◇◇◇

 

 翌朝。

 騎士団とは異なり、与えられた制服などもなく、私服同然だった。

 緑を基調とした軽装に、腰にはベルトを巻いて剣を提げる。

 田舎ではこれが普通だが、城内では浮いて見える。

 重そうな甲冑を身に着けた彼らからすれば、ブレンは不審者でしかないだろう。

 小さくため息をついて、ブレンは机の上のブローチを手に取った。

 身分証代りに用意されていた、銀色のブローチ。

 円が二重になったシンプルなものだが、その形は王の直轄である証明でもある。

 つまり、特殊警衛班は、将軍たちと同列に並ぶ存在なのだ。

 それを襟元にピンで挿すと、少しだけ見栄えが良くなった。

 これだけで、ほとんど顔パスに近いものがあるらしい。

 つまりは、それだけの責任を負わされたという事でもある。

「行くか……」

 どうにも、気の乗らない仕事だった。

 

◇◇◇

 

 階段をのぼりながら、ブレンは再びため息をつく。

 華やかな身分を与えられたようだが、実際は人目のつかないところで、誰にも存在を知られていない少年を守る……いや監視するよう命ぜられているのだ。

 それがいかにも危険そうな外見をしているならまだしも。

 思い出してしまうのは、寂しそうに笑うクオルだった。

 これでは、自分が悪いことをしている気になってしまうのも当然で。

 ブレンとしては正直、気が滅入る。

 最後の階段を上り、ノックしてから、ブレンは扉を開けた。

「おはようございます、クオル様」

「え、あ。お、おはようございます……ブレンさん」

 ガラスの向こうで慌てて立ち上がり、戸惑った様子でおろおろと返答したクオル。

 その反応に、ブレンは思わず笑ってしまった。

 なんでこの人は、そんなに驚いているんだか。

「食事は……」

「あ、先ほどノウェンが運んでくれました。もう下げてもらってるので、お気遣いなく」

 ノウェン……それが特殊封術師の名前らしい。

 夜間のクオルの世話担当は、ノウェンという事だろう。

 あるいは、今もここに居るのかもしれないが。

「……何か、他には?」

「いえ、何も」

 曇りのない笑顔で返され、ブレンは言葉に詰まる。

 この人は、この環境に慣れすぎている。

 直感的にブレンはそう感じた。我慢や、抑圧に苦痛を覚えなくなっているのだ。

 それはあまりに悲しいことだと、思う。

 そして、自分の仕事を見定めるためにも、ブレンは問いかけた。

「じゃあ、教えてくれませんか?」

「え? 僕が……ですか?」

 ブレンは頷いた。むしろ、クオルしか出来ないことだった。

「俺の前の人が、どんなことをしてくれてたのか。あと、クオル様は一日どう過ごすのが好きなのか」

「どう……って。……そうですね……」

 視線を下げて、真剣に考え込むクオル。そういった仕草は至極普通だ。

 何が、化け物なのだろう。

 少しだけ、シェマの言葉に憤りを感じ始めたブレンに、クオルがぽつりと言った。

「ご飯を運んでくれるのと、あとは……そこに座ってるだけ、でしたよ」

「は? そ、それって駄目じゃないですか?」

 その答えはブレンにとって予想外だった。

 それはつまり、何もしていなかったと言っているに等しい。

 戸惑うブレンに、クオルは不思議そうに首を傾げた。

「どうなんでしょう。僕は別に、構いませんけど」

「じゃ……じゃあ、クオル様の一日は?」

 それでも何とかブレンは食い下がる。

 再びクオルは視線を落として考え込んだ。

 その様子を、どこか祈るような思いでブレンは見つめる。そして、クオルはブレンが思った以上の絶望的な言葉を吐いた。

「特に何もしないでも、一日は終わるものですよ」

 ……駄目だ。

 怒りより何より、あまりに哀れだった。

 面倒を見ろって意味じゃない……――シェマの言葉を、ブレンはようやく理解する。

 関われば関わる程、きっと深みにはまるのだ。この世間から隔絶されたことを、自然と受け入れている様子を、何とかしたいと願ってしまったら……間違いなく。

「ブレンさん、あまり……気を使わなくて、いいですからね」

「え……?」

 いつの間にか顔を伏せていたブレンは顔を上げて、クオルを見やる。

 クオルは寂しげに微笑みながら、言った。

「僕は、ここでも十分、幸せに暮らせますから」

 その言葉に、ブレンは完全に言葉を失った。

 そんなわけがないのに。

 そんな言葉を言わせてしまうのは、この特殊警衛班という部隊の存在なのだろう。

 恐らく、その意味もクオルはきちんと理解しているのだ。

 だからこそ、この場所で大人しく、静かに過ごすことをこうもあっさりと受け入れている。

 それが、ブレンにとってはあまりにも切なかった。

 

