◇◇◇

 

 和解したといえばそうかもしれなくて。それ以来ブレンとアルトは少しだけ歩み寄った。それに伴って、少しずつアルトも本来の自分らしさを取り戻し始めている。時折強烈な不安や孤独に襲われることもありながら。

 リビングでファゼットとガディと共に、午後のお茶を楽しむことができる程度には、人と対面できるようになっていた。

「ふーん。シスが嫉妬しそうだねぇ」

「何でだよっ?!」

 思わぬ発言で声が裏返ったアルトに、ファゼットは涼しい顔でカップを傾ける。ガディがくすくすと楽し気に笑って、ブレンが苦笑いを浮かべた。

「一番の理解者を自負してたから」

「ご心配なく。私はアルトさんまで面倒を見る余裕は持ち合わせてませんので」

 さりげなく暴言を吐くブレンに、アルトはぶすっとした表情を浮かべ、カップに口をつける。仄かに果物の甘い香りのする紅茶に、ささくれ立つ心が少しだけ癒される。

 和やかな、午後。最近はこんな日が増えてきて、アルトの心も平穏を保っていた。

 ふと、機械音が鳴り響く。記憶のどこかで聞いたことのある音にアルトは眉根を寄せた。ファゼットが上着の内ポケットから監査官用の通信端末を取り出す。通信端末のメールの音だったのだ。

