第19話 回帰

 

 白い世界。座り込んだ俺の胸の高さまで、靄が隠していた。

――あぁ、そうか。

「やっと会えるのか、自称神様」

「だから自称じゃないんだってば!」

 相変わらずの高テンションだな。俺は膝に手をつき、よっこらせっと立ち上がって振り返る。

 身長2m以上の、デカイ存在。筆にしたら立派な書が書けそうな白く長い髭。俺が五年前に出会った神様だった。

「やあやあ久しぶりだね! 元気だったかい?」

「おー、辛うじて生きてたぞ。お陰さまで……」

 拳を握り、腰を落として躊躇なく正拳突きを繰り出す。コンマの世界の一撃だ。

「ちょちょ、暴力反対!」

 かわされた。一瞬で俺の背後へ回っていた神様は、そう俺を咎める。

 流石、神様。そう簡単には手は出させないか。一応は本物だもんな。

「相変わらず、ぬしは短絡的で直情的だな。成長せんか、少しは」

 ふう、とため息混じりの声。

 振り返ると、黒髪ポニーテールの眼鏡少女の姿。白衣のポケットに手を入れ、冷めた目で俺を見つめていた。

「ドクター……」

「また会ったな、リリバス」

 あぁ、俺はまた死ぬときが来たのか。迷っていた俺に生き方を授けてくれた、人生の師匠。

 現在俺が何とかやっている診療所の、先代の医者。ドクター・イフル。

 彼女に出会っていなければ、俺は今頃一人だっただろう。罪の意識に苛まれながら。

「なーにを悟ったような甘ったれた考えを」

 やれやれ、とドクターが頭を振って肩をすくめた。

 そういえば、ドクターは何でもお見通しの千里眼持ち転生者だったな。全てにおいて、ドクターは俺の先輩だ。

「相変わらず、おぬしはひ弱だの。豆腐メンタルとやらだ」

「そ、そんな事ないっ! ロヴィにちゃんと本当の事言って和解したし!」

「たわけ。ぬし一人じゃ無理だったくせに何を言う。ぜーんぶあの居候の小僧に頼っておろうが」

 ぐうの音も出やしない。しょぼくれて目を伏せた俺の左肩に、ぽん、と手が置かれる。

 その先を辿ると居たのは……

「サチコ?」

「そんなに驚くことはないんじゃない? 私だって一応は、転生者の一人よ?」

 くすっと笑ってウインクされたが、恐怖しか感じないんだが。

 大体、答えがあまりにも理論的じゃない。

「そうかぁ。君はまだ、よく理解していないみたいだね?」

 一番気楽な口調で問い掛けた神様に俺はゆっくりと視線を向けた。

 すぐ傍に居るのに、見上げなければならないふさふさの髭を持つ爺さん……もとい神様。

 何か、初めて威厳と恐怖を感じる。

「君の持ってる破格の能力は、あくまで僕からの貸し出し、つまりレンタル」

「レンタル?」

「そ。だから、返却が必要な訳だよね。で、それは通常命の終わりってわけだよ、うん」

 ……てことは、神様のところへ行ってみせるという俺の野望は最初から叶う算段だったってことか。

 何だか拍子抜けだ。

「で、君にもう一度聞くよ?」

「え?」

「転生条件付けアンケートに、記入する気はあるかい?」

 愕然とした。差し出されたアンケートは、以前と全く同じものだった。

 神様が何を言わんとしているのか、俺には分からなかった。

「俺は……もう、死んだのか?」

 やっとの思いで問い掛けた俺に、にっこりと神様は微笑んだ。

「うーん、それを決めて貰うためのアンケートさ」

「は……?」

 呆けた俺の目の前に差し出されていたアンケートが、不意に視界から右方向へ消えた。

 見ればドクターがアンケートの挟まったバインダーで肩を叩いている。

「ぬしは、このアンケートを書き換えに来たのだろう?」

 ズバリ切り込んでくるドクター。

 俺は無言で首肯した。何だかんだと、俺はそこは譲れないって思ってるから。

「これを記入しながら書き換えればいいだけの話だ。ぬしは、一応神の力の一端は持っているのだから」

 確かに。返却するのは、この記入を終えたとき、ってことなのか。

 でもそれは、裏を返せば死ぬと言うことだ。

 脳裏をエコデが過る。俺が死んだら、エコデはどうなるんだろう。

「どのみち、このままではぬしは間もなく死ぬ」

「な、何で……」

「それは、言ったでしょう? 貴方は人じゃない、魔法で作られた紛い物の命だって」

