第16話 医者のフヨウジョウ

 

「先生、午前の患者さん終わりですよー。お昼にしますねー」

「すぐ行くー」

 扉の向こうから声をかけたエコデに返事をして、俺はせっせとカルテを記載。

 今日は割と忙しかったけど、外傷患者は少なくて良かった。

「うーん……」

 左手のひらを見やる。 ガーゼと包帯で白い左手。 この間の厄介な悪霊からもたらされた火傷だ。

 おかしいよなぁ。 この程度の怪我なら寝て次の日には治るはずなんだけど。

 この所忙しかったり、変人の相手ばっかりで疲れてんのかな、俺も。

 疲れてると、何かと回復は遅いもんだし。

 ただ、エコデが心配そうなのが申し訳ない。 隠れてやってただけに、理由は言えない。

 薬缶にうっかり触ってしまったというドジっ子偽エピソードを自分に付加したことが、おぞましい。

 俺がドジっ子でどうするんだ。 どうせなら、可愛い女の子がドジっ子であるべきだろうがっ!

「あー……だるいなぁ」

 どうも調子が悪いよなぁ、最近。

 

◇◇◇

 

 そういえば、そろそろポアロがエコデの新しい仕事着を持ってきてくれるはずなんだよな。

 いつ来るんだろう。 提出期日遅れた分、怒ってんかもしれない。 またヒトデの差し入れがいるかぁ。 でもあれ、結構高いんだよなぁ。

「あの、先生?」

「んぁ?」

 物思いにふけっていた俺は、情けない声でエコデに返す。

 目を向ければ、何だかひどく悲しそうに、じっと俺を見つめるエコデがいた。

 捨てられた犬を彷彿させる。罪悪感が湧く。何もしてないけど。

「ご飯……美味しくないですか?」

「え? そんな事ないけど」

 いつも通り美味しいですよ、エコデさん。

 赤い悪魔とか、緑の妖怪とかは討伐しておくから心配は不要だぞ。

「でも、先生いつもみたいに食べてないです」

 いつもの俺って何なんだ?

 綺麗に落とさず残さず食べてるはずなんだが。

 間違ってもがっつくなんてみっともない真似はしてない。 白衣が汚れるからな。

 心配そうな表情を崩さないエコデに、俺は無意識に頭を掻いて……

「ってぇぇぇ?!」

「せせ、先生っ!!」

 火傷して皮膚がめくれてる方を思いっきり動かした激痛が襲い掛かる。

 エコデが慌てて俺に駆け寄って、おろおろと手を彷徨わせていた。

 若干涙目になりながら、俺は深呼吸。痛い。久々に激痛だ。

「……だ、だいじょぶ……」

「やっぱり具合悪いんですよ、先生っ!」

「まぁ、だるーい感じはするけど」

 そんなに心配そうな目で見られると、何かそれに甘えてみたくなるんだよなぁ。

 午後休んで昼寝を許可してもらえそうだし。

 悪い俺が顔を出す。 普段の俺は、誰がどう見ても優等生な俺だからな。たまにはいいか。

「じゃあ、午後休みで……」

「仕事は良いですから、早く寝てください先生!」

 何か、エコデが必死すぎてやっぱり罪悪感が頭を出した。

 が、もぐらたたきのごとく悪い俺がその頭をひっこめさせる。

 よし、今日は店じまい。 大人のずる休みだ!

 

◇◇◇

 

「あー……エコデさん?」

「はいっ」

「これは何でしょうか」

 俺は額の上に乗っかった怪しい物体について質問する。

 エコデは輝く笑顔で言い切った。

「風邪に効くっていうおまじないです!」

 おまじないって!

 せめて民間療法と言ってくれたら安心なのに?!

