第三話 覚醒 –break out-
季節は、秋へと移ろい、景色が朱や黄に彩られ始めていた。
季節の魚や野菜の品ぞろえも夏とは違う顔を見せ始める。
公園の一角で、ぱちぱちと落ち葉を燃やす光景。
「首都でこんなことをするとは思いませんでしたけど」
苦笑しながら、ブレンは火の様子を注視していた。
ブレンの周りには、公園の近所に住む子供たちが群がって目を輝かせてその時を待っている。
「ブレンさんの故郷では、もうやってないんですか?」
尋ねたクオルは、その輪から少しだけ後ろに立っていた。
ブレンは首を振って、ぽい、と小枝を火の中へ放る。
「むしろ毎年恒例です。首都じゃ、わざわざやらなくても、店頭に並んでると思ってたので」
「でも、こうやって自分で工程を経たほうが、楽しいですよね」
「そうですね」
同意して、山になった落ち葉が燃える様子にブレンは故郷を少しだけ思い出す。
みんな、元気でやっているといい、と思いながら。
「にーちゃんまだぁ?」
背中を掴んでゆさゆさと揺する10歳くらいの少年に、ブレンはため息交じりに言う。
「生焼けでいいなら」
「それってうまいの?」
「……まずい」
「なんだよぉ!」
むくれた少年に、クオルが小さく笑った。
発言した少年以外にも、同じ年ごろの子供たちが残念そうな顔をしていた。
ブレンは落ち葉で焼き芋を作成する、『焼き芋調理隊長』と子供たちから任命されていたのだった。
◇◇◇
「火傷しないように、慌てて食べるなよー」
「ありがとー、にーちゃん。またなー」
焼きあがった芋を抱えて、子供たちは散り散りに帰っていく。
用が済めばさっさと退散するのは、さすが子供だ。
それを苦笑いで見送って、ブレンは振り返った。
見れば、クオルは火の始末を確認している。
もっとも、クオルがどれだけ理解して見ているかは怪しい。
その光景は微笑ましく、思わずブレンは笑みを零す。
「クオル様、一つだけしか残りませんでしたけど。いかがですか?」
「え、いいんですか?」
「はい、もちろん」
正直、ブレンはクオルのために子供にせっつかれながら焼いたようなものだった。
火傷に気を付けてくださいね、と添えながらブレンはクオルに新聞紙に包み直した焼き芋を渡す。
公園のベンチに座って、ちょっとだけ緊張の面持ちで焼き芋を見つめるクオル。これもどうやら初体験の出来事らしく、心の中でブレンは苦笑する。
クオルは、本当に見ていて飽きない。
年も相まって、ブレンはクオルに対し、弟のような感覚さえ抱き始めていた。
もっとも、弟というよりは妹みたいな外見ではあるのだが。
いただきます、ときちんと食膳のあいさつをしてから食べるの様子は、育ちの良さが見える。
多分先ほどまでの子供たちなら即座にがっついているに違いない。
こうやって、外に出るのは何回目だろう、とブレンは不意に思う。
今ではディルの助けなしでも出る時間帯を見極められるようになってきた。
それでも、外での滞在時間は短い。
一分一秒でも長く、外に居させたいという焦りとは裏腹に。
「はい」
すっと、クオルが焼き芋の半分をブレンへ差し出す。
ブレンが不思議そうにクオルを見やると、クオルが微笑んで言った。
「一人よりは二人の方が美味しいんだって、知ってますか?」
「……そうですね」
さりげない、思いやり。
その優しさがあるから、ブレンはクオルの傍にいられるのだ。
◇◇◇
季節が変わっても、ブレンのできることは一つも変わっていない。
人目を盗んで、クオルを連れて外に出る。
ただ、それだけだ。
そこからは一歩も動けていない。
