第三話 comparison ―虚構血族―
目を開くと、白い天井が見えた。
「ここ……」
掠れた声を絞り出す。視界を巡らせてみると、薄緑のカーテンが囲っていた。
うまく回らない思考でぼんやりと世界を眺めていると、しゃっ、とカーテンが開いた。
「あっ、あーちゃん! よかった、目、覚めたんだね」
桃色の髪が、揺れる。ニナだった。
「ニナ……、お前、怪我は……?」
「こんなだよ」
そう苦笑いを浮かべたニナは、左わきにある松葉づえを示した。
「しばらくは安静だってさ。レンもそんな感じ」
「そっか……、……良かった」
薄く笑みを浮かべたアルトに、ニナは不意に、表情を曇らせた。その意味が分からず、アルトは心持ち首をかしげる。
「あーちゃんこそ、大丈夫?」
「どういう、意味だ?」
「……クオル、だよ」
「クオル……?」
誰、だったろう。うまく思考が回らないせいで、ど忘れしているんだろうか。
……違う。余計に思考が混乱する。
「俺は……? 俺の名前、って……?」
「アルトでしょ。しっかりしなってば、あーちゃん」
「そう、だよな。俺はアルトで、クオルは……兄貴、で」
言って、自分で納得するとようやくすとんとその名が落ち付いた。兄と慕う、双子の兄にして、自分の半身……だったはずだ。
クオルは、自分の中にあるはずだ。記憶が、混在しているから。
「……どうやって?」
「あーちゃん?」
どうやって、一つになったのか思い出せない。そういえば、どうしてここにいるのだろう。どうして、ニナは怪我をしたのだろう。怪我をしたことは知っていた。だけど、それがどういう原因か分からない。
「分かんね……分かんねぇよ……気持ち悪い。気持ち悪い、なんだよこれ? 何なんだよ?! 俺は何なんだよ? 兄貴? 兄貴は?」
ぐちゃぐちゃになった記憶の底に、兄の姿が見える。だけど何も分からない。何がどうなって今に繋がっているのかが全く分からない。
心拍数が跳ね上がり、視界が不規則に揺れて気持ちが悪い。
「あーちゃん、大丈夫だから」
ふ、と冷たい手が、額に触れた。
不意に落ち着きを取り戻してクリアになった視界の中に、アルトはシスの姿を認めた。まだ荒れている呼吸をしているせいか心配そうに、ニナが見つめている。
「おにーさんは、あーちゃんの中にいる。それだけで、今は良い」
「兄貴は……消えたんだ……よな?」
自分で言って、酷く痛い。だが、確認せずにはいられなかった。少しずつこの記憶と折り合いをつけないと、いつまで経っても前には進めない。
「……満足そう、だったよ」
「俺、何も、何も思い出せない。どうしたらいい? 兄貴が、思い出せない。こんなの嫌だ……俺は、こんなんじゃ……」
「今は混乱してるだけだよ、きっと。落ち着いたら、大丈夫。……ね」
「違う……違うんだ」
力なく首を振ったアルトから、そっとシスが手を離す。怪訝そうに。
「怖いんだ。思い出そうとすると、理由も分からないのに怖くて、震えが止まらなくて、兄貴を思い出せないんだ」
涙がにじんできた。それだけじゃない。クオルを取り戻すと、誓ったはずなのに。それを思う事さえ、怖い。
そんな自分が嫌でたまらなくて、アルトはこらえきれず、嗚咽する。
「嫌だ、このままっ……兄貴を忘れるなんて、嫌だぁ……っ!」
「あーちゃん……」
せめて最後が思い出せたなら、良かったのかもしれない。だけどその肝心の最後が何も思い出せない。どこで兄と別れて、どこで消えたのだろう。
何も分からなくて、しかし思い出そうとすると怖くなって、思考が停止する。
忘れたくないのに、忘れようとしている自分がいる。
それが、たまらなく辛くて、苦しい。
◇◇◇
疲労が抜けていないか、あるいは負荷がかかりすぎたか、再び眠りについたアルトを見つめながら、シスは小さく息を吐く。