「あ、クオル戻ってくるって」

「いつですか?!」

「もう来ると思……」

 ファゼットの言葉を聞き終える前に、ブレンは風のごとく飛び出していった。間髪入れない素早さに面喰らったアルトを他所に、ファゼットが肩をすくめる。

「ほんと、そんな心配なら一緒に行けばいいのにね」

 端末を仕舞い込むと、ファゼットはゆっくりと立ち上がる。アルトは茫然としたままそれを目で追いかけていると、ファゼットが首を傾げた。

「何してんの、アルト。行くよ」

「へ? ど、どこへ?」

「出迎えだよ。……また無茶したみたいだけどね」

 ため息交じりにそうこぼしたファゼットに、アルトは疑問符を躍らせるだけだった。それと同時に、不安を覚える。

 無茶、という言葉に不穏な空気が拭えない。ぎゅっと手を強く握りしめて、アルトも腰を浮かした。

 ファゼットとガディに続いて、アルトは玄関へ向かう。

 正直、緊張していた。どんな顔をして会うべきなのか。ひとまずは謝るべきか。そもそも、向き合った瞬間パニックに陥らない可能性はゼロではなく。

 答えを探して、アルトは悶々と考える。

「あぁ、おかえり」

 ファゼットの声に、アルトは慌てて顔を上げる。玄関に居たクオルは――血に、濡れていた。

 体を支えるのすらきつそうに、ほとんどブレンの腕に体重を預けている。

「戻りまし、た」

 力なく笑って、踏み出そうとしたクオルの足元がふらつく。慌ててブレンが抱き留めた。

 ぽたぽたと、指先から赤い雫を落とすクオルに、ブレンはため息をつく。

「……無茶しないって、約束したじゃないですか」

「ごめん、なさい……」

「とりあえず、休みましょう。手当、しないと」

 こく、と頷いてそのままクオルは意識を手放したらしく、ブレンがクオルを抱き上げて歩き出す。ガディは自分の役割を的確に理解し、すぐに救急セットを取りに踵を返した。

「アルトさん、また後で時間を見つけますから」

「あ……うん」

 律儀に約束を覚えていたらしいブレンはアルトにそう告げる。アルトは半ば呆然となりながら頷いて、二階へ上がっていくブレンの背を見送った。

 時折、赤い雫を床に落としながら。

「……あの人、いつも怪我してる気がする」

「間違ってないよ。……クオルは、加減しないから」

「加減?」

「そ。……まぁ、いっか。じゃあ悪いけどアルト、ガディの手伝い、してやって。僕はラナを呼んでくるから」

「あ……わ、分かった」

 頷いて、アルトはガディの後を追いかけた。すでにリビングから救急箱を手に戻ってきたガディは、無言で首肯する。

 言われずとも、状況は把握したという事だろう。流石ファゼットの孫だった。

 ガディと共に、アルトは初めて二階へと昇る。ゆっくり観察している暇など与えられず、階段を上ってすぐ、右手の部屋へ。

「傷の様子はどうですか?」

 入ってすぐにそう声をかけたガディへ、ブレンが振り返って首を振る。

「それほど広範囲ではないようです。まぁ、良くはないですけど」

「どんな状態でも、貴方は納得しないでしょう?」

 ガディに苦笑い気味に指摘され、ブレンは頷き返した。否定はしませんよ、と。

 アルトは黙って扉を閉めると、手際よく止血の準備をしているガディの背後へと歩み寄った。

 白い顔で、だが苦痛は感じさせない表情でクオルは眠っていた。

「いつも、怪我してる気がする」

 ぽつりとアルトが呟くと、ブレンは苦笑いを浮かべた。

「監査から戻ると、そうですね。無傷で戻ってきたのは、片手で収まる程度ですよ」

「監査って……危険なんだな」

「そうとも言い切れません。ただ、クオル様が特殊なだけです。まさに、諸刃の剣ですから」

「諸刃の剣?」

 復唱したアルトにガディが視線を向けた。

「クオルさんは、アルトさんと同じ四元の章の使い手なんですよ」

 思わずアルトはガディを凝視し、次いで、ベッドで顔色悪く眠っているクオルの横顔を見やる。

 心臓が嫌な高鳴りを始める。

「嘘、だろ。だって。それってうちの家系の、専売特許みたいなもんで……」

「術体系が共通しているだけです。貴方のように家系で縛っているのは珍しいと思いますよ。四元の章は、本質的には誰でも使えるはずですから」

「どういう、意味だ?」

「四元の章は現象そのものを呼び込む魔法です。それは世界の持つ記憶を拝借するようなもの。あらゆる記憶の眠る場所は、王の柱です。王だけが、その記憶に触れることができる。……そして王の資質を持つ者の条件は、人としてあることを捨てきれる者」

 つい、とガディは眠るクオルへと視線を向け苦しげに言った。

「クオルさんは、一度、生きることを完全に放棄した。自身の存在を否定して、魔の器となることを受け入れた。人としての魂に入った亀裂……世界と人との境界が薄れた者が、四元の章を扱う資格を与えられるんですよ」

 ガディの語る『四元の章』の本質。その意味に、アルトは震える。

 嘘ではない気がした。代々、母は子へと引き継がれる魔導器のために命を落とす。あるいは、その魂を物へと還元する。人と世界との境界を越えている。

 寒気が這い上がり、腕を抱いたアルトに、ガディはさらに続ける。

「でも、所詮は王じゃない。だからそんな大きな力を無尽蔵に揮えるわけじゃない。だからこその、反動です。世界が、自分の一部である人を傷つければ、世界そのものが傷つくように。その力を揮って誰かを傷つければ、罰が返る。能力以上に力を揮っても、体が先に壊れてしまう。それが、四元の章の反動です」

「そんなわけ……だって、俺はそんなの……」

 なったことがない。そう言いかけて、ガディはアルトに目を向け、微笑んだ。

「全部……クオルさんが引き受けてるんですよ。本来、反動と言えど大きくはないんです。世界と同義の力を揮うクオルさんと、世界の一部でしかない人。規模が違いすぎる。だけど、現存する四元の章の反動を全て引き受ければ、ああもなります」

 監査官だからこそ、クオルはすぐに四元の章の本質と負荷を理解したのだろう。そして監査官としての立場を使って、クオルは全てを引き受けた。

 滅茶苦茶な理論をしている。一人で引き受ける意味など、ないはずだ。

「何でそんなに一人で頑張るんだ? おかしいだろ。その反動のために、自分が戦って、それでただでさえ傷つくのに。普通の精神じゃねーよ……」

 正直、壊れているとしか思えない。アルトがその言葉を飲み込んでいると、ブレンが小さく笑って、言った。

「罰、なんですよ。自分への。自分が過去に犯した罪に対しての、自分への戒めです。砕けてないだけで、クオル様の心は、崩壊寸前ですから」

 アルトは、クオルに目を移す。今も苦しんでいるのは、現在の傷じゃなくて……過去に残した罪への意識。

「俺は…………」

 そんな傷だらけで必死に今に立ってる人間に対して、その存在さえ否定した言葉を、躊躇いもなく自分の痛みだけで投げていたのだ。

 なんて、ちっぽけな人間なんだろう。そんな人間が世界管理の要職について何の意味があるんだろう。

――クオルのような人々を酷使する最悪の上司になるのだと思うと、吐き気がした。多かれ少なかれ、監査官は何かしら後悔を背負っている。夢と憧れの世界で、監査官と出会うことはまずないのだから。

