◇◇◇
学院へ帰ると決断したアルトを受け、シスがゲートの調整をし始めた時だった。
不意に、シスの通信端末が鳴り出した。
「どーしたのさ、ニナ。珍しいね」
耳に当て、シスは通話モードに切り替える。傍らで待ちぼうけのアルトが怪訝そうにシスを見やった。
『すみません、シスさんっ。アルトは、アルトはそこにいますか?!』
「え、おにー……さん?」
意外な人物で、思わずシスはそうこぼした。アルトが少しだけ緊張した面持ちを浮かべる。
『お願いします! アルトを連れて戻ってください! このままじゃ、ニナが、レンがっ!!』
「それは……」
シスが言いかけた瞬間、手から端末が乱暴に奪われる。
「兄貴、何があった?」
驚くほど冷静な声で、アルトは問いかける。端末から聞こえたクオルの切羽詰まった声も聞こえていたはずなのに。
『アルト? すぐに戻れますか? それと、遮断結界を……』
「戻る。それも解いてもらう。だけど、俺は兄貴を受入れたりはしねーから」
クオルはそこで言葉に窮した様子だった。アルトはシスに端末を返し、視線で促す。早く戻るぞ、と。
シスは頷き返して、クオルへ告げた。
「すぐに戻るから。待ってて、おにーさん」
クオルの返答を待たず、シスは通話を切る。
ゲートの転送座標をニナの通信端末に合わせる。これであとは転送魔法を発動させればいい。だがその前にしなければならないことがある。
「……心配すんな」
「え?」
アルトは少しだけ寂しげな笑みを浮かべて、言う。
「俺は、まだ兄貴を越えてねーから」
「あーちゃん……」
「ほら、行くぞ」
そう再度促したアルトに、シスは答える。
「うん。……帰ろうか、あーちゃん」
ぱん、とアルトの遮断結界が解除される。同時に、転送魔法によって、世界の空気が歪んだ。
◇◇◇
学院独特の、混沌とした空気がなだれ込む。
転送と同時に熱風が駆け抜ける。
「な、何だ?!」
周囲を見れば、すぐ前方でクオルが最大出力でシールドを張っていた。薄い山吹色に見えるほどの強力なシールドの向こうに、巨大な黒い影が見える。その影から叩きつけられる炎の塊を防いでいた。
「兄貴?!」
「アルト、ニナとレンを治療できますか?!」
「治療?」
言われて、クオルのすぐそばで倒れている二人にようやく気が付く。アルトはシスとともに駆け寄った。
「ニナ、レン?!」
見れば、二人とも血に塗れていた。レンは肩に深い傷が見え、額から血を流していた。ニナは黒いワンピースで分かりにくいが、同じくあちこちが裂けて、血が土にしみこんでいる。
「う……ぁ……、あーちゃ……遅い……」
「どこが一番痛む?」
問いかけたシスに、ニナは苦しそうに答える。
「足……動かない」
レンはすでに意識がない。状況は思ったより悪い。
「兄貴、俺がシールド代わる!」
「何言ってっ……」
「俺、治癒なんてまだ出来ねーんだよっ!」
クオルは振り返って、ふっと笑みを浮かべた。
「仕方ないですね、ほんとに。いつになったら越えるんですか」
「そのうち、嫌でも俺が兄貴を弟に格下げしてやるよ」
「……そうですね」
クオルは、楽しそうな笑みを浮かべた。
越えるなんてまだ先だ。だけど、越えたとしても消えさせたりはしない。そのために、強くなるのだから。
「守りなんて、俺には向いてないと思ってんだろ」
「そうだね。思ってるよ」
「じゃあどーすればいいのか、お前は分かってるよな?」
「もちろん。あーちゃんの仰せのままに」
アルトは苦笑し、前を向いた。クオルと、最適なタイミングで役割を交換する。治癒と、迎撃。
炎が切れるその、一瞬。
「アルト!」
「あーちゃん!」