傍らにいたニナが、そっと問いかけた。
「……ここに置いといて、大丈夫なの?」
「どーいう意味で?」
そう切り返したシスに、ニナは目を伏せて、ぼそりと言う。
「クオル、そろそろ任務終わって戻ってくるころだよ。そうなると大体、ここに来る羽目になるでしょ。鉢合わせたら、それは可哀想だよ」
「じゃあ、あーちゃんをどこに居させようってのさ」
殊更冷たくシスは言い放つ。ニナはちらりとアルトの寝顔を見やって、苦痛に苛まれている表情に、再び目を伏せた。
「……そだね。ここくらいしか、今のあーちゃんには居場所がないよね」
「あーちゃんは、いずれ水虎になる。避けては、通れない」
「ねぇ、シスさぁ」
シスはニナに視線を向ける。ニナは、真剣な瞳で、問いかけた。
「シスは、あーちゃんとクオルと、どっちを守りたいの?」
「……聞いてどうするのさ」
「ただの興味」
しれっと答えたニナに、シスは苦笑する。それがニナの欠点であり、長所だ。
「どっちも守りたかったよ」
「……うわ、凄い自信家だよ、こいつ」
ニナがぼそりと零す。シスは肩をすくめて見せた。
「でも、どっちも守れなかった。結局繰り返させてしまった。……だから」
「だから?」
「……その先は、繰り返させない」
それは、最初から決めていたことだ。二度と、同じことは。
◇◇◇
ふと、室内があわただしい気配に包まれその物音で目が覚めた。
「……?」
周りには誰もいない。仕切られたカーテンの向こうでぶつぶつ何かを言っている人影が見える。頭はまだすっきりしないし、体も重い。
だが、こうしていても始まらない気がして、アルトは体を起こした。
動ける。問題ない。
そういえば、いつの間にか病着を着せられていた。裸足のまま床に足をおろし、その冷たさに現実感が少しだけ戻る。
そっとカーテンの切れ目に手を伸ばし、一旦深呼吸。
何をそんなに緊張しているのかは、自分でもよくわからない。
「それでも、使い魔のつもり? もう少し主人の身の守り方を知った方がいい」
びく、と思わずカーテンを開こうとした手が震えた。シスの声だった。しかしそれはいつもと違って、冷たい声。いつだって、真意は見えなかったが、今のトーンは明らかに違う。……本気で、怒りを覚えている声音だ。
「形式的にそうなっているだけです。私は、心の抑圧はしたくない。貴方が知ってるかどうかは知りませんが、クオル様は……――」
クオル様?
「兄貴?!」
突発的に、アルトはカーテンを開いて、そう叫んだ。
カーテンの向こうは、処置台があった。そこに青い顔で横たわるのは、ぐっしょりと血に濡れてすでに白さなど失いつつある衣装に身を包んだ、自分そっくりの人間だった。
その傍らで、シスと見知らぬ男が驚いた顔でこちらを見ていた。
「あーちゃん? まだ起きるのは……」
「兄貴なのか?」
シスの言葉を遮って、アルトは一歩踏み出す。ぺたりと、一歩。
しかし思考がこれ以上踏み出すことを邪魔する。
――クオルは、消えたはずで。
「うぁ……ああ……」
目の前で、確かに。
「ぁ……ああああああああああっ!!」
ぐしゃぐしゃに、溶けて消えたのだから。
「あーちゃんっ!!」
絶叫し、恐慌状態に陥ったアルトにシスが慌てて駆け寄る。
崩れかけたのを抱き留めて、アルトの震えをしっかりと支えるシスの温度を鈍く感じながらも、アルトの心が止まらない。
「嘘だ嘘だ嘘だっ……」
がちがちと奥歯を鳴らして震えるアルトの思考回路はずたずただった。断片的に押し寄せてくる記憶が、アルトの精神を無残に破壊していく。繋がらない記憶という現実が。
「忘れていい。あーちゃん、その記憶は忘れるんだよ。忘れなきゃ、あーちゃんは壊れてしまう。だから、思い出さなくていいっ……」
