第一話 医と銃
欠伸を一つ。回転いすの背もたれに体重を預けて、大きく伸びをし、リリバスは息を吐き出した。
「うっはー……ねみぃぃ」
太陽が世界をちょうど温かい気温に誘導した昼下がり。薄いレースのカーテンから覗いた青空を見やりながら、欠伸で滲んだ涙を擦ってリリバスはひとりぼやいていた。
今日は随分と静かだとは思いつつ。
いつものこの時間ならば、遠くで響く大砲の音が眠気を阻害しに来ているはずなのだが。
姿勢を戻して、スチール製の机の上に置いた卓上カレンダーを手に取る。
「えーっと……んあ、そっか。今日は演習前メンテの日か」
「まったく、覚えられないくせにメモも取っていないとは、流石は呆れたクズたるりぃくんなのです」
「いやー、誰かさんがちゃーんと書いといてくれるから助かるなーっと」
棒読みで返答しつつ、リリバスは卓上カレンダーをそそくさと元の位置に戻す。
そうして恐る恐る振り返ると、にっこりと笑顔を浮かべたラフェルが居た。
真紅の長い髪に、黒の制服。その上金色に光る強い瞳は、他者を寄せ付けないような威圧感さえある。
「何か用か? 司令部勤めのラフェル少佐?」
「私は敬ってもない敬称はぶっ殺したくなるのですよ、りぃくん?」
「怒んなよ! 俺は身分と立場をだなぁ……」
ラフェルの醸し出す気配に怒りが滲み、慌ててリリバスは口を噤む。
先日も調子に乗って言い返していたら鉄拳制裁を喰らったばかりだ。流石に学習する。
「しし、仕事しよっかなー」
上ずった声でリリバスは再びラフェルに背を向けた。それなりに書類仕事もあるものだ。
白衣のポケットに仕舞っていたペンを手に、リリバスはため息を飲み込みながら積まれていた書類に目を通し始める。
どれもこれも相変わらず馴染めない言葉のオンパレードで、早々に頭痛がしてきた。
「……少しは慣れました? りぃくん」
不意に投げかけられた問いに、リリバスは眉間に皺を寄せながら振り返る。
相変わらず不遜な態度なままのラフェルが微笑んでいた。どこか仄暗く。軍人特有の冷たい気配がそこにはある。
背筋がざわつき、口の中が一気に乾く。
「慣れるも何も……まだ全然わかんねー事ばっかだよ」
「あらあら、もう半年も過ぎようとしてるというのに、お気楽なのですね」
言い返す気力もない。代わりにため息を一つついた。
半年が過ぎた。リリバスが陸軍の医師として働き始めて、半年。
探そうと思えば就職口は多くあったのだが、気づけばここにいる。もっとも現在の国の状況では、あながちどこにいても医者としての本分は変わりないだろう。
むしろ、軍に居る方が安全なのではないかとすら、リリバスは思っていた。
狙われる可能性はあるにしろ、一番に標的の情報が流れてくるのだから。逃げるには最適だと踏んでいる。
命を危険に晒すつもりなど、もともとリリバスにはないのだ。誰にも言っていないが、読まれている可能性はある。
だからこそ、ラフェルが常に見張っている可能性は捨てきれない。
「敵は外にいるばかりとは限らないのですよ、りぃくん」
「……そうだな」
ため息を一つ。何とはなしに、カーテンの向こうにある空を見上げた。
現在リグコーラン王国は隣国セヴォルと長い間冷戦状態にある。共に島国ゆえに、海洋資源はともかく陸上資源が乏しいのだ。
工業的発展は鉱山を多数抱えるリグコーラン王国が優勢。国交はほぼ断絶状態にあり、一触即発の可能性は常に潜んでいた。
その反面、リグコーラン王国内に問題がないわけでもない。どの国も同じだろう。格差がもしもに備えて軍備拡張をする反動は、国民への節制を強いてしまう。不満が募るのは当然だった。
そしてそれ故に、レジスタンスまで出来始めている。お陰で軍病院でなくとも、医者は常にオペや診療に駆り出されているらしい。
かつての同期から聞いた話では、病院ですら襲撃に遭うこともあるそうだ。
「……物騒になったもんだな」
「無駄金は極力減らし、国民の福祉に当てる。だから、サボっているようなクズ医者は叩き出さねばならないのですよ、りぃくん」
反論できるわけもなく、リリバスは苦笑した。
とはいえ、リリバスも易々と自分なりの好ポジションを捨てるつもりは、毛頭ない。それに。