◇◇◇

 

 それから数日は、日がな一日、特に何もせずに終わっていた。

 正直、ブレン自身が何をしていいのかが分からなかったのだ。

 精々、クオルという存在の本質を知るために、眺めていることくらいしか出来なかった。

 日中のクオルの様子はといえば、小さな青い竜と楽しげに会話をしているくらいで。

 竜が人語を話すのは初めて見たが、この異常な環境の中ではかえって自然に見えてしまうのだから不思議だった。

 竜は、ライヴと言う名前で、クオルに対して大層懐いている。

 時折話題を振ってくれるのだが、ブレンは曖昧に誤魔化すのが精一杯だった。

 見ていれば、見ているほど自身の任務への嫌悪感が募る。

 何もできず、何も求められない。

 ただ、クオルがそこにいる事を強要するだけの、自分の目であることを、ブレンは理解していた。

 そして、疑問が募る。

 何故、クオルがどうしてこんな場所に封じられているのか、分からないのだ。

 暴れるわけでもなく、静かな一日を享受するだけのクオル。

 そこが隔離された場所でなければ、普通の存在にしか見えない……哀れな籠の鳥。

 ブレンにとって、クオルはそういう存在になり始めていた。

 ブレンの中で沸々とした怒りが蓄積していた、そんなある日。

「ブレンさん、聞いてもいいですか?」

 クオルから声をかけるのは、珍しい事ではない。

 ブレンはぼんやりとした思考から我に返り、クオルを見やった。

「どうかしましたか?」

「あの、ブレンさんは、どうしてこちらに来たんですか?」

 至極当然な問いかけだった。

 担当が変わったのが、不思議なのかもしれない。

 ブレンは苦笑して、返す。

「呼ばれたんですよ。別に、来たかったわけじゃないです」

「そうなんですか……」

 答えてから、ブレンは後悔した。これじゃ嫌々ここにいます、と言っているのと同じだったから。

 そういうつもりではないにしても。

 ブレンが慌てて弁明しようと口を開きかけた、瞬間クオルが次の質問を投げる。

「じゃあ、前いたところは、どんなところだったんですか?」

 純粋な興味を向けているクオル。

 失言に対しても寛大なのか気づいていないのか、触れないでいてくれた。

 それにほっとしながら、ブレンは答える。

「そんなすごいところじゃないです。普通の、田舎ですよ」

「普通の田舎って、なんです?」

 不思議そうに尋ねるクオル。ブレンは少しだけ悩んで、知る限りの『普通』を絞り出した。

「農作が中心だったんですよ。私の出身の村は」

「へえ……そうなんですか」

 相槌を打つクオルは、心底興味深そうだった。

 田舎を知らないんだろうか、とブレンが疑うほどに。

(まぁ、こんなところに閉じ込められてたら当然か……)

