歪狂想曲
時間とは不思議なもので、前にしか進まない。いや、戻っている可能性はゼロではないにしろ、それは時間軸を前にしか捉えられない三次元に存在する限りは、難しい。時間は四つ目の要素。四次元目に干渉することが出来るのは、その更に上、五次元以上の存在になるだろう。
人は、三次元に存在し、四次元の恩恵で「生きている」。あくまで人は四次元へ干渉は出来ない。
そんな単純な事だ。だが人は抗い続け、求め続ける。干渉する術を。戻れる可能性を。
時間は、ソエルを強く惹きつける因子だった。
「へえ、じゃソエルは時空魔導研究室にしたのか」
「にしようと、思うんですけど。……どう思います、教官」
「決めるのはソエル。まぁ、俺と同じ研究室にしてくれたら助かるには助かるけど……エージュもいるしさ」
ちらりと視線を置くの実験テーブルへ投げるジノ。眉間に皺を刻みながら恐る恐る試薬を滴下しているエージュがいる。
不器用な部類に入るエージュには緻密な作業は一苦労なようだ。ほっと息を吐き出し、エージュは資料に目を通し始める。
エージュもソエルも、今では上級監査官だ。監査官になって、十年が過ぎようとしている。
「けど、知らなかった。ソエルの一族って、単なる人間とは違ったんだな」
「ですよー。ある特定方向に進化した人間種で、『学術の祖』って呼ばれる一族なんだって。ほら、研究って時間が必要でしょ? だから延命に特化した進化みたいです。まぁ、全員が研究大好きってわけでもないですけどね」
苦笑して、ソエルは肩をすくめる。
十年。エージュは青年となって、今では教官として監査官の後輩育成にも力を注いでいる。ソエルもそれなりに女性らしさを帯びてきてはいたが、相変わらず少女感が拭えない。老化と成長が遅いのも、ソエルの一族の特徴だ。そしてソエルも、研究者としての道を歩み始めた。
それでも二人は、まだジノを教官として慕い続けている。一生変わることはないだろう。
「……じゃあ、案外俺の方が早いのかな」
「案外も何も、教官はまだ人間の枠から完全に逸脱してないですよ? 呪いだか何だか分からないけど、教官は人並みにしか生きられないですよ」
「そうかな」
「そうです。老化しないなんて、心の成長停止のせいだって、有名な話でしょ?」
そっか、とジノはどこか安心したように笑う。案外、気にしてはいたのかもしれない。だが、ソエルは知っていた。
ジノの心が進み始めてから、確かにジノは、少しずつきちんと年を取っている。同年代から比べればとんでもなく若く見えるが、それでも追いつこうとしているように。
置いて行かれることは、当然だと知っていた。だが、いずれエージュとも別れる日が来る。
寂しいと、感じないわけもない。それでも、ソエルは前を向くしかないのだ。
◇◇◇
ジノが病床に臥せって、五年が過ぎようとしていた。すっかり老人になったジノだったが、それでも穏やかさは相変わらず。
エージュとソエルにとっての教官であることも、変わらない。
「あーソエルおねーちゃんだー!」
「あっ、久しぶり! 元気そうだね、ジュリアちゃん」
満面の笑顔で頷いた、栗色の髪の少女。低い位置で二つに結わいた髪がぴょこんと跳ねる。
「ソエル、来てたのか。ていうか、ジュリア。ここ病室。静かにな」
「はーい!」
返事は元気だった。嘆息するエージュは、すっかり父親だった。人並みの、本当に平穏な日々を享受しているようだ。
今では監査官も辞めて、ランティスで後輩育成に注力している。鬼教官と呼ばれていることも、ソエルは聞いていた。
相棒を務めていた昔が、少し懐かしい。今のエージュの隣に居るのは、自分ではなく家庭を守る、優しい妻だ。ソエルの特異な体質でも、穏やかに迎え入れてくれる。エージュには勿体無いくらいによくできた人だと思う。
