◇◇◇

 

 いつの間にか寝ていたアルトが目を覚ましたのは、日が高くなったころだった。傍らにあった点滴スタンドはなくなっており、針も抜去されていた。

 体を起こして、じっと手のひらを見つめる。一つになった感覚、というのは分からない。記憶も、思ったより遥かに少ない。違和感はあるが、人格としての境界ははっきりしているように感じた。もっとも、性格が違いすぎただけかもしれないけれど。

「あ、起きた? 何か食べる? それとも飲み物とか」

「……ファゼット……」

 苦笑いを浮かべ、ぱたりと扉を閉めると、ファゼットが歩み寄る。

「顔色少し良くなったね。で、何かいる? 作るよ?」

「食欲、ない。……シスの事情聴取は済んだのか?」

「まぁね。心配してたよ。今は仕事に出てて、いないけどね」

「……珍しーな」

 一度だって仕事をしているシスなど見たことがない。常にくっついて回られていたから。ファゼットは肩をすくめる。

「仕事さぼりすぎてて、ゲートパス止められる寸前だったからね。慌てて対応させてるところ。まさかそんなギリギリとは知らなかったよ」

「そういえば、ゲートパス止められたら、どうなるんだ?」

「凍結されるはずだよ。しばらくは使用不可だし、解除までは強制送還かな」

 悪用を防ぐためでもあるからね、と付け加えてファゼットはアルトに尋ねた。

「アルトのパスは、期限なしだからね。議員と同じで」

「……ファゼットのもそうだろ?」

「まぁ、特級監査官だからね。一応」

 特級監査官。よく聞く名称だが、実はアルトはその言葉を完全に理解してはいなかった。

 監査官には三種類あることは、聞いている。担当正面によって、名称が異なるのだ。管理と渉外、そして討伐。それが職域による区別。

 そしてもう一つが、能力別に区別されるクラス分け。

 中でも、担当正面に対し特に優れた能力を持つ監査官を特級監査官と呼ぶ。そのランク別に、ゲートパスの使用範囲に差が出てくるのだが、その差についてはアルトは詳しくなかった。

「特級だけが、期限なしなのか?」

「特級のランクSパスが期限なし。ランクAなら特級でも期限付きだよ」

「……よくわかんねーけど、特級でもレベル差があるってことだな?」

「まぁ、そうだね。シスならランクS貰えるレベルだろうけど、上級だからね」

 アルトも監査官昇級試験を受験したことがある。現在のランクは中級後期。てっきりシスはとうに特級監査官なのだとばかり思っていた。

「仕事しないと、やっぱ首になるのか?」

「うん? 首っていうか……まぁ、監査官の資格は剥奪される。それはそうだろう? パスだけもって、あちこち世界を渡らせるわけにはいかないし」

「特級でも?」

 もちろん、と頷いたファゼットに、アルトは顔を伏せた。議員になるというのに、知らないことが多すぎる。

 情けない。知ろうとしてこなかったことが今になって響く。

「……シスにとってアルトは、特別なんだろうね」

「え……?」

「今回の期限いっぱいで、シスは監査官をやめる気でいたんだよ。だけど、更新する気になったってことは、そーいうことだよ」

「……あいつは、何で……」

「それは本人に聞いたほうがいい。とりあえず、動けるならお茶くらい飲みにおいで。ニナも起きてるし、一緒に来た二人も、話して損はないよ。監査官だし」

 ファゼットの言葉にアルトは渋々頷いた。行けば、あの人に会うことになるのだろうか。兄とよく似た、同名の存在に。

 

◇◇◇

 

 ファゼットに促され、アルトはベッドから足を下ろす。部屋を出ると、左へ。

 通された時は周囲に目を向けていなかったアルトは、使用していた部屋が一番隅にあることを今になって知った。真っ直ぐに伸びた廊下にはいくつか扉が見える。

 玄関までに、二部屋。それほど大きくはないようだが、個室がある。玄関正面に二階へ続く階段。その向こうにも、左手に二部屋。

 アルトは扉のない右手の部屋に案内される。リビングダイニングだった。

「あ。おはよー、あーちゃん」

 ひらひらと、ニナが手を振る。八人は使える大きいテーブルには四人が座っていた。ニナとガディ……そして、クオルとブレン。

 奥の窓際から順に、ガディとニナが並び、その正面にクオルとブレンがいた。

 ぎくりと、背筋が震える。

「はい。座る座る」

 ファゼットに背中を押されて、アルトは目を伏せながら、ニナの隣に座る。ファゼットは立とうとしたガディを手で制して、奥の部屋へ。恐らくキッチンがあるのだろう。

 場に満ちたのは、居心地の悪い沈黙だけだった。アルトは黙って顔を伏せたまま、膝の上に乗せた手の甲をぼんやりと眺める。

「……アルトさん、でしたよね」

 掛けられた声に、アルトは思わずびくっと肩を震わせた。心臓が煩くなる。顔が恐怖で強張る。それでも、ゆっくりとアルトは目を向けた。視線の先には、クオルの困ったような笑み。