「兄貴が、兄貴がぁっ……」
「……壊して、いい記憶……です、か?」
かすれた声が、聞こえた。シスが顔を上げた気配。アルトは涙をにじませたまま、それにつられて視線を向けた。
「っ……」
「動いてはダメです、クオル様っ!」
「大丈夫、です。……シスさん、答えて……ください」
血まみれの体を起こした姿に、シスは答えを躊躇していた。
「それ以上負荷をかけたら……その人本当に、心が、死んでしまいます」
ぼろぼろになりながら、まだ目だけは生きた光を宿しているのは、アルトの記憶とは違う、兄の姿。
アルトが強く服を握りしめる。震える手で、本能と、理性の狭間で感じる『これから』に怯えながら。
驚いた顔を見せたシスに、アルトは何も言えなかった。
「壊さず、封印することは……可能だっけ?」
シスはアルトの根底を違わず汲み取って、言葉を紡ぐ。
「……ええ、出来ますよ」
ふ、と浮かべた笑みにシスは頷いた。
「ごめん。……頼んでいい?」
「シス……」
掠れた声で呼びかけたアルトに、シスは静かに微笑んだ。
「壊したりはしない。だけど、少しの間、もう少しあーちゃんが大人になるまでは忘れていた方がいい。じゃないと……あーちゃんが、生きられない」
アルトは鈍い思考の中で、それでも頷いた。自分が一番、分かっていた。
このままでは、混濁した記憶で自分が壊れてしまうことが。
◇◇◇
しばらく入室を余儀なくされた二人は、複雑な空気の中カーテン越しのお隣さんとなった。
クオル・クリシェイア。それが兄に、ひいては自分にそっくりな人間の名前。
血塗れで運び込まれるのは珍しいことではないらしく、医務室担当の女性がぶつぶつと文句を言っているのが聞こえていた。次元総括管理局本部の医務室だと気付いたのは、医務室担当の女性がやってきた時だった。
首から下げたネームプレートに『調査課ラナ・シグルフォード』と記載があってようやく。彼女は大抵はクオルの処置を完了させてから、やってくる。
重症度ではクオルの方が上なので、当然といえば、そうで。
「調子は? そろそろ落ち着いてきた?」
「……何とか」
「ふーん。じゃあそろそろ退室する?」
「帰れってこと?」
「そりゃそうでしょ。本部より実家とかの方がいいでしょ?」
問いかけたラナに、アルトは答えを渋った。そんなアルトにお構いなく、ラナはさっさと点滴を交換する。
「……帰りたくない」
「呆れた。ガキじゃないんだから……」
ため息交じりに零したラナはそれ以上何も言わずにカーテンの向こうに消えた。
自分でも驚くほどの無気力だった。クオルの消失を頭が受け入れきれていない。生も死も、一瞬だった。
こんな無気力状態は初めてだった。小さなため息をついて、目を閉じる。何も考えたくなかった。
「あーちゃん、具合はどう?」
「……どーもしねーよ」
目を閉じたままぼそりと答える。そうしてゆっくりと目を開くと、カーテンをそっと開けて、入ってくるシスを見やる。
「熱もなし、意識も清明。元気そうで何よりだよ」
どんな時も変わらないシスがいる。それがアルトの心に、じわりと黒い闇を広げた。悲しんでほしいわけじゃない。それでも、だった。
「少し、散歩にでも行かないかい?」
断る気力もなく、他にすることもないアルトは黙って頷いた。ベッドから足を下ろしたアルトは、点滴スタンドを支え代わりにしながら、一歩ずつ踏み出す。
シスに先導されながら、室外へ。空調の風が薄着のアルトの肌を刺す。
「寒ぃ……」
「あ。ちょっと待ってて」
アルトの独り言にシスは敏感に反応すると、一旦医務室へと戻る。アルトは扉の向いにある、窓際へ進むと、左半身を預けるようにして、もたれかかる。
外は複雑な色をした闇夜が広がっていた。浮かぶ月が三つ、見えた。