 額の上に鎮座するカエルがひんやりと温度を奪う。

 だが、そのカエルを拘束するために、それ以上に俺の頭をがっしり固定するのはどうなんだ。

「エコデ、えーっとな……」

「はい!」

 おぉ、良い返事だ。良い返事に良い内容が付随するとは限らないのが残念だが。

「寝返りがうてないです」

「あ」

 気付かなかったという顔。お願いですから、気付いてください。

 慌ててエコデは座っていた椅子から立ち上がると、俺の頭の器具へ手を伸ばす。

 がっちゃ、ぎい、ごとんっ。

 騒がしい音を立てて、俺の頭に課されていた謎の拘束が解き放たれる。

 ついでにカエルがぴょこぴょこと窓の外へ逃げ出していった。

「あっ、待ってっ?!」

 エコデが慌てて追いかけるが、俺は必死に祈る。

 一ミリでも遠くへ逃げてくれ、カエル! 俺のためにも!

「あー……行っちゃったぁ……」

 助かった。心底そう思う。

 安堵する俺とは対照的に、仕方ない、という様子でエコデは拘束具を片づけて、うーん、と思考する。

 いや、だから気を遣わなくていいのになぁ。悩んでくれる姿は可愛いんだが。

「えっと、じゃあ冷たいもの持ってきますねっ」

「いーって、エコデ……」

 俺の制止も耳をすり抜け、エコデはぱたぱたと走って出て行った。

 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるらしい。

 有難いけど、何か傍に居られると寝づらい。あ、むしろ今が寝るチャンスか?

「よし。えーっと。羊が一匹……羊が二匹ぃ……」

 三匹目に何か爺さんが通過した気がするが、気のせいという事にしよう。

 

◇◇◇

 

 びりっと、電流が走ったような痛みに、俺は夢の世界から現実へ引き戻される。

 視線の先にはすぐに時計が飛び込んで、一時間くらいの昼寝だったことを理解する。

 まだ寝れるな。いやー、いいな。今度からこういう休み、たまにしよう。

 若干にやけながら寝返りを打とうとして、重みに気づく。

「ん……?」

 視線を下へ。俺の手の先で、寝ているエコデがいた。

 よくある『主人公が風邪で寝込んで、隣で面倒見てたんだけど、寝ちゃったヒロイン』みたいな。

 エコデの場合はヒロインとは言えないので、ヒーローか?

 何か……最高に似合わない響きだな。

 普通ならご褒美イベント。けどこれは、どう受け止めればいいんだ……。どうみても、罰ゲームだろ……。

 けど、幸せそうに寝てるエコデを見てると、何かほっとする。

 エコデも疲れてるもんな。寝かせてや……

「お昼……もう作って、……げません、からね……」

 夢の中の俺、即行で土下座してくれ! やっぱり罰ゲームだ。罰ゲームでしかないんだな、これはっ!

 びくびくしながらエコデの次の寝言を待ち構える俺。

 これなら仕事してた方が良かったかもしれない。

 目を覚まして夢と現実をごっちゃにしたエコデが、俺の飯を抜きにするかも。

 エコデのドジっ子スキルなら、それくらい難なくこなしそうで恐ろしい。

「……ん」

 微かに呻いて身じろぎしたエコデに、俺は咄嗟に寝たふりを敢行する。

 起きてるのに気付かれたら、何かまたあれこれとされそうだし。

 いや、気持ちは嬉しいんだが、昼寝がしたいだけなんだよな、俺。

「あ、わ……寝ちゃった!?」

 流石エコデ。典型的な王道を攻めて来る。となると今慌てて髪型を整えている所か?

 目を開けて確認したいが、そうもいかない。残念だ。実に残念。

「……先生」

 ぽつっと俺を呼んだエコデ。

 ふと、その気配が動いた。な、何かドキドキするのは気のせいだ!

――むにぃぃぃっ。

 思いっきり両頬をつねられて、俺は目を開けざるを得なかった。

「いひゃいえひゅ、えこへひゃん」

「何で寝たふりしてるんですか」

 冷たい雪の女王の視線で問いかけるエコデにドキドキするなっ!