「教官は……」
「今、検査。もうすぐ戻ってくるよ」
「そっか」
大きな手で、娘の頭を撫でながらエージュは微笑み返す。目元に、だいぶ皺が増えてきたようだった。
「老けたね~、エージュも」
「ソエルと一緒にされるとなぁ。でも安心しろ、ソエルも老けこんでるのは確実だ」
「ひどっ?! 私はまだまだ、女性らしい魅力の発展途上だから老けてるんじゃないもん」
「はいはい」
軽くあしらわれることに、大いに不服を募らせながらも、ソエルは軽い会話に有難ささえ感じていた。同じ人間に見えて、同じような寿命ではない。それはある意味、気味の悪い存在だろう。故郷でもそうだった。いつの間にか、遠ざけられて、だからこそ研究にでも打ち込まなければ、自分を保てない。そして功績を残せたら僥倖で。研究は逃げ道であり、最後の居場所でもあるのだ。
「エージュも、教官に呼ばれたの?」
「呼ばれた?」
「うん。……あれ、違った?」
「ああ。俺はちょうど休みだったから、教官の見舞いに」
「……そっか」
腑に落ちないが嘘ではないだろう。ソエルは、ジノに呼び出されてここに来た。
話があると。それに、エージュが同席する事は、ないようだ。
唐突に、不安が膨らみ始めた。
◇◇◇
「ジノじーちゃんまたねー」
「教官。せめて教官にしてくれ、ジュリア……」
「いいって、エージュ。なんか、そう呼ばれるのちょっと嬉しいし。……またおいで、ジュリア」
「うん。ばいばーい」
嘆息交じりに一礼して、エージュは賑やかな娘と帰って行った。白い病室の扉が閉まると、途端に音が切り取られたように静かになる。
ふう、と息を吐き出して、ジノは窓辺に佇むソエルに視線を向けた。
すっかり皺だらけのジノが、薄く笑みを浮かべる。
「予定外だったな」
「みたいですね。エージュ、知らなかった。私だけ呼んだの? 教官」
「うん。……ソエルには、知っといて欲しかったから。俺が終わっても、ソエルはまだ、生きてる。お願いしたいなって、思ってさ」
「お願い?」
首を傾げる。研究の事だろうか。だが、生憎とソエルとジノの研究内容は大きく異なる。託されても完遂は出来ないだろう。
眉を顰めながらそっとジノの顔を見つめると、ジノはひとつ息を吐き出した。
「……クオルが居なくなった。ライヴと、ブレンも併せて」
「え……っ」
「もう二年くらい前の話だ。……アルトも、ぼろぼろだ」
「アルトさん……」
ソエルも、アルトのことは知っていた。あまり会話をした記憶はないが、議員にしては珍しく、現場寄りの思考をする。恐らくは監査官であり兄であるクオルを守る事を優先していたからだろうが。
それでも、ソエルにとってアルトは、親しみやすい人物で、尊敬をしている存在でもあった。
「それに、最悪を重ねて、アルトは自分の魂に鍵をかけた。死なないように。アルトは、多分待つ気なんだ。クオルが帰ってくるの。どんなに希望がないとしても、そうでもしなくちゃ、生きていけないんだ」
「……やりかねないなとは思いますけど。……そうなんだ」
「だから、ソエル。俺の代わりに、アルトを見張っててほしいんだ。禁忌を、犯さないように」
「禁忌、って?」
「時間を逆行する事。多分また逆行する事になったら、どこまで戻すか分かったもんじゃない。……俺は、ソエルを死なせたくない」
「わた、し?」
何を言っているのか、ソエルには分からなかった。ジノは小さく息を吐いて、ソエルに微笑んだ。
「少し、長くなるけど、聞いてくれるか? ……俺と、王たちくらいしか覚えてないけど。……一度歪んでしまった、世界の話を」