「でも俺、人を助けるってことは嫌いじゃないからな。怪我人はきっちり助けてみせるぞ」
幸いなことに、運動神経も魔法適性も高い。自衛に加え、数人程度なら負傷兵を守ることもできる。十分なスキルだと自負していた。
ラフェルは肩をすくめて呆れてはいたが。
不意に、扉をノックする音が聞こえた。
「失礼します、ロタ中尉。任務が入りました」
扉が開くと同時に、凛とした声が滑り込む。返答を待たないのは本来無礼にあたるだろう。だが治療中で返答できないことも多々あるリリバスとしてはそれを諾としている。もともと、形式ばったことが苦手なのもあるが。
紫の短い髪を靡かせ、長い前髪に左目を隠したマイヤがカツカツと軍靴を鳴らして入室してきた。
濃緑の制服には無駄な皺が一つもない、見事な着こなしである。
「っ! これは失礼しました、少佐がいらっしゃったとは存じませんでした」
ラフェルの存在に気付いた瞬間、マイヤはぴたりと足を止め、ラフェルに綺麗な敬礼をする。個癖のない、実に模範的な敬礼にリリバスは感心せずにはいられなかった。
片やラフェルは苦笑しつつ、軽い敬礼を返す。
「構わないのです。任務なのでしょう? この怠惰な役立たずに仕事を与えてあげてくださいな」
「はっ。では、失礼して口達させていただきます」
小脇に抱えていたバインダーを開き、マイヤはリリバスに向き直る。
にわかに張り詰める苦手な緊張感に、思わずリリバスも立ち上がって姿勢を正した。
「第四特殊小隊は、指揮官ゲンギス中佐の指揮下、第八十七特地の鎮圧に当たれ……とのことです」
「マジかよ」
「出発は三時間後です。遅れないよう、よろしくお願いします」
まだ少女らしさの抜けない溌剌とした声で、マイヤは締めくくる。ぱたりとバインダーを閉じたマイヤに、リリバスは我に返った。
「マイヤマイヤ、支援魔法隊は?」
すぐにも踵を返しそうなマイヤに、リリバスは慌てて問いかける。
マイヤは不愉快そうに眉間に皺を寄せ、端的に。
「何度も申しておりますが、特殊小隊に『後方支援』も『増援』もありません。ご承知おきください、ロタ中尉。それから、ファーストネームで呼ばないでください。指揮系統が乱れます」
「いや俺はあんまり気にしてないし、マイヤのほうが親しみ……」
マイヤの瞳に静かな怒りと侮蔑が光る。目で殺す勢いに、リリバスの背中を冷や汗が伝った。
凍り付いた笑みをぎこちなく動かしながら、リリバスは固まってしまいそうな口を動かす。
「りょ……了解、アカシア少尉……遅れず、行く」
「では」
くるりと挨拶もそこそこに、マイヤは出て行った。背中から発する気配で、リリバスを震え上がらせながら。
ぴしゃりと閉まった扉に、ようやく緊張感から解放されたリリバスは、ため息を吐く。
「怖ぇ……」
「りぃくんはつくづく馬鹿なのです。人を選んで会話する技術を身につけたほうが良いのです」
「はぁ……。まぁ、愚痴ってても仕方ないしな。準備するか……」
気は乗らないが、こればかりは仕事だ。
診察室の隅にひっそりと置かれた金庫へ歩み寄り、シリンダー式、ダイヤル式、最後に指紋認証の三重のロックを解除する。
重い黒い扉を開けばあるのは、銀色の本体。
「はぁぁ、撃ちたくないなぁ」
祈らずにはいられないが、自衛のためにも必要な拳銃を取り出して、リリバスは弾倉に実弾を込め始めた。
◇◇◇
「ちょっと、大丈夫? 顔色悪いんじゃない? リリバス」
「酔った……車酔い……」
カーゴの荷台から降りたリリバスは、足元をふらつかせながら深呼吸をしていた。腕まくりをしたサンディが、オレンジの明るい髪を揺らしながらリリバスを覗きこんで、にんまりと笑う。
「ださいわね」
「苦手なんだよ……特にカーゴの荷台めっちゃ揺れるだろ……」
「おいおい、シャキッとしろシャキッと。終わったら旨い飯が待ってると思って気張れ若造!」
豪快に笑う声と同時に背中を強く叩かれ、リリバスは軽く呻いた。
よく日に焼けた肌に似合う快活な笑みを見せたゲンギスに、リリバスは鈍く頷く。陸軍の見本のような筋肉質な体が隣に並ぶと、自分の腕が細腕に思えてくる。確かに筋力トレーニングに対して精力を注ぐようにして鍛えてはいないが、人並みに腕力はあると自負している。
