◇◇◇

 

――目を開くと、そこは見知った天井だった。

 居心地の悪い自室の、天井。地下にいたはずなのに。

 ぼんやりとする頭で、クオルは視界を巡らせる。

 出ていった時と何ら変わらない、完璧なまでに整頓された、室内。

 差し込む窓の光の眩しさに、クオルはぎゅっと一度目を瞑った。

 明らかに、体が日光について行けていない。

 小さく深呼吸をして、クオルはゆっくりと目を開いてから、体を起こした。

「……っ……」

 わき腹に走る痺れるような痛み。

 思わず手を触れると、着ていた服の下に、分厚く巻かれた包帯を感じた。

 それは、司教に刺された、傷。

――夢じゃ、ないんですね……。

 夢だったなら、幾分かマシだったろう。

 少なくとも、悪い夢だった、で済ますことは出来ないことがはっきりした。

 それでもまだ希望があるクオルは、気持ちを切り替え、そっとその名を呼んだ。

「イシス、さん……?」

 共に生きると、言ってくれた声。

 それだけが夢であったなんてことは、嫌だった。

 だが、いくら待っても反応がない。

「そんな……」

 絶望だけが現実で、唯一の希望が夢だなんて認めたくなかった。

 夢と現実が、逆さまであったなら、どれほど幸せだろう。

 これでは、何の意味も、ない。

 俯いて、クオルは自分の掌をぼんやりと見つめた。

 残ったのは体に刻みつけられた恐怖と痛みだけだとしたら。

――もう、嫌だ……!

 じわりと、視界が滲んだ。

「お目覚めですか、クオル様」

 突然の声に、クオルはびくりと身を震わせる。

 ぎこちなく瞳を向けると、神官特有の服装をした男が薄ら寒い笑みを浮かべて、扉を閉めている所だった。

 息を飲むクオルに向き直ると、男は許可もなく歩み寄って問いかける。

「お加減はいかがですか? イシス様の力を宿した不具合等は?」

 イシス。

 その名に、クオルは目を丸くする。

「イシスさん……? いるん、ですか? ちゃんと、僕に?」

 やや食い気味に、クオルが問いかける。

 夢じゃないという歓喜が、クオルの胸にじわりとこみ上げた。

 神官は不気味なまでに穏やかな笑みでクオルを見つめ、頷いて見せる。

「もちろんですとも。もっとも今は、お眠りいただいておりますが」

「え……?」

「お忘れのようですので、もう一度お伝えしておきましょう」

 忘れる? 何を?

 意味が分からず呆気にとられたクオルに、神官は告げた。

「貴方がその御力を宿したのは、国のためなのです。そのために力を奮っていただきたい。私たちが願っているのは、イシス様の再来ではありません」

 そう……司教も言っていた気がする。

 生贄ではなく、依代であると。

 神官の言葉の意味がようやくクオルの思考に届く。

 体の芯が重く、冷えていく。

「貴方がすべきは、イシス様の力を行使できる、生きた人形であることです」

 人形。

 それは、今までと何一つ変わらない状態だった。

 言われた事だけを強要され続けるのだから。

 実際のところ、イシスを抹消することなど、一神官ができるわけもなかった。

 だが、何らかの方法でもって、封印することくらいはできるはずだ。それを解除すればいい。

 頭では分かっていてもクオルはそれを行動に移せなかった。

――怖かった。

 人形としての自分を受け入れなければ、最後の自由である『死』さえも奪われてしまう気がしたのだ。

 そんな確証のない恐怖に、クオルは最後の一歩を踏み出す勇気を失っていた。

 

◇◇◇

 