「分かってるよ! 行け、炎の章ッ!!」
シスへ魔法を発動させ、同時にシスが影へと切りかかる。入れ替わりに術を解いて、クオルが治癒へ切り替える。
寸分狂わぬ、タイミングだった。
シールドの切れた先にいた影は真っ黒な……ただ黒い、シルエットだった。影が立体化したような、黒い姿。形から判断すると、大型の竜だった。
シスが切りつけた部分から、炎は上がるも、ダメージを負った様子はない。炎に照らされても、その姿は黒一色だった。
「な……んだよ、こいつ?!」
「典型的な『影』だね。……まだ楽そうな相手だよ」
「効いてねーけどな」
竜は反撃が意外だったのか、機会をうかがうように攻撃の手をやめた。それでいい。少しでも時間を稼げれば問題はない。
「兄貴、あとどれくらいだ?」
「レンが思ったより深いんです。応急手当程度じゃもしかしたら……」
「……あと一つ」
正面を睨んだままアルトは言う。クオルが顔を上げて、アルトに目を向けた。
「俺のコントロール不良、兄貴が補うことは出来るか?」
「不可能では、ありませんけど」
「じゃあ、任せた。こいつに物理攻撃も魔法攻撃もろくなダメージはいかないんだろ。だったら、これしかねーからな」
アルトは自前の杖を宙から握る。時転武器と呼ばれる、武器携帯方式。青い杖を手に、アルトは目の前の影を見据えた。
「……シス、悪いけどお前に術をかけてやる余裕はないから、適当にあしらって時間稼げよ」
「そーいう適当な無茶振りのあーちゃんは嫌いじゃないよ」
「俺はお前が嫌いだけどな!」
お互い小さく笑って、シスが先に動く。
影はその巨体をひねって、シスの動きに対して、反応する。
四元の章は八章の基本章で構成される。それが、代々受け継がれてきた魔法書に記された定義だ。呪文も、全てがこの本に書かれて継承されていく。
だけど、それだけで四元の章が使えるわけではない。血統と、媒体。その二つがそろって初めて意味を成す。
フォリア家の血筋と、宝杖アヴィアスター。その二つを受け継いだアルトだけが、本来は四元の章を使うことが許される。
――それが、表向きの継承。
実際はそう単純ではない。
魔法書が盗まれれば術は広まってしまう。血族が絶えれば、魔法が途絶えてしまう。そんな簡単に、滅ぶことが許されるわけもない。
一子相伝。それは、確かに嘘ではない。クオルが知らなくて、アルトだけが知っている章がある。
「アルト……これ……」
「あんま、使いたくねーんだけどな。……これ、嫌いなんだ」
杖に添えた手を伝って、クオルにも見えているのだろう。
この一子相伝の魔法を受け継ぐにあたって、アルトが引き継いだのは、『母』そのものだった。
「この杖を使うときは、最後の章を使うときだけって、俺決めてた。だって……きついだろ。……母さんを酷使するのなんてさ」
アヴィアスターは、アルトの母そのものだった。母の全魔力を注ぎ込んで作られた杖。それはすなわち、命をかけた作品だ。この杖の作成と引き換えに、母は命を落としている。
それが、母の役目。そして、残された子供を守るのが、父の役目。
「親父だって……つらいよな、兄貴」
「アルト……」
「だから、俺は……兄貴を守れるように、強くなるから」
傍らでコントロールを引き受けてくれる、かけがえのない存在。それを守りたいからこそ、アルトは前を向く。
「第九章、虚無の回廊!!」
全てをリセットする禁忌の魔法が、発動した。
相手と自分の魔法をキャンセルする究極にして最弱の魔法。それが第九章。
魔物は魔力の影響で暴走したものだ。影はその魔力で暴走した魔物の、残滓。魔力そのものだ。だからこそ、影に対しては絶対的な破壊力を示す。