 無事なほうの手でエコデの手をタップしギブアップを訴える。

 エコデはするっと手を緩めて、呆れた様子で息を吐いた。

「な、何故わかった……」

「先生、ちゃんと寝てる時は動きませんから」

「動いてないけど……」

「耳がぴくぴく動いてますよ」

 何っ?! それは盲点だ。気づかなかった……!

「あと、嘘つくと口元がだらしなくなります」

「マジですか?!」

「あと、いやらしいこと考えてる時は、無駄に凛々しい顔しようとしてます」

「それ駄目なの?!」

「かっこつけようとしてる時は、絶対左足から動きます」

 精神ダメージが凄まじいんだが。泣きたくなってきた。

 しかしそこまでエコデが理解しているとなると、……ずる休みもばれてるんじゃ……。

 恐る恐るエコデを確認すると、エコデはくすっと笑った。

 何か、子供を叱る親みたいに。

「今回だけですからね。……怪我も、してる、し」

 包帯の上から指を滑らせたエコデに、流石に良心が痛む。

 心配かけているのは、分かっていた。

 それでも、何となく、エコデに知られたくなかったんだ。

 普通じゃない自分の一面を。普通を生きがいにしている、自分だから。

「……次に嘘ついたら、……どうなるか、分かってますよね?」

「もちろんですっ!」

 暗黒の笑顔を向けたエコデに即答。

 流石天使のエコデ様は、一度の罪は許してくださるわけですね。

 実に、慈悲深いです。

――からんからーん。

「あれ……休診出してるんですけど」

「急患だろ。行くぞ、エコデ」

 ばっと飛び起きた俺にエコデは一瞬吃驚したみたいだった。

 でも、すぐに笑みを零して、頷いた。

「はい、先生っ」

 そうそう。やっぱ俺たちは生きてくために、仕事しないとな。

 ずる休みなんてしてる場合じゃないってことだ。

――だけど、もう少しずる休みしておくべきだったんだ。一番、会いたくない奴が、受付で待っていたのだから。

「…………迎えに来ましたよ、兄さん」

 他人から見たら、その笑みはきっと輝ているんだろう。

 俺には、悪夢の象徴そのものだったけど。

 ロヴィ・ラプェレ。俺の弟にして、最大の天敵だ。

 

◇◇◇

第17話 御子と皇子と……

 

「せん、せい?」

 くいっとエコデに袖を引かれて、俺は我に返る。

 つうっと頬を伝う汗の感覚に、俺は自分で若干驚く。

 拒否反応とはこうも簡単に現れるのか。参ったな。

 エコデに視線を落とすと、酷く心配そうな顔をしていた。

 俺、今よっぽどな顔してるんだな。普段は締まりのない顔と称賛されてたはずなのに。

「そんなに心配しなくても、僕がちゃんと兄さんの援護をします。問題なく帰れますよ」

 しれっと頼んでもないことを言い出すロヴィに、俺は思わず眉をひそめた。

「いや、俺は帰るつもりは……」

「そうそう。サンディさんも人手が足りないってぼやいてますし。それを理由にしましょう」

 にこにこと嬉しそうな笑顔を見せるロヴィ。

 あー……どうしよ。ほんとに、こいつは俺の話を聞く気がないからな……。

「せ、先生がいなくなったら、困りますっ!」

 不意に声をあげたエコデに、俺とロヴィは揃って目を向ける。

 ぎゅっと俺の袖を掴んだまま、エコデはロヴィを若干怯えた目で見つめながら口を開いた。

「この辺りに住んでる人は、先生がいるから安心して暮らしてるんです。だから……先生が居なくなったら、みんな、困ります」

 それ、何か純粋に嬉しい。俺は必要とされてるんだ。お荷物じゃ、ないんだな。

「そんな事は、兄さんには何も関係ありません」

 ぴしゃりと言い切ったロヴィ。

 絶句する俺とエコデに、ロヴィは淡々と現実を突きつける。

「必要としてるとしてもそれは医者でしょう。兄さんじゃない。本当に兄さんが必要とされてる場所はここじゃない」

「それ、は……」

「分かりました。医者が必要なら、手配しましょう。それで解決ですね」

 にこっと笑いかけるロヴィに、眩暈がする。

 間違ったことを言ってないだけに、反論さえ出来ない。確かに、それでプラスマイナスゼロだ。

「……サチコは、今日はいないのか?」

「ええ。今日は別の地方へ出向いてます」

 肝心な時にいないのかあいつは!

