第十話 胎動

 

 廃棄エーテルの特有の匂いが、車道に溢れていた。いつもより少し交通量が多いようだ。

 すでに来シーズンの服が着せられたマネキンの並ぶショーウィンドウの脇を抜けながら、エコデはようやく目的の車両を見つける。

 小走りで駆け寄り、軽くウィンドウをノックする。

 書類に目を通していたヴィクターが視線を上げ、エコデの姿を認めるとドアのロックを解除する。

 

「すみません、お待たせしました」

 

「問題ない。特に用件がなければ、そのまま基地に戻るが」

 

「はい。お願いします」

 

 ヴィクターは首肯し、エコデがシートベルトを着用していることを確認するとギアを変え、アクセルを踏み込んだ。

 緩やかな加速と共に景色がゆったりと流れ出す。少しだけ居心地の悪い沈黙が、満ちる。

 エコデは視線を窓の外へと逃した。いつもの、何の変哲もない街並みが、流れている。

 保護観察の対象となってから、エコデはヴィクターやラフェルの送迎で、学校へと通っていた。ほとんどがラフェルだが、時折ヴィクターの場合がある。口数が少なく、そもそも前髪が顔の左を覆い隠し表情が見えにくいせいもあり、近寄りがたいというのが初見の印象だった。

 数度顔を合わせるうちに、極端に寡黙なだけと気付き特段怖い存在ではなくなっていたが、それでも沈黙は辛い。

 

「……独り言として、聞いてくれて構わないが」

 

「え?」

 

「悪魔とは、何だと思う」

 

 唐突な言葉に、エコデは目を見張る。ヴィクターは正面を見据えたまま、エコデの反応を意に介さず言葉を重ねる。

 

「本来悪魔とは概念的存在であり、目に触れることはあったとしても物理的に存在できるはずはない。だが現実は違う。奴らは事実『肉体というべき実体』を伴い存在する。天使も同じだ。あれらも本来は概念的存在でしかない」

 

 ヴィクターの発言の意図は測り兼ねる。それでも、エコデにも理解できない話ではなかった。

 悪魔も天使も虚構の存在であり、いうなれば信仰の一つの形だ。居るのに居ない。存在の可能性はあれど、それは人々の精神に息づくものだ。

 

「俺は、悪魔は人の心の闇で、天使は人の心に宿る光だと思っている」

 

「え……?」

 

「悪魔も天使も、元となる『人』があるはずだ。そうでなければ、説明がつかない」

 

 心臓が、煩くなる。ヴィクターの言葉に隠された『何か』が酷く怖くなってくる。

 

「だが、それでも恐ろしい事を考える輩も、いるものだと、つくづく感じている。……ここからは、質問だ。エコデ・ウィスプ」

 

「っ」

 

 びく、と思わず体を強張らせる。ヴィクターが暴力的な行動に出るとは、思わない。

 だが紡がれるであろう問いは、確実に自分を追いつめるものだという確信が、エコデの心に芽生える。恐怖が染み込む。

 

「君は、サンディ伍長と姉妹であることが確認された。生体固有の魔力周波から確定したらしい。手法については俺も詳しくはない」

 

「そうなん、ですか。……そっか」

 

 それは素直に嬉しく感じた。思わず口元が綻ぶ。

 

「そして君はそもそも、ずっと悪魔の擬態ではないかと疑われていた事を、知っていたか?」

 

「えっ……」

 

「鑑定の結果、擬態についても否定された。だが、それでも君とサンディ伍長からは『悪魔特有の魔力』は否定できないままだ」

 

 息を呑んだ。小さく、手が震えだす。

 ヴィクターは視線を正面に固定したまま、落ち着いた動作でハンドルを切って公道を曲がった。

 間もなく、基地の入口へと差し掛かる。

 

「君は、悪魔と人の間に『作り出された』存在なのか?」

 

「わた、しは」

 

「だとすれば、君は本当に存在していると言っていいのか。俺はその答えが知りたい」

 

◇◇◇

 

 ふふ、とラフェルが実に楽しげに笑う気配に、リリバスはうすら寒さを覚え、捲っていた白衣の袖をそれとなく元に戻す。

 

「あら、りぃくんは引いてもないのに風邪と勘違いするほどお馬鹿さんだったのですね」

 

「おい」

 

 窓枠に腰掛けていたラフェルがにこりと笑顔を向けて来る。恐ろしいほど上機嫌のようだった。

 

「冗談なのです。……それにしても、面白くなってきましたのです」

 

「何がだよ……」

 

