第一話 無の五感
深い霧の中に居るようだと、ファゼットは思っていた。思考に霞が掛かって、視界も輪郭がはっきりとしない。それでも、一つだけ鮮明な感覚があった。
嗅覚。匂いだけは、分かる。
鉄の匂い。そして、焼ける匂い。それが何かは、すぐ分かる。これだけは知っていた。
踏み出した靴底が踏みつけたのは、水たまり。粘性のある朱色。
――ああ、また気付けばここにいる。
周囲を見回せば、爆発の影響か崩れ落ちた外壁の下敷きになった、少年。足だけが瓦礫の外にはみ出していた。
その少し先に、首から先が妙な角度になった女性。手と足が離れた老人。折り重なる、少女たちの死体。
集められては燃やされていく。光のない目で、淡々と役割を果たすのは、自分と同じ。
何度も何度も、繰り返し教えられた存在価値。
『帝国の最高兵器』……顔も性別も異なれど、皆同じだった。
欲望から生まれた、人の手で作り出したヒト。それが、自分たち。
不意に、甲高い音が鼓膜を揺らす。同時に、くらりと視界が歪んだ。集合の合図だった。
◇◇◇
ふと気づくと、部屋に戻っていることに気付いた。個別認識名が書かれた金属プレートのついたボールチェーンが、机の上に置かれている。
だから意識が覚醒したのだと、ようやくファゼットは理解した。
個別認識名として与えられただけの名前。そしてチェーンを首から提げた瞬間から、また意識は混濁するだろう。
手のひらを見やるも、そこには白い手があるだけだった。元々、血色は異常に悪い。この手が、外に出れば朱に染まっている。
詳細はいつも、思い出せない。そして思い出そうとも、思えなくなっていた。ファゼットの世界はこの窓のない部屋だけ。オレンジの光を放つ裸電球が、じじじと低い音を立てる。外部の音は分厚い壁で遮断されていた。
これが全てで。
そしてここで、終わるのだろう。あるいは、戦場か。
だが、それがどうしたというのか。それ以外に居る意味もない、自分なのだから。
次の集合まで、瞳を閉じていれば十分だった。あるいは、そのまま終わったとしても、悔いは一つも、ないのだから。
◇◇◇
ぴしゃりと、血が顔に飛んだ。思わず目を剥く。地面へ倒れ込んだのは、同類だった。
そしてその向こうに居たのは黒い修道服の老婆。目元、口元に刻まれた皺は、柔らかに微笑みを形作っている。
「……あらあら、困りました。そうですか。……そういう事なのですね」
逃げろ、とファゼットの本能が叫んでいた。
老婆は、同類に触れることなく、しかし絶命させたのは確かで。
相変わらず曖昧な感覚しか、ファゼットにはない。だが、老婆の姿と放つ空気だけは、明確に受け取れていた。
刹那、金属が軋むような音が、脳裏に響く。
「うぐっ」
思わぬタイミングで脳内に響く耳障りな金属音と痛みに、ファゼットは額を押さえる。割れそうなほどの激痛。
そして木霊す、誰とも判別のつかない声。
――秘匿の為に、死ね。
それは、自殺を促す声。兵器として奪われることを回避するためのセーフティなのかもしれなかった。意識が徐々に食われる。
護身用に持たされていた小型ナイフを震える左手で、引き抜いた。
「駄目ですよ、飲まれてはいけない」
老婆の声が近づく。肩で息をしながら激痛と戦うファゼットは、ゆっくりと顔を上げる。一歩一歩、歩み寄る老婆に、頭の中で響く声が大きくなる。
意識が黒く染まり、徐々に左手が、持ち上がる。自らの存在を消すために。
自国以外の、兵器とならないように。最後まで兵器として、情報を秘匿するプログラムが。
「まぁまぁ、可哀想に。酷いことするものですね」
「ひどい、こと……?」
「でも、もう大丈夫ですよ」
ぱんっ、と何かがはじける音が聞こえた。びくりと身を震わせる。
「さぁ、行きましょうか。……残念だけれど、私が気づくのが遅かったばかりに、貴方しかいなくなってしまったけれど」