 普段は単品だと面倒なサチコ。

 だけどロヴィが居る時は一番頼りになるのに。都合がいい時だけ頼ってきたツケがこれか……。

「兄さんは、こんな辺鄙な場所に居ていい理由がありません」

 かつん、と一歩踏み出したロヴィに、俺は後退したくなる衝動を抑え込む。

「それは兄さんが一番、分かってるじゃないですか」

 いや、分かってたら逃げないっての。どうしたらいいんだ、こいつは。

「どういう、意味ですか?」

 不意に問いかけたのは、エコデだった。

 エコデにロヴィは呆れたような、蔑むような視線を送る。

「……何も知らないで、良く兄さんの傍に居られますね」

「必要ないから俺が教えてないだけだ」

「何言ってるんですか! 兄さんは、自分がどれだけ大事な立場にいるか、理解してなさすぎです!」

 ロヴィはそう吠えるけど、俺はそうは思ってないんだよな。

 大体、相変わらずロヴィは『信じて』るんだろう。本当の俺を、認識してるかと言えば怪しい。

 そう思うと何か、こいつも可哀想な奴なんだけどな。

「大体、どうして何も言わずに出てったんですかっ!」

「落ち着け、ロヴィ。俺が居なくても、お前がいるから大丈夫だと思った。それが最大の理由だ」

「何を馬鹿な事を! 第一皇子の兄さんがいるのに、どうして僕が王位を継ぐんですか! おかしいです!」

「おう、い?」

 ぽつっとそのフレーズを口にしたエコデ。

 や……ヤバい。

「先生……、王家の……方だったん、ですか?」

 怯えを映す瞳を向けてくるエコデに、俺は口を濁した。

 黙ってたことを批難されるなら、まだマシだ。

 でも、それとは違う。距離を測りかねている、目だった。

 そんな目で、見られるのはきつい。

 ……でも、俺は嘘をつけない情けない奴だから。

「……すまん、エコデ。黙ってて」

「あ、謝らないでくださいっ! それに、それがほんとなら、僕っ……せんせ、に……失礼な、こと」

「俺は気にしてないから大丈夫だって」

 だから、いつもみたいに何で黙ってたんだって、罵ってくれた方がありがたいんだが。

 でも、エコデは袖を掴んでいた手を離して、微かに、身を引いた。

 ぴしっと俺の心に微かな亀裂。

 ああ、何だろ。俺、生き方を間違えたのか?

「さ、兄さん。理解いただいたことですし、帰りましょうか」

「断る」

「そんな子供みたいに、駄々をこねないでください」

「どっちが子供だ。いつまでも俺に頼るなよ。大体っ……」

「その先は、言ってはダメよ、リリバス」

 な……!

 ごりっと顎に拳銃の銃口を押し付けてきたのは、別の地方へ向かったはずの、サチコ。

 暗い笑みを浮かべて、俺のすぐ脇にいつの間にか立っていた。

「おま、え……居たのか?」

「いいえー? でも何か不穏な空気を感じたから、来ちゃったわ」

 ウインクしてみせるサチコ。正直嬉しくない。

 だが、これで希望が見えてきた。

「でも、ごめんなさいね、リリバス」

「は?」

 ぐっとさらに強く銃口を押し付けて来るサチコ。

 セーフティロック外れてるし、ぶっ放す気満々じゃねーかっ?!

