなすばるは、俺のせいで死ぬんだ。俺が殺すだけしか出来ないせいで。

 俺は、再び同じ道に、戻りたくないのに。俺はもう……地獄へ普通には、戻れない。

「……すばる」

「いーよ」

 何も言わずに、返答するすばる。意味が、分かってんのかな。

 いや、もうそろそろ脳も血流が足りなくて駄目なのかもしれない。

 すばるは薄く笑みを浮かべたまま、俺に言った。

「ジノはもう、普通になっちゃったもんな。元に戻るには、

それしかない」

 俺は、悪魔以下に成り下がる。

 だけどそうでもしないと俺は再び、救いを求めてしまうから。

 すばるのくれた優しさを、願ってしまうから。

 だから。

「……ありがと」

「ううん。……ジノ、今度暇なとき、いつ?」

 答えず、俺は弾倉を入れ替える。

「あれ、音楽室にいくんだっけ?」

 どんどんこぼれていく、思い出。停止していく思考回路。

 すばるはもう、限界だった。その前に、俺は最後の罪を犯す。

「ジノが一緒で」

――引き金を、

「俺、楽しかったな」

――引いた。

 

◇◇◇

 

 そして、今も俺は無様に生きている。

――階段をのぼりながら、そうジノは締めくくった。

 後ろをついていたエージュは黙って、歩を進める。

 ジノがエージュに求めているのは慰めの言葉ではない。

 エージュだったら、どうするか、だ。時間を巻き戻す、その能力で。

 短時間であれば、自分ごと引き戻して対応も可能だろう。だが、それでいいのだろうか。

 そうやって、つらいことがあるたび少しずつ少しずつ、やり直すことは。

 エージュは答えが浮かばなかった。

 ただ、代わりに問いかける。

「教官は、後悔してるんですか?」

「してない。俺はすばるを『殺した』から、簡単に死ねないって思ってるから」

 納得する答えだった。

 不意に、ジノが足を止める。

 二階と三階を繋ぐ、踊場。そこから上を見上げて、ぽつりと言う。

「ここに、いたんだ。俺も、すばるも」

 三階北側階段。いつも二人でくだらない時間を過ごした、思い出のある場所。

 エージュはジノの視線に頷き返す。

 遡る時間の分だけ、思う。

 幸せだったと感じるのは、過ぎ去ってからで。今が幸せだと、多分気づかずに通り過ぎてしまう。

 そうやって、人は思い出を大切にするようになったんだろう、と。

 砂嵐のように色が視界を奪う。

 さぁっ、と晴れた視界に、彼はいた。

 少しくたびれた紺のブレザー。夏でも冬でもお構いなしの長袖。三階の踊場。一番上の段に座って、小さな寝息を立てた彼こそが、世界の柱。

 たった一人の、孤独の王。

「……すばる」

 ジノが痛みをこらえたような声で、名を呼んだ。

 それは、最後の時間だった。

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