3 true and right/false or wrong

 

 日が昇る。

 白い光が、隠されていた風景を暴くようにして世界を照らす。

 それは、本来ならば世界の美しい一片で。

 だが今朝ばかりはそうも行かず。

「……あの、大丈夫ですか? ……一睡もしてない、ですよね?」

「大丈夫です。そう言う事にしてください」

 ブレンの肩に乗ったライヴは、仕方なく頷いた。

 目の下のくまくらいは、どうでもいい。

 眠気なんて微塵もない。ほんの少し前までは、確かに倒れそうなほどに睡魔が襲い掛かってきたが。

 ……思いっきり距離を取られているのが、心をがりがりと削り取る。

 警戒しているのか、あるいは別の何かなのか確認するのさえ怖い。

 逆に、問い詰められたら返す言葉も持っていないのだが。

 ガルムの親子と戯れる姿も、どこかぎこちなく見えるのは、後ろめたい思いを抱えたせいか。

 ため息を吐くしか、ブレンには選択肢はなかった。

 もっとも、永遠にこのままというわけには、いかない。

「……クオル様」

 びくっと肩を震わせて、恐る恐ると言った様子で振り返るクオル。

 その姿は、罪悪感と共に、抱き締めたくなる衝動が湧きだす。

 じっと言葉を待つクオルに、ブレンはそれとなく視線を外しつつ告げた。

「行きましょう、か」

「あ……、……はい」

 寂しさを過ぎらせたクオルに、ブレンは慌てて首を振った。

「いえあの! クオル様がしたいように、してください。クオル様の人生は、クオル様が選べばいいんですから!」

「……ブレンは……」

 囁くような声が、風に乗る。

 伏し目がちだったクオルの瞳が、すっと上がり、ブレンの瞳を捉えた。

 空を映したような青に、意識が持っていかれそうになる。

 さわ、と風が小さな音を引き連れた。

「ブレンの人生は、どこに……あるんですか?」

「え……?」

「……僕が、滅茶苦茶に破壊してしまった、ブレンの人生は……?」

 心臓が掴まれたような衝撃と、痛みが走る。

 後ろめたさに潰されかけているクオルが、そこにはいた。

 昨日までなら、何も考えずに抱き締められた。

 だが、もうそれは叶わない。

 ブレンの想いを、クオルも理解したのだから。

 簡単な問題では、なくなってしまっていた。

 それは軽率さであり、思いの深さで。

 ブレンは何も、返せなかった。

――出来るなら、隣に置いて欲しいなんてことは、もう、言えない。

「まだ、早いですよね。あの、少し散歩してきますね!」

 不意にぱっと表情を明るくしたクオル。

 言葉が浮かばず、立ち尽くすブレンに笑って、クオルはガルムと共に、その場を離れた。

 ライヴは黙ってブレンの背から飛び立ち、クオルを追いかける。

 後悔に、体が動かない。

 また無理に、クオルを笑わせてしまった。

 いっそ、このまま姿を消してしまえば楽になれるのかもしれない。

――そんな事は、出来やしないのに。

「……くそっ」

 自分への悪態をつくしか、今のブレンには出来なかった。

 どうやって、割り切ればいいのか分からない。

 朝日は、新しい一日を祝福しているのだろうか。

 ブレンにとっては、終わりの一瞬が、すぐそこまで迫っているような気がして、ならなかった。

 

◇◇◇

 