ジノの目は、嘘を含んでいなかった。だからこそ、ソエルは背を正して向き直る。
語られた言葉は、衝撃以外の何物でも、なかったけれど。
◇◇◇
世界は一度、終わりかけた。選択を間違え、王が完全ではなかったから。
そして本当の世界の王は、エージュだった。だがエージュはその座を捨て、自分の存在さえ犠牲にして、時間を巻き戻した。
全ては、ソエルを救うために。一度落とした命を、回収するために。
もちろん、ソエルは覚えていない。ソエルがエージュと出会ったのは、GARS本部が正常稼働を始めてからで。
記憶がないエージュが、ランティスに保護されてからで。
だから、相棒でいた時間はほんの数ヶ月でしかなかった。だが、『戻る前の時間では』もっと長い間隣に居たのだという。
共に傷ついて、支え合いながら、一緒に成長してきて。
そしてソエルを救うために、かつてのエージュは存在を明け渡して。今のエージュは、王の慈悲で、存在しているのだ。
もちろん何一つ、覚えていない。いや、『そもそもその時間は存在していない』。
ジノ曰く、アルトを守るために身を挺し、ソエルは命を落としたという。何故ジノだけが覚えているのかは定かではない。
だが、ジノの記憶には、確かに存在していた時間。
今のエージュに時を遡る能力はない。だが、王なら持っているだろう。そして、規格外の可能性を秘めた四元の章の使い手である、アルトならばあるいは。
「……させないよ、教官」
時を刻む音だけが反響する自分の研究室で、ソエルはぽつりと零す。
「私も、エージュに救ってもらった命を、簡単には、捨てたくないもん」
迷う必要など、なかった。それはひいては、きっとアルトも救う選択になるのだろうから。
とはいえ、今でもアルトはギリギリの精神状態で仕事をしているらしい。それは純粋に知人として心配だった。
不意に、ノックの音が聞こえソエルは振り返る。
そっと押し開けられた扉の向こうから顔を覗かせたのは、ファゼットだった。
「あ。こんにちは、ファゼットさん。珍しいですね、退官したのに」
「あはは、そうなんだけどね。……挨拶、させておこうかなって」
「挨拶?」
小首を傾げながら向き直る。ファゼットが手を引いて入ってきたのは、まだ幼い少女。
「あと何年かしたら、入学させようかなって思ってるから。その時はよろしく頼むよ、ソエル」
「……ファゼットさん、なんで」
「それも、一緒に説明に来たんだよ、ソエル」
そっと少女の銀髪の頭を撫でながら、ファゼットは微笑んだ。青い瞳で不思議そうにファゼットを見つめる、銀髪の少女。
その腕に抱かれた少女が抱えるには幾分大きな青い竜を、ソエルは知っていた。
「……聞いてもらえる、かな? ソエル」
ファゼットの、どこか不安げな声音。断られることも、糾弾されることも、覚悟しているのかもしれない。
だが、ソエルはそのどちらも選択しない。自分も彼らも、どこまでも不器用な生き方しかできないことを、痛いほどに知っているから。
ふうっと大きく息を吐き出し、ソエルは大きく頷いた。
「仕方ないですね! お年よりは大切にしろってのは基本ですもんね!」
「……地味に傷つく言い方だけど、でも」
ありがとう、とファゼットは安堵の笑みを浮かべた。
軽く首を振って、そしてソエルはしゃがみこんで少女と視線の高さを合わせる。
「はじめまして。私はソエル。ソエル・トリスタン。貴方のお名前は?」
びくっと肩を震わせ、少女はファゼットを見やった。ファゼットが一つ頷くと、竜を抱く腕を少しだけ強くし、ぽつりと。
「……キエラ・ドーヴァ、です」
「そっか! うん、よろしくね、キエラ」
彼女の存在の意味をソエルが知るのは、もう少し、先の話。