第一話 邂逅 -initiator-

 

 太陽が一番高くなったころ。青い空に、薄く白い雲がかかっている。窓を開ければ、冷たい風が舞い込んでくる。だが暖炉の火が揺れる室内には、喚起も必要だ。ひゅぉ、と舞い込んだ風に、暖炉の火がゆらゆらと不規則に揺れる。

 窓の外から見える景色は、塀の向こう。石造りの外壁に木造の壁をこしらえた部屋は、一人部屋にしては広い。

 ベッドと机。来客応対用のソファーと、ローテーブル。それくらいしか、物としては置いていない。

 無駄に広い、無駄に整えられた部屋。

 そんな部屋の主は、小さくため息をつく。

 手入れの行き届いた部屋は、いつでも自分の部屋でないような感覚を与えていた。 一日二回の掃除担当が徹底的に掃除をしていくのも、原因の一つだろう。

 手伝おうとすれば、全力で断られてしまう。

 自分の部屋に愛着が持てないのは、当然といえば、当然だった。

 居心地の悪い部屋。

 窓枠に頬杖をついて、ぼんやりと外を眺めて過ごすのが、一番心の平穏を保てていた。

「……また。何黄昏てるんだ? 趣味か?」

 声に振り返ると、呆れたような表情を浮かべて、腕を組む少年がいた。

「どっちでもありません。ただ……」

「ただ?」

「……することがないだけです」

 ぽつりと返すと、少年は悲しげな表情を過らせ、次いで苦笑した。

「なら、付き合え。ディルも待ってる」

「そうなんですか? 行きます!」

 ぱぁっと表情を輝かせた部屋の主に、少年は頷いた。

「今日こそ、あいつを負かす」

「勝てるといいですねー」

「馬鹿、勝つんだ。いつまでも負けたままでいられるか」

「そうですねー」

 まるで他人事のように。でも、楽しげに彼は同意した。

 部屋の主の名は、クオル・クリシェイア。

――これは、それでもまだ、平和だったころのクオルの物語。

 

◇◇◇

 

 石造りの人が三人並んでもまだ余裕のある廊下。人が忙しなく行き過ぎる廊下を、さっさと進んでいく背中を、クオルは小走りで追いかける。窓から吹き込む冷たい風がクオルの金髪を揺らす。着こんだ白いコートが少し鬱陶しい。

 それでも、城内の空気の変化は乏しかった。

 正面から歩いてきた兵がクオルの姿を捉えると、慌てて壁際に直立して、道を開ける。

 それは至極当然の反応だった。

 しかしそのたびに、クオルの心は小さく軋む。

 前を歩く同い年の少年の背を見ながら、クオルは寂しく思わずには居られなかった。

 これも、与えられたものの一つなのかもしれない、と。

 クオルは物心ついたころから、この城の中から一歩も出た記憶がない。

 王政国家の長男として生まれたクオルだったが、当時戦中だった国は敗戦。属国として、かろうじて国としての形は保った。権力はすべて持っていかれて、今はあるだけの存在だった。

『王』の座は剥奪され、与えられたのは『領主』の座。

 それでも、城内の権力は生き残っているのだから、仕方ないことといえば、そうで。

 ただ、クオルには王としての素質は望まれていなかった。

 父の、国王の願いはただ一つ。

 独立。

 クオルには従う道しか残されていない。それを否定する事は、自分の立場を無にすることと同じだから。

 名前だけの国から脱却し、再び王国としての姿を取り戻すには独立しかない。

 王が不要なら、自分の存在はなくてもいい。

 それが分かっているからこそ、クオルは従うしか、出来なかった。

 自室に半幽閉され、定期的な『儀式』に駆り出されるだけの日々を強要され続けているとしても。

(ああ……明日も、儀式の日だ)