 どれだけ時間が過ぎたのか。

 随分と日が高くなり、気温も上がり始めた空を、ブレンはぼんやりと眺めていた。

 自分が動かなくても、クオルは戻ってこないかもしれない。

 それも、そうだ。

 傍にいて欲しくないと思われても文句は言えない。

 想いを理解しろなんて、言えるわけがない。

 ぽっかりと隙間の空いた心で、何かを想う事もなく、ブレンは流れゆく白い雲を追っていた。

 夕方になっても、戻らなかったら。

 そうしたら、諦める。せめて、自分の中で区切りをつけないと動けそうになかった。

「……どうしよう、……これから」

 何も、目的がない。

 帰る場所もなくて、守るべき人もいなくて。

 クオルの存在に依存していた自分が、浮き彫りになっていた。

 情けなさで、自嘲してしまうほどだ。

「……行こう」

 一緒に居ないほうが良い。一緒に居たって、クオルの負担になるだけなら。

 全部ゼロに戻して、一からやり直して。そうして自分の人生を、もう一度見直せばいい。

 悲観するには、十九なんて若すぎるだろうから。

 崩れた塀に腰を下ろしていたブレンは、重い体で立ち上がる。

 クオルが去った方向とは、逆方向。

 来た道を戻る経路。先だけを目指した自分たちでは、絶対に選ばない道を向いて、踏み出す。

 振り返りたくなる衝動を堪えながら、ブレンは歩き出した。

「……何でいますか」

 戻らない道を、歩き出したはずだったのに。

 行こうとしていた道を塞ぐように、クオルが白い法衣を風に遊ばせながら立っていた。

 酷く、泣きそうな顔で。

「そんな顔してたら……」

 決意が鈍る。抱き締めて、慰めたくなる。

 軋む胸を堪えながら、拒絶の言葉を紡ぐために、ブレンは口を開く。

「それでもいいです」

 ブレンの言葉を遮って、クオルは口を開いた。

 肩に載せたライヴに触れ、深い海の色をした瞳を揺らして。

「……それでも、僕はブレンと一緒に、居たいです」

「分かってます? 私は、貴方を」

「僕にまた、一人になれって、言うんですか」

 言葉が、詰まった。

 自分の一番の間違いに、ブレンは猛烈に後悔する。

 時の流れから切り離されたはずのクオルに、自分が与えてしまった刹那の煌めき。

 鳥籠が怖いのは、翼を奪う事じゃなかった。

 空はいつだって見えるのに、飛ぶ姿は見えるのに。

 そこに辿り着くことだけは出来ない囲い。

 ブレンがしたのは、それを取り去ることで。

 孤独から、救い出すことだっただけで。だというのに、今は……強烈なまでの孤独を、思い出させてしまった。

 そんな後悔と、止まらない感情の勢いに背中を押されてしまう。

「……一人になんて、しません」

 諦めたはずの温もりを抱き締めて、言い聞かせる。

「勝手に好きでいていいなら、それでも傍に居ていいって言ってくれるなら。……私は、それ以上はもう、望みませんから」

「……ごめんなさい……」

 震えた細い声が、耳元を掠める。

 そんな言葉は、もう聞きたくなかった。

「私は、貴方が好きです。それでも傍に、居ていいですか。……隣に、居させてくれるだけで、いいですから」

 小さく頷いたクオルに、ブレンの胸中にはただ安堵が広がる。

 きっと、平行するだけの感情でも。それでも傍に居られるなら、ブレンにとっては十分だった。

 それだけで、生きる意味だけは、見いだせるのだから。

 いつかは、別れ行く道の上に立ったとしても。

 

◇◇◇

 