「アルトさんも監査官……なんですか?」

 聞きたく、ない。本能が警告を鳴らしていた。アルトはクオルを見ながら、微かに震える手に滲む汗を握りしめる。

「あーちゃんは微妙かなぁ」

 アルトの代わりに、ニナが答えた。微妙? と首を傾げるクオルに、ニナが頷く。

「ゲートパス使うために監査官ではあるけど、って感じ」

「違うんですか?」

 その声を、聴きたくない。

「だけどあたしより便利なランクAだよ? ずるいと思うんだよね」

「ニナは、その年で上級じゃないですか」

「次で特級取れるようにするけどね!」

「流石ニナ……――」

「やめろ」

 低く、アルトが呟いた。その言葉は驚くほどよく響き、室内の空気を凍り付かせるほどの深みのある声だった。

「あの、すみません……気に障りまし……」

 顔を伏せ、アルトは絞り出すようにして、言う。

「俺は、あんたの声を聴きたくない」

 アルトの言葉に、クオルは言いかけた言葉を飲み込み、目を伏せた。ブレンが非難の視線をアルトと、傍らのニナに向ける。

「ちょ、色々複雑なんだよ。察してよ、ね?」

「……クオル様。外の空気でも吸いに行きましょう」

 そう声をかけたブレンにクオルは視線を向けて、一度アルトを見やってから、こく、と頷いた。クオルは膝の上に居たライヴを肩に乗せるとブレンと共に、出て行った。

 去り際、何か言いたげにアルトを一瞥したがクオルはブレンに促されて何も言葉を発することはなかった。

「……あぁぁ、もぉぉお!」

 ニナがぐしゃぐしゃと頭を両手で掻き毟る。ガディが苦笑いでお茶の入ったカップに口をつけた。

 がちゃんっ、と拳をテーブルに叩き付けて、ニナはアルトを睨んだ。

「あーちゃん、これからそうやって生きていくの? ずっと?」

「……るさい」

「知ってるよね? 同位体って、いっぱいいるんだよ。姿かたちが同じだけじゃない。本当に同じような生き方をする同位体はたくさんいる。それを全部否定して、生きてくの? これから、あーちゃんは多くの同位体を見ていくのに」

「もう俺は、関わりたくない。監査官も、ゲートも、議会も。兄貴につながる全部を、もう……見たくない」

 ニナはぷいっと顔を背けて、それ以上何も言わなかった。

 再び、重い沈黙。

「……はぁぁ……そーなってるかぁ、やっぱり」

 お茶を用意して戻ってきたファゼットは室内の様子で全てを悟り、大きなため息をついた。

 

 

◇◇◇

 