 思った瞬間、脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。口の中に嫌な味が広がり、吐き気が襲う。

眩暈までもが付随して、クオルは思わずその場にうずくまった。

 湧き上がる暗く澱んだ痛み。重い苦しさが胸の中に渦巻いてクオルは強く、目を閉じた。

「クオル? 大丈夫か? 具合が悪いのか?」

 傍らに膝をついて声をかけてくれる存在に、クオルはゆっくりと目を向ける。

 心配そうに自分を覗き込む瞳に、クオルはほんの少し、ほっとした。

「……大丈夫、です。ラーズは、心配しすぎです」

「なら心配かけるような行動をするな。……立てるか?」

 静かにクオルは頷いて、手を借り立ち上がる。

 少し覚束ない気もするが、これ以上心配もかけられない。だからこそ、クオルは小さな笑みを浮かべてみせた。

「行きましょう」

 そう促したクオルに、ラーズは渋々頷いた。

 ラーズ・ノクターン。クオルが物心ついたころから傍にいて、ともに育ってきた友人の一人。

 もう一人はディルオーラ・ルヴィースという少女。

 同じ年頃で剣技においてディルに勝てる者などいないほどの、腕前を持つ。

 城内を抜け、中庭に出ると、仁王立ちでディルが待っていた。

 茶色のセミロング。しかし一房だけ、燃えるように赤い髪を持つディルが、こちらに気付いてひらりと手を振った。

 

◇◇◇

 