 上り坂、だった。振り返れば、クオルのかつての故郷がある。

 だが、振り返る事はしなかった。今更そこに戻るつもりはないという、意思表示もあったのかもしれない。

――でも。

「……悲しいですね」

 クオルの呟きに、立ち尽くしたブレンは我に返る。

 膝を折って、ゆっくりとその小さな体躯を抱き上げたクオルの背に、ブレンは言葉が浮かばない。

「何が、違うんでしょうね。……同じ命なのに」

 悲しく笑う横顔を見せたクオルの頬に、そっとライヴがすり寄った。

 その腕に収まっているのは、もはや物言わぬ肉塊。漆黒の短い毛持つ、まだ子どものガルム。

 ほんの数時間前まで、クオルの傍ではしゃいでいたガルムだった。

 黒い毛がべったりとした血で固まり、隙間から肉と骨が覗く。鈍器で何度も殴られたのだろう。明確な形が、維持できていなかった。

「クオル様……」

「争いなんて、何も生まないのに」

 ぽつりと零し、向けた視線の先。その先には、村へと続く道がある。

 そしてその道中は、倒れこと切れた村人が何人も虚空を見つめていた。

 この先にあるのは、地獄の光景でしかない。思考の凍るブレンの目の前で、クオルが一歩踏み出した。

「……ブレン?」

 不思議そうに、クオルが振り返る。咄嗟に腕を掴んで引き止めた真意を問いかけるような瞳にブレンは首を振る。

「行っては、駄目です」

「でも」

「村に戻って、生存者がいると思いますか? 危険な場所に、自ら出向く必要性なんて貴方にはないんですよ」

 ましてや、たまたま立ち寄っただけの場所に過ぎない。顔も、名前すら認識されていない人々のためにクオルの身を危険に晒す選択は、ブレンにはなかった。

 クオルの表情が曇る。悲しそうに目を伏せ、首を振った。

「僕、が……殺してしまったような、ものです」

「な……」

「この子の親を、治したのは、僕です」

「違……それは……」

 言いかけた刹那、不意に殺気を感じる。ハッと顔を前に向ける。跳躍し襲い掛かる黒いシルエットに、考えるより早く体が動く。

「ぅぐっ……!」

「ブレンっ!」

 とんでもない力で、腕を食いちぎろうとする親ガルム。獰猛な鼻息と、血の匂い。ブレンの右腕に食い込んだ牙は、何人もの村人を噛みちぎったに違いない。激痛と恐怖を、ブレンは歯を食いしばって耐える。

 この至近距離でなら、攻撃は加えられる。だが、利き腕を噛まれた上に、剣を抜く余裕など、ない。

 肌を筋を断絶する恐ろしい感覚。ガルムに最早理性は感じられなかった。

「クオル、様ッ……逃げてくださいっ……!」

「何言ってっ……!」

「腕と引き換えてでも倒します……必ず、追いつきます、から!」

 何より、クオルの手をこれ以上血に染めたくないのだ。ましてやたった一日でも、心通わせた存在なのだから。

 思い出のある相手を、クオルは何度も殺してしまってきた。それをさせないために、自分はいる。

 そう、誓ったのだから。

「ありがとう、ブレン。……でも」

 白が、視界の隅に過った。そして、赤い炎が目の前で炸裂する。

 生じた風圧は完全な不意打ちで、地面から足が浮き、そのまま地面へ強か背中を打ち付けた。

 衝撃に息が詰まり、一瞬意識が飛ぶ。

 小さく唸りつつ、意識を奮い立たせたブレンは、噛み付いていたガルムの力が弱っていることに、気づく。

 千切れそうな腕を反対の腕で支えながら、重い体を起こす。ガルムの首から下は、そこにはなかった。

 断片的な欠片と、異様な匂いだけ。頭部だけが、ガルムがここに居ることを示している。

 そして返り血を受けたクオルは、その手にブレンの剣を握りしめて俯いていた。

「クオル様っ……うっ」

 動こうとした瞬間、ガルムの頭部の重さだけで、腕が千切れかける。牙を抜こうにも、力が入らない。

 本格的に危険だった。焦る気持ちとは裏腹に、腕から流れ出る血は止まらない。

「動かないでください」

 するりと滑り込んだクオルの声に、ブレンは顔を上げる。

 細いクオルの指が、ブレンの腕に噛み付いたガルムの口を押し開けた。ようやく重さから解放された腕が、酷く重い。

 食い千切られなかったのが奇跡的なほどだ。どす黒い血が溢れて止まらない。

 そんなブレンの腕に、クオルは手を触れると静かに瞳を閉じた。

 淡い緑の光が傷を瞬く間にふさぎ、出血を止める。かといって、喪われた血液は戻らない。

 しばらくは、眩暈を感じるかもしれない。だが、命を取り留めただけマシだった。

「クオル様……」

 傍らに膝をついて俯くクオルは、ぎゅっと口を引き結んでいた。

 膝の上に戻した手は、強く握り締めているせいか白く、小さく震えている。その意味は、ブレンでは全ては分からない。

 だが、少なくとも自らの手でまた一つ命を奪ったことを、後悔しているのは確かだった。

「貴方が傷つくことなんて、ないんですよ。貴方は……私を、救ってくれたんですから」

「なんで……どうしてですか……何で、ブレンは……僕にそんなに優しいんですか」

「え?」

 首を傾げたブレンに、クオルがゆっくりと顔を上げる。海色の瞳に、零れ落ちそうなほどに涙を溜めて。

「僕が手を汚さないようにって、いつも」

「ああ……だって、約束したじゃないですか。私は、貴方の心だけは、守ります、って」

 今だって助けられたことは自覚している。これまでもそうだった。だが、ただ殺してしまうのと、誰かを守るという名目があるのでは、クオルの背負う重さが、少しは変わるだろう。同じ結末だとしても。