 もともと貴族なのだから田舎を知らなくても、何ら不思議はないのだ。

 その上、この隔離生活。クオルは、外を知らないのだろう。

 そう思うと、失礼だと分かりながらも、ブレンは同情してしまった。

 だから、せめて空気だけでもクオルに伝えようと、ブレンは必死に言葉を探す。

「私が生れた村は、裕福とは縁遠かった。でも、それでも振り返ってみれば素朴で、平穏で……良い村でしたよ」

「じゃあ、村を出て軍に?」

 クオルの問いかけに、ブレンは首を振った。

「最初は村の自警団に在籍してました。そのうち、軍が村の警護を担当することになって。だから私は軍に志願しました。自分の故郷は、自分で守りたいと思ったから」

「故郷……」

「あっ、す、すみません……!」

 失言だった。クオルの故郷がどこかは分からないが、ここに閉じ込められているのだ。

 故郷を懐かしんでも、悲しくなるだけに違いない。

 弁明の言葉を探すブレンに、クオルは首を傾げた。

「え? どうして謝るんです?」

 クオルの反応はブレンの予想とは大幅に違うものだった。

 ブレンが口を濁していると、クオルの膝にいたライヴが言う。

「故郷の話は、クオル様には酷だと思われたのでは?」

「あ、そうなんですか?」

 尋ねたクオルに、ブレンは渋々頷いた。

 すると、クオルは静かに笑みを浮かべる。

「そんなこと、ないですよ。ブレンさんの故郷の話、興味がありますし」

「でも……」

「僕には、もう故郷と呼べる場所がありませんから。それに、今の外の世界を、少しでも知りたいんです」

 外の世界。

 それはクオルにとっては手の届かない遠い世界だった。

 たった一枚のガラスだけなのに。

 それでも、クオルは外を見ようとしていることはブレンにも伝わった。

 出来る出来ないは別として……それでもクオルは、外界との繋がりを求めている。

 それが、ブレンにもようやく理解できた。

「ブレンさん?」

「あ……いえ。……じゃあ、少しだけ……」

 そう答えると、嬉しそうな顔をしたクオルに、ブレンは少しだけ胸が痛む。

(この人は、一生このまま、このガラスの中で暮らし続けるのか? 誰からも知られることなく、化け物として認識されながら……?)

 だとしたら、なんて過酷な運命を神は与えたのだろう。

 

◇◇◇

 

「……こんな感じだけど、なんでそんなこと調べてるんだ?」

 エリオが不思議そうにブレンに問いかける。

 ブレンは熱心にシフト勤務表を眺めながら、地図と見比べていた。

「ちょっとな。ある意味賭けに出ようかと思って」

「仕事の? はー、ますます訳が分かんねーなぁ」

 ぎし、と椅子の背もたれに体重を預けてエリオが言う。

 ブレンは一通りの策を立て、地図をたたみ、シフト勤務表をエリオに返す。

「助かった。これで何とかなる……かもしれない」

「いやだから、何の」

「上手くいったら、エリオにも教える」

 がた、と席を立ってブレンはエリオに再度礼を述べると、踵を返す。

「おい、ブレン」

「ん?」

 振り返ると、少しだけ不機嫌そうな表情を浮かべたエリオと目があう。

 数秒の沈黙の後、エリオは口を開いた。

「理由は聞かねーけど。……助けが必要ならいつでも言えよ」

「……ありがとな」

 言いたいこと、聞きたいことはあるけど今は許す。

 エリオは表情でそれを物語っていた。

 理解のある幼馴染で助かる。とても数年会っていなかったとは思えないけれども、エリオの人の好さは変わっていない。

 だからこそ、ブレンは決断できたのだ。

 決行は明日。

 この一回が、多分すべてを決める。

 

◇◇◇

 