「……少し、ここにいて……いい?」

 アルトはようやくそれだけを絞り出す。怪訝そうなガディとブレンに、目を伏せながら、アルトは言った。

「目が覚めたら、ちゃんと俺……謝りたいから。それと……知りたいんだ。その人の、こと」

 クオルという人間をちゃんと理解したい。そう初めて思ったのだから。兄であったクオルですら、知ろうとしなかった自分がいた。

 今まで、誰ともまともに向き合おうとしてこなかった。そうして、今は全てを失った。だからこそ、アルトはここから始めるのだ。

 水虎として立つ自分を、認めるために。

 アルトの真剣なまなざしに、ブレンは快く頷いた。ガディも安堵した様子で笑みを浮かべる。

「ぜひ、そうしてください。こちらからもお願いします」

 ブレンの言葉が何だか恥ずかしくてアルトはそそくさと目を伏せた。

 こういうのは、慣れない。

(シスは、どう思うんだろう。俺の選択……間違ってんのかな)

 今のたった一人の味方を思い、少しだけアルトは不安を覚えた。

◇◇◇

 

 切り離していた痛覚が戻り、少しずつ神経から痛みが伝わってきて、ようやく覚醒する。ぼんやりと開いた視界は紫の空が見えた。

「あ、お目覚めですか? 早かったですね」

 小声で声をかけられ、視線を左へ移すと、ブレンがいた。瞬きを数回して、ようやく視界がクリアになると、クオルは体を起こした。

「夕方……ですか?」

「ええ。何か飲み物でも持ってきますね」

 頷こうとして、視界の隅に人影を認めた。驚き、クオルは凝視する。部屋の隅で何故か膝を抱えてブランケットにくるまった、金髪の頭が見えた。

「アルトさんですよ。クオル様と、普通に話がしたいそうです」

 ブレンの言葉に、クオルは表情を曇らせる。それはきっと、アルトにとっては血を吐く様な行動だろう。

 痛みと向き合うのは、生半可な覚悟では居られない。そんな状態までアルトが持ち直したのかさえ、クオルには分からなかった。

「……僕を見ても、つらいだけでしょう」

「そういえば、記憶……預かってるんでしたっけ?」

 頷く。全てではないにせよ、恐らくアルトが最も苦痛に苛まれるであろう記憶は、封じたうえで、更に預かっている。

 修羅場をくぐってきたはずのクオルですら、戦慄するほどの光景だ。冒涜的な喪い方など、むしろ消し去ってあげたいほどだった。

「私にも、見せてくれませんか?」

「人の記憶は、見世物じゃありませんよ」

 分かってます、と頷きながらもブレンは引き下がる気配は見せない。

「つらい記憶を一人で抱えるなんて、駄目ですよ。クオル様の痛みを少しでも軽減するために、私はいるんですから」

「僕は、預かってるだけ、です。僕の痛みじゃない」

「そうは思えませんけど。クオル様がアルトさんに向ける視線には、痛々しさがありますから」

 反論が浮かばなかった。常に自分を見ているブレンだ。きっとそうなのだろう。

 共有したいわけではなく。それでも、クオル自身、無意識に苦しかったのかもしれない。

「……一度だけ、ですからね」

 最大の譲歩でもって、クオルは言った。クオルの差し出した手を取り、ブレンは目を閉じた。触れただけで、簡単に記憶を共有し、吸収できるクオルだからこそできる事だった。

「っ!」

 びく、とブレンの手が震えた。ふっと小さく笑って、クオルはその手を離す。記憶を覗かせることを中止する。

 息を呑んで表情を凍らせているブレンにクオルは静かに微笑んだ。

「だから僕を否定するのも仕方ないんですよ、ブレン」

「クオル様……」

「あ……お目覚め、みたいですよ」

 

◇◇◇

 