世界は人が一人失われたくらいでは微動だにしない。
そう、強く感じた。
「はい。これしかなくてごめんよ、あーちゃん」
ふわりと肩に温度がかかる。ニットのカーディガンだった。薄い緑色をしたそれは明らかに女性物で、多分ラナのものだ。
だが、他にないのなら申し訳ないが借りることにする。
「……ありがと」
「歩ける? ゆっくりでいいよ」
こく、と頷いてアルトはシスの隣を歩き出す。ぺたぺたというスリッパの音。そしてからからと車輪が回転するイルリガートル台の小さな音が廊下に響く。人の気配がほとんどない。ずいぶん静かだった。
「夜、なのか?」
「もうすぐ朝だよ。……落ち着いたみたいで、よかった」
「……なんか、もやもやするけど。……今は大丈夫。思い出せねーけどさ。それでいいって、そう思ってる自分がいる」
アルトの答えに、シスは珍しく悲しげな笑みを浮かべて一つ頷いた。
実際は、嘘だ。そう思わないと、今にも震えて泣きそうになってしまうほどなのだから。
ぐっと奥歯を噛み締めて、アルトは問いかけた。
「なぁ、シス」
「うん?」
「お前は……いてくれる、よな? ……俺を置いて、どっか行かないよな?」
声が震えた。その答えが怖いにもかかわらず、聞かずにはいられなくて。
寄りかかってしまっている自分が、アルトは嫌だった。
ふと、髪をそっと撫でられアルトはそろそろと顔を上げる。どこか寂しげに微笑む、シスが見えた。
「約束、したよね。あーちゃん」
「約束……?」
「あーちゃんがどんな答えを出そうとも。僕はあーちゃんだけの味方だよって」
「シス……」
「だから、ちゃんといるよ。……一緒に」
すとんと、その言葉が胸に落ちる。単純な自分を、アルトは心の奥で小さく笑った。
◇◇◇
エレベーターに乗って、二階へ。二階は転送フロアと、会議場しかない。用など、ないはずだった。しかしそれをとやかく言う気力も今のアルトにはなかった。ただ先を歩くシスの踵を、追いかけるだけ。
「……久しぶりだね、アルト?」
「え……?」
声をかけられて顔を上げると、そこには学院のローブを羽織った知人がいた。ニナとレンの保護者にして、異種魔導研究室の講師。
ファゼット・ドーヴァ……――管理監査官でもトップクラスに位置する人物。外見こそ温厚そうな少年のそれだが、実年齢は三桁を超えるという。
緑灰色の少し長めの髪を揺らし、ファゼットは薄く笑みを浮かべた。
「迎えに来たよ」
「むか、え?」
「そ。療養が必要なんだろう?」
すぐさまアルトはシスを見やる。涼しい顔で、だってさ、とこぼしたシス。自分が手配したのだと、こうも分かりやすく示すシスは珍しい。散歩だなんて言って連れ出して、シスにしては下手な気の使い方だった。だが、逆にそれが安心を与える。
帰りたくないという自分の思いを言わずとも汲み取ってくれる誰かがいてくれたのだと、理解できたのだから。
「……しょーがねーの」
小さく笑って、アルトはファゼットに頷いた。
「ん。……そーする」
「じゃあ、二番機で待ってて。すぐ行くから」
それぞれ頷いて、アルトはシスに支えられながら歩き出す。二番機は入って左手すぐにある。ふと、アルトは自身のゲートパスを持っていないことに気づく。病着だったのをすっかり忘れていた。
「俺、パスないよな……?」
「ああ、大丈夫だよ。僕のパスで連れていけるから。座標合わせだけ、ここでするんだと思うよ」
「……そっか」
薄暗い転送室の中。目を閉じれば今にも眠りに落ちれる気がした。低く響く、振動音が心地よく耳朶を叩く。
「さて、それじゃ行こうか」
そう言いながらやってきたファゼットに、目を向ける。
「っ!」
びくっと身をこわばらせて、アルトはシスの陰に思わず身を隠す。
「……? あの?」
