第五話 透明な行く末 

 

「あっ、おはよーございます。早坂2尉!」

「ああ、おはよう秋田」

 事務所に入るなり明るい声音で迎えられた一翔は、思わず苦笑で返していた。

 朝から晩まで、ほとんど同じテンションを保つりりあに、少し緊張していた心が綻んでいるという事実は、絶対に口に出さないが。

 すでに登庁していた横白は、広げた新聞の向こうから顔を半分だけのぞせて、軽く会釈。

 いつも通りの挨拶だ。

 自分のデスクに鞄を置き、ふと視線を隣のデスクに向ける。

 光谷の席には、すでに今日の仕事らしきファイルが拡げられていた。

 珍しく課業開始前から仕事に走っているのだろうか、と一翔は思わず眉をひそめる。

「あ、光谷1曹は当直下番の報告に行ってますよー。そろそろ戻ると思いまーす」

「ああ……そうか」

「何にもなかったみたいですけどね」

「馬鹿、あったら困るんだよ」

 ため息交じりに咎めると、りりあは分かってますよー、と笑った。

 一翔は呆れつつ、椅子に腰を下ろす。

 恒常業務だけに追われているのが、正直一番正しいあり方だ。

 相反する存在意義。自嘲せざるを得ないのは、悲しい現実だった。

 

◇◇◇

 

 後頭部に加えられた鈍く、しかし強烈な一撃に、視界に星が瞬いた。

「お前は何度言えば分かる!」

 続いて鼓膜を突き刺すような怒声。

 ぐっと奥歯を噛み締めて、一翔は予想される怒号に備えた。

 何が理由で怒鳴られているかは、一翔自身が一番よく分かっている。

 だからこそ言い返さない。

 しかしだからこそ、予想される叱責の言葉が、痛烈に胸に突き刺さる。

 構えていた一翔は、一向に紡がれない教官の言葉に、そっと後ろを振り返った。

 武骨な手を強く握りしめ、今にも殴りかかりそうに。

 震える拳は、必死に自分を抑制する教官の心の表れだった。

 だが、それと相反する、酷く苦しげな教官の表情に、迂闊にも一翔は目を丸くする。

 瞬間、ごつっと鈍い痛みが脳天を襲った。

「っ……!」

 顔をしかめた一翔に、教官は大きく息を吐き出した。

 そして、身構える一翔を残して、教官は黙って歩き出す。

 戸惑いつつ、追い掛けた一翔を肩越しに振り返った教官は、ぽつりと。

「お前は、この世界には向いてない」

「やってみせます」

「少なくとも、お前は戦闘機乗りのセンスはない。皆無だ」

 冷たく突き刺さるその言葉に、一翔は瞬間的に頭に血が上る。

「人の倍、努力してみせます!」

 教官の背に自分の思いをぶつけた一翔は、直後に心の内で反省する。

 機嫌を損ねれば、それこそコースアウトは目に見えているのだから。

 それだけは、避けなければならなかった。

 ずっと胸に抱いてきた夢がすぐそこに、手が届きそうな所まで、たどり着けたのだから。

 しかし教官は、目元に一瞬だけ悲しげな光を映して、すぐに正面へ顔を戻す。

 そして。

「向いてねぇんだよ。キルコールの出せない戦闘機乗りなんて使えねぇ」

 そう吐き捨てた教官に反論する言葉は、浮かばなかった。

 確かに、撃墜許可を求めるキルコールを出せない戦闘機では存在意義はない。

 だが、一翔はどうしても出来ないでいる。

 乗り越えなければならない壁であることは、明白だった。

 分かっている。

だからこそ、ぐっと強く拳を握りしめ、その背を睨み付けるしか一翔には出来なかった。

――その一週間後には、一翔のパイロットコースは固定翼から回転翼へ変更を命じられることとなる。

 その日が、一翔が夢をもぎ取られた日だった。

 父の目指した高高度の世界ではなく、今は辛うじて下層の空を舞う。

 中途半端だった。

 いっその事、パイロットでさえなくなればまだ諦めもついたかもしれない。

 それでも、今でも空を飛び続けるのは、夢の名残に惨めにしがみ付いているせいか。

 そして、アラートが響き渡る。

 手際よく離陸準備に取り掛かるのは、最早染みついた習慣のようなものだ。

「さーて行くぞ、早坂!」

「準備は出来てますよ、光谷1曹」

 防弾ガラス越しに見える空は、今日も青く、白い雲を浮かばせている。

 その白い雲を見下ろす日は、二度と来ない。

 現実は、一翔にとって鈍い苦痛だ。

 

◇◇◇

 

「失礼します」

「ああ、入れ」

 深く響く様な低い声に緊張感を纏いながら、一翔は中へと踏み込んだ。

 特段、他の部屋と大きくは変わらない内装。だが隊長という肩書と、個人の持つ雰囲気がどこか空気を重く感じさせる。

 医者であり隊長である、小森はデスクで資料に目を通していた。

 一礼した一翔に視線を寄越す小森の視線は、相変わらず医者とは思えぬ鋭さが宿っている。外科医としての腕前は、軍医内どころか、一般の医者の間でも有名だそうだ。体格は細身の長身で良く響く深い声はそれだけで威厳を醸す。