 クオルの回復を待たずして、国は支配からの独立を掲げて反旗を翻した。

 戦力差は歴然。

 帝国も戦力をそれほど割いて来ることはなかった。

 それは、ある意味では誤算で……ある意味では、勝機ともいえる。

 軍に有無を言わせず、従軍牧師である神官はクオルを引き連れて前線基地でその時を待っていた。

 出血多量で死にかけていたクオルは、ようやく起き上がれるまでに回復した程度だ。未だひどい貧血状態から未だ回復しきっていない。

 一向に収まらない寒気から、腕を抱くようにしてじっとしていた。めまいも、吐き気もまだひどい。

 一般的な患者であれば、まだ安静が必要な状態なのは誰の目にも明らかだった。

 しかし、神官たちにはそんなクオルの状況に構うことは、有り得ない選択で。

「クオル様、立てますか?」

 声をかけた神官にクオルはのろのろと目を向ける。

 言葉こそ丁寧だが、そこに拒否権など最初から用意されていない。体調を気遣っているのではなく、補助なしで立てるかを聞いているのだ。

 言ってしまえば、人形として機能できるかの確認に過ぎない。

 クオルは口元を引き結んで、小さく頷いて立ち上がる。

 途端に襲った立ちくらみで足元がふらつくと、すぐに神官が支えに手を伸ばした。

 しかしクオルはそれを払いのけるように自力で立ってみせ、視線を逸らす。

 神官は特段気にした様子もなく、口元に笑みを浮かべた。

「では参りましょう。さぁ、見せてください。貴方の力を」

 兵器としての、存在を示せ……――。

 神官は暗にそう告げている。そんな現実が、クオルの肌を突き刺す。

 礼拝用テントから外へ出ると、風に乗って火薬と血の匂いが流れてきた。

 そして緊張感が張り詰める、空気感。戦場特有の、匂いと気配が漂っている。

 こんなことを、ラーズとディルが知ったらどうするだろう。

 ふと、クオルはそんな事を思った。

 止めに来るのか、それとも……――

(考えるだけ、無駄ですよね……)

 もう、平和のままではいられないのだから。

 もう、何も知らないままではいられない。

 今の自分の存在は、兵器でしかないのだから。

 

◇◇◇

 

 戦場は膠着状態のまま、お互い睨み合っている状況だった。

 こちらの最前線から、相手側へ向けて神官はクオルを連れて行く。

 ちょうど両軍の中間点。その場所で、神官は足を止めた。

 普通ならば、兵が止めるものだ。

 だが、神官は『王の命令だ』と一言投げて隊長を黙らせていた。

 クオルは黙ってその成り行きを見ていただけで、表情一つ動かしていない。

「……ここで、いいでしょう」

 相手の武装兵器が届く射程範囲内。今も狙われている状態だった。

 いくつものスコープがこちらを向いて警戒をしていた。

 それもそうだろう。

 みるからに丸腰の二人が戦場のど真ん中へ立っても、気味が悪いだけですぐに攻撃を仕掛ける対象にはなりえない。

 そんな彼らの慈悲を、今から叩き潰す。

 それが、クオルに与えられた役目だ。望む望まざるにかかわらず。

 クオルは静かに目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。あれ以来、飛躍的に伸びた魔力と、魔力に対する感受性。