近頃では、ブレンは焦りさえ、覚え始めていた。
ただ、一方冷静な部分が焦りは禁物であることも理解している。
クオルの正体については、いまだにブレンは問いかけられずにいた。
それなくしては解決法など見つかるわけがない。
そう頭で分かっていても、ブレンはその質問をぶつけることで、やっと築けたクオルとの関係が壊れることが、怖かった。
その笑顔を曇らせるのが、嫌だった。
今日は、警備が厳しい日だ。とてもじゃないが、外出は難しい。本でも探してきてあげるか、他愛無い会話で時間を潰すしかない。
――何か好みの本があれば、聞いてから図書室へ向かおう。
そう決めて、今日もブレンは扉をノックし、声をかける。
「おはようございます、クオル様」
扉を開けると、いつもは返事がある。
ふわりと向けられる、笑顔がある。
だが、今日はなかった。
珍しいこともあるな、とブレンは首をかしげて、そっと扉を閉めた。
「あっ……ブレン様っ!」
切羽詰まった声で、ライヴが名を呼ぶ。
ガラス壁に近づいて、ブレンは尋ねた。
「ライヴ? どうしたんですか? クオル様は……」
ちらりと覗くと、クオルはベッドの上に横になっている。まだ寝ているようだった。
ライヴは首を振って、訴える。
「熱があるんです!」
「熱? い、いつから!」
思わず声が裏返るブレン。
昨晩寝る前にはそんな兆候は感じなかったのに、と混乱が滲むブレンへライヴが告げた。
「昨晩、遅くなってから上がったみたいで……!」
「っ……!」
ブレンは慌てて鍵を取り出し、開錠する。
室内に飛び込んで、すぐさまベッドのクオルへと駆け寄った。
見れば、クオルは苦しげに唸っている。
さっと青ざめたブレンは、クオルへ呼びかけた。
「クオル様、大丈夫ですから。すぐ薬を持ってきますからね」
呼びかけてもろくな反応を返さない、クオルの額にブレンは手を触れる。
――熱い。
他に必要そうなものを頭の中でピックアップしていると、不意にクオルの手がブレンの手に触れた。
目を向けると、不安げな瞳と目が合う。
「あ……大丈夫ですよ。熱ならすぐに下がる薬がありますから」
こく、と小さく頷いてクオルは目を閉じた。微かに手が、震えていた。
ライヴがいるとはいえ、一人では不安なのだ。
当然だと、思う。
そっと手を解いて、ブレンはライヴに一旦この場を任せて部屋から出た。
ひとまずは、医務室か。
再度施錠して振り向くと……シェマが不機嫌そうな表情で立っていた。
先ほどまで居なかったシェマの存在に、ブレンは驚いて、息を呑む。
じ、とシェマはブレンを見据えていた。その瞳は感情らしい感情を載せていない。無機質に、ブレンを睨んでいた。しかしブレンは、その瞳で逆に冷静さを取り戻す。
「すみません。クオル様が高熱を出して苦しんでますので、医務室へ……」
「なんでさ?」
「は? だから……熱が……」
「だから、それがどうして? そんなこと、起こるわけないじゃん。普通は」
普通……ブレンはシェマが何を言ってるのか理解できなかった。
誰だって、風邪はひくだろう。そう言いかけたブレンの目の前で、シェマが一歩踏み出した。
たん、と足元の魔法陣を強く踏み、シェマが言う。
「これさぁ、見えないし気づいてないかもだけどエアカーテンなんだ」
「エアカーテン?」
「ここの温度、湿度を最適に保ちながら、外の菌を入れないんだよね」
「……!」
ようやくブレンも、シェマの言いたいことが理解できた。
この室内は無菌室に近い状態だったのだ。