 泥に胸まで浸かって、身動きが取れないでいた。薄暗い世界で、手を伸ばしたい光が見える。

 振り返れば、腕も足も掴まれて動けそうになくて。だから前に弱々しく光る光へと、アルトは必死に手を伸ばした。

 誰かの呼ぶ声が、聞こえる。

 導かれるように視界がふわりと淡い光に包まれて、霞む赤い床が見えた。

 いつの間にか、眠っていたらしい。目を擦ると、ブランケットが肩から滑り、冷気が滑り込む。

 ゆっくりと顔を上げると、……半身を起こしたクオルと目が合った。

「……あ!!」

 アルトはすかさず立ち上がる。ブランケットがずり落ちて床へ落ちる。そこまでは勢いのあったアルトだったがそのまま人形のように停止した。何を言っていいのか、どう動くべきか、何もかも分からなくなってしまって。

「……おはようごさいます」

 クオルが苦笑を交えてそう零す。その言葉で我に返ったアルトはぶんぶんと首を振った。

 陽の光の入り方は、もう夕刻のものだ。

「もう夕方、だろ。……その」

 一度視線を外し、それからアルトはクオルへ視線を戻すと、表情を引き締め……そして、頭を下げた。

「ごめんなさい!」

「え? あ、あの……?」

「貴方は、俺を助けてくれたのに。そんなことも知らないで、酷いことたくさん言って、傷つけて……ほんとに、ごめんなさいっ……」

「……謝ることなんてないです。誰だって、自分の痛みが一番だって思うのは当然です。それに僕は、気にしてませんから」

「でもっ……」

 やっと顔を上げてクオルを見やったアルトは思わず息をのむ。ひどく寂しそうに微笑むクオルが、そこには居た。そうやって笑う人間を、アルトは見たことがなかった。

――殉教者じみた笑み。信仰のままに命を賭す者だ。クオルの場合は、監査官として世界を守るためにあるいはその任務のために命を賭けるのだろう。

 それが、酷く胸を締め付けた。

――この人は、自分自身の命さえ道具の一つでしかないんだ。

 それはひどく悲しい強さだと、アルトは感じた。

 監査官には必要な資質かも知れない。だが、アルトにとっては普通の感覚を失った『ヒト』が世界を守るという恐怖よりも、そうさせた世界が悲しく感じてしまう。

 世界が生命を育む。そうやって、ずっと教わってきた。だけど、実際は世界は常に崩壊の危険性にさらされながら存在している。

 その崩壊から世界を守るためにいる監査官が、一番傷ついているのだ。

 それはクオルだけではなく、ファゼットも、ニナとレンも……もしかしたらシスさえ、残酷な世界で生きて来たのだ。

 議員はその現実を知っているのだろうか。

「……そうまでして、あんたが監査官として世界を守る理由って、何なんだ?」

 アルトはそうクオルへ尋ねる。クオルは静かな笑みを湛えたまま、言う。

「贖罪です」

「違う。もしそれがほんとなら、別に監査官じゃなくていいはずだ。あんたが犯した罪は、元いた世界で犯したことだろ。なら、そこで完結すればいい。だけど、そうじゃない。それも理由にあるだろうけど、本当は違うだろ」

 きっぱり否定したアルトに対し、何故かクオルは楽しそうに笑った。

 その反応の意味が分からず、アルトは小首を傾げる。

「な、んだよ」

「いえ。貴方は……本質を見抜く目を持ってるんですね」

「ちょ、直感だよっ!」

「直感は貴方が感じた情報から分析した結果、反射のようなものです。誇っていいことだと、思いますよ?」

「ご、誤魔化されないからなっ……」

 褒められているのが若干くすぐったくて、アルトはそう突っぱねる。クオルはやっぱり楽しげに笑って、一つ頷いた。

「……見たかったんです。世界を。僕は……元いた世界ですら、窮屈な世界しか知らなかったから」

「窮屈?」

「クオル様は、監禁状態でしたから。人生のほとんどを」

 ブレンから紡がれた言葉が、あまりに衝撃的過ぎて、アルトは一瞬意味が分からなかった。

 監禁?