「まぁ座れ」

 促されて、一翔は応接ソファに腰を下ろす。小森は資料をデスクの上に置くと、緊張の面持ちの一翔へ視線を向けた。

 そんな一翔に、小森が口角を上げた。

「何を緊張する事があるんだ」

「そんな事は」

 そう返しつつも、口の中が乾きかけているのは事実だ。隊長という近しい立場にいるとは言え、階級は1佐。その上、小森の醸し出す雰囲気はどことなく近寄りがたいものがあるのだから。

 本人に言えば、案外傷つくのかもしれないが。

「どうだ、早坂。そろそろ一年になるだろう。慣れたか?」

「そう、ですね。ですが、私はただパイロットとしての役割を果たしているだけですから」

「衛生という職域に対するイメージは変わったか?」

 小森の問いかけに、一翔は思わず眉を顰める。質問の意図がよく見えなかった。

悪いイメージを持っていたわけではない。かといって、この隊はただの衛生とは違う。診療や予防のためにあるわけではないのだから。

「別に、変わらないから悪いという事ではない。逆に、外から見ていたはずのお前だからこそ、気づくことはあるかと思ってな」

 なるほど、と一翔は頷く。

 だが、こう言っては叱られるかもしれないが、一翔にとっては場所などどうでもいい話だった。

 高高度の空を舞う手段を失ってからは、言われた事だけを淡々とこなすしか気力がない。そこに使命感は薄いと自覚していた。

「だが、お前の腕前は皆が認めている。それだけは、忘れるな」

「え……」

「お前がいるからこそ、私たちが活動できる。これからも頼むぞ」

 告げられた言葉に、一翔は曖昧に頷くしかなかった。

 価値を見出せるのは自分だけと知りながら、その価値が未だに見えない。

 

◇◇◇

 

 事務室へと戻ってきた一翔は、自席に座っている徹に気付く。

 何やら楽しそうに光谷やりりあと談笑していた。ここに徹が来るのは、珍しい。

「あ、戻ってきた。早坂2尉、おかえりなさーい」

「あっ、すみません! 席借りてました!」

 慌てて立ち上がった徹に一翔は首を振る。

 むしろ散らかったままのデスクを見られたことの方が少々恥ずかしい。一翔は仕事をすぐに山にしてしまうタイプだった。

「珍しいな。檜2尉がここに来るのは」

「はは……調達作業に追われてましたからね。この間計画外の緊急調達終わったと思ったら、今度は計画ですから。もうここんところ目が回る忙しさでしたよ」

「三木元がため息ついてたぞ。班長はいつになったら、効率よく仕事が出来るのかってな」

「うぅっ……それを言われると返す言葉もありません……」

 がはは、と豪快に笑う光谷に徹は肩を落とした。徹の仕事は基本的には衛生資器材の調達資料作りと、その分配計画担当だ。徹の調達した医薬品や医療機器があってこそ、この隊は活動を行える。書類仕事ばかりだが、徹の担う責任は大きい。

 自席に腰を下ろし、一翔はバインダーを抱えたままの徹を一瞥する。

「計画が通ったのか。大変だな……俺には相変わらず、区別がつかない器材ばっかりだ」

「お陰様で通りました。あとは会計課に任せるだけです。それに、俺もまだまだ、分からないものばっかりですよ。だから中々、効率的に出来ないんですけどね」

 苦笑する徹だが、その仕事は丁寧だ。お陰で資材不足等も起きたことがない。三木元のフォローによるところも多いとは思うが、それでも班長としての役割は果たしている。一翔には書類仕事はまだ不慣れな部分が大きく、尊敬に値する部分だった。

「さて、そろそろ帰りますね。今度は受領準備しなきゃいけないし」

「あ、人手必要だったら言ってくださいね。倉庫整理くらいは、ぱぱっとみんなで一緒にやった方が早いですもん」

「ありがとう、秋ちゃん。じゃその時はよろしく頼むね」

「ごくろーさん、班長」

 徹は苦笑と共に一礼し、事務室を後にした。コーヒーカップをりりあが素早く片づけに動き出す。

 ふうとため息を一つついた一翔。

「隊長の面接ご苦労さん。何か言われたか?」

「いえ、別にこれといっては。慣れたかどうかは、聞かれましたけど」

「ははっ、だろうなぁ。そりゃ気になるだろうよ。ま、俺はお前さんはホント、きっかけ一つで気づくと思ってるから気にしてないけどな」

「ですかね」

 どうも、自分では分からないものだ。

 

◇◇◇

 

 航空法上、ヘリコプターには必ず最低高度が決められている。高層ビル群や住宅地では半径六百メートル以内に存在する建築物の中で、最高層の建築物を規定としてその上空三百メートル以下は不可。平地でも百五十メートルは確保されていなければならない。