 だがそれでも、クオルは大出力の魔法など、呪文さえ知らなかった。

 だというのに、呪文が流れ込んでくる。その呪文がもたらす破壊力が、易々とイメージできる。

 これも、イシスの力の一端なのかもしれない。だとしたら、イシスはいるはずなのだ。

 姿も声も気配さえ今は感じ取れないイシスが。

 堕ちたとしても、イシスが支えになると思った。

 でも、現実はそんなに甘くない。今目の前にある光景は、戦場でしかなかった。

「……ごめんなさい」

 ぽつりとクオルが呟いたと同時に、敵陣地が爆炎に呑まれる。

 炎が地表を舐めるように一瞬で広がり、強烈な火力が敵陣地を駆け抜けた。

 火薬庫や燃料タンクに引火して誘爆を繰り返す、敵陣地。

 消火と退避に追われる敵兵たち。

 遠いはずのその景色が、目の前にあるようだった。

 反撃する暇もなく、敵陣地は灰塵へと帰す。

 この距離でも頬に感じる熱風が、体温の低いクオルには心地良い温度だった。

 人の命を食らってでも輝く炎。

 自己中心的な圧倒的正義を叫ぶ存在感。

――狂ってる。

 神官も、自分も。人の心なんてもう、ないに違いない。

 隣にいた神官が歓喜の声を上げていたが、クオルにはひどく遠く感じた。

 今のでいったい何人死んだのだろう。

 一体何人、殺したんだろう。

「……?」

 そんなことを考えていると、不意に誰かの声が聞こえた気がした。

 視線を巡らせるが、神官以外は傍に誰もいない。

 だが、

「…………ぁ……」

 声が、聞こえた。

 少しずつ、大きく。

「い……め……」

 誰とも知らない声が、頭になだれ込んできた。

 思考する余裕さえ与えない、圧倒的な速さと量で『それ』はクオルの思考を潰す。

『痛いなんでちくしょう死にたくない殺してやる痛い痛い苦しい熱い息が血が死ぬ死にたくない殺される苦しい――!』

「ぁああああああああっ!」

「クオル様っ!」

 感情も思考も塗り潰され、クオルは絶叫した。

 殺しただけでは足りなかった。

 破滅的な力の代償は、クオルの精神への負担も圧倒的だったのだ。

 

◇◇◇

 

 クオルが次に目を覚ましたのは、救護テントの中だった。

 視線を巡らせると、点滴のチューブが視界の隅に入る。

 それを伝っていくと、自分の腕へとたどり着いた。

 頭痛がひどい。少しでも動けば吐きそうだった。

 先ほど襲った『声』は収まっていたが、クオルの気分は酷く重い。

――死に際の、悲鳴、だった。

 焼き尽くされた敵国の悲鳴。

 それを思い出すと、涙がにじんできた。

 命を易々と奪った自分に対する嫌悪。

 そして何より死をもたらされたのが、自分でなくて良かったという思い。

 結局、自分は操り人形でしかないのだ。だからあっさりと命を奪ってしまう。

 死に際の自由を願う自分が、一番望まない、意味のない死を与えた。

 その現実が、申し訳なかった。

 抵抗もできず、その意味さえ伝えられないままに死を迎えることがクオルは一番恐ろしいのだから。

――だが、同時に悟った。

 力なんて、何の盾にもならないという事を。

 使い方さえままならない自分では守る力にさえ、できない。

 ただ言われるがままに、無慈悲で凶悪な破壊しかもたらすことしか、出来ないのだ。

 破壊兵器としての存在意義しか持たない、自分には。

 誰でもいい。

 助けてほしい。

 この地獄の孤独から。

 このまま殺戮兵器になるなんて、嫌なのに。

 ラーズとディル、三人で過ごした時間がひどく遠くて、苦しい。

 それでも、あの頃のような無邪気な時間は、二度と訪れない。

 平穏な場所には、もう戻れない事をクオルは痛いほどに理解する。

 そうして、クオルにとっての平穏な時間は、十四歳のこの時に終わりを迎えた。

 

◇◇◇

 