「ああ、気にしなくていいよ。キミは、別に」
ファゼットと一緒にやってきた男は、隣で寝ていたクオルを背負っていた。顔色は相変わらず悪い。
だがその姿は、見れば見る程自分にそっくりで。男はシスの言葉に少しだけ眉根を寄せて、ファゼットに視線で問いかけた。
「僕に聞かれてもね。さぁ、とにかく帰ろうか」
そう空気を誤魔化すかのように、ファゼットは転送座標を固定し、転送魔法を発動させた。
◇◇◇
ファゼットの暮らす世界は、十三世界の一つだった。十三役員、光流(こうる)の司る世界『アクレシア』。
魔法が主流の世界で、科学技術の面では随分と発展が遅れている。
「……凄い……こんな透明な魔力の満ちた世界初めてだ……」
思わずアルトは呟いた。そんなアルトの呟きに、ファゼットが笑みを浮かべる。
「さすが、アルトは感知能力だけは誰よりも高いね」
通常、どんな世界でも魔力があれば多少の濁りはある。特に魔術が発展していればしているほど、魔力の残りカスや、使用されなかった魔力の残滓が淀みとして残ってしまう。それが、この世界は少ない。
魔法を使っていないとかそういうレベルではなく、世界が清浄化する機構を持っている、そういう雰囲気だった。
「ん……」
その空気に浸っていたアルトは、不意の声にびくりと身を震わせた。反射的に、本能が何かを恐れていた。
「……ブレン……? ここ……」
「もう少し休んでください。アクレシアです。しばらく、ファゼットさんにお世話になりましょう」
「……はい……」
「まだきつそうだね、クオル」
当たり前のように声をかけたシスをアルトは思わず凝視する。
「アルトが警戒しまくりだけど。……自己紹介させてないね、シス」
「そうだっけ?」
やれやれとファゼットがため息をつく。クオルを背負っている男が、アルトに視線を向けて、穏やかな笑みを見せた。
「そうでしたね。……初めまして。私は、ブレンと申します。それから……」
「聞きたくない」
ぴしゃりと拒絶したアルトは表情をこわばらせながら、名乗ったブレンから距離をとる。シスの陰に隠れるように移動したアルトに、ブレンは怪訝そうな表情を浮かべた。
「……何か、しましたっけ?」
「いや、別に。悪いね、クオル。気を悪くしたら謝るよ」
「いいえ……、……なんとなく……、……分かってますから」
何事かを、小声でクオルが呟く。聞こえたのはブレンだけなようで、心配そうにブレンはクオルを一瞥した。
その光景が、どこかアルトにとっては『痛い』。
「はぁ……まぁ、行こうか? 病人ばっかだしさ」
疲れた様子でファゼットがそう切り出した。
朝日が昇り始めた村の中を歩く。
納得いかない、苦しさを覚えながらアルトはシスの後ろをただついて歩いていた。
ひどく、遠く感じていた。
自分の味方でいてくれると言ってくれたのに。先を歩くブレンの背で今も包帯から血をにじませているクオルを、シスは優先している気がした。
別に、嫉妬とかじゃない。ただ、約束だけは守ってくれると思っていたから。
「……あーちゃん、間違えちゃだめだよ」
「何を」
からからと、リガートル台を押しながら、アルトはシスにつっけんどんに返す。苦笑交じりに、シスは振り返った。
「おにーさんとクオルは、一緒じゃない。……それだけ」
「……知ってるよ。そんなこと」
つい、と目をそらしてアルトはぎゅっと手を握りしめる。思い出そうとしたって、ぐしゃぐしゃで何も思い出せない。だけど、痛む思いだけが湧き上がる。
泣き叫びたくなるのを我慢して、アルトは前を向いた。
「あの人。……動かして平気なのか?」
「まぁ、本部にいてもね。それよりは、こういうところでゆっくり休ませたほうがいいから連れてきたんだと思うよ」
「……知り合いなんだな」