 現場に急行しなければならないとしても、こればかりは危険回避のために最低限守るべきルールだった。

「しかし、煙が酷いな。見えてるか、早坂」

「何とか。目的地は見えてます」

「よし、ぎりぎり降りることは出来そうだな」

『現場の様子は』

 マイク越しに、横白の太い声が聞こえた。素早く光谷が別系統のチャンネルの回線を使って、確認を取る。

 一翔は目的地に向かって安全確実、かつ迅速な航路で機体を奔らせる。

 不意に、光谷が小さく舌打ちをした。

「光谷さん?」

「まっずいな。……まぁその為に、いるんだから仕方ないっちゃ仕方ないんだろーな」

「まさかまだ戦闘してるんですか?!」

 思わず声を上げた一翔に、光谷はパンッと太腿を叩いた。口元のマイクを掴み、光谷は口を開く。

「着陸場所は問題ない。増援も確保済みだ。どうする、牧田1尉」

『決まっている』

 凛とした海の声が聞こえた。思わず、一翔は息を呑んだ。

『それが私たちに与えられたミッションだ。それを完遂するのみ。迷う事はない。……降りてくれ、早坂』

誰も非難の声や、不安の気配を感じさせない。そして海は一翔に命令ではなく、依頼したのだ。

恐らくは、一翔の戸惑いも加味して。そして、自分の判断を促すために。

 ぐっと、操縦桿を握りしめる。どんなに海が命令しようとも、着陸を可能とするのは一翔の操縦があってこそで。

 だからこそ、海は命令しなかったのだろう。

 そして、一翔は。

「……了解、牧田1尉」

 そんな海の意思を、無下には出来なかった。

 

◇◇◇

 

 ローターは回転させたまま、ぎりぎり有視界飛行を確保できる煙と熱の中、一翔は光谷と共に、待つことしか出来ずにいた。

 りりあや横白の護衛の下海は迷いなく飛び出して行った。救命士の資格を持つ亀村と銃声が響く現場へと。

 本来ならば、銃撃が収まった、あるいは後方へ下げられた患者を搬送するのが機救隊の役割だった。だが、今回は事情が違う。

 そもそもテロリスト相手に条約うんぬんを掲げたところで何の意味もないのだから、あながち間違いではないだろう。

 それにしても、待つべきだったのではないかと、一翔は護衛用の拳銃を握りながら思っていた。操縦席には自分一人。収容のために開いた後部ハッチは、美雪と光谷が警戒している。一人が、一翔には不安だった。

 ただ空を舞うという夢だけしか見ていなかった自分に気付く。

(本当に俺が感じるべきだったのは、これなんだ)

 命を救うための恐怖。命を奪うのは、空の上ではスイッチ一つだった。そんな命を救うために、海や横白のように最前線へ向かう人のことなど、考えもしなかった。

(俺は……)

『早坂! ハッチ閉めろ!』

 はっと光谷の声に我に返る。いつの間にか伝い落ちていた汗。慌てて後部ハッチを閉鎖するスイッチを操作する。

後部から副操縦席に乱暴に飛び乗った光谷が、息を切らせながらヘッドセットを調節し始めた。

「急げよ! 最低でももう一往復だ!」

「え、は?」

『安全運転で頼むぞ、早坂』

 滑り込んだ海の声に、一翔は戸惑いを抑えられなかった。慌てて後部を覗きこむと、薄暗い貨物室内には、せっせと手当に当たる美雪と、呻く陸上迷彩の兵が十名以上。そこには海の姿はなかった。

「牧田1尉、まさか外ですか?!」

「早坂! 急げってんだろ!」

「でも、光谷さん! 流石に無茶苦茶っ……」

 鉄拳が脳天を襲う。光谷が拳を震わせて、一翔を睨んでいた。

 だが一翔には分からない。非力な海がこんな弾丸が交差する現場に残る意味が分からない。海は医者で、負傷した兵を治療するのが役割だろう。

『早坂』

 凛とした海の声。揺れていた水面を一瞬で平静に戻すような、静かな声に一翔は微かに目を見開く。

『お前は、秋田士長や横白2曹の戦闘技術を信じられないのか』

「それ、は」

『そこにいる、花山3曹の看護技術を疑うのか』

 ああ、そうか。

『思い出せ、早坂。自分の役割を。自分にしか出来ないことを。……早坂にしかできないことが、今目の前にあるだろう』

 そうだ。

 患者を無事に、迅速に病院まで運べるのは一翔しかいない。操縦桿を握る、一翔にしか。

 そして現場にいる海だからこそ出来ることも。

「最速で戻ります」

 断言して、一翔は前を向いた。空を、見上げた。

 低い空かもしれない。だが、この空は尊い。ローターの回転速度を上げる。浮かび上がる機体が、命を乗せて動き出す。

「光谷さん、受け入れ要請をお願いします」

「おうよ」

 にっと歯を見せて笑った光谷。

「花山さん。病院までもたせてください!」

「まかせて、早坂2尉」

 穏やかな声で、それでも忙しそうに動き回っている美雪。

 この場にいる人間、誰一人、同じことは出来ない。与えられた役割はそれぞれ違う。

 だが、目的は一緒で。

――命を繋ぎたい。

 ただ、それだけだった。

 

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