 それから果たして、どれだけ時間が経ったのか。

 確実に、戦線は押しているはずだった。

 だが、戦況がどうなったかなんて、クオルにはもともと関係がない。

 神官に呼ばれたら、あるいは前線に連れ出されたら、前線へ一人立たされる。

 そして、その力でもって敵を容赦なく屠り、壊滅させる。

 そこにクオルの意思は一つも存在しなかった。

 だが、それだけで、少なくともクオルの立場だけは守られている。

 生きていることを、未だ生きた人形であることを、許されていた。

 圧倒的な魔力は敵国の一級魔導師団さえ一撃で破壊する。

 彼らが先手を打って放った魔法を、蝋燭の火を吹き消すように消失させるクオルは、味方にとっては頼もしい存在であり、敵にとっては悪魔のような存在として認識されていた。

 とにかく、クオルの魔力は桁が違いすぎたのだ。

 だからこそ、高威力の魔法を使用することしかできず、その度に倒れる日々で。

 だが、そんな緻密さを求める者は誰一人としていない。

 そんな暇さえ、与えはしないのだ。

 だから、クオルが加減を覚えるのはもっと後のことだった。

 もともと、クオルは魔法がお世辞にも得意とは言えなかった。

 それが唐突に大量の魔力と、呪文を与えられたのだ。やり方もその配分もわからない。

 それゆえクオルは常に貧血傾向にあった。ろくに休めず、魔法を使うたびに反動で精神汚染を受けて、倒れるということを繰り返していたのだから。

 それでも彼らは酷使し続けるだろう。

『クオル』と言う自我を持った殺戮兵器が壊れるまでは、恐らく永遠に。

「クオル様、お加減はいかがです?」

 問いかけた神官に目も向けず、クオルはぽつりと返す。

「……変わりは、ないです」

「そうですか」

 それはよかった、とでも言いたげな神官の声音にクオルはぎゅっと拳を握りしめた。

 兵器としてまだ稼働できるかの確認をしただけで。

 そこに本当のクオル個人に対する気遣いは存在しない。

 その現実は、未だに心を刺す。割り切っているはずなのに、痛みが消えることはなかった。

 ただ苦しいだけの、空気。

「では、作戦会議に参加していただけますか?」

 神官がそう促す。

 クオルに反論する余地など与えない。慣れたものだ。

 反抗する気力などとうに失っているクオルは、静かに立ち上がる。

 

 

◇◇◇

 

 神官に連れられクオルは司令部へ向かっていた。

 行き過ぎる兵は、場違いな存在のクオルを横目に様々な視線を向けている。

 懐疑、尊敬、侮蔑、嫌悪……――

 その中に、誰一人として、クオルを案じる者はいない。殺戮兵器としか、その目には映っていないだろう。

「……」

 深く俯いて、クオルは周囲の全てを遮断する。

 自分の想いを分かってくれる人は、どこにもいない。そんな現実から、ひたすら目をそらす。

 司令部は展開野営地の最後方に位置していた。

 医務室からも数分の距離。しかしたった数分しかかからない道のりが、クオルにとっては苦痛でしかなかった。

 神官に続いて、司令部のテントへ足を踏み入れる。

 そして目に飛び込むのは、クオルに対し司令官以下全員が一礼する光景。

 跡継ぎであるから当然と言えばそうなのだろう。

 しかし、彼らの敬意の対象は『国の主』ではなくて、『強大な戦力』の一つ程度なものだ。

 そして、兵器に自分のターゲットを認識させるだけの、冷たい会議が開始された。

 

◇◇◇

 

 雑音にしか聞こえない、飛び交う声。

 クオルはただじっと、それを眺めていた。

 相変わらず訳の分からない作戦内容をああじゃないこうじゃないと練っている光景。

 それを見つめながらも、クオルの心はここになかった。

 もう、心身ともに疲れ果てていた。

 戦局は見えない。どれだけ殺しても、敵は増えるばかり。

 業だけが溢れかえっていく。痛みだけが募っていく。

 この戦争に、終わりがあるんだろうか。

「この戦線を突破すれば、帝都は目前だ。そうなれば、我らはついに独立を成し遂げる!」

 力強い、司令官の声に、クオルはふと思う。

 この独立に、果たしてどれだけの意味があるんだろうか、と。

 属国であった頃の国の本当の姿をクオルは知らない。

 城で軟禁されていただけの自分は、その間の苦しみも悲しみも、何一つ知らない。

 せめて、それを教えて欲しかった。その答えを、与えて欲しかった。でなければ、その先にあるものが正しいかどうかすらわからない。今の自分の行為が、間違いだとも、言いきれない。