 だから、ブレンは自分の身を挺する事に躊躇いなど、ないのだから。

「一緒に居ない方がいいなんて、悲しいことは言わないでくださいね」

「え……?」

「私は、どれだけ一緒に居られるか分からないですけど……クオル様が少しでも苦しくない選択の助けになれたら、それでいいんですから」

 そうして出来るなら、笑顔をひとつでも多く見守れるならば、それで十分すぎるほどの、意味がある。

 

◇◇◇

 

 腕は未だ重い。しばらくは、安静にしておいた方がいいだろう。何かと不便ではあるが、これを機会に左手でも武器を扱えるように訓練をすべきでもあるかもしれない。

 日の暮れ始めた道を並んで歩いていた。

 振り返れる道が、また一つなくなった世界を、黙々と。

「……ブレン、ひとつ……いいですか?」

「え? はい。何ですか?」

 すっと、クオルが顔を向ける。

「我儘を……言う、つもりです。最悪の我儘です」

「はぁ……我儘、ですか」

 むしろそんな事を言い出せるのは、ブレンとしては良い傾向だと思っている。それは自分で何かを決めるという、クオルに決定的に欠けていることの一つなのだから。

「一緒に、居てくれませんか」

「は? え、今も、います、よ? それに、私はクオル様が駄目だって言わない限り、離れるつもりは」

「そうじゃなくて。僕は、いつこの命が終わるか分からない。永遠に、終われないかもしれない。それでも、一緒に居てくれませんか」

「それ、は」

 出来るならそうしたい。だが、現実はそうはいかない。

 ブレンは、ただの人間でしかないのだ。クオルの様に人の枠を飛び越えてしまった存在とは、違う。

 どうしたって、ブレンは最終的にはクオルを置いて行ってしまう。

 ぎゅっと手を強く握り締めて、ブレンは微笑を返す。

「私の命が続く限りは、一緒に居ますから。……ね」

「使い魔の契約を、してください」

 不意にクオルから紡がれた言葉に、ブレンは目を見張る。

 使い魔は、主の命に直結した存在だ。主の命がある限り生き続け、主が命を終えれば、その時ともに命を落とす。文字通り、運命を共にする存在が、使い魔で。そんな契約を、人間相手にするなど聞いたことがなかった。

「そんな事、出来るんですか」

「イシスさんが、教えてくれました」

 なるほど。納得すると同時に、イシスの思考に苦笑してしまう。

 あれだけ遠ざけようとした発言は、あるいはブレンに最後の選択を迫ったつもりだったのかもしれない。

 それさえ跳ね付けたブレンを見届け、イシスは最後にクオルへ選択させたのだろう。

「僕の命を握っているのは、イシスさんの魔力ですから。それを分け与える形になります」

「はい」

「ブレンの命は、ブレン個人の物じゃなくなってしまう。それこそ、ブレンが死にたくないのなら、僕を守らなきゃいけなくなる。守られたくないけれど、こればかりはどうしようもない事になってしまう」

 ああ、とブレンは理解する。

 クオルなりに、葛藤したのだ。守られない選択は孤独を覚悟する事で。だが守られる選択は、共にある希望を願う事で。

 その両天秤でクオルは揺らいでいるのだろう。

「終わりたくても終われないかもしれなくて、僕が死ぬことすら」

「クオル様は」

 急き立てるように言葉を紡いでいたクオルを遮って、ブレンは口を開く。

 はっと言葉を止めたクオルに、ブレンは微笑んだ。

「クオル様は、私と一緒に居たいって、願ってくれるんでしょう?」

「……それ、は」

「私は、クオル様と一緒なら、それだけでいいですよ。死にたくなったら、クオル様を殺します。それでクオル様も楽になれるでしょう? クオル様が私じゃ嫌だって思ったら、殺してくれたらいい。使い魔が死んでも、主は死なないはずですよね。十分じゃないですか」