 ディルは魔族とエルフの血を引く、混血の少女だ。

 そしてクオルとラーズは人間種。人種の違いは能力の違いをも生む。

 この世界には四つの種族がいる。

 一つ目は、科学と魔法で文明を作り上げてきた、最大派の人間。

 二つ目に、高い戦闘能力を持つ、魔族。

 三つ目に、高い知性と、美貌を持ち合わせた、エルフ。

 四つ目は、圧倒的な寿命と魔力を持つ、天使族。

 それぞれの種族間に横たわる溝は、この世界の歴史と同じくらいに、深い。

 特に、人間と魔族間の関係はすさまじいものがある。同じ生活圏を持つなどもっての外、目を合わせれば一戦を交える地域まであるという。

 ただ、それは一般的な感覚だった。クオルにとっては別世界の話のようなものだ。

 ディルに対して、嫌悪など抱いた試しがない。

 少なくともクオルにとっては、他人はすべて同じだ。

 種族という問題より、接する人間に制限がある生活を、続けていたのだから。

「惜しいわ」

 口元に笑みを浮かべ、ディルはぎりぎりの距離でラーズの繰り出す斬撃を避けた。

 木刀同士がぶつかれば、乾いた木の音が中庭へ鳴り響く。高速の剣戟。

 付近を通り過ぎる兵が時折視線を向けながら、歩いていくのが見える。

 そんな中庭で、ディルとラーズはいつも通りの手合わせをしていた。

 右へ左へ回避しつつも、着実に後退していたディルに、ラーズが口を開く。

「そろそろ後がないぞ」

「そうね。今日は、……どう出るか、楽しみね。お互い」

 お互いが認め合うがゆえに、繰り出される一手。

 勝敗が決まる一手が繰り出される。

 ひゅ、っと空気を裂く音。

 先に攻撃を繰り出したのは、ディルだった。

 ラーズよりわずかに早い、一撃。

 それをラーズは難なく木刀で受け止めた。ディルの攻撃を予測して、反撃を狙ったのだ。

 ディルは、焦った様子は見せない。お互いが、これは予想していたということだろう。

――次が勝負。

 ぐっ、と前に踏み込み、ディルは体を半回転させる。

 ディルの押しに対し、反射的に木刀で押し戻す力を加えたラーズ。

その木刀の刃先を滑るようにして刃を流し、ディルはラーズの背後へ回り込む。

 ラーズは心の中で舌打ちをしながら、振り返ろうとして、

「チェックメイト!」

 ディルに足元をすくわれ、仰向けに地面へ倒れこむ。

「くっ……」

「今日もあたしの勝ちねー。残念。でも、この間より断然いいんじゃない?」

 木刀を眼前に突き付けながら、ディルはラーズを称賛する。

 ラーズは息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出すと、苦笑した。

「……お前もな」

「うわ、生意気ぃ。あたしに勝てたことないくせにー」

 お互い笑いながら、軽口を叩く。

 それはいつも通りの光景だった。知らず緊張していた体から、ふっと力が抜ける。

 思わず深く息を吐き出したクオルに、起き上がったラーズが視線を向けた。

「ぼーっとしてる暇はないぞ」

「そーよ。クオル、次はあんたでしょ」

「あ、はい」

 促す二人に頷いて、クオルは歩み寄る。もっとも、クオルは近接戦闘に対し苦手意識が強かった。

 ラーズにもディルにも勝てた試しはない。自信など育つはずもなく。自衛のために習得する程度の感覚だった。

 クオルがラーズから木刀を借りて、ディルとの距離を取ろうと一歩下がった瞬間。

「クオル様、こちらでしたか」

 厳粛な声が、クオルの動きを止める。凍る背筋。ぎこちなく、視線を向ける。

ラーズとディルもそれぞれに目を細めつつ、声の主を見やる。どこか、警戒するように。

 立っていたのは、この国の司教だった。穏やかな笑みを浮かべながらも、威圧感を放つ大司教。

 黒をベースとした生地に、地味ながら細やかな装飾の施された衣装に身を包み、一目で司教と分かる帽を被っている。

 この国で、領主の次に権力を持つ存在だった。

 そして、クオルが一番苦手な人物でもある。

「思ったよりも早く準備が整いましたので、お迎えに上がりました」

 顔が引き攣るのを、クオルは自覚する。小さく震え出す手。抑え込もうとそっと手を重ねると、ラーズが一瞥を寄越した。

 何も言わず、しかし痛ましげに表情を歪め、ラーズが冷たく司教を睨んだ。

「儀式は時間や大気の環境等も考慮して日時を設定するはずだ。今でなければならない理由はないだろう」

「さぁ、参りましょう。クオル様」

 ラーズの存在など無視して、司教はクオルを促す。それもそうだろう。

 司教にとって用件があるのはクオルしかいない。それでも、クオルは司教が怖い。近づくことが、本能的に怖いのだ。

 思わずクオルは小さく首を振る。伝わらない拒絶。

 もちろん、司教の距離からは見えないはずだ。それでも、全身が痛みだす。

 恐怖と不安で、体が動かなくなる。

「さぁ、クオル様」

 再度司教が促す。どうあっても、司教は諦めるつもりはないだろう。

 不意に、ラーズが司教とクオルの間に立ちはだかった。思わぬ動きにクオルは目を丸くする。

 刹那、司教の顔に不愉快さが過る。

 鋭利な刃物が抜かれたような恐怖がクオルに突き刺さる。

 咄嗟に、クオルはラーズの背を掴む。ラーズが怪訝そうに振り返った。

「すみません。約束してたんです。……大丈夫ですから」

 無理にでも笑って、クオルはラーズを引き止める。司教の狂気から、一歩でも遠ざけるために。

 それでもラーズは何か言いかけた。クオルはその優しさを振り払うようにして、木刀をラーズへ押し付けると司教の元へと足早に向かう。

 これが自分にとって最悪な選択だと分かっていても。ラーズとディルを失うよりはマシだと思うから故に。

「……行きましょう」

 振り返ることなく、クオルは固い口調で呟いた。

 今振り返ったら、助けを求めたくなってしまう。それを分かっているからこそ、二人を見られない。

「ええ、そうですね」

 司教はそっとクオルの肩に手を回し、それとなく押す。

 それでも思わずちらりと、クオルは背後を振り返ってしまう。ラーズとディルがそれぞれ心配そうに、無力そうにこちらを見ていた。

 その視線に罪悪感が、湧く。

 そして、助けを求めたくなる想いが膨れ上がる。

「貴方は賢い」

 ぞくりとするような、司教の厳粛な声がそんなクオルの思考を掻き消した。

 恐る恐る、クオルが司教を見やる。

司教は前を向いたまま、笑みを浮かべていた。それは、とても無機質な笑み。

「貴方の賢さのおかげで、彼らは生きながらえることができる。安心してください。今回で最後の儀式になるでしょう。そうなれば、貴方は二度と儀式のために時間を割かなくてよくなる」