自分の体内の菌以外は、寄せ付けない。そして恐らくは、もともとこの部屋に菌は存在しない。
でなければクオルを隔離する際、大きなリスクを伴うのだ。
最小限の人数で管理するという事は、すべての面でリスクを軽減しなくては意味がない。
そして、医者は、班員には含まれない。治療と言う過程をなくすために存在した、魔法陣。
つまり。
外に出たことが、シェマに露見した。
ブレンはさっと血液が一気に下がったような感覚に襲われる。
「……言ったよね」
ぞっとするような、シェマの声。
再び、ブレンは息を呑んだ。拳を強く握りこみ、ブレンはシェマの次の言葉に身構える。
「深入りするな、やるべきことだけやってろってさ。あは、可哀想なクオル様。付き人が自分の領分を過大評価したせいで、死んじゃうかもなんてさ」
けらけらと笑顔で物騒なセリフを吐くシェマに、ブレンは怒りを覚えた。
「死ぬわけない。医者に診せれば問題ない」
「誰が診るのさ、そんな化け物」
「ふざけんなっ!」
思わずブレンは怒鳴りつける。
ブレンの中でその言葉だけは、絶対に許せなかった。
シェマは笑みを浮かべたまま、ブレンを眺めている。どこか挑発的に。
その視線にブレンは湧き上がる怒りを抑えながら、反論する。
「クオル様は化け物なんかじゃない。シェマにはわからなくても、俺には分かる」
「あはは、僕にもわかるよ。それは化け物だよ。まぁ、いいや。そのあたりは後でも十分だし。じゃー頑張って、医者でも見つけなよ。連れてこれればね」
シェマの存在を意図的に無視して、ブレンは部屋を飛び出した。
幻聴か現実か怪しいが、シェマの不吉な笑い声がブレンの脳裏で反響する。
とにかく、今はシェマの言葉にかまっている場合ではない。
一刻も早く、医者から薬をもらわなくては、クオルの命にかかわる問題だった。
ばたばたと階段を降り、行き過ぎる人々からの胡乱げな視線を受けながら、廊下を駆け抜けて医務室へと駆けこむ。
ブレンが勢いよく扉を開け過ぎたせいで、慌てて奥から医官が出てきた。
「うわ、何事何事? 誰か怪我かな?」
白衣の気のよさそうな男が息を切らすブレンに声をかける。
人種は人間だった。
「すみませんっ……あの、解熱鎮痛薬、お願いします……」
「え、キミ熱あるの? 駄目だよ走っちゃあ! 休まないと!」
「いえ私じゃなくて……」
首を振って、ブレンは息を整える。
その間、医官は不思議そうな顔をして、首をかしげる。
「部屋で休んでるのかな?」
「はい。あの」
「うんうん」
「っ……だから、……なんでっ!」
「な、何で一人で怒るんだい? 大丈夫? キミ情緒不安定?」
一緒に来てもらえませんか。
その、たった一言が出てこない。苛立つブレンに、医官は別のことを考えている様子だった。
話は諦めて、ブレンは医官を無理に連れて行こうと思ったが、今度は体が動かなくなる。
多分、特殊封術師の能力だ。
あの場所への立ち入りを管理する。それが、特殊封術師ノウェンの役目。会ったことはないが、間違いないはずだ。
――こんなところまで、影響するのか。
ブレンは自分の無力さに歯噛みする。
実に、恐ろしい能力だった。
外出は可能なのに、他者の立ち入りをシャットアウトする。
それが、ノウェンの能力なのだ。
境界線が曖昧だが、クオルの存在そのものの出入りではなく、クオルという情報を管理しているのだろう。
いずれにせよ、今は問題だった。
思考をフル回転させ、ブレンはクオルを快復させる方法を模索する。
(外に連れ出せばいいのか? だが、無理に動かして悪化でもしたら? そもそも、シェマがそれを見逃すか?)