 夕日が差し込む床を見つめてどれくらい過ぎたのか。扉を叩く音に、膝を抱えてベッドに座っていたアルトは微かに目線を上げる。

「ただいま、あーちゃん。少しは良くなった?」

 いつもの調子で入ってきたシスの声。じわりと滲みだす黒い感情に、アルトは膝を抱えた腕に、力を込めた。

「……何でだよ」

「何が?」

「何で、兄貴そっくりなあの人がいるここに、俺を連れてきたんだよ……お前、分かってただろ。それなのになんでだよっ……」

 顔を見れば苦しくなる。声を聞けば叫びたくなる。何もかも、現実さえ受け止めきれない状態でクオルと向き合うなど、アルトには出来なかった。

 ぱた、と静かに扉が閉めて、シスが傍に歩み寄る。

「必要だから、だよ」

「要らない。もう俺は……何も見たくない、聞きたくない……!」

 じわりと視界が滲んだ。オレンジに照らされる景色が見る間に歪んで息が詰まる。

 シスに視線を向ける気力さえ湧いてこない。怒鳴る元気もない。

「それでも」

 微かに声を詰まらせて、シスの手がアルトの頭に触れた。いつも困った時に、不安な時に、撫でてくれる手の感覚に心が軋んだ。

「僕は、あーちゃんを守るよ。……だけど、そのためにクオルにこれ以上負荷をかけさせるわけにもいかない。だから、ここに来たんだよ」

「何であの人が関係あるんだよ……! 俺は何にも知らないっ……あの人は兄貴じゃない……のにっ……」

「……あーちゃんが、もう少し落ち着いて、元気になったら、説明するから。……ね」

 シスが何かを隠しているのは、分かっていた。ずっとそうだ。生まれてから今までずっと。家ですら、アルトは自分に関わる大切な情報を隠されてきた。

 気付かなかったのも確かにある。だが、大半はアルトを傷つけまいと秘匿されていた情報がほとんどだった。

 だからこそ、知らないがゆえに、肝心な時には何もできなかった。それゆえに、多くの物を失ってきた。

 そしてきっと、これからもそうなのだろう。

 例えアルト自身が知ったとしても、耐え切れないことを知っているからこそ。

 それがもどかしくて情けなくて、動けない。

 ふとシスの手が離れる。開いた隙間に、寒い空気が滑り込んだ。

「しっかり休んどいて。僕はしばらく、仕事してくるから」

 また長時間不在にするという宣告だろう。

 ゲートパスを維持するために。監査官であり続けるために。そしてファゼットが言っていたことが本当なら……アルトの為に。

 のろのろと顔を上げると、寂しげに微笑むシスと目が合う。

「……帰って、くるよな?」

 シスだけが、今は頼りだった。むしろその存在を今失えば、間違いなくもう、耐え切れない。

 アルトの言葉にシスは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに苦笑する。

「もちろん。あーちゃんの隣が、僕が帰るところ」

「……約束だからな」

 頷いたシスを、アルトは黙って見送るしかなかった。

 再び一人になった部屋で、アルトは膝の間に顔をうずめる。

(シスが帰る場所は、俺の隣でいいかもしれない。だけど……俺は? 俺は、どこへ行けばいい……?)

 それだけが、見えない。

 

◇◇◇

 

 それから、アルトはクオルに出会う度すかさず方向転換をするか、あるいは顔を背けながら生活した。いつも隣に控えているブレンが何か言いたげにしていたが、無視している。

 ある時、限界を感じたのか何か言いかけたのだが、そっとクオルが手で制していた。

 その挙動全てが、アルトの心を抉る。今はない存在に、頼ることはおろか思い出すことさえ震えが止まらないのに。

 毎日吐きそうなほどに、心が引き攣れていた。

 そんな、ある日だった。

「少し、お時間よろしいですか?」

 庭先の花壇の水やりを嫌々ながらに手伝っていたアルトに声をかけたのはブレンだった。一人でいるとは、珍しい。

 ガディが振り返って、首を傾げる。アルト自身は、話しかけられる覚えすらなく、むしろ怖いほどだった。

 ブレンの傍には、常にクオルが居るのが当たり前で。つまりは、顔を合わせる確率が跳ねあがる。

 それは、嫌だ。

「……なんだよ」

 固い声で、アルトはブレンを突き放す。

「クオル様に対する態度を、いい加減改めてもらえないかと思いまして」

 笑顔ながら、静かな怒りをたたえたブレンに、アルトはつい、と視線をそらす。

 自分でも、失礼なことは分かっていた。だが、直視できないのが現実だ。

 感情の抑えが効かなくなるのは自分でも分かっているからこそ、アルトは逃げるしかできないでいる。

「……八つ当たりをやめろって言ってんのが聞こえてないのか?」

 がらりと変わった口調に、アルトは思わずブレンを凝視する。ブレンは冷たい視線をアルトに向けていた。そのあまりの冷たさに、アルトは息をのむ。

 怒りの臨界を越えたのだろう。

 肌を刺すような敵意に、本能が怯える。

「何があったかは、知らない。きっとつらい思いはしたんだろう。だけど、クオル様が何かしたか? むしろ、クオル様にしてもらったことを感謝してもいいはずだ」

「して……もらったこと?」

 覚えがない。黙り込むアルトに、ブレンは息を吐く。

「覚えてないのか。……まぁ、そうだな。あの状態じゃ、何も覚えてなくても仕方ない。でも……それを差し引いても、いい加減にしろよ」

「っ……」

 背筋が寒くなる。なぜだろう、ブレンの言う「何か」が、怖い。

 記憶がするすると、解かれるのを恐れている。記憶の底を覗いたら、自分が壊れてしまうのが、分かる。

「う……ぁ……」

「……アルトさん?」

 ガディが名を呼ぶのが分かった。しかし、酷く遠く感じる。

 視界がぐらぐらと揺れる。感覚が波のように引いては押しての繰り返しで安定しなくなる。

 ばしゃん、と手にしていたバケツを落とした。跳ね返った水に視線を落とすと、庭の土に広がる水たまり。

 庭に染み込んでいく水たまりが――不意に薄い、クリーム色に見えた。

 刹那、目の前にいるクオルが弾けて溶ける。

 思考が、壊れた。

 