 どういうつもりだ。

「今日は悪いけど、来てもらうわ。貴方は……きっと自覚してないでしょうけど。必要だからね」

「何の話か、俺には……」

「知らなくていい事よ。さ、ひとまず同行してもらおうかしら?」

 にこにこ笑いながら人に銃器を突きつけるサチコに、イラッとした。

 何か、前にも一回同じようなことがあった気がする。ずいぶん前だけど。

 だけど、悪いなサチコ。

 残念ながら俺とお前じゃ、能力が桁違いだ。ちらっと反対側に居たはずのエコデに視線を向ける。

 ……いつのまにか、数歩分離れていた。何か、最初に会ったときみたいに。

 あれ、何か痛い。先日の火傷以上に、何か痛い。

 だけど、きっと大丈夫だ。だって俺は、あの全知全能完全掌握の神様によって不必要な能力を付加されているんだから。

 前と同じで、全部リセットするだけだ。

 

◇◇◇

第18話 無職だけど、暇じゃない

 

 ぱたん、と小さな音で、俺は目を覚ました。まだ眠い目を擦って、視線を巡らせる。

「おはようございます。お目覚めになられましたか?」

 ベッドのすぐ脇に立って、微笑むうさ耳メイド。

 すっと背の高い、スタイルがいい、俺の専属メイドだ。

「んー……もう少し寝る」

「そうですか。分かりました。本日は予定もありませんし、ごゆっくりなさってください」

 本日は、っていうか昨日も明日も予定はすっからかんだけどな。

 俺はごろっと寝返りを打って、欠伸。

「では、何かご入用の際には、ベルを鳴らしてくださいませ」

 くすっと微笑んだ気配を見せたメイドは、そのまま部屋から出て行った。

 俺はちらりとサイドテーブルの上に置かれた透明なガラスのベルに視線を向けた。

 あまり大きな音は出ないが、流石、獣属性のあのメイド。すぐに駆けつける。何年も前から俺のメイドを務めていて、長い付き合いだ。切れ長の目をした、カッコいい系のうさ耳メイド・ツキコ。

 ……だ、よな?

「……あー……」

 何か、もやもやする。これはもう、寝るしかないな。

 どうせ俺には、仕事もないし。時間つぶしが俺の最大の任務だ。

「ニート最高ぉー」

 ぽつっと呟いて、俺は瞼を閉じた。

 

◇◇◇

 

 重、い。何か重い。夢と現の境界線上で、俺は異変に気付いた。

 何か重くて、動けない。まさか悪霊による金縛りかっ?!

 ぞわぁっと怖気が這いあがった。

 よし……とと、とりあえず目を開いて、物理的な問題かどうかを確認だ。

 もしかしたら、クローゼットとか机がふっとばされて乗っかってるだけかもしれないしな。

 息を呑んで、俺はゆっくりと目を開く。

 何とか目は開けた、が。開けるんじゃなかった。

「おい」

「ん……。もー……ちょっと」

 いやいやいやいや。もうちょっとじゃねーからな?

 すうっと息を吸って、俺は口を開いた。

「乗るな馬鹿がっ! 気色悪いわっ!」

 俺の上でがっちり抱き付いて居眠りするな、ロヴィ!

 だが、ロヴィはものすごく嬉しそうに笑って、俺の拒絶に返す。

「喜ばなくていいですよ、兄さん」

 微塵も嬉しくないわ!

 何で目覚め一発目に弟から抱き付かれてなきゃいけないんだ。

 ようやくロヴィから解放された俺は、なんかもう言い様のない感情に泣きたくなる。

 何で俺の人生、こんな風に設計したんだ、あの神様は。信じられん。

「今日はオフなんです、兄さん」

 だからどうした。俺は昼寝と言う重要ミッションを遂行中だったんだが。

 ロヴィはひらっと重そうなマントを揺らして、俺とまた距離を詰める。

「一緒に歌劇の観覧などいかがですか、兄さん!」

「断る」

 即答した俺に、ロヴィはそれでも笑顔だった。

 クローゼットから服を引っ張り出して、着替えの準備をする俺の背中に、ロヴィが言う。

「心配しないでください。すでに手配済みです。13時開演ですから、呼びに来ますね」

 来なくていいっての?!