「最後……?」

「ええ、そうです」

 はっきりと告げた司教の言葉。

――最後。

その言葉がクオルの胸にすとん、と落ちた。

 安堵と歓喜が少しだけ広がって、しかし一方で不安が膨らんでいく。

 本当に最後なんてありえるんだろうか、と。

 

◇◇◇

 

 クオルの唯一といっていい職務の一つが、儀式への参加だった。

 この国を長きに渡って守ってきたという、守護神の降臨のための儀式。

 司教の読み上げる祝詞によって、再度呼び戻すためだと、司教は初めに説明した。随分前の記憶だ。

 そしてもちろん、依代がなければ降臨はできない。

 その依代が、クオルだと、司教は断言する。

 かつて守護神が使っていた、といわれるムーンクレスタという国宝の杖。誰にでも扱えるものではないという、特殊な杖。

 しかし扱えれば魔力増幅機能が他を圧倒するという。そしてその杖に対する親和性が一番高かったのがクオルで、自然と依代へと選ばれた。

 裏を返せばただ、それだけ。それだけで、クオルはこの儀式の継続を強要されていた。

 生まれも助長したのだろう。

 国の跡継ぎが、守護神をその身に宿せば、独立も夢じゃないと。

 だからこそ何度も、クオルは儀式に召集された。

 最初は本当に、祝詞を聞くだけだった。守護神を崇め、そして救いを求める祝詞でしかなかったのだ。

 だが、徐々に徐々に、儀式は変質していく。

 一向に守護神が降臨しないせいで。

 祝詞が、呪術めいた何かに代わるのにはそうかからなかった。

 やがて、そこに不浄なものが持ち込まれる。

 牛の血や、猫の瞳。それこそさまざまな物が。その不浄に反応して、守護神が目覚めることを祈って。

 暗く血塗られた儀式の場所へ、クオルはただ歩を進めていた。

 儀式場へ続く、らせん階段。地下の闇へ引き込む、道のり。

 クオルは司教の前で階段を一歩ずつ下りながら、司教の言葉の意味を考えていた。

『最後』と。

 確実に呼べる方法が見つかったのか、これを区切りとして諦めることにしたのか、それとも……そうやって最後を引き延ばしていくのか。

 今はまだ、分かりようがなかった。

 でも。

 本当にこれが最後なら、どれほど嬉しいことだろう。

 結末がどうであれ、今のクオルにとってはこの儀式が延々と続くことが苦痛だった。

――たん、と最後の階段を降りる。

 古びた木製のドアには、厳重に鍵が取り付けられていた。

 司教は慣れた手つきで鍵を取り出し、開錠する。

 木製の扉を司教が開けると同時に、中からは濁った空気が漏れ出した。

 クオルはかすかに眉をひそめて、努めて吸い込まないように呼吸を抑える。

 初めてここに入った時は、こんな匂いはしなかった。ただ、かび臭いだけの、何の変哲もない地下礼拝堂だったはずで。

 だが今は違う。徐々に、匂いが染みつきつつある。酸化した血の匂いが、獣の匂いとともに。

 先に中へ入った司教に続いて、クオルは室内へ踏み込んだ。

 どの道、立ち止まる自由など与えられてはいないのだから。

 正面には祭壇。司教が灯した蝋燭の炎がゆらゆらと、頼りなく揺れる。弱い明かりが、中央の十字架を照らし、地上のそれとは異なる威圧感を放っていた。

「……?」

 しかしそれ以外は何も、なかった。

 いつもなら牛の首やら、内臓やらが小さな祭壇の上に並べられている。

 だが今日はその匂いすらしない。この嫌な臭いは、もはや染みついたものだ。物理的にだけでなく、記憶の中に染みついたもの。

「あの……」

 不安から思わず、クオルは司教へ声をかけた。

 司教は祭壇の前で熱心に祈っていたところで、クオルの呼びかけに、祝詞を呟くことをやめる。

「どうかしましたか、クオル様」

「いえ……、儀式、って……」

「ああ、ご心配には及びませんよ。ちゃんと、必要なものはそろっていますので」

 そうして、司教は振り返って、クオルに微笑んだ。

 怖い笑みだと、クオルは思った。

 いつもの笑みとは異なる、染み出すような恐怖を感じさせる。