◇◇◇

 

「あ……あぁ……、うわあああああああぁぁっ!!」

 バケツを落とし、それに目を向けた次の瞬間、アルトは絶叫した。

 あまりに悲痛で切迫した叫びに、ガディが慌てて駆け寄る。完全に、恐慌状態に陥っていた。

 だが対処法が分からないのだろう、膝をついて震えるアルトに手を伸ばしたり引っ込めたりを何度も繰り返すだけ。

 ブレンはそれこそ呆然と立ち尽くしていた。

 よもや、こんな展開は想像もしていない。ただ、アルトにくぎを刺したかっただけで。

だが、現実は。

「嫌だ、兄貴、兄貴がっ! 嫌だ、こんな死に方あんまりだろぉぉっ……!! 兄貴、兄貴ぃっ……」

 ただひたすらに、うわ言のようにアルトは繰り返す。

 心に深い傷を負っていたのは、分かっていたブレンだった。

 だが、本質は何も、知らなかった。

 猛烈な後悔と申し訳なさで、動けなくなる。

「まったく……何してるんですか、ブレン……」

 不意に耳に滑り込んだ声に、即座に振り返る。視線の隅に、すっと白が過る。振り返ったブレンの脇を抜けたのは、クオルだった。

 慌てて視線を戻せば、迷いなくアルトへと歩み寄っていく。

「く、クオル様? 監査に行ったんじゃ……」

「忘れ物して戻ってきたら……駄目ですよ、ブレン。弱っている人に鞭打ったら、壊れてしまいます」

 横顔を見せたクオルは、珍しくその瞳に怒りを滲ませていた。咎められたブレンは返す言葉もない。

ぐっと押し黙るブレンから視線を外すと、クオルは膝をついて震えるアルトをそっと抱き締める。

「……大丈夫ですから。その記憶は、少し預かりますね」

 優しく語り掛け、ゆっくりとアルトの頭を撫でるクオル。

「う……あ……」

 意識を失ったのか、アルトが脱力する。そんなアルトを支えながら、クオルは心配そうに見つめていたガディに微笑んだ。

「大丈夫ですよ。少し、眠ってもらっているだけです」

「そう、ですか」

「すみませんが、後はお願いしますね。それから」

 ついっとクオルがブレンを見やる。その視線に責められたような気がして、ブレンは少しだけ背筋が凍る。

「ブレン、運んであげてください」

「は……はい……。その……申し訳ありません……」

「謝るのは僕じゃなくて、アルトさんに、です。仕事に、戻ります」

 正論だった。

 頷いて、ブレンはアルトをクオルから引き受ける。アルトは確かに眠っていたが、それでもまだ苦悶の表情を浮かべていた。

 アルトの涙をクオルはそっと指で拭って、寂しげな微笑みを見せた。

「クオル様?」

「お願いしますね」

 ブレンの問いに答えることなく、一歩後ろに下がるとクオルはすぐに転送を開始し、姿を消した。

 後には何も残らず、微風が吹いただけ。

「……怒ってましたね、クオルさん」

「猛省します。でも……」

「でも?」

「クオル様への態度はもう少し改めてしかるべきです」

 例えどれだけの傷を抱えていようとも、ブレンにとってクオルを傷つける相手は許さないのだから。

 その思考だけは絶対にぶれない。

 

◇◇◇

 

 監査は一度出かけると数日帰ってこないことはザラだ。

 長い時は一年以上もかける時がある。予定が見えないのが、監査で。今回ばかりは時間見積もりのできないそれが、ひたすらにもどかしい。

 アルトを包むのは圧倒的な孤独だけで。

 リビングのテーブルで向い合せに座ったアルトとブレンはそれぞれに沈黙を守っていた。

 ただ永遠に続く様な共に長い沈黙を、アルトはひたすら守る。

 何か言えば止まらなくなりそうで、何か言われれば、壊れそうで。ただひたすらに拒絶の為の沈黙を続けていた。

(シスは……いつ帰ってくんだろ。……帰って、くるのか?)