「ブレン」

「私は……貴方のために存在できるなら、命を捧げたって、後悔しませんよ」

 嘘偽りない思いだった。クオルの為に居られるならば、こんなに幸せなことはない。

 クオルが俯く。

「よかったですね、……クオル様」

 そっとその頬に寄り添ったライヴが囁いた声に、ブレンも笑みをこぼす。小さく、何度も頷くクオルに、複雑な感情が折り重なる。

 衝動を飲み込んで、ブレンはクオルへ問いかけた。

「契約って、どうしたら良いんですか? 残念ですけど、私はあまり魔法とは相性が良くないので……」

「あとで、落ち着いたら。魔法陣描かなければいけないので」

「そうなんですか。……それだけですか?」

「はい。すぐ終わります」

 呆気ないものだ。もっと複雑な儀式なり祝詞なり、あるいは特殊な道具が必要なのだと勝手に思っていたが。

 クオルが、もしくはイシスが特殊なだけの可能性は捨てきれないとしても。命を賭けた契約にしては淡白だ。

「……あの、代わりに何か、お返し、出来ませんか」

「え? 何ですか、お返しって」

 唐突なクオルの申し出に、ブレンは首を捻る。

 むしろ有難いほどなのだが、クオルからしてみれば苦行への道連れのような感覚かもしれない。実にクオルらしい。

「何でも、良いですからっ。だってこれから僕、きっと、たくさん迷惑かけて、いっぱい辛い目に付き合わせてしまうかもしれないし」

「クオル様……」

「僕は、災厄の存在だかっ……ら……、一緒に孤独を、背負わせるの……ほんとは」

 ぽろぽろと、クオルの白い頬を涙が滑り、落ちていく。どこまでも、他人との距離を怖がるクオルをブレンはずっと見てきた。

 そしてだからこそ、守りたいと願い続けているのだから。

「良いんですよ。……それに、独りじゃない。私と貴方は、一緒に生きる存在になるんですから」

「ブレン……」

「だから契約の証と、お返し代わりにで、いいので……キスして、いいですか?」

「は、え」

 嫌なのは百も承知だ。だから食い下がるつもりもない。ただ、決めてもらえればそれで。ちょっとした冒険だった。

「……わかり、まし、た」

「良いんですか?!」

 思わぬ返答に声が裏返る。クオルは目を瞬かせ、涙をぬぐいながら小首を傾げた。

「冗談、でした?」

「いえあの、それはしていいって言うならしますけど。き、嫌いになられるくらいなら……しません、よ?」

「昨日は吃驚したから、あれです、けど。……嫌じゃなかった、から」

「え」

「嬉しかったのかと言えば、そうじゃないですけど」

「で、ですよね……」

 結局はクオルの感情の欠落から起因する問題だろう。クオルは愛情を知らない。

 愛されることがなかったクオルには、『好き』という感情は未知のもので。これから先、理解できるかもわからない。

 それでも、自分の思いがいつかその感情を理解させる糧になる可能性も、きっとある。だから。

「すみません。……お言葉に、甘えさせてください」

「あ、や、やっぱり他……」

 言いかけた言葉を遮るように唇を重ねる。震える体を宥める様に抱き締めた。

 ブレンの思いを、果たしてどれだけきちんと理解しているのかすら分からないクオルだった。だが、災厄を招くとしても、ブレンにとってクオルはただ一人の、最愛の人なのだから。

 ほとんど触れるだけのキスで、困ったような、警戒するような、そしてどことなく恥ずかしそうな顔をしたクオルに苦笑して、胸に強く抱きしめる。

「大丈夫ですから。もう、しませんから。……ありがとう、ございます、クオル様」

「僕、あの」

「忘れないでください。私は貴方が、好きです。だから独りにしたくない。これから先、何があっても。だから……一緒に、居させてください」

 そしていつか、この想いが受け入れられる日が来たら、嬉しい。限りなくゼロに近い可能性でも、隣を歩けるだけで十分だ。

 飛び方を忘れてしまった籠の鳥。翼を持ちながらも、空への飛び方を忘れてしまった鳥。

 だけどいつかきっと、羽ばたき方を思い出す日が来るだろう。空への憧れを、忘れなければ。

 これは、そのための契約なのだから。

――それまでは、見守り続ける幸福な時間を、少しだけ。

 

 

←前ページ     番外編一覧へ戻る→