 問いかけても、誰も答えてくれなかった。

 真実を誰も教えてはくれなかった。

 教えられたのは、力を宿して、殺せという事だけ。

 人形は、それで十分だという事なのかもしれない。

 でも。

「もう……やめて、ください」

 ぽつりと、クオルは言う。

 それが、テント内にやけに響いた。

 視線が、クオルに向けられる。

 向けられた非難の視線。その視線に、クオルは堰を切ったように、口を開いた。

「こんなこと繰り返したって、何の意味があるんですか? 殺したら、終わるんですか? 帝国を屈服させたら、本当に国は平和になるんですか?」

「クオル様、貴方の優しさは戦場ではなく、そのあとで活躍すべきものです」

 神官がやんわりと咎めるが、クオルは首を振る。

 上辺の気遣いを振り払うように。

 だがクオルも限界だった。

 ずっと張り詰めていた感情が溢れて、止まらなくなる。

「もう、こんなの嫌です。こんな……いやだ……!」

 ぼろぼろと涙が零れ落ちる。

 誰も殺したくなんてなかった。

 だが、殺したのは自分だ。

 それでも、誰かがその意味をちゃんと教えてくれるのだと思っていた。

 少なくとも間違ったことはしていないと誰かに言って欲しかった。

 でなければ、クオルは本当に壊れてしまうのだから。

 困惑する司令官たちを見た神官が即座にクオルを連れて、司令部から出る。

 嗚咽するクオルを一瞥し、そっと神官が耳元で囁く。

「ここで、引き返せると思っているんですか?」

 ぞっとするような声が、クオルの鼓膜を揺らした。

 思わず目を見開いて神官を見やったクオルに、笑みを浮かべた神官が言う。

 その笑みを、クオルは心底怖いと思った。

「貴方をここまで連れ出すのに、司教がどれだけの策を巡らせたか」

 どこまでも、人の心を縛り付けるのが得意な存在が神官という職なのだと、クオルはようやく理解する。

 どうすれば跪くかを、彼らは誰よりも、知っていたのだ。

「貴方の友人二人。その命を握っているのは、貴方の行動次第です。それをお忘れなきよう」

 どこまでも、彼らは周到で。

 ラーズとディルを守るためなら、クオルはその命を軽々差し出すだろうと分かっていての発言。

 そう分かっていても、クオルが反抗することは出来なかった。

 それでもクオルにとっては、守りたい二人だったから。

 そして、死ぬまでクオルはそうして生きていく他ない事を、受け入れたのだ。

 

◇◇◇

 

 相変わらず、酷いめまいと吐き気に苛まれながらの浅い眠り。

 そんな中を彷徨っていたクオルは、不意に外が騒がしくなったことに気づく。

「な……に?」

 動きの鈍い体を必死に起こして首を巡らせる。

 誰かが、攻め込んできたようだった。

 だが、少し様子がおかしい。通常、少人数で攻めてきたのなら、司令部を狙う。

 頭を潰す、というのが一番簡単な勝利への道だからだ。

 だが、この騒ぎは、僅かに別の方向へ向かっているように感じた。

 嫌な予感がするクオルは、外の様子を窺うべく、足を下ろす。

 徐々に近づく、悲鳴と怒号。目的の場所が、近いのが分かる。

 そしてその場所は……ここ、のようだった。

「クオル様!」

 神官が見たこともないほど慌てた顔で医務室のテントへ飛び込んできた。

 クオルはその様子に思わず身構える。

 しかしそんなクオルの様子に構う余裕のない神官は、唾を飛ばしながら歩み寄る。

「逃げてください! 貴方がいれば、まだ我が国は負けたわけじゃない!」

「え……あ……」

「ここまで来て、なんて誤さ……」

 ぱんっ、と神官の胸が弾け、正面にいたクオルに血飛沫が飛び散る。

「……え?」

 ぐらりと、神官が傾いで、クオルの足元へ倒れこんだ。

 ぎこちなく、下を見下ろすと、白目をむいて倒れ込む神官の姿。

 背中を抉るように空いた穴が、見る間に血の池を作っている。

 胸と床の間に空いたわずかな隙間から、ゆっくりと広がる赤黒い血。

「っ!!」

 足に血が浸りそうになったクオルは、反射的に後ずさった。

 思考は滅茶苦茶で。何が起こったのかまるで理解できない。

「……なんでその程度で避ける」

 呆れながら、苦笑した様子の声。

 その声を知っていた。

 そろそろと視線を上げると、返り血に塗れながらも、変わらない笑みを浮かべた人物がいた。

――ラーズだった。

 そこに立つラーズの真意がわからず、クオルは呆ける。

 ラーズの脇には、三名ほどの兵士がいた。

 しかし何故か、その甲冑は……帝国と同じものだった。

 敵として屠ってきた、その甲冑と、同じ。その意味は、ひとつしかない。

 息を飲んで、クオルは問いかけた。

「……ラーズ……どう、して?」

 ラーズは変わらない笑みを浮かべたまま、言い切る。

「お前を、殺しに来た」

「……は……?」

 殺しに来た?