 しれっと口を挟んだサチコを俺は思わず睨み付ける。

 そういう命を作ったのはサチコじゃねーか。

 しかしサチコは優雅に髪を払って淡々と告げる。

「私がリリバスを呼んだんじゃないわ。器に魂を込められるのは、神様の特権よ」

 つまり、神の戯れと言いたいらしい。

 言葉に詰まった俺に、ドクターはすっとアンケートを突き付ける。

「さぁ、決めろ。ぬしの目的を果たすのは、今しかない。記入して今ここで死ぬか、今一度下界へ帰るかを」

 ……何?

「帰れる……のか?」

 俺はもうてっきり……。

 でもそうか、それを決めろって神様も言ったな。少し希望を抱いた俺に、しかしドクターは冷ややかな視線を崩さない。

「ぬしの能力は徐々に劣化している。命の終わりへ向けて、徐々にな。つまり、神の力の一端を失いつつある」

 それはつまり、アンケートの改変が出来なくなるということだ。今ならまだ、可能だってことか。

「そして今ならまだ、自由な選択が出来るだろう。今持つ破格の能力を持って、今度はマトモな人生を歩むこともできる」

「ギリギリになったら、無理ってことか……」

「世の中は等価交換だからな」

 人生、か。確かに今のまま帰っても、きっと俺の余命は幾ばくもないんだろう。

 でも、だからってアンケートに答えて良い人生を掴みとって……いいのか?

 俺が過ごした五年って、簡単に捨てられるのか? ……そんな事は。

「今のまま、俺は死ねない……」

「だがすぐに死は訪れるぞ?」

「それでも、俺は……エコデをこのままには出来ない」

 ドクターはぴくりと片眉を跳ね上げた。怒りの琴線に触れたのかもしれない。

 だけど。

 ずっとエコデは傍に居てくれたんだ。しょうもない事ばっかりする俺に、旨い飯を文句も言わずに作ってくれた。馬鹿なことばっかりするし、挙げ句気持ちに気付く事もできなかった。俺を頼ってくれた初めての存在で、俺が守らなきゃって思った初めの存在がエコデだった。

 だから最後まで、守らなきゃいけない。エコデの人生を俺と一緒に破滅させちゃ駄目なんだ。

 今のままだったら、きっとエコデは止まってしまう。あの時みたいに、怯えた人生は送らせたくない。

 だから、エコデを外に出す時間だけでも俺は帰らなきゃ駄目だ。俺の勝手な野望に、エコデを巻き込むのだけは嫌だ。

「俺は、帰る。帰って、エコデが俺がいなくなっても幸せに暮らせる環境を整えてからじゃなきゃ死なない」

「ぬしは……」

 ふうっと息を吐いて、そしてドクターは目元を和らげた。

「真性の馬鹿だな。だが、それでこそ私の後継者だ」

「ありがと、ドクター」

 そっとアンケートを受け取り、そしてそれを神様へ差し出した。

 神様は悲しそうな心配そうな顔で俺を見下ろしていた。

「どんくらい残して来れるか分からないけど。また来るよ」

 こくりと神様は頷いてアンケートを受け取った。

 俺の手から離れると同時に、瞬く間に視界は白に染まる。そして段々と意識が薄れ……その中で、俺は確かに聞いた。

――待っているよ。

 ああ、待ってろ神様。必ずアンケートは書き換えてやる。

 

◇◇◇

第20話 コタエアワセ

 

 正直、張り詰めていた。診療所云々ではなく、俺の周囲すべてがピリピリしてる空気が漂っている。

 それも仕方ないには仕方ない。再び倒れ、しかも今度は丸一日意識不明だったのだから。エコデはずっと泣いてたしラフェルは目で怒ってたし、シャルルは検査結果に首を捻って困っていた。

 それも仕方ないだろうとは思う。俺は人間じゃないから、普通の検査では異常は拾えないんだろう。

 ある意味不便だよな。

「先生? 大丈夫ですか?」

 診療所の開始時刻間際になって、エコデが尋ねてきた。

 エコデはヴィアに事情を話して店を辞めた。俺に何かあったら困るから、だろうな。

 心配ばかりかけて、その上最後は悲しませるんだろうなぁ。

 でも、俺はもう決めたんだ。

「心配すんな。大丈夫だから」

「はい……」

 日に何度も確認するのは、エコデも薄々感じているのだろう。

 俺の異変は、多分これからどんどん悪化する。早く、エコデをここから離さなきゃいけない。

 残された時間、俺はそれだけは達成してみせる。

 