良い答えが浮かばず、頭を悩ませるブレンに、医官はそっと薬を差し出した。
「え?」
「いやなんか、すごく悩んでるからさ。一回分くらいなら、解熱鎮痛薬あげるよ。それと、熱があるのかい?」
「は……はい」
「じゃあよく冷やしてあげて。あと水分摂取ね。これ大事だから」
「そ、それだけですか?」
問いかけたブレンに、医官は笑顔を見せた。
「昔は薬なんて頼らずとも直してたのが人ってもんだよ」
すっとその言葉で、血が上っていた頭に冷静さが戻る。
確かに、そうだった。
ブレンの村では、医者は隣の村まで行かなければならなかった。冬場、風邪を引けば元気なものが集まって、薬草を取りに行ったりもしたのだから。
「ありがとうございます、先生」
薬を受け取り、ブレンは医務室を飛び出す。
ただの風邪なら、大丈夫。
そうでなかったら……その時は後で考えよう。
そう繰り返し自分に言い聞かせながら、ブレンは走る。
(今はできる限りの事をすればいい。シェマの言う『やるべきことをやる』……それだけだ)
医者がいなくても、治してみせる。
それが世話役としてのブレンのプライドだった。
◇◇◇
ブレンが再びクオルの元へ戻ってきた時には、シェマの姿はなかった。
「って、どうして起きてるんですかっ!」
見れば、ブランケットを肩に羽織って、椅子に座っているクオルがいた。
その肩には、ライヴ。
「そんなの、暇だからに決まっておろう?」
「そういう場合じゃ……、ん?」
雰囲気が、違う。よく見れば、瞳の色が紫に見える。
歩み寄って、ガラスごしに問いかけた。
「クオル様……ですよね?」
「……ああ、そうか。自己紹介がまだだったな」
ふらりと立ち上がる。
クオルは口調こそしっかりしているものの、どう見ても動ける状態ではなかった。
「イシス、だ。これの中に住んでいる」
「……二重人格だったんですか」
「……違う」
呆れた様子で、イシスと名乗ったクオルが言う。
「人格がいくつもあるわけじゃない。私と、これは別の魂で、それが同一の肉体に住んでいる。……それを二重人格というなら、それでもいいが」
「はぁ」
つまり、今はクオルではない、とブレンは現状を飲み込む。
だが体は共通であり、ブレンは首を傾げた。
「熱は……どうなんですか?」
「まだ高い。体が重い」
きっぱり答えたイシスに、ブレンはため息をついた。
ポケットから鍵を取り出して、開錠すると中へ。
もはや慣れたものだった。
イシスが不思議そうにブレンに視線を向ける。
「寝ていてください。薬ももらってきましたから」
「……嫌だ、と言ったら?」
そう切り返してきたイシスに、ブレンは思わず笑ってしまう。
外見が幼いので、どうしても子供が駄々をこねているようにしか見えなかった。
「力ずくで、寝てもらいます」
「……言うと思った」
くす、と小さく笑って、イシスはくるりと背を向け、おとなしくベッドへ戻った。
ブレンはコップに途中で用意してきた水を注ぎ、薬とコップをイシスへ差し出す。
イシスは特に何も問わずに、薬を水で飲み下した。
錠剤だったので、少し苦しげだったが。
解熱だけで足りるのだろうか。
咳はないようだが、根本的な治療はしていないに等しい。
そう悩むブレンの思考をよそに、イシスはベッドに潜り込んでいる。その枕もとにはライヴがちょこんと座っていた。
「……ブレン、だったか」
「え? あ、はい」
「今のこいつにとって、お前だけが頼りだ。……その期待、裏切って、くれるなよ」
「……はい」
イシスは頷き返すと、目を閉じた。
それを見つめながら、ブレンは思考回路を必死に回す。
水分と栄養補給。
必要なものを今のうちに揃える必要があった。
「ブレン様……」
「大丈夫。……何とか、してみせます」
不安げなライブに、ブレンは断言した。
それは自分を叱咤する意味も込められていたが、ともかくブレンはライヴにこの場を任せて、必要物品の回収に動き出した。
◇◇◇
ぼんやりとした思考の中で、クオルはイシスと会話していた。
他愛無い会話。
体が重い、寒い、それから……息苦しい。