 意味を悟れないクオルを無視して、ラーズは一歩踏み出す。

 反射的に、クオルは一歩下がった。

 思考が混乱する。心拍数までも上がる。

 事態を飲み込めなかった。理性が飲み込むことを拒んでいた。

 ラーズが、自分を殺しに来たという言葉を信じたくないクオルがいた。

「俺は、もともと本国からお前を監視するように言われて送り込まれた」

 唐突に、ラーズはそう告げる。

 目を見張ったクオルに、ラーズは淡々と真実を告げた。

「ディルも別部隊から同じ目的で派遣された。お前が力を得て、暴走するのを抑えるために」

 嫌だ。聞きたくない。

 ふるふると小さく頭を振って、クオルは現実を拒否した。

 だが構わずラーズは続ける。

「思ったよりあいつらの行動が早くて、結局お前をこんな状態まで放置したのは失敗だった。……それは、まぁいい。クオル」

「っ!」

 唐突に名前を呼ばれたクオルはびくっと肩を震わせ、ラーズを凝視する。

「帝国の王の命令だ。……一緒に来い。そうすれば、これ以上お前は誰かを傷つけずに済む」

 それは、唯一の救いの手に思えた。

 だが、クオルの中の冷静な部分が、警鐘を鳴らしている。

 ラーズは帝国の者だと言った。

 その帝国の民を大量に殺した自分を、果たして王があっさりと受け入れてくれるのかと。

 そんな疑問が、クオルの中に沸き起こる。

 そもそも、ラーズは自分を殺しに来たと、言ったのに。

「ラーズは、殺しに来たって、言いましたよね?」

「それは、本国の意思だ。本国がお前の罪を裁く。それ以上はわからん。だが俺は……」

 ちゃ、とラーズは剣を構えた。

「俺は、お前をここまで落としてしまった以上、俺が殺してやるのが一番だとも思ってる」

 それは紛れもない殺意の元にあった言葉だった。

 それも、そうだろう。

 ラーズは帝国の密偵で。帝国人を大量に殺した相手を前にして殺意を抱かないわけがない。

 納得した瞬間、言い様のない感情が溢れた。

「あ……あは……あはははははっ」

 壊れたように笑い出す。

 ラーズは目を細め、脇に控えていた兵はひきつった表情を浮かべていた。

「何にも、悲しむことなんて、ないじゃないですか。……最初から全部、僕の周りは嘘で固められた張りぼてみたいな世界だった……ただ、それだけじゃないですか」

 ぎしぎしと今にも壊れそうなこの痛みも、叫びたいほどの衝動も。

 もう、誰も、何も、要らない。誰一人、理解されないこの世界にしがみ付く理由は、もうなにもない。

「クオル……」

 苦しそうに、ラーズが名を呼ぶ。

 クオルは薄く笑みを浮かべ、その手に武器を取った。

 一度も使うことなく、それでも一応与えられていた護身用の剣を。

 兵器としての肉体を守るための、唯一の武器を。

「殺してくれるんでしょう?」

 クオルは神官の血に濡れた凄惨な姿で、無垢な笑み浮かべ、問いかける。

 ラーズはそんなクオルをひたりと見据え、

「……ああ。殺してやる。安心しろ」

 そう答えるなり、ラーズは地面を蹴って、クオルへ問答無用で切りかかった。

 クオルは冷静に刃筋を見据えて、かわすと同時に、手加減なしの衝撃波をラーズへ叩き込む。

 直撃を食らったラーズは軽々吹き飛ばされるが、かろうじて受け身をとって、すぐに立ち上がった。

 さすがといったところだ。

 だが、ダメージは大きいらしく、ラーズは血の混じった唾を吐き捨てる。

「それが、本気ですか?」

「……っとに、お前は」

 そう苦笑したラーズの笑みは、心底楽しげで。

 それが心を刺す。変わらないのに。どうして。

(裏切ったのは、僕なんですよね、きっと)