◇◇◇

 

「……暇だなー」

 今日の患者はゼロのまま終わるかも。こんなこと無かったんだけど、あれか。周りも気を使ってる、ってことか。

「全く、冴えない診療所だな」

「言うなよドクター。普段はもう少し来るよ」

 どうだか、と机に凭れて肩を竦めたドクターに、俺は苦笑する。

 あの場所から戻って以来、ずっとドクターが傍にいる。多分俺の目的が済んだら、すぐにも連れていく為だろう。

 有り難いと同時に、ちょっと診療がやりづらい。ドクターの方が遥かに経験は多いから。

「しかし、いつになったら解決するのやら。その前に命が潰えても知らんぞ」

 流石に返す言葉がない。未だにエコデをどうすればいいのか、解決策が上がらないのだ。時間だけが消費されてしまう。

「りぃくん面会ですよ」

「面会?」

 診察じゃなくて?

 首を傾げた俺を無視して、ラフェルが通したのは制服を着たままのダンダだった。

「すみません、先生。相談があってきました」

 大真面目なダンダの様子に、俺は思わず背筋を正し、見えないドクターはふむ、と腕を組んだ。

 静かに俺の目の前に座るダンダ。被っていた帽子を膝の上に置くと、ちらりと入ってきた扉を窺った。

「何か、聞かれたくない話か?」

 小声で問い掛けると、ダンダは少し躊躇した素振りを見せる。どうやら、深刻な話みたいだな。

 俺は一旦席を立ち、扉の外側に『面談中 立入禁止』の札を提げて、再び腰を下ろした。

「これで、大丈夫だ。で、どうしたんだ?」

 ダンダはじっと俺の瞳を見据え沈黙。

 イケメンに見つめられるのは……正直こそばゆい。なんか恥ずかしくなる。

 やがて、ダンダは重い口を開いた。

「失礼ですが……先生、重い病気にかかってるんですか?」

 俺の目の前に予想と全然違う場所にあった問いに、俺は目をぱちくりさせてしまった。

 いつものダンダなら、俺の情けない反応に、すぐに前言撤回しただろう。

 だが、今日のダンダは違った。

「お願いします。答えてください」

「な、どうしたんだよ?」

「私はエコデさん……いえ、ディーを悲しませたくないんです」

 断言したダンダの目は、本気だった。

 ディー……って、エコデのことっぽいよな? エコデの本名は超長くて、俺が勝手にエコデって呼んでただけだ。

 それが周囲で浸透してるだけで……ダンダのその言い方は、なんと言うか……親しみを感じる。

「突然で多分驚かれてるとは思いますが、私はディーを連れ戻すためにこの街へ来ました」

「連れ戻すって……」

 思い出したのは、初めて会った時のエコデ。さっと血の気が引いて、俺は腰を浮かしかけた。

「あっ! 勘違いしないでください! 故郷へって事です」

 俺の様子を素早く汲み取ったダンダは慌てて言葉を付け加えた。

 でも、どっちにしろ同じだ。

「エコデは、故郷へ帰りたくないんじゃないのか? 前聞いたときも、言いたくなさそうだった」

「それも、知ってます。でも、それは先生が居てくれるからこそです。私も、それでいいと思ってました。だって昔のディーは……あんな風ではなかったから」

 多分……いい意味で、だろう。ダンダは小さな笑みを浮かべていたから。

 そしてダンダの言いたいことも理解する。

――もしも俺が居なくなるような事態になれば、エコデがどうなってしまうかが、ダンダは心配なんだ。

「ディーの故郷や生い立ちをどこまで知っているのかは分かりませんが……ディーと私は従兄弟です」

「いとこ?」

 確かに言われてみれば何処と無く似てる気もするけど。

 でも、ダンダはエコデと違って獣耳がない。何か、こうしっくりこない。

「ああいうハーフは逆に珍しいものだ。少しは勉学もせんか」

 見えない聞こえないドクターはため息混じりに俺の思考に回答する。

 ありがたいけど、頭の中を覗かれてるのは恥ずかしい。自分の中で問題を消化しながら、俺はダンダへ確認する。

「じゃあ、ダンダはエコデを連れて故郷へ帰ろうとしてるのか?」

「それは……正直悩んでいます」

「悩む?」

「ディーは、家族に対して怯えしかないようなので」

