第十二話 深淵の声

 

 乾いた破裂音を最後に、周囲に静けさが戻る。

 ふう、と大きく息を吐き出したダンダリアンを一瞥して、レイルはそっと先を窺う。

 暗く、今にも消えそうな照明が思い出したように明滅する狭い廊下。もともとは緊急用の出入り口だったのだろう。

 蠢いていた悪霊たちの姿は消えていた。

 

「だんだんと強くなってきているというか、一撃じゃ難しくなってきましたね」

 

「馬鹿を言え。お前、その射撃の腕でそんなこと言ったら怒鳴られるぞ」

 

「え? そ、そうですか?」

 

 小首を傾げたダンダリアンに、レイルはため息をつきたくなるのを我慢する。

 物理的攻撃を受けないと言われる悪霊相手に、実弾で応戦し挙句撃退できるのはダンダリアンの射撃精度の高さの証明でしかない。

 どんな悪霊でも、かつての肉体に依存した弱点が存在する。そしてその弱点に対して攻撃を加えられて初めて撃退が出来るものだ。

 そして物理的攻撃でも、悪霊が倒せないわけではない。自身に流れる僅かな魔力は、扱う武器そのものにも流動する。

 発射した弾丸にもわずかながらも魔力は付加されるのだ。

 そのごくわずかな魔力を、ピンポイントで炸裂させれば撃退は不可能ではない。

 

「実弾で撃退するには、精密に撃ち抜く必要があると教えただろう」

 

「聞きましたけど……俺、人よりちょっと上手いくらいですよ?」

 

「お前のちょっとは、人を馬鹿にしてるレベルだぞ。……言いたくはないが、自慢していいレベルだ」

 

「うわ、え、あ、ありがとうございます」

 

 照れくさそうに笑ったダンダリアン。若干その表情が憎らしいが、悪態を飲み込みレイルは再び先を見やる。

 今のところ何もいない。だが当然ながら時間もない。

 

「……行くぞ」

 

「はい! 援護は任せてください」

 

 よもや、これほど心強い言葉に感じるとは、到底想像できなかった。

 だが、今ならダンダリアンの存在に対し、レイルは素直に感謝できる。

 

「ああ、任せた」

 

 そして、今は前に進むしかなかった。

 

◇◇◇

 

 冷えていた。空気が進むにつれて、徐々に冷えていた。

 保冷庫から漏れ出した空気である可能性は否めない。だが、それよりも本能が恐怖と不安を冷気として感じさせているような気もしていた。

 

「これは……」

 

 マイヤが、ぽつりと声を漏らす。砕けた試験管の残骸や、成分の判別できない液体が床に広がっていた。

 倒れた人間も、片手では収まらない。机に伏したままの人間や、上半身が存在しない死体も転がっている。

 広いフロアを仕切るのは物理的な壁の他に、名残の様に、それでもまだ使命を果たす対魔法用結界が存在していた。

 そして実際に実験を行ってきたであろうフロアがその先にはある。データ取得用の管理室すら破損させた衝撃が走ったであろうこの場所に。

 

「……エコデ」

 

 ぴくりと、肩が震えたのが見えた。

 天井が吹き飛び、頭上に空が広がる実験フロアの中心。それこそ、全ての爆心地の様なその場所に、座り込んでいた青い病着のエコデの姿。

 安堵できるはずだった。だがリリバスの胸中に膨らむのは、不安と恐怖。

 

「だめ……」

 

「ロタ中尉、決断を」

 

 掠れたエコデの声に、マイヤの強い口調が被さる。

 マイヤが何を決めろと促しているのかは、分かっていた。張り詰めた空気に、微かに軋むような音が走る。

 

「来ちゃ駄目っ!!」

 

 エコデの悲痛な声と共に、衝撃波が駆ける。咄嗟にマイヤを庇い、リリバスは床に伏せた。壊れた電子機器が衝撃波の起こした爆風に吹き飛ばされ頭上を鋭く通過する。

 そして肌を刺すのは、強烈な悪意。

 恐る恐る顔を上げれば、エコデが見えた。黒い蒸気を周囲に纏わせ、光のない瞳で茫然と立ち尽くす姿が。

 