「ブレンが、……それと、妹みたいな存在が、そこから連れ出してくれたんです」

 そう言ったクオルの表情が、少しだけ寂しさを過らせたことを、アルトは見逃さなかった。

 

◇◇◇

 

 それから、アルトは時間を見てはクオルの元を訪れるようになった。

 興味があるとか、義務とかではなかった。

 ただ、気になるのだ。

 反動を引き受けてもらっている、という引け目もあったのかもしれないが、アルトはそんなことはすぐに忘れていた。

 一週間ほどでクオルは全快して、日常生活に戻っていた。治癒魔法は効かないものの、自己治癒力が元々高いらしい。

 回復するなり早速監査の仕事に戻ろうとして、流石にブレンに咎められていた。その様子は普通そのもので、拍子抜けするほどだった。

 世界最強クラスの監査官、クオル・クリシェイア。本部では有名だったらしい。レンが呆れた様子でクオルのデータを本部からコピーして持ち帰ってくれたおかげで、簡単な個人データは把握している。

 魔法に関して右に出る者はいない、という。白兵戦闘に関しても群を抜き、隙なしの存在だった。データだけ、見れば。

 だが実際のクオルといえば……

「言いましたよね……? クオル様、昨日何度も確認しましたよね……?」

「えぇと、あの……えっと」

 困った笑顔で誤魔化そうとするクオルに、ブレンが大仰なため息をついて、こつこつとクオルの監査官用通信端末を指で叩く。

「一人じゃない討伐ランクBだというから、仕方なしに許可したんですよ?」

「昨日の話ではそうだったんですけど……その……、危険度が高くて緊急性のある討伐任務が入ったから、引き受けてくれないかと……」

「どこのどいつですか。私が話をつけます!!」

「大丈夫ですからっ、危険じゃないですし一人じゃないですから!」

「そーいう問題じゃあありませんっ!!」

 そんな二人を横目にお茶をすすりながら、アルトは心の中で思う。

(世界最強が、付き人に怒られてる……これ知られたら、それだけで世界最強が剥奪される気がする)

 箱入り娘とその父親みたいな光景を、アルトはちょくちょく見かけていた。

 説教から解放されたクオルが渋々断りの連絡を入れに席をはずしたのを見計らって、アルトはブレンに尋ねる。

「なぁ。何であの人、前線に出たがるんだ? 罪の意識ったって、あれは妙だし、色んな世界が見たいって理由もしっくりこねーんだけど」

「居場所を探してるんだと思いますよ」

「居場所?」

 頷いて、ブレンはクオルの席にある冷えたコーヒーを温かいものに入れ替えてからアルトの疑問に対して答える。

「クオル様には、居場所がないんです。監禁されていたのも、ありますけど。そういう『場所』ではなくて。自分の、役目というか。存在価値、ですかね」

 ぴく、とアルトのカップに触れていた指が震えた。血の気が、引いた気がした。

――自分と、同じだった。

「でも……お前が、いるじゃん」

 喉が張り付きそうになりながら、アルトは言う。しかしブレンは悲しげに首を振って、自分の冷えたコーヒーに口をつける。

「……私は、クオル様を支え、守る存在であって、存在価値を与えるわけじゃありません。だから、今でもクオル様は監査で怪我をして戻ってくることに対して、引け目こそ感じても、後悔はしてないんですよ」

「なんで……?」

「私は、その選択をしたクオル様さえ受け入れなければいけないからです。怒りますよ? だけど、クオル様にとって私は……クオル様が自分を見失わないためだけの存在ですから」

「……?」

 よく、分からない。首を傾げたアルトに、ブレンは少し間をおいてから、付け加えた。

「クオル様は感情が乏しいんですよ。今でこそだいぶましですけど。自己抑制が強すぎて、上手く表現できない。で、振り切った結果になることが多い。だから、その度私が怒るなり、……怒るなりします」