ゲンギスが圧倒的なだけでもあるが、少しだけ情けなさが過ぎる。
ため息を吐くリリバスの前で、ゲンギスの大きな手がサンディの頭を撫でていた。
まだ十二になったばかりのサンディだが、こと肉弾戦はリリバスよりも得意とするのだから恐ろしい。
慣れない制服の襟を極力緩めながら、リリバスはぐるりと周囲を見回す。
王都の繁華街の隅にある、スラムの入口。腐敗臭をはじめとしたすえた匂いが漂う、鬱屈とした空気が漂っている。
人の姿はないが、ガラスのない窓の向こうから窺っている可能性は否定できなかった。
ぴりぴりとした緊迫感が、徐々に重みを増していく。
「隊長」
「おう。どうした」
バインダーの代わりに左手に拳銃握ったマイヤが声をかける。右手は装着したヘッドマイクに添えたまま、深い緑の瞳を細めた。
「B班、C班、共に配置につきました」
「よーし、準備できたか!」
ぱん、と拳を手に打ち付け、ゲンギスが好戦的な笑みを浮かべる。
スイッチが入った。リリバスは逃れられなくなった現状を心の底で嘆きつつ、ホルスターから銀色の武器を手に握りしめる。
二十発入り弾倉が、四本。両袖に一本ずつ、内側の胸ポケットに左右一つずつ。場所を確認して、深呼吸を一回。
「大丈夫よ、リリバス。もしもの時は私が守ってあげるわ」
「そうならないように頑張るよ」
まったくね、と苦笑したサンディは楽しそうだ。命のやり取りは、サンディにとっては大した問題ではないのだ。
悲しくも羨ましい強さである。
「命令は二つだ。反乱分子は拘束優先。あとで取り調べるからな。それと」
にっと、ゲンギスの笑みが深くなる。
「死なずに帰って来い! 作戦開始だ!」
ゲンギスの命令が、マイヤによって即座に伝えられる。
次の瞬間、やや離れた場所から二つ同時に爆音が木霊し、リリバスの目の前でも爆薬が炸裂して廃墟の入口を吹き飛ばした。
「気を付けて行って来いよ!」
返答することなく、駆け出したマイヤとサンディ。リリバスも泥水の張った地面を蹴って後を追い掛けた。
◇◇◇
照明のない暗い屋内を迷うことなくマイヤが先行する。椅子が倒れ、テーブルがひっくり返ったダイニングらしき部屋を、警戒したままマイヤは見回し、視線を床に落とした。
「ふーん。この先?」
「事前情報では、この床下保管庫の位置です」
サンディはすぐに身を屈めて保管庫を開けようと扉を引く。びくともしない扉に、サンディはにやりと笑みを浮かべた。
「なるほどね。任せて頂戴」
言って、サンディは古びた床に手を触れる。何も言わずとも、リリバスとマイヤは距離を取った。
嫌な空気が、どんどん膨らんでいる。周囲を取り囲む敵意が集っているのが分かる。
まだ本格的な交戦状態にはないにも関わらず、すでにリリバスの両手には汗が滲んでいた。
――ばこっ!
木が砕け、床に穴が穿たれる。リリバスがやっと通れそうな穴の先には、梯子が地中へと延び、底にはぼんやりと光が見えた。
サンディが唇を舐め、そのまま穴へと身を躍らせる。
「え、あ! ちょ! あぶなっ!」
「行きますよ、ロタ中尉」
「マジかよぉぉ」
嘆くリリバスを冷たく一瞥し、マイヤは先に梯子を下りて行った。
何度経験しても躊躇するその一歩に、今日もリリバスが躊躇していると、屋外から金属を引き裂く様な音が木霊した。
魔法と物理的攻撃が交錯しているのだ。それはつまり、後顧の憂を断つために残ったゲンギス達も交戦状態に入ったという事で。今更、後にも引けない。
「ああもう! 行くよ行きます行ってやるよっ」
いつもながら投げやりな思いで、リリバスもマイヤとサンディの後を追って、地中へ続く梯子へと手をかけた。
◇◇◇
熱が頬を掠め、リリバスは悲鳴を飲み込んだ。代わりに顔を反らしたまま、銃口を前方に向けて引き金を引く。跳ね上がる腕を再度戻してダブルアクション特有の重くなった引き金を再度引く。発射音はするが、当たった気配はまるでしない。
そもそも、当たったところで効く相手なのか疑わしいのが現実だ。
「失せなさい」
低くマイヤが呟き、ぶわっと風がむき出しの土を舞い上げ、薄暗い通路を光が貫く。マイヤの得意とする熱光線……所謂光の魔法が前方の黒いシルエットを焼き払った。