「……理由は、分かりませんけど……彼女が、全ての起点ですね」

 

「マイヤ……」

 

「貴方は、彼女を救いたいのでしょう、ロタ中尉」

 

 ゆっくりと立ち上がるマイヤを、リリバスは茫然と見やる。心臓だけが、煩く拍動し頭痛を助長する。

 マイヤはリリバスを見ることなく、小脇に抱えていた魔導書を開いた。

 

「ならば、貴方の手で、終わらせてあげるべきです。彼女が彼女であるうちに。その亡骸が、せめて灰となる前に」

 

「なっ……!」

 

「見てわかるでしょう。彼女はもう、正常ではない。どういう理由かは分かりませんが、どうやら制御できていない。危険です。あれは……悪魔そのものです」

 

 マイヤの言葉を、リリバスは否定できなかった。

 エコデは正気を失っている。下手をすれば、悪魔に体を乗っ取られている可能性もゼロではない。

 だが、リリバスはそれを受け入れることは、出来なかった。

 

「……俺が止める。正気に戻れば、まだ可能性はある」

 

「甘えた考えはやめてください。どれだけ人が死んだと思ってるんですか!」

 

「好きでやったわけじゃないだろ」

 

「同じです。彼女がした事には変わりない」

 

「そうだけどな。だったら俺もお前も、ここで死ぬべきだと思うぞ」

 

 マイヤが押し黙る。その手で奪ってきた命を、マイヤも自覚していないわけではないのだ。

 だから反論しないのだろう。我ながら卑怯な言葉だと思った。だが、リリバスも簡単に退くことは出来ないのだ。

 レイルに見栄を切った以上。守りたいと思い、ここまで出向いた以上。

 

「五分だけ、待ってくれ」

 

 マイヤの返事は待たなかった。リリバスはホルスターから銃を抜き、床を蹴る。残弾は残り八発。

 天井が抜け、太陽の光が円形に降り注ぐ実験フロアに踏み込む。

 刹那、エコデにまとわりついていた黒い蒸気が、明確な形をとる。漆黒の翼と槍へと、姿を変える。

 

「エコデ! 目を覚ませ! 頑張って、帰って来い!」

 

 宙を舞い、振り下ろされた槍の先端をギリギリで躱す。銃口を翼へ向けるも、引き金は引けなかった。

 その衝撃がエコデを傷つける可能性が過ぎった瞬間、動きが鈍ってしまったのだ。

 僅かな、しかし大きな隙に、エコデの握っていた槍の柄が、リリバスの右脇腹を直撃する。

 思いがけず重い一撃に、軽々吹き飛ばされたリリバスは、壁に叩き付けられる刹那、防御結界を展開しその発動による僅かな風圧で勢いを殺す。

 それでも完全には掻き消せず、強か背中を打ち付け息が詰まった。

 

「……く、そ。容赦ねーな……!」

 

「ロタ中尉っ!」

 

 マイヤの叫びに顔を上げれば、槍を振り上げたエコデ。戦慄する暇もなく、リリバスは振り下ろされた腕を受け止める。

 その細腕にどこに力があるのか、押し負けそうになる。

 

「聞こえてるだろ……! ここで、終わったら、駄目なんだよ……! 誰も、味方じゃなくてもっ……! 俺だけは、エコデを守ってやるから!」

 

 その罪も罰も、共に背負うくらい何でもない。

 自分でも分からない衝動に、リリバスは戸惑っているのは事実で。

 それでも、守りたい存在には、変わりないのだ。初めて会ったあの時から。その笑顔の為なら。

 

「だからっ……!」

 

「……こ……て」

 

 ハッとエコデを見やる。今もなお槍を顔面に突き刺そうとするエコデの瞳から、ぱたりとリリバスの頬へ雫が落ちる。

 涙が、落ちた。希望が見えたリリバスは、思わず表情が緩む。

 