 恐慌状態から意識を失ったあの日から、二日が過ぎようとしていた。すぐに目を覚ましたものの、アルトは更にふさぎ込んでいる。

 以前のアルトを知っている人であれば、間違いなくアルトかどうか疑うほどだろう。自分でも、分かるほどだ。

 昨日今日と、何か言葉にしただろうか。

 思考だけは鈍く回転していたが、発声はしていない気がする。時間感覚すら曖昧だったが。

「先日は、すみません」

 重い沈黙に耐えかねたか、ブレンが先に口を開く。アルトは顔をあげず、ふるふると首を振った。

 その隣に、もしかしたらいるのかもしれないという恐怖が、体を硬直させる。

 いないと分かっていても。今の自分なら、幻覚が見えるかもしれないのだから。

「貴方も苦しい思いを抱えてるって頭では分かってたのに。私の優先順位がクオル様が上にありすぎて、酷いことを言って本当に、申し訳ありません」

 それでもブレンは懸命に言葉を紡ぐ。それはきっと、本気だからだろう。

 真摯に向き合おうとしてくれているのだ。

 ぎゅっと膝の上で手を握りしめ、それでも顔は上げずに、アルトは弱々しく首を振る。

「あんたは……間違ってこと、言ってない」

 ぽつ、と零す。口が渇いて上手く発音できているか、自分でも分からない。

 鈍麻した感覚に苛まれながらそれでもアルトも言葉を紡ぐ。

「あの人は、悪くないのに。あの人……俺に、何か術を施してるだろ。兄貴に関する記憶……封じてくれてる。じゃなきゃ、きっと今頃、俺は壊れてる」

「それは……」

「いい。知りたいわけじゃない」

 重い頭を上げる。心配そうな表情を浮かべるブレンと目が合った。

 その隣は空っぽだ。ほっとして、表情が緩む。

「兄貴は、俺の中にいるんだ。……分かって、るんだよ」

「アルトさん……」

 それでも姿も声もそっくりで。だから重ねてしまう。

 兄を思い出すのが怖いからこそ突き放すしか出来なかった。

 だが、本当にすべきはそうではなくて。

 滲む世界。認めるのが、ずっと怖かった世界。

「教えて、くれないか? ……あの人の事。それが……俺がいま、しなきゃいけない、ことだから」

 ブレンの隣に居るはずのクオルを知るという事は、兄であるクオルがいないことを自覚する事と同義だ。

 現実は、それしかない。逃げても求めても、もう二度と戻れない。

 だからこそ、アルトはブレンに答えを求めた。違うという事を、刻み付けるために。

 ブレンは数秒呆気にとられていたが、ふと表情を和らげると静かに首を横に振った。

「……私からは、何も教えられません」

 あれだけの態度を取ったのだ。ブレンの言う事は、理解はできる。

 ただ……ブレンの表情は、敵意や拒絶は、見えない。その違和感に、アルトは戸惑う。

「クオル様に直接伺ってください。それが、一番いい」

「でもっ、あの人、俺の事絶対怒って……っ」

「そんな方なら、貴方のために何かしたりしませんよ」

 それは確かに言い得ていた。反論が浮かばず、アルトが口を濁す。

 ブレンは苦笑を浮かべた。

「私も協力します。先日の、お詫びです。それに……クオル様もその方が喜ぶと思います」

「え、あ……、……えと、ありがと」

 適切な言葉は、浮かばなかった。それでもようやく強張っていた体が、緩む。

 空気が少しだけ、軽くなったようだった。

「……一つだけ聞いてもいい?」

「あ、はい」

「あの人は……監査官なんだよな? 担当って……?」

「ああ、管理ですよ。特級管理監査官らしいです」

「らしい……?」

 妙な言い方をする。首を傾げたアルトに、ブレンは苦笑しながら返した。

「私は詳しくないので。生憎と監査官ではありませんから」

「え?」

「それに、管理だの特級だの、私には関係がありません。私が守るのは、クオル様その人なんですから」

「で、でもっ! 管理なんて危険度高いし、それに特級なんて……」

 一緒にいてやらなくていいのだろうか。初めて会った時だって、ぼろぼろだったのに。

 ブレンの普段の態度から見るに、その答えは少し矛盾があるように思えた。

 だがブレンは静かに首を振る。

「ともに戦場に立つことだけが守るってことじゃない。帰る場所を守ること、それを示すこと……それが私がすべきことです。今の私のレベルで出来ることを間違えない。過大評価しない。それも、大切なことですよ」

 ブレンの言葉は、アルトにとって衝撃でしかなかった。

 そんな考え方もあるのかと、胸に響いた言葉だった。

 

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