典型的な風邪だった。こじらせなければ何の問題もないのは、クオル自身分かっていた。
それにしても、風邪は、何年ぶり……いや、十何年振りだろう、と思う。
昔、風邪をひいたときには、イシスもライヴもいなかった。
自室に一人きり。
面会者など、いない。
治るまでは、ディルとラーズとも会わせてもらえなかったことを、ふとクオルは思い出した。
二人曰く、追い返されていたそうだ。
その逆は、当然ない。
クオルは、城から、出れなかったのだから。
今も昔も変わらない、監獄の中にクオルはいた。
独りの日々が永遠と続く。
今は、ライヴとイシスがいてくれる。
どちらが、幸せなのだろう。どちらを、今は……望んでいるんだろう。
ふと、誰かに呼ばれた気がして、クオルは振り返った。
そこには、茫漠とした闇が広がるだけだった。
クオルの脳内の冷静な部分が、それを静かに受け止める。
それが、自分の生きている世界なのだと。
四角く区切られた、青い空。日差しの強さに影響されない、温度。それが永遠に続く世界。
不意に、頭上を何かがかすめた。
クオルは視線で追いかけ、白いカモメが闇の空を泳いでいくのを見つめる。
海に舞う、鳥。
それは、ずっと焦がれた、外の世界で見られる景色だった。
――クオルは重い瞼を、薄く開く。
すっかり日の落ちた、室内。
ランプの淡い小さな光だけが部屋を照らしていた。
日が暮れた、静かな夜だった。
クオルはまだ頭が重く、焦点がうまく合わないでいた。
不意に、クオルの額に冷たい手が触れる。
その冷たさが心地よく、冷たさに浸っていると、す、とその手が離れた。
「まだ熱いですね。……もう少し寝たほうがいいですよ。あ、何か飲みますか?」
「ブレン……さ……ん?」
「はい。大丈夫ですよ、ここにいますから」
霞む視界の中で、ブレンが微笑んだのが分かった。
その言葉と、存在がクオルの胸を詰まらせる。
こんな時にも、変わらず傍に居てくれる存在。
その存在の有難さに、クオルの視界が、滲む。
「え、だ、大丈夫ですからっ。すぐ良くなりますからね」
慌てて声をかけたブレンは、クオルが言葉を紡ぐ前に、ふっと微笑んだ。
「何かあったら、すぐ言ってください。今日は、ついてますから」
こくりと、弱くクオルは頷く。
ブレンの言葉で、安心してしまう自分が、もういるのだと、クオルは理解する。
もう誰にも、頼らないと決めていた、クオルだった。
心配をかけるのは、ディルだけで十分だと思っていた。
だが、ブレンは救いの手を常に差し伸べてくれるのだ。
求めないようにしていた全てを、何も言わずに、与えてくるのが、ブレンだった。
そうして、クオルは心の底で、思う。
――どうしてまだ、心配してくれる人が現れてしまうんだろう。
どうしてこの人は、
何も知らないままで、
こんな咎人を守ってくれるんだろう。
◇◇◇
再び眠りについたクオルに、ブレンは安堵の息をつく。
いきなり泣き出された時には、さすがにパニックになりかけた。
何かしただろうか、と必死に答えを考えるブレンに、そっとライヴが告げた。
「嬉しかったんだと、思いますよ」
「嬉しい?」
ライヴの言葉を反芻する。今はライヴはブレンの肩に乗っていた。
「クオル様は、ずっと一人でしたから。病気の時にも、誰も。……でも今日は、ブレン様がいてくださった。……安心、したんでしょう」
「……それだけで?」
「貴方が思っている以上に、クオル様の孤独は深いんです」
ライヴの重い言葉。ブレンはなにも言えなくなって、じっとクオルの顔を見やる。
今は少しだけ、穏やかに見えた。ただ、依然として熱は高い。
「……まーだやってんの?」
不意の、この場に合わない明るい声。
振り返れば、ガラスの向こうにシェマと……見慣れない、白髪の女性がいた。
髪は白だが、まとう衣装は赤に黒のドットのワンピースと独創的だった。
「そのままだとさぁ、クオル様死んじゃうよ?」
物騒な言葉を笑顔で投げるシェマを睨みつけて、ブレンは黙殺する。
「少しは話聞けよ」
ぼそりと殺意を乗せて、シェマが言う。
その殺気は本物で、ブレンの背筋を凍らせる。