「エコデ、あと少……」

 

「殺して……ください」

 

「な……」

 

「私……生きてる価値……なん、て……ない……」

 

「エコデ……」

 

 エコデは泣いていた。体のコントロールは奪い返せないままに、それでも今の自分と、犯した罪を自覚しているのだ。

 痛々しいほどに。

 だが、それでもリリバスは首を振る。

 

「……俺は、エコデには生きててほしい」

 

「でも」

 

「だから、そんなに死にたいなら、俺を殺してからにしてくれ。……俺は、エコデを殺したくない」

 

 エコデが目を見開いた。リリバスは笑顔を返す。

 そして、抵抗していた手を緩めた。

 

「ロタ中尉!」

 

 悲鳴じみたマイヤの声が、反響する。

リリバスに、痛みは訪れなかった。頬を薄く切り裂かれた感覚はあるが、心臓はまだ動いている。呼吸もしている。

 

「……ほら、出来たろ、エコデ」

 

 茫然と立ち尽くしていたエコデが、視線を落とす。止まらない涙をこぼしながら。

 リリバスが苦笑すると、ふらつく足で、エコデは数歩下がりその場に座り込んだ。両手で顔を覆い、肩を震わせる姿に、もう黒い翼はない。

 そこにいるエコデは、ただ一人の脆い少女でしかなかった。

 ふらつきながら立ち上がり、リリバスはエコデに歩み寄ると、膝をついてその体を抱き締めた。

 

「……怖い思いさせて、ごめんな」

 

「私、わた、し……リリバスさん……殺そう、と」

 

「殺さなかった。それだけでいいって。……俺は、エコデが無事ならそれでいいんだよ」

 

「でも……でも、私は……」

 

 声を詰まらせ、嗚咽するエコデの頭をそっと撫でながら、リリバスは首を振る。

 その罪も、存在も、受け止める覚悟はできているのだから。

 だから。

 

「そう怒るなよ、マイヤ。……俺の顔に免じて許してくれよ」

 

「出来ません」

 

 ぴしゃりと跳ね付けたマイヤに、リリバスは苦笑する。至近距離で、ともすればリリバスにも危害が及ぶ距離で、マイヤは護身用の実弾の入った銃口を、エコデに向けていた。

 そこに一切の慈悲を挟むつもりはないという態度で。

 

「やはり危険なんです。ここで処理することが、未来の為なんです。私たちと、彼女自身のために」

 

「それは違う。仮にそうだとしても、俺がそうはさせない」

 

「退いてください」

 

 有無を言わせぬ強い口調でマイヤは言う。

 だがリリバスもそれを許容するつもりは、ない。マイヤを説得する言葉を探し、思考をフル回転させていた刹那。

 

「その銃を下ろせ」

 

 思いもよらぬ声が木霊した。視線を向ければ、紺色の制服と白の制服。レイルとダンダリアンが、実験室の入口に立っていた。

 ダンダリアンは戸惑いを、レイルは明確な敵意をこちらに向けている。

 そして、レイルの握った拳銃はマイヤを狙っていた。

 

「引き金を引いたら、俺がお前を殺す」

 

「貴方は、もう少し理性的だと思っていたのですが」

 

「お前には言われなくない。私怨で動いているお前にはな」

 

「否定はしません。ですが、彼女の危険性は明らかです。危険は早期に排除する……貴方も同じことを考えるのでは?」

 

「普段ならな。だが今は、どんなに正当性があろうと、絶対にその選択を許さない。エコデが危険だと? 今更くだらん」

 

「やはり貴方は気付いていたんですね。彼女が危険な存在であることを。だとすれば、貴方にも相応な罰が下りますよ」

 

 マイヤの言葉に、レイルは意外にも笑った。

 そして実に清々しく、口を開く。

 

「それでエコデが救えるなら安いものだな……俺は、エコデを守れるのならこんな命捨ててやる」

 