乾燥した老婆の手が、ファゼットの手をそっと包んだ。目を見開いて老婆を凝視する。
はっきりと、老婆が目に映っていた。霞んでいた景色が、クリアになっていた。
「僕は」
「よく逃げてきましたね」
にこりと、老婆は微笑む。逃げる。そうだった、だろうか。
思い出せない。そして、老婆がファゼットの手を取ったまま、歩き出す。右腕の袖は空っぽなのか、ゆらゆらと揺れる。
廃墟のような街が、ここにはあるだけだった。
◇◇◇
老婆は語る。
廃棄処分の決定が下された自分たちは、逃げる選択をしたそうだ。リーダー格の少年は、老婆が来る前に情報秘匿の魔法≪プログラム≫によってすでに命を落としていたという。
そして、残ったのは自分だけ。記憶も曖昧な、ファゼットだけだった。
「でも、貴方だけでも救うことが出来て良かったわ」
にこりと笑む老婆にファゼットは何も返せなかった。困惑だけが、ファゼットの思考を埋め尽くしているせいでもある。
逃げ出した、までは理解できる。だが、逃げ出して自分たちは何を目指したのだろうか。
血と戦場しか知らない自分たちがいる場所など、どこにあるというのだろう。
「……さぁ、ついたわ」
老婆の声に、顔を上げる。扉には、ステンドグラスがはまっている。
「そう言えば、忘れていたわ。私は、エリキルト。ここの孤児院の責任者よ。みんなは、シスターと呼ぶわね」
「……孤児院?」
聞きなれない言葉にファゼットが眉を顰めると、エリキルトはひとつ頷いた。
「一つ一つ覚えていけばいいのよ。……貴方の、お名前は?」
「ファゼット……」
ぽつりと答えると、エリキルトは満足そうに大きく頷く。
「そう。よろしくね、ファゼット。慣れないことが多いとは思うけれど。ああ、そうだわ」
繋いでいた手を離し、その手をファゼットの首元へ伸ばす。パチン、と小さな音が首元で鳴り、僅かばかりの重量を感じる。
恐る恐る手を伸ばせば、冷たい金属が、首に巻きついていた。首輪のような、ものだろうか。
「ごめんなさいね。暴発しても、貴方が可哀想だと思うから。しばらくは我慢してね」
エリキルトが言っていることの半分も、ファゼットは理解できなかった。
唐突に変わってしまった世界に、思考が追いついていないのは確かで。だが、視線を巡らせれば、静かに揺れる木々と、ひっそりと佇む建物がはっきりと見える。閉ざされた世界以外で見る、初めてのクリアな世界。
思わず、頭上を見やる。白く穏やかに雲が流れていく、青い空がそこにはあった。
視線を落として、両掌を見やれば、まっさらな手。いつもなら、血で真っ赤に染まった自分の姿は、どこにもなかった。
唐突に不安が押し寄せる。
「……僕は、何をすれば」
落ち着かない感情から、ファゼットはエリキルトへ問いかけていた。
エリキルトはそうね、と一旦言葉を区切る。そして思いついたように一本指を立てた。
「じゃあ、まずは挨拶から始めましょう」
◇◇◇
興味津々で目を輝かせる、九人分の瞳。
年も顔立ちもそれぞれが異なる子どもたちが、ファゼットをじっと見つめていた。
「さあさ、みんな。今日からもう一人家族が増えたの。仲良くしてあげてね」
「おにーちゃんだ!」
「にーちゃん!」
わっと歓喜の声が上がる。ファゼットの方が確かに外見的には年上に見えるせいもあるだろう。
「にーちゃん名前は?」
一番前に居た、赤毛の少年が身を乗り出してファゼットに問いかける。何故そんなに嬉しそうなのかは、ファゼットには分からないが。
微かに首を傾げつつ、ファゼットはぽつりと。
「……ファゼット」
「おーじゃあファゼ兄だ!」
「ファゼットにーちゃんだー!」
楽しそうに盛り上がる空気に、ファゼットはただ首を傾げる。個別認識がそれほど嬉しいものなのか。