すう、と見る間に影の黒が薄まり、数秒と経過せずに跡形もなく消え去った。
だけど、これが何を招くかも、アルトは覚悟していた。
「……兄貴」
「大丈夫ですよ。まだ、すぐには消えたりしませんから」
自分自身の魔法のキャンセル。それはつまり、アルトとクオルを分けていた魔法をリセットしたに他ならない。
「……ごめんなさい、アルト。僕はずっと……騙していた」
「んなこと、どーでもいい。俺は……兄貴がいたからここまで来た。兄貴があんな変態を見つけてきたから、ドゥーノの件も兄貴の件も、飲み込めた」
クオルは困ったような笑みを浮かべて、頷く。
「……兄と、慕ってくれてありがとう、アルト。……アルトがそうやって慕ってくれたから、僕は……アルトに記憶を託すことに躊躇いがないんですよ」
「俺は、兄貴の記憶を受け取る気はねーぞ」
「……でも」
「一時預かりだ。今はとりあえず、そうする。だけどいつか、必ず俺は兄貴を取り戻す。記憶を返してやるからな」
「……強くなりましたね、アルト」
嬉しそうに、クオルは言う。立て続けに窮地に立たされて、強くを成らざるを得なかっただけかもしれない。だけど、それでもアルトはまだここに立っていた。シスという支えも持ちながら。
「ありがとう、アルト。僕はこれで後悔も未練もなく、行けます」
「兄貴っ、待っ……」
それが、ドゥーノのような別れだったら、あるいは、普通の死であったなら。
きっと、アルトは今もクオル・フォリアだけを兄と慕えたはずだった。
――ばちゃんっ、と全てが、崩れた。
「…………え?」
クオルの笑顔は、いつだってアルトにとって安心の象徴だった。最後には頼る、最初に反抗する。
そういう存在がクオルだった。
「……に、き?」
それが、どうしてこんな形になるんだ?
ぽたぽたと、薄い朱色を混ぜ込んだ黄色っぽい白の粘性の液が手のひらから滴る。震える手を見つめ、アルトは茫然と繰り返す。
「兄貴……、あ……にき?」
「あーちゃんっ……!」
「う……!」
シスに支えられると同時にこらえきれずアルトは膝をついて嘔吐した。
喉が焼け、涙が零れ落ちる。鼻の奥が痛い。独特の匂いが鼻を突く。吐くものがなくなって、それでも吐き気が収まらない。口の中に嫌な味が広がるのが止まらない。
「我慢しなくていいから。ね、あーちゃん」
肩を抱かれながら、アルトは涙のにじんだ目で、再度現実を直視する。
訳が、分からない。
体の組成が結合を断ち切られたかのような、光景。輪郭を失った、人間の組成そのものがそこにある。粘性の液体が水たまりのように広がり、クオルの着ていた衣服がその液体に濡れていた。
結合が切れそこなった半分潰れた眼球が、埋もれている。
「う……あ……ぁ……」
「見なくていい。あーちゃんの中にある、おにーさんだけを覚えていればいい」
冒涜的なそんな光景から逃れるように、アルトの意識は徐々に薄れていった。
◇◇◇
――恨んでいるか?
――今は、そんなことありません。
――何故そう思える。私はお前に死ねと言っているのだぞ?
――そうかもしれません。だけど。
視界が、開けた。父の、複雑そうな顔が見える。
「僕は、アルトが兄と慕ってくれただけで、嬉しかった。父上が、名前をくれて個人として扱おうとしてくれたから……幸せですよ」
ふわりと、父が自分を……クオルを、抱き締める。
そして、すまない、ありがとう、と小声で父が呟いた。
「アルトも、クオルも。私にとっては大切な息子だったよ」
あまりにも、切なくて、痛い。それがクオルに贈られた父からの唯一の愛情で、アルトに託されたクオルの最後の記憶だった。