「ただし、少々必要な人材がいますので。こちらで、お待ちください」

 壁際に寄せてあった椅子を引き寄せ、司教はそう勧めた。

 クオルは黙ってそれに従う。

 必要な人材がいる、というのも初めてだった。

 いつもは司教しかいないか、あるいは補助として一人ついている程度。

 補助であるから、何をすることもない。

――いつもとは、明らかに違う。

 本当に最後かもしれない。

 そう思うだけで、クオルの心は落ち着きを取り戻していた。

 微かな、希望が胸の奥にともる。

 数分後、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。

 ばらばらな足音から、複数人居ることが分かる。

「では、始めましょうか、クオル様」

 どこか他人事のように感じていたクオルに、司教が告げる。

 待つことは、しないらしい。再び違和感を覚えつつ、クオルは司教に目を向けて、こくりと頷いた。

 最後であることを、願いながら。

 クオルが立ちあがって、司教に儀式内容について問いかけようとした瞬間だった。

 正面にいた司教が、ずっと後ろ手に組んでいた手を前に突き出す。

「最後の儀式の始まりですよ。クオル様」

 何が起きたのか、クオルが理解するまでに少なくとも十数秒はかかった。

 司教の手に握られていたのは、細身の短剣。その刃は、クオルの腹部に埋もれていた。

――刺され、た? どうして?

 答えを求めて司教に目を向けようとして、司教は手首をひねった。それは短剣が九十度回転したことになる。

 違和感から、神経に触れたか急激な痛覚が作動する。

「あ…………うぁ……」

 声も出せないほどの激痛がクオルを襲う。

 ずる、と短剣が引き抜かれると同時に、クオルは膝をついた。

 その衝撃が再び神経を焼き、痛みが走る。

 声も出ない。ただ震える体を支える事も出来ず、クオルはそのまま床に崩れ落ちた。

 見る間に血だまりが広がっていく。体温が奪われて、寒気が這い上がる。

 それでも、まだ意識だけは保っていたクオルはぼやけた視界で、司教を見上げた。

 涙がにじんで、視界がかすんでいたが、司教が微笑んでいるのだけは、分かる。

「文献を探させたのです」

 足音が、近づいた。司教以外の、階段を降りてきた人物であろう足音も。

「守護神、イシス様は、困難に見舞われた人間を救うために降臨された」

 イシス。それが守護神の名ということを、クオルは初めて知った。

 恍惚の表情で語る司教に、クオルはただ、荒い呼吸で視線を向けるしかできない。

 訳が、分からなかった。今までとは決定的に違う現実に、思考が追いつかない。

「つまり、今一度あの方に降臨していただくには、人間を差し出さねばならないのです」

――生贄。

 直感的にそれが自分だということも、クオルは悟る。

 つまり、死ぬという選択なのだろう。諦めが、体から力と感覚を奪っていく。

「大丈夫ですよ」

 不意に司教とは別の声が聞こえた。あるいは、それも幻聴か。目はかすみ、クオルはやっと声を聞き取れる程度だった。

 それを知ってか知らずか、女の声が続ける。

「貴方を死なせはしません。貴方は大切な依代なのですから」

 生贄ではなくて、依代。死して肉体を明け渡すのではなく、生きながら意識を明け渡すこと。

 つまりそれは、イシスの直接の降臨ではなく、クオルの肉体へその力を呼び入れることだ。

 それが司教に命を下した領主の願い。ひいては、父の、願望。

 その事実が、クオルの心にはひどく重い。

 犠牲にすら、されないのだ。個人として、扱ってもらえることもなく。

 強烈な虚脱感がクオルを襲う。全身から力が抜けていくのを感じつつ、クオルは目を閉じた。

 瞼の裏で、ラーズとディルを思い出す。

 たった二人の、親友の姿。自分を個人として扱ってくれた数少ない、他人。

――ごめんなさい。

 もうきっと、中途半端な状況では、戻れない。そうして、一番長く続く儀式は始まった。

 