 何でお前の予定に俺が付き合わなきゃいけないんだ……。

 ほんと、こいつのブラコンっぷりにはドン引きだ。

「分かった分かった」

 適当な相槌でともかくやり過ごそう。会話してるだけで、頭が痛くなる。

 ため息をついて、着替えるためにシャツの裾を掴み……俺は未だに立っているロヴィを振り返った。

「まだ何かあるのか?」

「え? 兄さんが着替えるのを見ようと……」

 ぞわぁぁっ、と全身に鳥肌が出る。最早蕁麻疹のレベルに達しそうだ。

 何で弟に着替えを見張られてなきゃいけないんだ! 気色悪いにもほどがある。

「ロヴィ、悪いが」

「はい」

「出て行け」

 ぺしっと空気を指で弾く。

 枯れ葉のごとく吹っ飛ばされたロヴィは、扉の向こうの壁に激突した。

 凄い音がしたけど、まぁ扉も開けておいたし、死にはしないだろう。

 ぱたんっ、と扉が閉まると、向こう側でばたばたと走ってくる足音が聞こえてきた。

 メイドと衛兵の慌てた声をBGMに、俺は深いため息を一つ。

「……はぁ。何で弟に恐怖を感じなきゃいけないんだろうなぁ、俺は」

 ロヴィの偏愛を受け取る気は、さらさらないが。

 

◇◇◇

 

「さて、と」

 時計を確認すると、時刻は11時半。

 あと一時間すればロヴィは迎えに来るに違いない。それまでに逃げ出さないと。

「あら、リリバスお出かけ? それとも投身自殺?」

 物騒な響きを何らためらいなく吐き出す声。

 窓枠に手をかけていた俺は、振り返って、目を細めた。

「どっちも不正解だ。俺は逃亡する」

「あら、ロヴィと歌劇を見るんじゃなかったの?」

 頬に手を当て、首を傾げて見せる白々しいサチコ。

 ひらっと黒い衣装を揺らしてサチコが俺に歩み寄る。

「歌劇と称して何してくるか分からん。絶対に、俺は行かないからな」

「あら、ロヴィはそんなことしないわよ」

 どこからその自信が来るのか、ぜひ教えて欲しい。

 小悪魔的な笑みを浮かべたサチコの指先が、俺の鼻先に触れる。

「ほら、ロヴィは綺麗にとどめておきたいタイプでしょ? 私は頭が潰れちゃってるほうが好きなんだけど」

「そーいう話じゃないんですが?!」

 サチコの死体コレクターぶりには恐れ入る。

 俺にはとても想像できない展開をどうもありがとう、サチコ。今すぐ俺の目の前から消えてくれ。

「とにかく、俺は逃げるっ! ロヴィに見つかる前にだ!」

 サチコの手を払って、俺は断言した。

 ふーん、とサチコは意味深に笑って、俺の瞳をじっと覗き込む。

「ど・こ・へ?」

「どこって……」

「城内なら、ロヴィの方が詳しいわよ」

「ぐ……」

 返す言葉もない俺に、サチコはくるりとターンして背を向けた。反動でサチコのオレンジの髪と、長い衣装が翻る。

「あ、でもリリバス?」

「何だよ」

 背を向けたまま、顔だけ振り向かせて、サチコはにんまりと笑った。

「城外に逃げようなんて真似は、駄目よ?」

「は?」

「じゃないと、私、リリバスをコレクションに加えなくちゃいけなくなるわ」

 サチコの目はマジだった。

 俺は無意識にこくこくと何度も頷く。サチコの死体コレクションには加わりたくない。

 すぐに破壊されるのは、目に見えているわけだし。

 サチコはにこっと明るく笑う。

「なら問題ないわ。じゃあ歌劇楽しんできてねー」

 ひらりと手を振って、サチコは出て行った。

 ……ったく、何かあると死体コレクションを増やそうとするとは。怖い女だ。

 

◇◇◇

 

 しかしサチコの忠告ももっともで、城内について詳しいのはロヴィの方だ。

 それは否定する要素が何もない。

 ていうか、俺はほとんど城内の事は分からない。

 転生して、1ヶ月くらいでロヴィに耐え切れず、城外の……あれ?