 何も味方のいない自分が出来る最後の事は……その兵器としての役目を全うすることだ。

 だから、クオルは心を無にして、気持ちを振り絞る。

「よそ事を考えてる余裕を与えるつもりはないんだがなっ!」

 よそ事なんて、考えていない。

 本気で、どうやって倒すかしか考えていない。

 殺すんじゃなくて。

 ただ。なの、に。

「…………え?」

「これで、いい」

――どうして。

 訳が、分からなかった。

 ラーズは自ら刺されに来るような攻撃進路をとったのだ。

 その結果が、これだ。

 クオルの握る剣が、ラーズの腹部に、根元近くまで突き刺さっていた。

「……あ……」

「動かすなっ!」

 咄嗟に引き抜こうとしたクオルは、ラーズの声に動きを止める。

 ラーズは脂汗を浮かべながら、クオルの肩を掴んだ。

 苦しげな表情に、必死に笑みを浮かべるラーズの顔が、クオルの瞳に映る。

「……やっと、捕まえた。手間……かけさせるな」

 その意味が分からず、茫然とするクオルに、ラーズは真剣に訴える。

「いいか、クオル。よく聞け」

 その言葉は間違いなくクオルという個人に向けられた言葉だった。

 距離的に、ラーズの仲間たちには聞こえないトーンで、ラーズは続ける。

 引き連れていた兵が唖然と佇んでいるが、攻撃するそぶりは見せない。

 彼らにとっても、予想外の展開だったのだ。

「……ディルが、あっちの作戦指揮所で、待ってる。お前を、保護してもらうために、だ。……だから、言うこと聞いて、行け」

 先ほどと言っていることがまるで違うラーズに、クオルは困惑した視線を向けた。

「で、も……」

「信じろ。……いや、俺が……お前の信頼を壊したのか」

 小さく笑う、ラーズ。

 その言葉でクオルはようやく悟る。

 ラーズの、本当の想いを。

クオルは震える瞳でラーズを見ている事しか出来なかった。

「馬鹿者。……俺は……そうやって、任務、だけで……いるのが……きつくな、って……」

 ラーズが咳き込み、同時に血を吐きだした。

 その血が、クオルにまで飛び散る。その光景に、クオルは自分の行為の愚かさを悟る。

「くそ、もう……。……俺は、な。……お前をこれ以上、殺戮兵器に……したく、ないんだ」

「僕は……、僕だって……あんな……!」

「分かってる。だけど、お前は……教育者に……恵まれてない、から……止められないんだよな……自分を抑えることだけしか、お前には……残されてなかったからな……」

 疲れた様に、ラーズは言う。

 徐々にラーズの息が浅くなっているのは、クオルでもわかった。

 どうしたらいいのか必死に考えるが、思考が空転して何も浮かんでこない。目の前で、大切な友人の命が失われようとしているのに、何も。

「だから。俺がお前に……最後に問題を、残していく。その答えは、お前が……自分で、決めろ。……いいな?」

 すう、と一度大きく息を吸って、ラーズは笑った。

 血の気が引いて真っ白な顔で、それでも以前と同じ笑みをクオルに向ける。

「忘れるな。……俺もディルも。……お前のことを親友だと思ってる。大切な……、こんな形でしか救う方法が浮かばなくて、すまん、な……」

 その言葉を合図に、ラーズはその場に崩れ落ちた。

 クオルは我に返って慌てて倒れたラーズの肩を揺する。

「ラーズっ! 返事してください、ラーズッ!」

 動かないラーズに、クオルは視界を滲ませながら必死に呼びかける。

「僕は、ラーズとディルしかいないんですっ……! だからっ……!」

 それでも、何一つ反応しないラーズに、ぼたぼたとクオルの瞳から零れ落ちた雫が落ちる。

「いや、だ……ごめ、なさっ……僕が、信じなかったから……。ラーズの事……信じなかった、からっ……!」

 だから、この手で殺してしまうなんてことになってしまった。

 あれほど救いを求めた相手を、この手で。

 思考が滅茶苦茶に暴れまわる。何も、考えられなくなる。

『っ、この馬鹿っ! なんでとっとと戻さなかった! ああもういいっ、クオル! 変わるかとっとと治療を……!』

「いやだ……、ラーズ、なんで……」

『クオル? クオル、聞こえてないのか? クオルっ!』

「い……あ……」

 思考が完全に停止し、クオルはその場に倒れこんだ。

 イシスの声が遠くで聞こえた気がしたが、もう動くことが出来なかった。

 鉄の味がする。

 生ぬるい赤い液体の中で、クオルは完全に意識を手放した。

 

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