◇◇◇

 

 どれくらい時間が過ぎたのか。鈍い思考で、クオルは時折そんな事を考えていた。

 生きているのか、死んでいるのかすら分からない。痛いのか、苦しいのか……あるいは寒いか暑いか。

 感覚の全てが鈍り切って、意識から乖離していた。

 死なないギリギリのところまで殺されかけながら、生きているかの境目で治療を止め置かれる。

 ただ、生と死のぎりぎりのところをクオルは彷徨い続けていた。

 まさに、半死半生の状態。

 司教が連れてきたのは文官と、医師、そして看護師だった。

 イシス覚醒の状況を確認する文官。医師と看護師が、クオルの生命をかろうじて保っている。

 現在のクオルは、鎖と縄で椅子へ拘束され、しかし常にどこかしら傷口を覗かせていた。

 拘束されながら治療されるという、複雑な状態の中、クオルの耳に司教たちの声だけが届いている。

「――――」

「――――」

 遠くに聞こえる司教たちの会話は、よく分からなかった。

 理解するための思考回路が回っていないせいで。

(このまま、死んだ方が楽になれるなら……もう死にたい)

 身も心も疲れ果てたクオルは、ぼんやりとそう思う。

 何もかも、投げ捨てたかった。

 最後には、違いない。でも、それはどちらかに振り切った最後でしか、なかったのだ。

『……このままが続くと思うか?』

 不意に、どこからともなく、声が聞こえた。

 司教たちよりも近くに聞こえた、しかしどこか幻聴のような危うさのある、声。

『お前を死なせることはしないだろう。意地でも。だとしたら、次は何をするか、予想はしているのだろう?』

 心に、直接語り掛けてくるような声だった。心も体も疲弊していたクオルは、口を動かすこともできなかった。

ただ、思考することはかろうじて出来る。

問いに対する答えをクオルは思考する。

 司教がここまでしてまだ覚醒しないとしたら、自分が抵抗していると考えるに違いない。

 もともと、喜んで儀式に参加していたのではないことを、分かっていたのだから。

 だとしたら、司教なら恐らく、退路を断つ。

 ラーズやディルを人質として依代としての覚醒を強要するだろう。

 司教はその程度、なんでもない顔で成し遂げるだろう。

 暗い気持ちに囚われたクオルに、気配が頷く。見えないというのに、クオルはその気配の動きが手に取るように分かった。

『その通り。……でも、そんなことはさせたくない。そうだろう?』

 当然だった。

 巻き込みたくなくて、今回だって司教に従ったのだから。

 クオルが黙って肯定する。

 すると、気配が笑った。

『私も、お前の状況が見るに堪えない。もしも』

 もし、も?

『お前の心の一部を私の場所として使用することを良しとするのであれば、私はお前と共に生きていこう』

 その提案は、クオルにとって衝撃以外の何物でもなかった。

 反射的にクオルは、ほとんど閉じられていた瞳を開く。

 目を開くと、そこには漆黒の世界が広がっていた。

 拘束されていたはずの縄も鎖も、負っていたはずの怪我さえ存在しない。

 現実感が、皆無だった。

 そして、クオルは直感的に悟る。多分、意識の底で見える景色なのだと。

 この感覚は、意識を無に保つ、瞑想状態とよく似ていたから。

 そして、その漆黒の中、背後に気配を感じる。先ほどから語り掛ける、声の主に間違いなかった。

 恐らくは、この声の主は……イシスと言う、クオルが依代となり呼び込むはずの存在だ。

「共に、生きる?」

 振り返ることなく、クオルは尋ねた。

 たとえ振り返ったところで、きっと姿は見えないと感じて。

「私を宿せば、人間の許容量を超えた魔力を得ることになる。通常、そうなれば人間の肉体は耐え切れずに崩壊することになる。だが、お前はそうはならない。私という、許可証を得たようなものだ」