 怒る様なことしかしないのか。思わず苦笑するアルトに、ブレンは再度ため息。

「笑い事じゃないんですからね……。でも、それでクオル様は自分をやっと認識できる。それが私の限界です」

 そう切ったブレンの表情は、酷く歯がゆい思いを抱えているようだった。

 それは、アルトにも分かる気がした。クオルは、どこか人とずれている。

 自分なんてどうでもいい。だけど、自分が分からないから、どうしたいいか分からない。どこに自分を置くべきか見えない。それが、今のクオルだ。

「あの人は、一生ああやって独りで戦い続けるのかな」

 ぽつ、とアルトが零す。ブレンは一瞥寄越して、ため息交じりに返した。

「きっと、そうでしょう。あの人の願いは、孤独じゃない終わり、ですから」

 身を切るような願いだと、アルトは思った。いかに孤独だったかが、それだけで分かる。そしてその痛みは、アルトにもよくわかる。

 外に目を向けた。さらさらと、小雨が降り注いでいる。秋の色に染まった葉の表面を雨粒が流れて、地面へ落ちていく。日常の世界。

 もしかしたら、クオルにはそんな普通さえ、遠いのかもしれない。

「……なんか、寂しい強さだよな」

「そうですね」

「だけど、嫌いじゃない」

 アルトの言葉に、ブレンは怪訝そうに目を向けた。

――不意に。

「ただいま、あーちゃん」

「だからそう呼ぶなっつーのにっ!!」

 反射的に怒鳴りつけて、アルトは振り返る。相変わらずの目的の見えない笑みを浮かべたシスと、アルトの怒鳴り声に驚いた顔をしたクオルが並んでいた。

 ふん、と鼻を鳴らしてアルトは立ち上がった。

「ちょーど良かった。ちょっと来い」

「あーちゃんから誘ってくれるとは珍しいねぇ。別に告白くらいここで聞くよ?」

「黙れ変態! いーから面貸せッ!!」

「照れなくてもいいのに」

 アルトは怒鳴りたいのを我慢して、シスの腕をつかむとリビングから連れ出した。不思議そうな顔をして見送ったクオルとブレンは、顔を見合わせて、それぞれ首を傾げた。

 玄関の外までシスを連れ出すと、アルトはようやく手を離した。玄関屋根の下、狭いスペースで向き直ると、アルトが口を開く。

「俺なりにいろいろ考えて、決めたことがある」

「いきなりだねぇ」

「それが正しいか間違ってるか、お前に教えてほしい」

「それは無理だよ」

 シスが即答し、アルトは言葉を詰まらせた。アルトにとって頼れるのは、今はシスしかいないというのに。

 暗い感情に呑まれそうになり、アルトは唇を噛み締め俯いた。

「そーいう意味じゃなくて。……あーちゃんは」

 ぽん、と頭に手を乗せたシスに、アルトは少しだけ視線を上げた。そうやってアルトが困るたびに、シスは頭を撫でる。それが、特効薬だと知っているのかもしれない。

 くすぐったいが、痛みが和らぐのは間違いなかった。

「あーちゃんは、忘れてるかもしれないけど。……僕は、あーちゃんだけの味方だよ。それが正しいか間違ってるかは関係ない。僕にとって、あーちゃんの出す答えだけが正解だから」

「間違ってたら?」

「僕が間違いを正解にさせる。そもそも……あーちゃんは、間違ったり、しないよ」

「何だよ、その自信」

「あーちゃんの優しさが本物だからだよ」

 何と返していいか、分からない。しかし……アルトは、シスには敵わない。何だか、信じたくなる。自分を、認めてやりたくなる。

「っとに……お前、馬鹿」

 ぱし、と手をどけて、アルトは小さく笑う。

「……でも、ありがと」

「さて、じゃあ本題の告白タイムかな?」

「仕事に戻っていーぞ、変態」

「これ以上あーちゃんに寂しい思いをさせるのもね」

 会話が噛み合わないのも、久しぶりの感覚だった。何だか、懐かしい。思わずこぼれた笑みを見せないようにアルトは背を向けて中へと戻る。

 シスはそんなアルトの背中に安心したような笑みを浮かべた。

「待ってよ、あーちゃん」

 焦った様子もなく、シスは後を追いかけた。

 

◇◇◇

 