「キメラなのですよ。どうやら、この間りぃくん達がぶちのめしたの以外にも、たくさん湧き出てきているようなのです。畑を荒らす程度なら可愛げもあるのですけれど、流石に戦車に体当たりをかましてくるのは危険極まりないですね」

 

「……そうか」

 

 薄々は、聞いていた。徐々にその数と活動範囲が増してきていることを。正直、レジスタンスもキメラを恐れて解散したところもあると聞いた。

 もちろん逆に活気づいて、その上果敢にも挑み、それこそ『英雄』を作り出そうとした派閥もあったようだが、残念ながらほぼ全滅。

 軍の他、腕利きのフリーの傭兵や高位魔術師でやっと鎮圧化しているのが現状だ。

 アレスタが帰還し、その後出発した別の航空戦艦も何度か戦闘に出くわしているらしく海軍も同じだ。

 数は、減ってきているのだと思いたいが、実際のところはどこが発生場所かすら特定されていない。一進一退だ。

 

「はぁ、参ったなぁ……未だにエコデのお守りも見つけてやれてないもんなぁ」

 

「あら、そんな約束をしていたのですね」

 

「まぁな。……探しに行く暇もないし、エコデの具合も悪し、ああもう……何も上手くいってないな」

 

 天井を仰いでも、見慣れた白があるだけだ。

 この所、エコデはずっと寝込んでいる。食事もあまりとれていないらしく、点滴を変えにリリバスも何度か様子は見に行ってはいる。

 笑顔は見せるが疲れているのは明らかだった。

 

「エコデ……大丈夫だよな?」

 

「何故私に確認するのです? 医者はりぃくんですよ」

 

「いや……何となく。……ラフェルの事だから、俺が知らないことも知ってるんだろうなって思ってさ」

 

「否定はしないのです。でもまぁ、そうですね。少し長すぎますし、準備はしておきますです」

 

「入院か? そうだな、その方がいいかも」

 

 ラフェルは軽く頷くと、ひらりと窓枠から腰を浮かす。

 

「明日には何とかしておくです。……だから」

 

「ん?」

 

 ラフェルを見やる。浮かべた笑みがいつもに増して、邪悪さを孕んでいた。

 ぞくりと背筋が震える。

 

「りぃくんは、ちゃんとりぃくんらしい行動を、とるのですよ?」

 

「俺らしい……って」

 

「さぁ。それは今後のりぃくんが示せばいいのです。がっかりさせないでくださいね」

 

 かつ、とラフェルのヒールが床を鳴らす。

 遠ざかる足音が、葬列に似たイメージをリリバスの脳裏に呼び寄せ、慌てて首を振った。縁起でもない。

 湧き出す不安を振り払うように、リリバスは席を立った。篭っていても、気分は晴れない。

 

◇◇◇

 

 一通りの報告書の提出を終え、レイルはようやく庁舎の建物の外へ出た。

 ここ二日ほど、太陽の下に出た記憶がない。太陽光がやけに眩しく、軽い眩暈まで感じる。

 

「あっ! こんにちはラプェレ中尉!」

 

 聞き覚えのある声に目を細めれば、丁度定期バスから降りてきたダンダリアンがひらりと手を振っていた。

 小脇に抱えたアタッシュケースが太陽の光を眩しく反射させている。

 

「聞きましたよ。大変でしたね」

 

「それほどでもない。被害はなかったからな」

 

「それはそうかもしれませんけど、ホント、あの手の連戦だときついんですよ……洋上って逃げ場所がないし」

 

 ため息交じりに零したダンダリアンの方が対キメラ戦闘の経験回数は多い。そもそもその情報を持って帰ったのはダンダリアンの乗る海上戦艦グレーエだ。下手をすれば片手では足りない戦闘数かもしれない。

 軽く嫉妬を覚えつつ、そんな自分を飲み込んで、レイルはダンダリアンに問いかける。

 

「今日は一人か? アイノ艦長は一緒じゃないのか」

 

「ああ、艦長は今頃洋上です。俺は今回、司令部の連絡要員に回されました。一週間ほどお世話になります」

 

「俺が世話をするわけじゃない」

 

「そうですね。それより、ラプェレ中尉大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。食事と睡眠、ちゃんと取ってます?」

 

 口を噤む。ダンダリアンがしまった、という顔をしたあたり、不機嫌が相当顔に出たのだろう。レイル自身では分からないが。

 

「今日はもう上がりだ。一旦家に帰って、次の出発の準備をしてくる」

 

「ええ! じゃあ俺運転しますよ。ラプェレ中尉、今にも倒れそうな顔ですし」

 