「許可証……」

「代わりに、お前は極端に老化が遅くなる。実質、ほぼ不老といっていい。つまり、人間としての普通の人生を全うすることはできなくなる」

 少なくとも、もう……普通のまま帰れないことは薄々分かっていた。

 それでも躊躇する自分に、クオルは自嘲する。

 死ぬことも怖い自分を、心の奥底で笑った。

 闇でも夜でもない漆黒の世界の中、背後の気配は、クオルの様子など無視して淡々と、続ける。

「私の力を得たお前を利用して、何がしたいのかは想像がついているのだろう?」

「優しいんですね。……イシス様は」

 ぽつりと返したクオルに、怪訝そうな気配をにじませる。

 意外な言葉だったらしい。

 クオルは小さな笑みを浮かべて、言った。

「強大な力で何をしたいか、なんて僕は興味がありません。どのみち、逆らっても何にもならない。ただ、僕は……」

 これ以上、孤独でいるほうが余程、つらい。

 これ以上、このまま薄暗い地下で、誰にも知られないまま死ぬのが怖い。

 個人として認めてもらえるのは、たった二人だけだった。

 ラーズとディルだけが、クオルにとっての生きているヒトだった。

 自分が自分で居られる稀少な存在だが、毎日顔を合わせられるわけではない。

 二人が居てくれる時間以外はすべて、孤独だった。

 自室で、儀式で。

 求められているのは『強大な力を持つ跡継ぎ』であって『クオル』ではなかった。

 そこに、クオルの感情など不要だと、切り捨てられ続けられてきたのだから。

 ふ、とイシスが背後でため息をつく。

「……呆れたものだ。孤独の代償が私など。後悔するぞ」

「その時は、一緒に死んでくれるんでしょう?」

 肉体が一緒ならば、死のタイミングは同じはずだった。

 だからこそ、そう返したクオルにイシスは答えを渋った。

 クオルは苦笑して、首を振る。

「僕は、生きたいわけじゃない。だから、一緒に死んでくれるだけで十分です」

 馬鹿者、とイシスが呟いたのが聞こえた。

 我ながら、馬鹿げていると思った。

 それでも、クオルにとって「死」だけが自由だった。

 どうやって、どこで、いつ死ぬのか。

 それだけがクオルに与えられた自由。

 生きている意味も、存在する価値も、全て周りから与えられたかりそめのもの。

自由などそこには一つもなかった。

 ラーズとディルと共にいることでいくらかは心の安らぎを得られたとしても、二人との時間も、与えてもらう時間でしかない。

 だから、クオルにとって唯一選べるのが『死の形』だった。

 そして、クオルが願った形は『孤独ではない死』だった。

 最後の最後に、誰かがいてくれるなら、それでいい。

 ずっと抱いていたクオルの、暗黒の願望だった。

「…………そこまでの道のりが、血塗られていようとも」

 ぽつりと、イシスが口を開く。

 クオルは瞳を閉じて、イシスの声に耳を澄ます。

「それでもお前は、私を受け入れるというのか?」

「はい。イシス様」

「……本当に、頑固で馬鹿な奴だ」

 吹っ切れたような声音で、イシスは言った。

 ふわりと、クオルの肩にイシスが手を触れた。

 その手が、久しぶりにクオルへ暖かい温度を伝えてくれる。

「イシス、でいい。私は主ではない。お前とこれから、共に生きるものだ」

「……はい。……イシス、さん」

「では、今度は現実でな」

 そのイシスの言葉を合図に、クオルは急激に意識が薄れていった。

 

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