 リビングへ戻ると、ブレンがちょうどシスの分のコーヒーを用意し終えたところだった。

「仕事、長かったですね」

 そうシスへ声をかけたクオルに、アルトがつかつかと歩み寄る。クオルは少しだけ驚いた様子で、アルトを凝視する。

 ブレンも怪訝そうにアルトを見つめ、シスだけが何故か楽しそうに笑みを浮かべていた。

 数秒の沈黙の後、アルトはクオルに言う。

「……俺の、……兄になってくんない?」

「………はい?」

 目を丸くしたクオルに、アルトは真剣な顔で訴える。

「兄貴の代わりってわけじゃなくて。兄貴は、俺にとって代わりなんていない。だけど……俺は、あんたが兄になってくれたら、いいなって思ってる」

「どうして、です? ……辛いだけ、でしょう」

 クオルが何かしら、自分の記憶を操作していることはアルトはうっすらと把握していた。そしてその記憶がいかに自分にとって恐ろしいものであるかも、薄々と。

 それでも、アルトは首を振る。

「……俺が欲しかった兄は、一緒に笑って、一緒に馬鹿やって、……たまには泣いたりしながら、一緒に人生を戦えるものだったから」

 その理想は、クオル・フォリアでさえ届いていない。

 でも、今目の前で呆けているクオル・クリシェイアとなら、出来る気がしたのだ。そして、それを願う自分が、いる。

「うまく言えないけど。……俺、あんたの家族になれたら嬉しいなって」

「かぞ、く……」

「俺の家庭、滅茶苦茶だから。家族に憧れ強くてさ。その、あんたが、よければ……だけど」

 徐々にしりすぼみになっていく。滅茶苦茶なことを言っているのは自覚していた。だけど、アルトはアルトなりにクオルを助けたくて。そして、アルトはクオルに助けて欲しいと、思っていた。

 クオルは、沈黙していた。……完全に呆けていた。

 ブレンが苦笑して、クオルに声をかける。

「クオル様、だそうですよ?」

「……あっ! す、すみませ……で、も。僕、何も兄らしいことなんてできませんよっ? 兄弟もいないし、ご存じのとおり、怪我してばっかりだし、どちらかというと怒られてばかりだし……」

 何故か泣きそうになりながら、クオルはアルトに言う。

 ああ、やっぱり、とアルトは思うのだ。そんなクオルだからこそ、アルトはこんな無茶を言える。

 アルトはそんなクオルに首を振って、小さく笑った。

「何かして欲しい、なんて思ってねーよ。ただ、一緒に笑って、泣いて、怒って、たまには喧嘩して。色々共有したいだけなんだ、俺が。俺は……」

 喉が詰まったように苦しくなる。不安げなクオルの瞳に、アルトは耐え切れず、クオルへ抱き付いた。

「え、あ」

「兄貴っていう存在が俺には、必要でっ……だけど、誰でもいいわけじゃなくて……っ」

 身代わりが欲しいわけではない。ただ、本質的に、アルトは弟なのだ。だから兄がいない現実など、有り得ない。その均衡を破ったら、アルトは壊れてしまう。

「似てるからじゃないし、名前が一緒だからでもなくてっ……俺は、あんたなら……気持ちが分かってくれるって、そう思ったから……」

 同じような探し物をして、正反対の生き方を貫くその姿を、見てしまったから。

 拒否されるのは当然だと思う。だが、拒否されるのは嫌だった。滲みだす恐怖に、震えが止まらなくなる。

「僕と一緒に居れば、貴方は今よりもっと、辛い思いをたくさんすると思いますよ」

 静かに、クオルが口を開く。

「僕は、何かと管理局の方針に背くことをしてしまう。この手でどれだけの命を奪ってきたのかさえ、分からない。綺麗な存在なんかじゃないし、むしろ最悪な存在です。貴方がいずれ水虎として議会に居るとなれば、僕の事で、貴方は責められてしまうかもしれない」

「俺は……」

「それでも良いと言ってくれるなら。……僕は、命を賭けて貴方を守ります。……兄として」

 ぼろぼろと、涙があふれ出す。嗚咽が、堪えきれなくなる。それでもアルトは懸命に頷いた。

 痛みが体を刺す。クオルの手がそっとアルトの背中を撫でた。

「……ありがとう……、……良く、耐えましたね、アルト」

 その言葉が、答えだった。

「……兄貴ぃ……っ、兄貴ぃぃっ……」

 何もできなくてもいい。

 何もしてもらえなくてもいい。

 そのために、兄が必要なわけじゃない。

 アルトは、未来の責任が怖くて、必死に目を背けてきた。

 クオルは、過去の大罪の中にしか、自分を探せなかった。

 だから、アルトはクオルを選んだのだ。一緒に、未来を見つめるために。

 同じ速度で歩けるように。

 

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