ちらりとエリキルトを見やると、くすくすと小さく笑っていた。
「大丈夫、貴方もきっと分かるわ。……貴方は知らないだけだもの。そこからどう感じていくかは、分からないけれど」
そういうものだろうか。視界も感覚も、明確になった。だが、ファゼットの感情だけは、相変わらず鈍いままだった。
◇◇◇
誰かが叫んでいた。痛みを訴える声。憎悪を叫ぶ声。頬を掠めた、焼ける空気。体中に張り付いた、真紅の液体。
当たり前の世界。これしかファゼットが知っている世界はない。
特段、何も感じたりはしない景色しか、ここにはなかった。
不意に、背後に気配を感じて振り返る。
黒い修道服の老婆が居た。穏やかに微笑む彼女に、ファゼットは告げる。
「僕はここにいる」
「そうですね」
「ここが、僕の居場所だから」
「本当に?」
問われて、ファゼットは何故か頷けなかった。頭ではそうだと、肯定している。
だが、体が動かない。そんなファゼットに、老婆が一歩、歩み寄った。
「そこは、貴方が望んだ場所?」
「僕はここしか知らない」
「そう。貴方は、そこしか知らない」
「だから」
「だけど」
老婆の遮る様な物言いに、ファゼットが言葉を止める。老婆はにこりと、しかしどこか寂しげに笑った。
――よく、逃げてきましたね。
はっと目を開く。薄暗い、天上が見えた。違和感ばかりが先行する景色。初めて見た光景。
体を起こそうとして、左右から掛かった重量に、動きを止める。恐る恐る左右を確認すると、小さな頭が二つ。
ぎゅっと服を掴まれて身動きを封じられていた。
(何だっけ……どうして、こんなことになってるんだっけ……?)
薄暗闇へ視線を投げながら、ぼんやりと思考する。目覚めて一人ではないのが初めてで余計に困惑する。
気付いたときに、朱色に染まっていない自分に、違和感しかない。左右を挟む温もりに、不安さえ覚える。
かたりと、小さな音。すっと細い光が天井を照らした。誰かが扉を開けたようだった。
足音を殺した気配が近づき、暗闇の中に明かりが閃いた。淡い光を滲ませるランプを片手に持ったエリキルトだった。
「……あら、起こしてしまったかしら」
小声で問いかけたエリキルトに、ファゼットは小さく首を振る。
「眠れない?」
「……僕は、逃げ出した」
「ええ、そうね」
「どうしてだろう」
「何故?」
「何も、苦痛じゃなかったのに。僕は、僕であることさえ、どうでもよかったのに」
ただ曖昧なままに、時間だけが過ぎていた。時間が過ぎていたことさえ、気に留めなかった。
消えるなら、それでよかったのではないだろうか。朱色に染まった世界で聞く声は、いつも苦しげで。だから世界は苦痛しかなかった。
廃棄処分。死ぬことは、それほど怖くはない。あるいは、この苦痛だけの世界から解放されるなら、それは悪い事ではない。なら、逃げる必要など。
「そうね。……じゃあ、私たちが、貴方に居る意味を、あげましょう」
「え……?」
「朝起きたら、まずキッチンへいらっしゃい」
意味が分からなかった。一通り建物内の案内を受けてはいたが、目的がファゼットには分からない。
だが困惑するファゼットにエリキルトはぼんやりとした光の中で微笑んでいた。
「さ、今は何も考えず、おやすみなさい。……貴方の時間は、貴方のためにこれから回り始めるのだから」
◇◇◇
「これにーちゃん作ったの?」
「え? あー……、一応」
「じゃあこれから毎日食えるじゃん、やったー!」
朝から喜びに包まれているダイニングで、ファゼットは首を傾げる。朝一で約束通りキッチンに顔を出すと、手渡されたのは包丁だった。
エリキルトに言われるがままに、そのまま朝食の支度に付き合わされ、今に至る。
朝食という概念すらファゼットにとっては未知のものだが、子どもたちは一様に表情を輝かせているので、「嬉しい事」なのだろう。