 それは……そうだろう。エコデは親に見捨てられたようなもんだ。ああ、思い出すだけでイラつくし、吐き気がする。

 ダンダは困ったように視線を泳がせ、戸惑いを含みながら続けた。

「でも、先生がいなくなってしまうような事態になる前に、私は先生から離したいんです。それがディーを守るための唯一の手段ですから」

 ダンダは、俺を真っ直ぐ見つめて最後は断言した。

 ダンダと俺は多分考えてることは一緒だ。むしろ最適な人間が今目に前に現れたんだ。

 こんな幸運、滅多にない。

「考えては……貰えませんか?」

 控えめに、しかし確固たる意思をもったダンダが俺の視線を捉える。

 ダンダは凄くいいやつで、エコデもなついている。心配なんて何一つないくらい、仕事も公務員だし、社会的信用もある。

 ――なのに、俺はどうして。

「それはエコデが決めることだ」

 ダンダが小さく息を飲んだのを見て、俺はどこかほっとした。

 最悪だな。あぁもう、ホントに……俺は馬鹿が過ぎる。

 ダンダは一度目を伏せ、膝に上に載せた手をぎゅっと握り締めると、口を引き結んで顔をあげた。

「じゃあ、この事を伝えても、良いですか?」

「それは、俺がとやかく言えることじゃないって」

「分かりました。ありがとうございます、先生」

 ほっとした様子で笑顔を見せたダンダ。

 それに俺は曖昧な笑みを返す。……それしか、できなかった。

 

◇◇◇

 

 一礼して出ていくダンダを見送り、俺は天井を仰ぎ、大きく息を吐き出した。

「笑ってくれ、ドクター。こんなしょーもない俺を」

 またとない機会を、俺は自分で潰してしまったんだ。馬鹿としか言いようがない。

 エコデに嫌われてでも、ダンダに預けるべきだったのに。

 でも、何故かドクターは鼻で笑う様子を見せない。

 傍らで机に凭れているドクターを見やる。腕を組んで、特にこれといった表情を浮かべていないドクターがそこにいた。

 笑えもしないほど、呆れてるのか……。

「ぬしは、本当にあの小僧なしだと精神が脆弱だな」

「うぐっ……」

 ドクターは腕を組んだまま、俺を横目で捉え、さらりと言い切る。

「それがぬしの本心ならばそれで良かろう。答えは、ぬしが見つけねばならない」

「それは……」

「いや、訂正しよう。答えは既にぬしの中で決まっておる。後はそれに気付くだけだ」

 俺の中にある答え。考えても浮かばないそれを、どうすればいいんだ?

「先生、ダンダさん帰っちゃったんですか?」

 ひょこっと扉の隙間から顔を覗かせたエコデに俺は微かな痛みを覚えながら視線を向けた。

「何か用があったのか?」

「ちょっと、お願いしたいことがあったので」

「俺じゃ駄目な話か?」

 若干ひねた俺の言葉に、エコデはぶんぶん首を横に振る。

 そして申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「その、先生、仕事もあるし……」

 気弱にこぼしたエコデ。

 あ……ヤバい。俺は今、エコデを傷付けたな。焦りが滲むも、言葉は紡がれるまでに至れない。

 嫌な種類の沈黙が降りる。

「買い物……行こうと、思って」

 ぽつりとエコデは言う。

 買い物って、なんだ、いつも通りのことじゃないか。

 それをわざわざダンダに付き合って貰おうとしてたのか? ……あー……。

「大丈夫だって。荷物もちくらい大した労働じゃないし、見ての通り元気だよ、俺は」

 じぃっと俺を窺うエコデは、きっと心配してくれてるんだよな。

 でも、そんな日常的な事まで出来ないレベルには落ちてない。むしろ。

「買い物行こ、エコデ」

 出来る内に出来る事は、させてほしい。エコデはこくんと頷いて、笑顔を見せた。少し苦しそうな、笑顔だったけど。

「じゃあ、ラフェルさんにも声掛けますね」

「おー、そうだな」

 そう言い残して、エコデは俺の視界から姿を消した。

 いつも通り。俺は最後までこの普段通りの空気を保つんだ。

「間違ってないよな、ドクター?」

 傍らのドクターは何も、答えてはくれなかった。

 

◇◇◇

第21話 忘却の故郷

 