「まったく、次から次へと鬱陶しい」
「悪霊ってホント嫌だ……」
ぼそりと嘆いていると、キッと素早くマイヤが睨みつけて来る。さながら悪魔の形相だ。
リリバスは慌てて首を振り、両手を上げ降参のポーズをとる。
その挙動にマイヤは何か言いかけたが、すぐに視線を外してため息を吐いた。
「ロタ中尉の相手をしていると疲れます」
「はは……」
「笑い事ではありません。……それにしても、おかしいですね。何故、こんなにも悪霊の類が溢れているのかしら」
「悪魔信仰のレジスタンスとか?」
「……可能性としては否定できませんけど。そんな情報はなかった……いえ、必要ないだけかもしれませんね」
マイヤは冷静に分析をしているようだ。ヘッドセットから流れて来る状況を聞き取り、前方の危険因子を確認する横顔は、まるで動揺がない。
確固たる意志がマイヤに自信と適度な緊張を与えているのだろう。
何気なく傍らに立つサンディを見下ろした。
「……サンディ?」
その顔は、どこか固い。いつもならば余裕の見える笑みすら浮かべているのだが、緊張を孕んだ表情を浮かべていた。
正直、珍しく。その些細な異常が、リリバスにうっすらと恐怖を呼び込む。
「くる」
「え?」
ぽつりとサンディが零した言葉。眉を顰め、リリバスが問いを重ねようとした刹那。
「なに、あれ」
愕然としたマイヤの声に、ハッと顔を上げる。人がすれ違うのがやっとの細い通路。ぼんやりとしたランプが淡いオレンジで照らす前方。
その前方が、近づいていた。
――否。
「黒い……塊?」
輪郭がはっきりとしない何かが、音もなく、ゆっくりとこちらへ迫ってきている。徐々に徐々に。
邪悪な冷たい気配に、肌が粟立つ。
「にげ、なきゃ。マイヤ、退くぞ! あれ、マズイ!」
「で、ですが作戦はこの先まで行かないと完遂できません!」
「そんなこと言ってる場合か! 触れたらヤバいぞ。あれ、本物の悪魔だ。しかも高位の。まともに戦って勝てる相手じゃない!」
「それこそ私たちの使命を全うする時です! 私は退きません!」
頑として譲らないマイヤに、リリバスは奥歯を噛み締めてマイヤに手を伸ばす。
ここは強引にでも撤退しなければならない。命を捨てる事と、使命を全うする事は引き換えではないのだ。
「……?! サンディ?!」
駆け出していた。サンディが、前に。
マイヤに集中していたリリバスは、致命的に反応が遅れた。ただでさえ、小柄なサンディは足が速い。
その一瞬が、もう追いつけない距離を作り出す。
「馬鹿! 戻れっ!」
だが、サンディは加速する。そしてその手に見慣れないナイフを握りしめた。銀色のいつも腰に提げて使う事のなかったナイフ。
迷いなくナイフを振りかざし、黒い靄へと『突き刺す』。
そしてそのままサンディは靄へと飲み込まれた。
「サンディ!!」
絶望感に叫んだリリバスの目の前で、異変は起こった。
靄が球体の明確な輪郭を作り、次の瞬間霧散したのだ。跡形もなく、黒い靄は消え去り……そして残ったのは、ナイフを手に立つサンディと、うつ伏せに倒れた青い髪の人影。
「……あ……、サンディ!」
慌てて駆け寄ったリリバスを、サンディがゆっくりと振り返る。
「リリバス」
「無事か?! 怪我は?!」
静かに左右に首を振って、サンディはナイフを鞘に戻した。外見的に怪我は見当たらない。
ほっと胸を撫で下ろしたリリバスは、倒れたままの存在を思い出す。
慌てて視線を下ろす。
「え」
青い髪の、少女だった。まとった制服は、リリバスの記憶が正しければ王立学校の制服。紺色のブレザーに、碧のチェックスカート。
ぴくりとも動かないその姿に、リリバスは我に返る。
そっと傍らに膝をついて、口元に手をかざす。弱いながらも、息を感じた。生きている。
「よかっ、たぁ……。……あれ? でもなんで、こんな所に……?」
「……分かりませんが、ロタ中尉」
顔を上げる。ヘッドセットに手を添えたマイヤが、静かにリリバスを見下ろしていた。
「撤退命令が出ました。作戦は終了です」
胸を撫で下ろせる言葉のはずだった。だが、何故かリリバスの胸中に溢れるのは言葉に出来ない、もやもやとしたわだかまりだった。