 城内の廊下を歩いていた俺は、ふと足を止める。

 1か月でロヴィに耐え切れなくなって……外の、学校に行ったんだよ……な。

 何でだっけ。どこに、だったっけ? そこで何を学んだっけ……?

「……兄さん、大丈夫ですか?」

「ひぃっ?!」

 ぼんやり立ち尽くしていたのが災いしてか、ロヴィに声をかけられてしまった。

 真紅のマントを揺らして、小走りでやってくるロヴィ。

「ちょ、兄さん器用ですねっ?!」

 褒めていただき光栄だが、俺は逃げたいんだよっ!

 全力で後ろ歩きする俺を追いかけて来るロヴィも目がマジだった。

「あ!」

 ロヴィが声を上げたのと、

「へ?」

 俺の脚が床から離れたのは、同時だった。

「に……兄さんーーっ!?」

 ロヴィの声を聴きながら、俺は階段を背中から転がり落ちた。

 

◇◇◇

 

 痛い。背中を中心として、しこたま痛い。くそ、俺が頑丈な体じゃなかったら死んでるぞ、この衝撃。

 階段48段分を転げ落ち、踊り場の壁に激突。落差15m分の衝撃は凄まじかった。

 やっとの思いで体を起こし、後頭部に出来たたんこぶをさする。あー、脳震盪しそうだった……。

「兄さぁぁんっ!」

「うごぇっ!?」

 階段を駆け下りてきた勢いも殺さず抱き付いてきたロヴィの腕が、もろに首に入る。

 息、息がっ……。

 視界が徐々に霞み、その白みがかった景色の中で、おさげの少女に腕を組まれた、どっかの爺さんがひらひらと手を振っている。あー……俺もそっちに、逝くのかぁ……。

「あ。すみません、兄さんっ!」

 白目をむいて泡を吹いた俺に気づいたらしいロヴィが、拘束を緩める。

 すうっと爺さんたちの姿が霞んで消えた。どうやら、まだこの世に留まれるという事らしい。

「大丈夫ですか、兄さん」

「爺さんが手を振ってた」

「し、しっかりしてください兄さんっ!」

 ん? 待てよ。

 これは、チャンスじゃないか?

 ぴんぽーん、と古典的に俺の頭の上で電球が点灯した。

「ツキコを呼んでくれ。俺はもう部屋で寝る! 体痛いし、休息しなきゃだ!」

「任せてください!」

 ぐっと握り拳を作ったロヴィ。

 ようやく分かってくれたのか。よかっ……

「兄さんが回復するまで、全ての世話は僕がします。安心してください!」

「何でーーーー!?」

 お前じゃ俺の世話しきれないだろ!

 仕事もあるし、何必要が把握できないだろ!

 そもそも、ここから部屋までどうやって連れて帰ってくれるつもりなんだ。

「衛兵!」

「「ははっ!!」」

 ロヴィの声に、ずささっと現れる豪勢な鎧に身を包んだ衛兵二人。

「兄さんを部屋までお連れして、医者を呼んで来い!」

「「承知しました」」

 綺麗に声をハモらせて了承。なんか、凄いわ。

 がちゃがちゃと音を立てながら、一人が俺を大事そうに抱き上げる。

 いわゆるお姫様抱っこ。うぉぉ、嬉しくねぇぇ!!

 しかし下ろしてもらおうにも、まだ痛くて動きたくない。

 もう一人はその重そうな姿からは想定できない速さで走って行った。

 綺麗なフォーム。身軽になったら世界最高記録を出せるんじゃないだろうか。

「兄さん、僕に全て任せてくれれば大丈夫ですからね」

 その笑顔が一番怖い俺は、どうしたらいいんでしょうか。

 助けてください、ツキコさん。

 

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