第零話 空が落ちた日
青空が落ちていた。太陽の差し込むソファの上。胎児の様に体を丸めた、小さな体。
換気扇の回る音と時計の秒針が刻む音が、やけに大きく響いている。
視線をローテーブルにスライドさせると、一冊の黒いファイル。辞書並みに分厚いA4サイズと思しきファイルの表紙には、『機密』と白い字で書かれていた。
レイルは眉を顰める。眼鏡の位置を無意味に修正して、その場に学生鞄を置くと、ゆっくりと歩み寄る。
少女だった。薄いブルーの病院着のような薄い衣服を着た空色の髪色の少女。ロヴィと同じ年頃だろう。眠ったまま、微動だにしない。
再度ファイルに視線をスライドさせる。軽く膝を折って表紙を捲ると、一枚の紙が挟まっていた。
手書きと思しき、右斜め上に走った乱雑な字に、レイルは見覚えがあった。
『処理は任せる』
レイルは無表情に紙をぐしゃりと握りつぶす。
湧き上がるのは、憎悪であり嫌悪であり、痛みだった。
キッと、睨む様に幸せそうに寝ている存在を見やる。レイルの抱えた苦悩も悲しみも知ることのない、空色の少女はそこにいた。
その存在がいかなる意味か、握りつぶしたメッセージが明確に示している。
本来、許されざる命だ。生まれてはいけない、存在してはならない禁忌。人の目に触れる事すら、あってはいけない。
だが現実、ここにいた。一つのメッセージと共に。
その真意は、読み取れない。何を考えて、この少女をこの場所に置いて行ったのかは、分からない。
警察に届けるべきだった。見知らぬ少女を保護する理由は、どこにもない。
ましてやレイルはまだ学生で。ロヴィもやっと保育園を出る年頃になったばかりだ。
――だが、どう説明すればいい?
その存在すら認められていない世界だというのに。
手紙の主は、当然それを分かっている。これは、つまりレイルへの当て付けだ。
その道を拒絶し、侮蔑したレイルへの当て付け。
馬鹿にしているのだろう。どうすることもできないだろうと。
この狂気の沙汰に、レイルが打つ手のないことを分かって居ての。
最後には頼らざるを得ない、可能性を提示したうえで。
――ふざけるな。
プライドが、許さなかった。レイルの中で膨れ上がるのは反抗心だった。
そしてレイルは手を伸ばす。
「……ひっ……」
小さな悲鳴が漏れる。あるいは、空気を無理に押し出した音か。
手が震えている。だが、構わなかった。少女の白く細い首を、レイルの震える手が締め上げる。
――殺すんじゃない。これは、モノだ。
繰り返し繰り返し、自分の中で叫びながら、レイルは力を込める。
許されざる命を終わらせるために。許しがたい『手紙の主』の作品を壊すために。
ぎりぎりと骨が軋む感覚が、手から伝わる。手の中で、骨が潰れた瞬間が終わりだろう。全ての終わり。
あるいは、レイルの人生も終わる。それでも構わなかった。
手中で踊らされ続けるくらいならば。
ふと少女の目に、雫が膨れ上がって、頬を伝ったのが見えた。
(ああ、一応は人の形をしてるから、涙は流れるのか……)
やけに冷めた思考を回していると、薄く開いた少女の目と視線がぶつかった。
淡い緑の瞳に、涙が溜まっている。ふと、震える唇が、形を変えた。
どこか安心したように、少女は……微笑んでいた。
――その表情に、背筋が凍った。
「は……げほ、はっ……はぁっ……」
ばっと手を離し、レイルは少女から数歩後ずさる。
締めあげられていた拘束から解放された少女の呼吸器が、酸素を求めて全身を動かしていた。
よろよろと、少女が体を起こす。長い空色の髪が、さらさらと少女の肩を滑る。
生きた存在。奪おうとした命。
心臓が煩く拍動する。目を見開き、震える手を抑え込みながら見つめていたレイルに、少女がゆっくりと顔を向ける。
焦点の合っていない瞳が、レイルを捉える。
「……こう……する、の……?」
掠れた声で呟いて、少女は自分の首へ両手を伸ばした。
レイルが絞めたように、その白く細い首へと手を。
「あ……やめろっ!!」
鋭く叫んで、レイルは少女の両腕を掴む。今にも折れそうな腕には、いくつもの注射痕が見える。
レイルの嫌悪する、一番のものだった。
(俺は……っ、同じ、ことを……)
モノだからと簡単に命を奪って、突き返そうとした。
その行為自体を忌み嫌い、突き放していたはずなのに。惨めだった。どこまでも。
「ごめん……ごめんっ……」
口から零れる謝罪は、何に対してなのか、自分でも分からなかった。
殺そうとしたことか。そもそも、存在させてしまったことか。
レイルの中で暴れまわる激情が、目から溢れて零れる。
「俺は……俺はっ……!」
腕を掴んだ手を離す。震えが収まらない手を握りしめ、レイルはただ俯き、涙を落とす。
もう嫌だ。こんな狂った場所は、たくさんだ。何故、闇を断ち切らせてくれないのだろうか。
それがひたすらに、辛くて苦しい。
――ひた、と小さな温もりがレイルの頬に触れる。
のろのろとレイルが顔を上げると、少女は不思議そうに自分の手を見つめていた。その指先には、レイルの頬を伝っていた涙が光っている。
「……みず、なのに……あったかい」
ぽつりと呟いて、少女は再びレイルを見やる。
ゆっくりと少女の手がレイルの手に触れて、爪の先までをなぞった。
「……あなた、も……つめたく、ない」
「お前……」
「あなたは……なに?」
少女の瞳に宿る無機質な光に、レイルは強く手を握りしめる。
そして時計の針がかたりと大きく音を立てて、またひとつ進んだ。