「でも僕の焦げてるー」
「わたしの具がちっちゃいよ」
「いけませんよ、みんなが寝て、顔を洗って、支度している間に用意してくれたのに」
エリキルトの言葉に、ぱっと背筋を正し、子どもたちがファゼットを見やる。ある種統一性のある動きにファゼットは背筋がひやりとする。
「にーちゃんありがとー!」
「明日からもたのんだファゼ兄ー!」
「えっと……?」
感謝、だっただろうか。その言葉は。今まで一度だって掛けられたことがない。
それとなくエリキルトを見やれば、昨日から自分に向けられ続けている優しい笑み。
「貴方にしかできないことがここにはきっと、たくさんありますよ」
「……僕にしか、出来ない事……」
そんなものが、あるだろうか。命を奪う事しかしてこなかった。いつも手にしていたのは、死んだ塊ばかりで。冷たい、生きていないものばかりで。
でも。
「てか兄ちゃんいつまで突っ立ってんの? ご飯は座って食べねーとシスターに怒られるんだぞ!」
「ほら、こっちこっち」
「え、あ」
左右の手を掴んで、違うスピードで引かれる。囲まれるような場所に着席を促される。密度が高くて、それだけで空気が熱い気がする。
引かれた手は解放されていたが、それでもまだ温もりが残っている気がした。
冷たくない手。生きている証。ここは、生きている場所だった。知らなかった場所。あるいは、ずっと、憧れていた場所。
「兄ちゃん?」
心配そうな声に、ゆっくりと顔を向ける。左隣に座って、ここまで手を引いたそばかすの少年が、不思議そうな顔をしていた。
「何で泣いてんの? 悲しーの?」
「泣いてる……?」
頬を伝う冷たい感覚に、指を触れた。水。……涙?
「何で……?」
自分でも分からない反応に、ファゼット自身が戸惑っていると、左右そして背後からぎゅっと抱きしめられる。
「え?」
「だいじょーぶだよにーちゃん! 俺らもいるもん!」
「そうだよ寂しくないよ!」
「僕もお兄ちゃんの家族だよっ」
そういえば、ここは孤児院だったか。朝食づくりの間にエリキルトから説明を受けたことを思い出す。
親のいない子どもたちの家。それがこの場所。この子たちも、孤独の集まりなのだと。それでも一人ではない場所がここで。
不意に、一人きりの、薄暗いあの個室を思い出す。
冷える季節でもないのに、寒かったあの部屋。それは、あるいはファゼットの中で蓄積されていた寂しさの温度かもしれない。
「……ありがとう」
ぎこちなく紡いだ、初めての言葉。使い方は合っていただろうか。
得意げに、あるいは安心したように笑顔を見せた子どもたちの様子に、見当外れではなかっただろうと、安堵しつつ。
「へへっ、じゃ、一緒にご飯食べよ! いただきますってちゃんと言わなきゃ駄目だぞ兄ちゃん」
「いただきます?」
また新しい言葉に眉根を寄せると、得意げに少年が胸を張る。
「そうそう。野菜を育ててくれてありがとう、これを買うお金を稼いでくれてありがとう、あと俺たちの命の糧になってくれてありがとうって食べ物に感謝する言葉だから!」
「シスターの教えだよー。みんなの命をいただきます、だから今日も頑張りますって!」
「……命を……」
今まで奪ってきた命で、自分は命を繋いでいたんだろうか。存在理由に、挿げ替えてでも。
「……言葉も、命も、重いな」
ぽつりと零し、指示されながら用意した自分の食事を見やる。食事なんて、見た事も無かった。気付けば部屋に戻されて、どうやって栄養補給をしていたのかもわからない。あるいは、不必要だったのか、それすらも。
「はい、じゃー兄ちゃんも一緒に! いただきます!」
「えと、……いただき、ます……?」
恐る恐る続いたファゼットに、にしし、と歯を見せて少年は笑う。
味の感想を問われても、言葉には出来ない。ただ、初めて口にした食事は、温かかった。