「頼んでない」

 

「た、頼まれてなくてもします! この間お世話になったお礼です!」

 

 有無を言わせぬ勢いだった。ダンダリアンの性格的には引かないだろう。

 出くわした不運を呪いながら、レイルは渋々頷かざるを得なかった。

 

◇◇◇

 

 目的地などもちろんない。七割ほどを雲が覆った空の下を、リリバスはぷらぷらと目的もなく歩く。

 それでも外の風に当たるだけでも、随分と気分が楽になった気がするのだから我ながら単純だった。

 シフト明けか、欠伸をしつつ兵舎へ戻っていく姿や、慌ただしく荷物が積み込まれていくトラック。時折遠くでエンジンが遠ざかる音が響き、空軍の戦闘機が舞い上がって小さくなっていった。

 いつも通りの、それでも一か月前よりは明らかに忙しくなり緊迫感の漂う基地内。

 どこにでもある兵舎脇の自販機。その隣に置かれた古びたベンチに、ふと見覚えのある姿を見つける。

 意外に思いつつ、リリバスは歩み寄った。

 

「珍しい所で会うな?」

 

 リリバスが声をかけると、空を仰いで瞑っていた瞳がゆっくりと開かれる。

 

「あ……確か……リリバスさん」

 

「今日はオフか? ロヴィ」

 

 日の当たるベンチに座っていたロヴィに、リリバスはにっと歯を見せて笑う。ロヴィは苦笑を返して、小さく頷いた。

 

「そんな所です。リリバスさんは、お散歩ですか」

 

「まぁ、気分転換ってやつだよ」

 

「呑気なものですね」

 

 笑って誤魔化しつつ、リリバスはベンチに腰を下ろした。

 

「良ければどうぞ」

 

 ロヴィが差し出したのは、まだ開いてない缶コーヒー。缶の側面には水滴が筋を作っていた。

 

「いいのか? 遠慮なく貰っちゃうぞ」

 

「どうぞ。その代わり、ちょっとだけ話し相手になってください」

 

「おっけ、交渉成立!」

 

 随分とリリバスに利が多い気もしたが、有難く貰っておく。プルタブを押し上げ、一口。無糖だったらしく、苦みが襲いリリバスは眉をひそめる。

 極度の甘党なリリバスには鮮烈な苦みだった。

 

「……エコデ、元気にしてますか」

 

「うぐっ?!」

 

 唐突な問いに、コーヒーが気管を襲う。むせこんだリリバスにロヴィはくすくすと楽しげに笑った。

 喉から妙な音が零れ、声を掠れさせながら、リリバスは首を縦に振った。

 

「まぁ、その……あれだ。何とか」

 

「何とかじゃ困りますよ。……貴方には、僕が兄さんを奮い立たせるまでエコデを引き止めててもらわないと困ります」

 

「え、えぇ……? 何だそれ……」

 

「困った兄が居ると、弟が大変苦労するって話ですよ。……ほんとに、手が掛かって仕方ないんです、兄さんは」

 

「ふーん……?」

 

 リリバスの脳裏で思い出されるのは、いつでも高圧的なレイルだけだ。ロヴィの様に『手のかかる』印象はあまりない。むしろ勝手にどこまでも行ってしまうのがレイルだと思っているのだから。

 どちらかと言えば、リリバスの中のレイルは暴君に近い。

 

「ひとつ、気になってたことがあるんです」

 

「ん?」

 

「どうして、エコデはあの日、あの場所に居たんだろうって」

 

「あの場所?」

 

「貴方達に拾われたという、レジスタンスのアジト近辺ですよ」

 

 随分昔の話に感じるが、二か月も経っていない。ロヴィの言う通り、あの日に全てが狂い始めたような気がする。

 ロヴィは視線を地面の雑草に向けたまま、ぽつりと零す。

 

「エコデ、自分で行ったんじゃないかって……そんな気がするんですよ」

 

「それ、どういう……」

 

「呼ばれてた、っていう方が近いのかもしれないんですけど。……でなきゃ、あんな場所に居るわけないんです。学校からも遠いし、そもそも家は反対方向にあったんですよ」

 

「えっ……」

 

 それは初耳だった。驚くリリバスにロヴィは小さく笑って、ベンチから立ち上がる。

 

「あの時……『あれは本物の、しかも高位の悪魔だ』って、貴方は言ったそうですね」

 

 ぞく、と背筋が凍る。それは記憶の中にずっと引っかかっていた自分で叫んだフレーズだ。

 呟いたロヴィの顔は、逆光でよく見えない。

 