 ……やっぱり、無理してるんだ。

 帰宅と同時に、崩れるように椅子に座り込んだ先生にちくりと胸が痛む。

 買い出しに付き合って貰うべきじゃなかったんだ。先生は……きっと何か重い病気に冒されてる。

「エコちゃん、どうかしたのです?」

 振り返ると、ラフェルさんが心配そうな顔で僕を見つめていた。

 僕は慌てて首を振り、笑顔を作る。

「先生に今日のお夕飯何がいいか聞こうかなーって」

 半分嘘で、半分本当。ラフェルさんは、そんな僕に優しく笑いかける。

「エコちゃんは優しいですねー。りぃくんはもっとエコちゃんに感謝すべきなのです」

「そんなこと無いです。僕は居候だし……逆に先生に感謝してます」

 これも半分本当で半分嘘。置いてもらってる事は感謝してるけど、半分以上僕が勝手に住み続けてる。

 先生の許可なんて貰ってない。僕は、ずるい。

 考えると何だか感情が不安定になってしまう。怖い、苦しい、嬉しい、悲しい、憤り、寂しい、楽しい。

 色んな感情が一編に押し寄せて僕は自分が分からなくなる。

「そうそう、エコちゃん。ダンちゃんから言付けなのです」

 ラフェルさんの声で僕は思考の沼から浮き上がった。

「ダンダさん……ですか?」

「明日の午後、お時間ありますか、と。あ、連絡先貰ってるですよ。派出所ですけど」

 そう言ってラフェルさんは、僕に一枚の紙切れを差し出した。

 近所の八百屋の特売チラシの裏。黄色っぽい10cm四方の紙に、八桁の数字。電話番号。

「会って話したいことがある、って事ですね、きっと」

「一人が不安なら、私も同席するですよ?」

 不安……ではないと思いたいけど。

 気持ち、落ち着かない。何だか、背後から見えない視線を感じている時みたいな、そわそわした感覚。

 でも、僕は首を振る。

「大丈夫です。ラフェルさんは先生の傍に居てください」

「エコちゃん……」

 ラフェルさんは、それだけで分かってくれたみたいだった。

 言いたいことはありそうだったけど、淡い微笑で頷いたラフェルさん。

「連絡、してきますね」

「あ、エコちゃん、りぃくんの夕飯リクエストは?」

 そう言えば、そんな言い訳にしたんだっけ。

 僕は即座に思考を回し、ラフェルさんへ返す。

「ラフェルさんにお願いしても良いですか?」

「任せるです!」

 快く引き受けてくれたラフェルさんに軽く会釈して、僕は診療所の電話へと向かった。

 

◇◇◇

 

 珈琲の香り漂う、落ち着いた喫茶店だった。

 ダンダさんと診療所前で待ち合わせて、先生に内緒でラフェルさんに見送られて、僕はここにいた。

 カウンター席が五つ。窓際に二人がけテーブルが三つと、こじんまりした空間で、マスターがサイフォンで珈琲を淹れている。

「エコデさんは、珈琲で大丈夫ですか?」

 尋ねたダンダさんに視線を戻して僕は頷いた。

 今日のダンダさんは非番らしく、青ベースのチェックのシャツにジーンズというシンプルな格好。

 でも、何故か警察の支給品のコートを羽織ってきたのがダンダさんらしい。

「すみません、急にお呼び立てして」

 注文をマスターに伝えたダンダさんは、頭の後ろを掻きながら、苦笑する。

 僕は薄く笑みを浮かべて首を振った。

「いえ、大丈夫ですよ。何か……大事な話……なんですよね? きっと」

 確信はないながらも問い掛けた僕に、ダンダさんは表情を引きつらせた。

 あぁ、やっぱり。しかも結構深刻だ。ぎゅっと手を握り締めて、僕はダンダさんから紡がれる言葉に身構えた。

 そして、ダンダさんが口を開く。

「……ディー」

 ……え?

 その感覚を言い表すのは、凄く難しい。プラスもマイナスも、拒否も欲求も全部含んでしまった、くすんで濁った感情の色。目の前にいるダンダさんは……ダンダさん、じゃない?

「ダリア……くん?」

 ぽつりと自分の口から零れたフレーズ。ダンダさんと一緒に僕も驚いてしまう。

「あぁ、よかった。ディー、覚えててくれたんだね!」

 表情を輝かせるダンダさんに、僕は目が離せなくなる。

 覚えてないわけ、ない。でも何で? どうしてここにいて、ずっと隠してたの? 何で、今、言う、の……?