「一応ね。悪い人間じゃないよ。あーちゃんと、気が合うかは別だけど……話してみるのも悪くないと思うよ?」
「嫌だ」
間髪入れずに、アルトは拒否する。
あんなに似た人間を見たら、振り返りたくなる。今はまだ、振り返りたくない過去へ。ほんの数日前さえ、今は思い出したくない。
アルトの拒絶に対して、シスは少しだけ寂しそうな笑みを浮かべ、言った。
「そう。……分かった」
◇◇◇
ファゼットの自宅は想像していたよりも遥かに立派だった。村のはずれにあるものの、村の中でも立派な屋敷だ。手入れのされた庭には見慣れない白い花が朝露に濡れていた。
「あっ、おかえりなさい、おじーさま!」
玄関の前に立っていた幼い少年がぱっと表情を輝かせてそう声をかける。その肩には、蒼い竜が乗っていた。
誰の事かとアルトが訝っていると、ファゼットへと少年が駆け寄った。
「ただいま、ガディ。朝早くに、悪いね」
「いえ。ニナさんとレンさんは歩ける程度に回復してます」
「そっか……ありがとう。ほんとに、今回はさすがにきつい」
ため息交じりのファゼットに、ガディというらしい少年が苦笑いを浮かべる。
外見は六、七歳にしか見えないのだが、表情がどこか大人びている。ファゼットも外見からはとても優に三百を超えているとは思えないが。ファゼットが祖父というなら、年齢的には納得いく。光景的には、異常だが。
「……さて、と。まずはクオルを休ませて、アルトの点滴を変えて、それから……事情聴取させてもらうかな? ……特にシス」
「事情聴取とは穏やかじゃないなぁ」
「……誤魔化せると思ったら、大間違いだよ?」
ファゼットの意味深な笑みにシスは肩をすくめるだけだった。アルトには口をはさむ気力さえ残っていない。
「部屋は……いつもお借りしているところを使用しても?」
「あ、はい。用意してありますから、使ってください」
「お世話になります。……行きましょうか、ライヴ」
ブレンの言葉に青い竜が一つ頷いて、ガディの肩からふわりと舞い上がる。ガディが玄関を開け、ブレンは竜と共に中へ。
立ち尽くすアルトに対し、シスが目を向けて促した。
「とりあえず、休ませてもらおうか? ね、あーちゃん」
アルトは黙って頷いて、ちらりと空を見上げた。空は明るくなりつつある。
自分は、後ろに進んでばかりだった。
◇◇◇
あてがわれた部屋にはベッドが一つあるだけだった。クローゼットと簡単な化粧台があるだけ。生活感といったものは皆無だった。ただ、人は出入りしているのだろう、空気が止まった気配はない。
「しばらく寝ていてください。点滴、終わるころに顔を出すようにお願いしておきますから」
ここまで案内したガディはそうアルトに告げると、ぺこりと頭を下げて出て行った。アルト一人で使っていい、という事らしい。
ベッドに歩み寄って、掛布に触れる。良い素材を使っているわけじゃない。実家の方がよほど良いものを使っている。
でも、このほうが、いい。高級なものでも、実家のそれは冷たかった。ベッドメイクをする人間の心が現れるのだろう。
「家族がいる家って……こーいうもんなのかな」
ぽつ、と呟いて、アルトは小さく息を吐いた。願っても届かないものを、思っても仕方ない。点滴チューブをひっかけないようにしながら横になると、陽だまりの匂いがした。
窓から見える空は、青みを帯びはじめている。穏やかな朝だった。
学院の騒々しい朝とも違う。実家の冷たい朝とも、違う。
ただ静かに明ける、朝。こんな朝を迎える場所があるのだと、どこか他人事のように感じる。
――でも、ここは自分の居場所ではない。それだけは、確かだった。
「……もう……考えたく、ねーな……」
考えれば考えるだけ悲しくなる。目を閉じて、アルトは現実を拒否した。