交差記憶
「んじゃ行ってくるな、兄貴」
「はい。行ってらっしゃい、アルト」
笑顔を交わして、手を振って執務室から出て行ったアルトをクオルはソファに座ったまま見送った。
ローテーブルの上には二つのカップ。クオルとアルトの分だ。
会議に向かったアルトの分は片づけてもいいだろう。一時間は戻ってこないはずだ。
「……ちゃんと、会議で発言できてるようですし、アルトも頑張ってますね」
「そうですね。たまに暴走しているようですけど」
膝の上で丸くなっていたライヴが苦笑交じりにそう零す。クオルも苦笑を浮かべた。
アルトは立ち回りが上手いタイプではない。言葉選びも感情に直結したものがほとんどで、悪く言えば拙く攻撃的。どうやら未だに周囲からは冷ややかな視線で見られているらしい。
(まぁ、それがアルトらしいんですけど。……でも、いつまでもそれじゃ困りますね)
議員としてのそれなりの威厳は持つべきでもあるのだ。親しみやすいと言えば聞こえはいいが、下手をすれば同格に扱われる。アルトの性格上頼まれた事や、困ったことがあると聞き付ければすぐに行動に移すだろう。
収取選択を出来るならばともかく、アルトにそれは難しい。経験が浅いのだから。
(でも下手に口を出すとまた機嫌を損ねるんでしょうね)
いつもそうだ。良かれと思って口を開けば、すぐにへそを曲げてしまうのだから。アルトが素直に耳を貸してくれることのほうが余程珍しく感じてしまう。
「……クオル様?」
呼びかけられ、振り返る。いつの間にか背後に立っていた存在に、瞬きを一つ。
「貴方は……」
「はい?」
「あ……」
背筋が凍る。不思議そうに首を傾げるブレン。クオルは顔を伏せた。
またやってしまった、と反省しながら。胸が軋む。
「……大丈夫ですよ、クオル様」
すとんと隣に腰を下ろしたブレンの声。恐る恐る視線を向ければ、小さく笑みを浮かべたブレンがいる。
長い間、傍で守り続けてくれている代えがたい存在は、ちゃんとそこにいる。
「クオル様が迷子になったらちゃんと迎えに行きますから」
「……ブレン……」
「そうです。そうやって、貴方が私を覚えてくれている間は、ちゃんと貴方は、私が良く知っているクオル様です」
ブレンの言葉が、クオルの中で安堵に変わる。
アルトのかつての兄であり、もう分割されたアルトの魂だった『クオル・フォリア』の記憶は、今はクオルの中にある。
失われたその日の記憶がアルトにとって多大なる負荷で、だからこそ今も厳重に封印し、その上で預かっているのだ。封を解いて、今のアルトが耐えられるかは分からない。少なくとも、クオルは封印を解く気はなかった。
アルトが壊れてしまうのは怖い。そして、自分が不要になることも、怖い。
だが代わりに自分に掛かっている負荷も、重々承知している。
――記憶が、混濁するのだ。
クオル・フォリアとクオル・クリシェイアの記憶の境界が徐々に曖昧になってきている。どちらの自分が本当なのか、分からなくなりつつある。
ある意味では、アルトの兄として『全ての記憶』を持っていることは喜ぶべきなのかもしれない。
でも、クオル自身はそれを望んではいなかった。
少なくとも、本当の自分は保っていたい。アルトが求める存在が、かつての兄だとしても、クオルはその記憶と感情に呑まれるのは嫌なのだ。
「……すみません。クオル様を、助けたいのに。守りたいのに。……私じゃ、手が届かない」
「そんな事ない。……だから」
ようやく笑みを作る。心配そうな顔のブレンに向けて、クオルは言葉を紡ぐ。
「僕が迷子になったら、呼んでください。僕はその声を頼りに、帰りますから」
「……はい」
頷いて、笑みを交わす。
今ではもう、自分の存在を繋ぎ止めてくれるのはブレンとライヴしかいない。アルトに記憶を返し、今の関係を解消すればこの苦痛に悩まされることもないことは、分かっていた。
それでもクオルは、この選択を貫く。アルトの存在に救われているのも確かで、そして寄りかかっていることも明白で。
「その代わり、ちゃんと目の届くところに居てください。私は、クオル様みたいに多才じゃないんですから」
ふと、ブレンが零す。クオルは静かに首を振った。
「そんな事ないです」
「そんな事あるんです。……大丈夫です」
「え?」
「私は、貴方の使い魔なんです。クオル様が居なくなったら、私が死ぬんです。クオル様はそんな事を望む方じゃないでしょう? だから、ちゃんと傍にいますよ」
それも結局自分の我儘に付き合わせてしまったようなもので。申し訳なさと共に、安堵は広がる。
きっとこの先も、抱えた、預かった記憶で苦しまなければならないのだろう。
そしていつか、自分が負けてしまうのかもしれない。救いが届かない場所まで堕ちたとしても、それでも、後悔はきっとない。
――だから、どうかこの記憶に負けないだけの強さを。