「あ、ご、ごめんよ、ディー。混乱させて」

 慌てて弁明するダンダさんであって、ダリアくんである人。

 だけど、僕はまだ信じられないでいた。信じたくない、僕がいた。

「どうして……」

 確認しなきゃいけないことは沢山あるのに。僕は言葉が出てこない。

「うん……黙っていようと、思ってたんだ。だって、ディーは僕を認識出来なかったから」

 それは最後に会ってから、随分経ってしまったから……だけ、ではきっとない。

 僕は必死に過去に蓋をしながら、生きてきたから。僕が持っていたい記憶は先生と出会ってからだけ、だから。

 ダンダリアン……それがダンダさんのフルネームで、ダリアくんの本名。僕が一番仲の良かった従兄弟。

 小さい頃にうまく呼べなくて、だからダリアくんといつしか呼んでた。

 最後に会ったのは、何時だろう。そこにたどり着くまでに会いたくない記憶が多すぎて、思い出す作業が、出来ない。

「ディー?」

 そう、ダリアくんは僕をそう呼んでいた。

 心配そうに名を呼ぶのは、ダンダさん? ダリアくん?

 ぐるぐるする。気持ち悪い。本能と理性が拮抗してどこにも思考が落ち着かない。

 やだ。怖い。先生、助けてください……!

「……すみません、無理をさせてますよね」

 不意に、ダンダさんが顔を出す。

 僕は俯かせてしまった顔をあげた。

「いいんです。今の僕は警官のダンダで、貴方はエコデさんです」

 悲しそうな顔で笑うダンダさんに、僕は慌てて口を開こうとしたけど……何も言えなかった。

「ただ、一つ大事な話をさせてください」

 表情を引き締めてダンダさんは言う。

 僕らの前に、マスターが無言で珈琲のカップをことりと置く音が、やけに大きく聞こえた。

 大事な話……。

 黙る僕に、ダンダさんは柔らかい笑みを浮かべて結論から言った。

「一緒に、故郷へ帰りましょう」

「え……」

「もちろん、家族のもとにって意味じゃないです。ただ、私とエコデさんにとっての故郷に帰りませんか?」

 何を言っているのかが僕には良く分からなかった。何にもないけど、静かな故郷は朧げながらに思い出せる。

 でも、別に帰りたいなんて思ったことはない。それはきっと、ダンダさんだって分かってるはずなのに。

「先生は、何か大病を患っているんだと思います」

 背筋が凍る。

 そう感じてたのは僕だけじゃなかったんだ。

「もしも先生に何かあれば、あの診療所にはいられなくなる」

 ……嫌だ。

「先生は、分かってると思います。もしも先生が命を落とすような事があれば……」

「やめてください!」

 気付けば僕は叫んでいた。

 聞きたくない。認めたくない。

「やめて……ください……もう、やめて……」

 ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 視界が滲んで、息が詰まる。震える。

「エコデさんは……その死を受け止められるほど、強くはないですよ」

 酷くつらそうに、ダンダさんは呟いた。

 僕はもう、顔をあげられなかった。

 

◇◇◇

 

 返事はいつでも大丈夫です……――

 そう最後に残し、ダンダさんは帰っていった。

 診療所に着くまで付き添ってもらったけど、お礼を言う気力も沸いてこなかった。

 僕、凄く失礼だ……。

 だけど、行動に至る気力が決定的不足していた。僕はどうするのが、一番良いんだろう。

 裏口に回って、帰宅。診療所は今日も空っぽ。

 ラフェルさんも暇そうに本を読んでいる。そっと、診察室を覗いてみると、先生は一人きりだった。

 一応まだ仕事中の先生は、何だか凄く疲れた表情で椅子の背凭れに体重を預けている。

 ……具合、悪いのかな。

 不意に、先生がこちらを見やった。

「あれ、エコデどしたー?」

 ぱっと体を起こして、笑顔を見せた先生。

 まるで、さっきの様子が嘘みたいに。

 ……あぁ、そっか。

「えっと、おやつ何か作りますけど……」

「マジかっ! じゃあじゃあー、スコーン! スコーンにしよう!」

 嬉しそうな先生に、僕は頷く。

 ごめんなさい、先生。僕は先生に、無理をさせてるんですね。

 ……だったら、僕は――。

 

 

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