 ああ、とリリバスは苦笑する。マイヤが言葉に窮したのも、理解できる。

 今マイヤの目の前にいるのは、自分以上に物わかりが悪く、しかしリリバスより遥かに簡単に切り捨てるには有能すぎる人材で。

 不意に、レイルの視線がリリバスとぶつかった。思わず背筋が震える。

 

「ちゃんと、約束は守ってくれたようだな」

 

「……ああ」

 

「エコデ」

 

 びくりとリリバスの腕の中で、エコデが身を震わせた。

 その意味は、今でもリリバスの中では分からない。それでも、恐る恐るレイルへ視線を向けるエコデを強く抱きしめる。

 レイルは何か言いかけ、しかし一度飲み込んだ。そして、再びゆっくりと口を開く。

 

「……無事で、良かった。……俺は、お前が……生きて、幸せになってくれたら、いい。俺がお前に願うのはそれだけだ」

 

「レイルさん……」

 

「本当は……その役目を、俺が出来たらよかった。そう、したかった。……俺には、無理だっただけだが。……でも」

 

 ふ、とレイルが笑う。リリバスが見た中では初めて、穏やかに。

 

「……エコデが居てくれた日々は、俺にとって幸せだった。……礼を、言う」

 

「あ……」

 

「これからも、エコデには誰かにとってのそういう存在であって欲しい。だから」

 

 レイルの視線が、再びマイヤへ戻る。敵意が、蘇る。

 

「……ここで殺させるわけには、いかない。たとえ俺が死のうとも。悪いが、俺はエコデが簡単に暴走するとは思ってないからな」

 

「それは……」

 

「外的刺激が加えられていないと、この場所で肯定できるとでも思うのか?」

 

「研究所側の……問題があったと?」

 

「それを調べるのは俺じゃない。そして興味もない。だが、その検証もせずに答えを出すほど、愚かな軍人とは、思えないな」

 

 レイルの指摘に、マイヤは息を吐いた。忌々しげに。

 だが、リリバスにはマイヤがどことなく安堵した様子にも見えた。

 

「再検証の必要があることは、認めましょう。……でも、それで疑惑が晴れるわけじゃない」

 

「構わない。今はな」

 

 軽く肩を竦め、マイヤがエコデに突き付けていた銃をホルスターへ戻した。

 ほっと胸を撫で下ろしたリリバスの視線の先で、レイルが踵を返す。自分の役割は終わったとばかりに。

 

「エコデ、今が、最後のチャンスだと思うんだ」

 

「え……?」

 

「俺、ちゃんと、エコデを守ってやる。これからも、ずっと。……そうしたいって、思う」

 

「リリバスさん……?」

 

 エコデの手を取って、リリバスは立ち上がる。疑問符を躍らせるエコデに苦笑を向けた。

 

「でも、決めるのはやっぱりエコデだと思うんだ。俺も、あいつも……馬鹿だから、自分じゃ選べないんだ」

 

「それ、って」

 

「ほら」

 

 とん、と背中を押す。たたらを踏んで、驚いて振り返ったエコデに、リリバスは告げた。

 

「……次にエコデが取る行動が答えだぞ。……振り返ったら、俺もう、エコデの手を離さないからな」

 

「リリバス……さん」

 

「あいつの気持ちも、もう分かってるだろ。まぁ、俺、気持ちで負けてるとは思ってないけど」

 

 エコデが泣きそうな顔を浮かべる。そしてリリバスは引き止めたくなる衝動を、飲み込む。

 この選択は、誰のものでもなく。エコデが選ぶべき、道なのだから。

 

「……レイルさんっ!」

 

 走り出したエコデをリリバスには引き止められなかった。それがエコデの選択なのだから、当然で。

 遠ざかる背中を苦笑で見送っていたリリバスに、マイヤが問いかける。

 

「よろしかったのですか?」

 

「俺がどう思ってたとしても、エコデの気持ちまでは、どうこう出来ねーよ。……でもまぁ」

 

「でも?」

 