「それ、多分間違ってません。……間違えてたのは、僕や兄さんの方だったんだ。やり方を、ずっと間違えてた。……だから」

 

「だか、ら?」

 

 ロヴィが振り返る。寂しげな笑みに、リリバスには見えた。

 

「もう少しだけお願いしますね。……絶対に、兄さんに頑張らせますから」

 

「え、え?」

 

「では」

 

 軽く会釈をして、ロヴィは歩き去る。そこにもう迷いはなく、空軍パイロットとしての凛とした姿が遠ざかっていくだけだった。

 そしてリリバスの中で膨らむのは、ひたすら先の見えない、不安。

 不安を押し流すべく、残っていた缶コーヒーを一気に飲み下す。より一層苦みが広がった気がした。

 

◇◇◇

 

「わー……良い所に住んでますね」

 

「この辺じゃ安い方だ。中は古い」

 

「古くても流石王都です。俺が借りてる賃貸とは違いますよ……」

 

 感嘆の吐息を漏らすダンダリアンを無視して、レイルは車を降りる。ダンダリアンは車で待機を命じた。

 路上駐車にはなるが、車通りも少ない時間帯であり、それほど長居をする気もないレイルとしては問題ないと判断している。

 少々渋ったダンダリアンだが、視線で黙らせ、自宅へと向かう。

 ポストに投げ込まれた手紙類を回収し、エレベータで上がる。久しぶりの帰宅だった。

 上昇していく感覚に軽いめまい。背中を壁に預けて、レイルは何日ぶりかに通信端末を取り出す。

 着信もメールも一つもない、静かな画面。変わっていたのは電源残量くらいだろう。

 微かな胸の痛みを覚え、すぐにもポケットにねじ込む。

 言葉にするには困難な複雑な感情を飲み込んで、ようやく開いたエレベータを降りる。がらんとした通路を抜けて鍵を回すと、開錠の音が酷く大きく聞こえた。

 扉を開ければ、慣れた空気が体を包む。

 

「……急ぐか」

 

 感傷に浸りたくなる自分を振り払い、レイルはまずはリビングへと向かった。

 静かな自宅。どこかものさびしく感じるのは、気のせいだと思いたい。

 二人掛けのソファがL字型に並んだ傍にある、ダイニングテーブル。その上に、一枚の便せん。

 眉根を寄せて、歩み寄る。

 空白だらけだった。たった二文だけしか書かれていない。そして文字自体が、小さく弱々しい。

 それでも。

 

「……すまない」

 

 声が震えたのを、自覚する。

 だが、それしか返せなかった。それしか、今のレイルには紡げなかった。

 

――今までありがとうございました。さようなら、レイルさん。

 

 自分でなければ。本当なら、もっと平穏で眩しい未来を繋げたのではないだろうかと、思わない日はなかった。

 それでも奮い立たせてきた。自分を殺してでも、守り続けたかったのだから。

 そして今は、ただ願う。

 

――どうか、エコデのこれからの未来に光があることを。

 

 便箋を手に取る。丁寧に丁寧に、折りたたむ。

 これまでの自分のために。そしてこれからの自分のために。

 

◇◇◇

 

『ここは闇の果て、世界の始まり。希望の終わり、絶望の始まり。堕ちれば還れない。そうと分かっていて堕ちる選択は英断か愚行か。いずれにせよ、世界はまだ胎動を始めたばかり。歯車は巡り始めたばかり』

 

 誰かの言葉が、呪文のように微睡むエコデの思考に流れ込む。

 いつかも聞いた言葉だった。それは恐らく始まった頃に聞いた言葉。

 まだ自我がエコデという自分を認識していなかった頃に、繰り返し聞かされた詩。

 ふと、その声に聞き覚えがあることにエコデは気付く。

 その詩は迷いであり惑い。願いであり懺悔。価値であり、叫び。

 

――そして、思い出す。

 

 ずっと蓋をしてきた記憶を覗く。記憶の先は深淵でしかないと知っていたからこそ、避けていた選択だった。

 そして何より、深淵に居る必要はないと導いてくれた存在がいたから。

 エコデは重い瞼を、こじ開ける。光が網膜を焼く様な感覚に、目を細めた。

 

 正面に、何かが存在していた。

 漆黒の中に赤い光が揺らめく。それは目であり、口。輪郭であり、境界。

 総毛立つ。そして、『それ』の声がエコデの頭で響く。

 

――おかえり。そして、お疲れ様……お前の役目は、もう終わりだ。

 

 閃光が、走る。

 

 

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