 翌朝。いつも通りの時間に部屋へ向かう。

 季節は夏真っ盛り。日差しが強い。

 結界のおかげか、クオルの部屋はいつも快適な室温・湿度になっているから気づきにくい。

「おはようございます、クオル様」

「あ。おはようございます、ブレンさん」

 軽い会釈と笑顔で迎えるクオルに、ブレンは頷く。

 そして、一度部屋の中をぐるりと見回す。

 誰も、何もいない。ノウェンが姿を消すことができるのであれば分からないが。

「……ブレンさん?」

 いつもとは違う行動をとるブレンに、クオルが首を傾げた。

 ブレンはそれに答えず、扉に歩み寄ると、ポケットから鍵を取り出す。

 初日に部屋に戻ると置いてあった鍵。

 自室の鍵ではなく、ここの鍵。

 その鍵をカギ穴に差し込み、90度回す。

 かちりと音を立てて開錠された。

「ブレンさん! そんなことしたら、貴方はっ……」

 クオルが悲鳴にも似た声を上げる。

 その声を聞こえないことにして、ブレンは扉を開けた。

 ガラス越しではなく、初めてクオルと対面する。

 絶句するクオルに、ブレンは手を差し出した。

「散歩に、行きませんか?」

「さ……ん、ぽ?」

 やっとの思いで声にしたクオルは、ブレンを凝視したまま、問いかける。

 ブレンは頷く。

 心臓が痛いほどに脈打って、頭痛がする。

「クオル様に、外の世界を、見てもらいたいんです」

「……ブレンさん……」

「夕方までには戻ることに、なりますけど」

 これが、ブレンの導き出した最善の行動だった。

 シェマの言葉も引っかかりながら、だがブレンはこのままクオルを閉じ込めておく自分が許せなかった。

 クオルは一度顔を伏せ、膝の上のライヴを抱き上げた。

 ライヴがクオルを見上げ、しばしクオルは沈黙する。

 その沈黙が、ブレンには恐ろしかった。

 あるいは、今までが猫を被っていただけかもしれない、と今更その危険性が過るほどに。

 緊張するブレンの前で、クオルが静かに顔を上げた。

「……ありがとうございます、ブレンさん」

 泣きそうな、しかし本当に嬉しそうな笑顔を、クオルはブレンへ向けた。

 それだけで、ブレンは自分の決断に自信を取り戻す。

――クオルに外を見せる。それが、ブレンの決断だったのだから。

 

◇◇◇

 

 シフト勤務時間帯を調べ、一番人が少ない時間に門をくぐる。

 午前九時三十分から十時三十分までと、午後三時四十五分から四時までの間。

 この間に、城門を抜けて、町へ抜け出すことができれば上々だ。

 出来なくても、城内を歩くだけでも違うはずで。

 ただ、服装について何の計画も持っていなかった自分を、ブレンは心の底で罵っていた。

 何しろ、クオルの服装は白いのだ。真っ白な法衣と、白い帽子。

 目立つにもほどがある。見慣れてきていたせいで、すっかり失念していた。

 つまり、門をくぐるには、ブレンのブローチだけが頼りとなる。

 あっさりと結界を通過できたことは幸いだった。

 あくまで、魔力を遮断するだけで、物理的には何も影響を与えていないことがここで証明された。

 階段を降り、城の裏門を目指しながら、シェマに会わないことだけを願った。

 他ならどうにか誤魔化しがきくはずだが、シェマはクオルを警戒している。

 存在そのものを否定しようとしている。

 そんな気がしていた。

 何とか、人に会わずに裏門まで到達。

 あとは、裏門の衛兵を誤魔化せれば全てうまくいく。

 ……上手く行く、はずだ。そうブレンは自分に言い聞かせる。

「ブレンさん……本当にいいんですか? 上の方に知られたら、大変なことになるんじゃないですか?」

「心配しないでください。そうなれば多分、元の部隊へ戻されるだけですから。多分……クオル様に関する記憶を抹消されて」

 その程度で済むなら良いだろう。

 実際はわからない。処刑されても文句は言えない。

 ただ、今のブレンの原動力はクオルに外の世界を見せてあげたいという一心でしかないのだ。

 それが自分の命と天秤にかけて構わないと思えた理由は、ブレン自身、よく分かっていない。

 クオルは、そのブレンの不安定な感情から来た決断を心配している様子だった。

「あら、ブレン。お出かけ?」

 不意の声に、ブレンは飛び上るほど驚いた。

 慌てて振り返ると、そこにはディルがいた。

(まずいっ……!)

 よりによって、一番出会ってはいけないディルに、出会ってしまった。

 思考が真っ白に染まり、言葉が紡げないブレンにくすっとディルは微笑む。

 そして視線をずらし、クオルに尋ねた。

「自分で出ようって?」

「そうです」

 即答したクオル。ブレンは慌てて否定しようとしたが、クオルがディルから見えない位置で、ブレンの服を強く引いて、制止した。

 その意味が分からず、ブレンは思わずクオルを見やった。

 だが、クオルはブレンに目も向けず、ディルをじっと見つめ返している。

 恐る恐るブレンもディルを見やると、ディルはどこか安心したような笑みを向けていた。

「じゃあよろしく頼んだわね、ブレン」

「は……はい」

 そうして、ディルは裏門の衛兵を呼びつけて、世間話をし始めた。

 この間に外へ行け、という事なのだろう。

「ディルは……優しすぎなんですよ」

 ぽつりとクオルが言う。その真意を問いかけようとブレンが目を向けると、クオルは微笑んで、促した。

「行きましょうか、ブレンさん」

 ブレンはタイミングを見失って、ひとまず頷いた。

 

◇◇◇

 

 そうして、何の問題もなく門を通過して……晴れて外へと踏み出した。

 城の周りは城下町として栄えており、裏門の通りでも十分に華やかだ。

 ブレンも帝都へ来て間もないので、地理には詳しくない。

 そのうえ、実は手持ちも少ない状態だった。

 何でも自由に出来る、というわけではない。

(クオル様がお金持ってるわけも……ないしな)