「苦い。悔しい。失恋って地味に切ない……」

 

◇◇◇

 

 バルクとの約束は、結局守れなかった。結局、レイルは自分に勝てなかった事を認めざるを得ない。

 それでも今胸中にあるのは、安堵だった。それだけで十分に感じるほどには。

 

「レイルさん!」

 

 鼓膜に滑り込んだ声に、足を止める。ダンダリアンが先に振り返り、呆気にとられた表情を浮かべた。

 つられるように振り返れば、肩で息を整えているエコデが居た。

 青い病着に、裸足。泣きそうな顔で、五メートルほど離れた距離。

 言うべき言葉が空転するレイルに、エコデが一歩近づいた。

 

「……どうして、来た」

 

 捉えようによっては拒絶だった。レイル自身辟易しそうな自分の言葉に、傍らのダンダリアンが不安げな表情でちらりと一瞥寄越す。

 自ら撒いた種だが、空気が張り詰める。

 エコデはぎゅっと両手を握りしめ、決意したような瞳をレイルに向ける。

 

「伝えなきゃいけないって、……思った、から」

 

「は……?」

 

「私は、これからもレイルさんと一緒に、居たいです」

 

 レイルの思考が、白くなる。意図が読めず、思考が停止した。

大きな淡い緑の瞳に涙を溜めて、エコデは引き攣れそうな声で思いを零す。

 

「ずっと言っちゃいけないって、思ってました。私には、そんな資格ないんだって、思ってたから……。でも、レイルさん、言ってくれましたよね?」

 

「何、を」

 

「私には、生きて幸せになって欲しいって。……私は」

 

 ふっと、エコデが笑う。久しぶりに、本当にごく自然に、嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

「私は、レイルさんの傍に居られるのが、一番の幸せです。形だけだって良かった。嘘でも、婚約者でいられて、嬉しかった。……だって私は、ずっとレイルさんが、好きだったから。……だから」

 

「……もういい」

 

「ちょっ、ラプェレ中尉?!」

 

 何故か声を裏返したダンダリアンを無視して、レイルはエコデに無言で歩み寄る。

 不安と緊張に表情を強張らせたエコデを見下ろして、ぽつりと。

 

「話は、帰ってから聞く。……それから」

 

「え……?」

 

「……誰も、婚約者の立場まで、あの馬鹿に明け渡したつもりはない」

 

 呆気にとられたエコデを直視できず、レイルはすぐに視線を外す。我ながら情けないことこの上ない。そして何より、恥ずかしい。

 

「あー……ラプェレ中尉。凄く申し訳ないんですけど、残り時間も僅かですし、脱出しません?」

 

「分かってる。……少し我慢してろ、エコデ」

 

「ひゃ?!」

 

 横抱きに抱き抱えた瞬間、エコデが小さく悲鳴を上げる。

 思わぬ反応に、レイルは眉をひそめた。

 

「裸足で瓦礫の上を走らせるほど、俺も他人に対して冷たくないつもりなんだが」

 

「そそ、そうじゃなくてっ」

 

「じゃあ何だ」

 

「うぅ……」

 

 よもやそれでも自力で走るとでも言われれば、無理強いは出来ない。あとでリリバスやらロヴィから何やら言われるのは、多少我慢するとしてもだ。せめてもの気遣いを拒否されるのは流石に、レイルも若干傷つく。

 

「さ、行きますよラプェレ中尉!」

 

「……ああ。悪いが、文句は後で聞く。掴まっていろ」

 

「あ、わ……は、はい」

 

 苦笑いで促したダンダリアンに頷き、レイルも走り出す。腕の中に、一番大切なものを抱えて。

 幾分、スピードは落ちていた。重くないと言えば、それは確実な嘘になる。だが、それを補えるだけの心の軽さが、今はあった。

 まだやっと分岐点に戻ったばかりで。

 欠けた時間を埋めるには、時間は足りないかもしれない。

 それでもこの手を離していい理由は、もうどこにもないのだから。

 

 

 

←prev      next→