 ちらりと視線を向けると、クオルは町並みと人ごみに目を奪われていた。

 緊張した面持ちで、じっと人通りを眺めている。

「……クオル様」

「えあ、はい!」

 若干上ずった声で返答するクオルに、ブレンは思わず笑みを浮かべた。

 よほど緊張しているらしい。

 ひとまずは、時間も惜しい。目的地を定めなくてはいけなかった。

「どこか行きたい場所とか、見たいものはありますか?」

「見たいもの……?」

「えっと……例えば海とか、ですかね」

 もっといいものが浮かべばいいのだが、ブレンには無理な話だった。

 エリオからそのあたりも、情報収集しておくべきだった。

 今更、若干の後悔に苛まれるブレン。

「うみ……、海、見たいです! 案内してくれるんですか? 楽しみです!」

 ブレンの苦悩を知ってか知らずか、クオルはそう一番の笑顔を見せた。

「は……はい」

 どうにも、クオルの笑顔には逆らえないブレンがいた。

 

◇◇◇

 

 城壁沿いを歩きながら、港の方へ向かう。

 その間、ブレンはクオルの質問にその都度答えていた。

 帝都の構造。

 地理。

 特産物等々。

 本当に何もかもが新鮮らしく、クオルは何度も嬉しそうに頷いていた。

 そうやって喜んでくれると、ブレンとしても安心する。

 やがて、港が近づいたころ、クオルは幾つ目かの質問を口にする。

「ブレンさんは、船でこの街へ来たんですか?」

「はい。それほど遠くはないですけど」

「僕も船には乗ったことがあります。ずいぶん前ですけどね。でも……海を見てる余裕は、なかったです」

「え?」

 思わず目を向けると、クオルはどこか遠くを見ているような目をしていた。

 ひどく、寂しそうに。

 時々、クオルはそういう表情を見せる。

 外見に似合わない大人びた……むしろ、諦めたような表情を。

 ブレンとしては、周囲がどうしてこんな顔をさせることを良しとするのか理解に苦しむ。

「いつか」

「え?」

 クオルが不思議そうにブレンを見やる。

 ブレンは前を見つめたまま言った。

「いつかきっと、外に自由に出れる日が、来ます。故郷に帰れる日が、来ますよ。来させて、みせます」

 そんなブレンの言葉に、クオルは聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声でぽつりと零した。

――ありがとうございます、と。

「潮の匂いが、しますね」

「しおの、匂い……?」

 不思議そうに問いかけたクオルに、ブレンは前方を指さす。

「ほら、もうすぐ、海ですから」

「あ……」

 船と、その先に見える水平線。

 微かにクオルが目を見開き、そして急に泣きそうな表情を浮かべて、顔を伏せた。

「え、ちょ、クオル様? 大丈夫ですか?」

 こく、とクオルは深く頷く。そして肩にいるライヴにそっと触れて、クオルは呟いた。

「……やっと、来れたんですね」

「……そうですね、クオル様」

 ブレンには理解できないやり取りだった。だが、クオルはぎゅっと目を瞑って、そしてもう一度その瞳に青を映す。

「行きましょう、ブレンさん」

「あ、はい」

 再び歩き出した二人と一匹。 潮風に髪を傷められながら、青へと向かって。

  何かが見たかったわけじゃない。ただ、ブレンは外の空気を知ってほしくて、きっとクオルは外の世界を知りたかっただけで。

 目的もなくふらりと港を歩いただけだった。 それでもクオルがその小さな体に海の色と風を、嬉しそうに心へ刻んでいるようで、ブレンとしてはそれだけで嬉しかった。

 青い空と、白い雲。

 夏らしい空が、今日だけは有難かった。 

 

◇◇◇

 

 戻ってきた裏門には、やはり誰もいなかった。

 多分、ディルのおかげだろう。

 気を使って、警備に支障がない程度に衛兵を動かしている。

 まるでずっと監視されているような感覚だが、ディルのそれは害がない予感がする。

 だからこそ、ブレンはその厚意を有難く受け取る。

 最上階のクオルの自室まで、誰にも会うことなく辿り着く。

 流石に、城内は緊張していたブレンも、ほっと胸を撫で下ろした。

「ありがとうございます、ブレンさん。とても、楽しかったです。今日見たもの、絶対忘れません」

 深々頭を下げたクオルに、ブレンはぼそっと返す。

「……何を最後みたいに、言ってるんですか」

「え?」

 首を傾げたクオルに、ブレンは小さく息を吐く。

 そして、笑みを浮かべて困惑しているクオルに告げた。

「また、行きましょう。そのうち、こそこそしなくても出れるように対策を考えてみますから」

「……ありがとうございます」

 そう嬉しそうに微笑んで、クオルは抵抗もせずにガラスの向こうへ帰って行った。

 ブレンは鍵を取り出し、じっとそれを見つめる。

 こんなもの、本当に必要なんだろうか、と。

 ちらりとクオルを見やると、ライヴを膝にのせて、今日一日を楽しげに振り返っていた。

 ブレンの目に映る景色と、クオルの見た世界は、きっと異なる色をしているのだろう。

 その様子は、周囲に敵がいないと安心している雰囲気だ。

 そして、その様子で、ブレンは悟る。

(……そうだよな)

 何もクオルから守るための鍵じゃない。

 クオルを守る鍵でもあるはずだ。

 このガラスは耐火・耐衝撃・対魔法効果まで付与されている強化ガラスである。生半可な威力な攻撃では壊れないようになっているものだ。

 ならば、鍵さえかければ中からも外からも、守れるはず。

 かしゃん、と鍵をかけブレンはポケットに鍵を突っ込む。

 小さな決意とともに。

 

◇◇◇

 

 ブレンが部屋から出るのは大抵二十時を過ぎた頃だった。

 クオルの夕食を下げて、明日までに必要そうなもの等があれば聞いておく。

 大体の場合は何も要求してこない。

 今日も案の定、「何もありません」と笑顔で告げられた。

 ただ、その笑みはいつもよりも嬉しそうだった。

 外に行ったことがそうさせたのだとしたら、ブレンとしても嬉しい。

「そろそろ失礼します、クオル様」

「あ、はい。今日は本当にありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げたクオルに、ブレンは首を振る。

 これが最後じゃない、という意味を込めて。

 また明日、と告げてブレンは退室する。

 扉を開けると同時に、夏の蒸し暑さが肌を撫でた。

 階段を無言で下りていると、踊り場に人影が見えた。

 ブレンは警戒をしながら、一歩ずつ下りていく。

「お疲れ様、ブレン」

 踊り場に居たのは、ディルだった。薄い笑みを浮かべて、ブレンへと声をかけたディル。

 ブレンは一礼して、返答する。

「今日は、ありがとうございました」

「お礼は……こっちが言いたいくらいよ。……ありがとね、クオルのこと」

「いえ。私だけでは無理でした。ディル団長が色々と、気を配ってくださったお陰で、……クオル様も、喜んでくれました」

 ディルは安心したように、そう、とだけ零す。

「……立ち入った話を伺ってもいいでしょうか」

「ええ、何?」

 あっさりと許可を出して、ディルはブレンの目を見る。

 真面目なディルらしい行動だった。

「どういった、ご関係なんですか? お二人は」

「そうね……親友、かな。今は、保護者と被保護者みたいだけど。ふふ、変よね」

「親友、ですか……」

 いまいちピンとこない。

 ディルは魔族とエルフのハーフで、実年齢としては四十近い。

 クオルとはずいぶんと年齢差があるように思うのだ。

「詳しくは、……あたしが話すことじゃないからね。……クオルに聞いて頂戴。本当に、ありがとうブレン。……今度来てくれたのが、貴方でよかった」

 それはディルの心の底からの言葉のように、ブレンには聞こえた。

 ディルは心底クオルの幸せを願っている。

 あの狭い部屋から解放することを、望んでいる。

 ただ、それをできる権限がないのだろう。

 管轄が違うはずだ。

 だからこそ、ブレンにその思いを託している。

 ブレンは、そんな気がした。

「私は、私なりにクオル様と向き合いたいと思ってます」

「十分よ。……お願いね」

 ブレンは頷けなかった。

 どこかで分かっていたのかもしれない。

 自分の目指すものと、ディルも目指すものが微妙に違っていることに。

 踵を返し去っていくディルにブレンは黙って頭を下げた。

 気配が完全になくなってからやっと顔を上げて、ブレンはもう一度上を見上げる。

 今夜、クオルはどんな夢を見るのだろう。

 それが悲しい夢じゃないといい。

 ブレンは強くそう願った。

 

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