外見こそ子供なシェマだが、その魔法も、知能も成人と同じだ。あるいは、それ以上の能力を持っていても何らおかしくない。息を呑み、せめてもの抵抗でブレンはシェマの冷たい眼差しを黙って受け止めた。
しばしの沈黙。
「そのままでは、敗血症になります」
沈黙を破った透明な声。驚いてブレンは女性を見やる。
今のはこの女性の声、だろう。シェマの声では、ないのだから。
女性はひたりとブレンの瞳を見据え、軽く一礼する。
「お初にお目にかかります。特殊封術師、ノウェンと申します」
外見こそ美しい女性だが、……醸す雰囲気は、冷たい。
この女性が、クオルを隔離する本当の番人だった。
特殊封術師。彼女の能力でもって、この場所は必要以上に認識されないようになっているのだから。
一番警戒すべきは、この女性……ノウェンだ。
「二日も、その状態なのでしょう」
ブレンは軽快を解かずに首肯する。
クオルが熱を出して、二日。
しかし一向に下がらない。下手をすれば上がっているのかもしれない。
本格的に、治療が必要なのはブレンも理解していた。
だが、今まで何の干渉もしてこなかった二人が揃ってここに来た意味が、ブレンは決して前向きなものとは思えないでいた。むしろ、警戒に値する事態だった。
嫌な緊張感が張り詰める中、ノウェンは表情らしい表情を浮かべず、静かに言う。
「テンベートさんには進言致しました。一時的に封術を解き、医師を連れてくるか、あるいはクオル様を医務室へ移すかしたほうが良いと」
「で、結果は封術を医師だけに対しては解放するってことで決定が下りたわけさ。よかったね、ブレン」
二人の言葉に、ブレンは素直に喜ぶことが出来ない。
どうしても裏がある、そんな気がするのだ。
ブレンの肩にいるライヴも、沈黙を守っている。
恐らく、ライヴも二人を疑っていた。
不意に、ノウェンが温和な笑みを浮かべる。
「聡明なお方ですね、貴方は。そう。そのために、テンベートさんが条件を付けたのです」
――やはり。
予想はしていただけに、特に感情は動かなかった。
だからこそ、ブレンは冷静に切り返す。
「何ですか条件って」
「簡単だよ。クオル様を二度と外へは連れ出さない」
楽しげに、シェマが言った。
ぎり、とブレンは奥歯を噛み締める。
予想はしていた。
だが、あんまりだ。
これだけクオルの自由を奪っておいて、まだ縛り付けようというのか。
湧き上がる憤りを押し殺しながら、ブレンは沈黙する。
シェマは軽く肩を竦め、続けた。
「で、それを破ったら、班長はクオル様の管理を一般囚と同じ管理に移すって」
……一般囚?
シェマの言葉の意味が分からず、返答に窮したブレン。
すると、シェマが呆れたと言わんばかりにため息をついた。
「ブレンまだ知らないんだ」
「なに、を……」
困惑するブレンがよほど面白いのか、シェマはくす、と邪悪に笑った。
たん、とシェマはブレンに一歩近づき、ブレンは思わず身構える。
「クオル様って、何者か知らないんでしょ?」
「……だから、何だよ」
「それはね、化け物だよ。たった一人で、何万人と殺した、ヒト型兵器。人間の形をした、もう人間じゃないもの。虫一匹殺せないような顔で、一瞬で何千人も焼き尽くした」
「そんな話、子供でも騙されないな」
余りに突飛な話に、ブレンは肩透かしを食らい、シェマの話を鼻で笑う余裕が出来る。
だが、シェマは笑っていた。
「じゃあ、本人に聞いてみなよ。とりあえず、そのままの状態はよくないってんで、班長が医者呼ぶのはオッケーにしてくれたんだ。感謝しなね」
◇◇◇
シェマの言葉通り、ノウェンが術を解き、すぐにも医者が呼ばれた。
医者は色々と聞きたい顔はしていたが、シェマの威圧にひとまずは治療を優先させた。
それからは、あっという間だ。
翌日にはクオルの熱は下がり、意識も戻った。
数日内には食事もとれるようになって、元の生活が戻ろうとしていた。
ブレンにとっては、それが最後の時間的猶予だったのだが。
「……すみません、クオル様」
「どうして、ブレンさんが謝るんですか」
苦笑するクオル。顔色はまだ悪いが、日常生活は可能なレベルまで回復している。
ブレンは頭を下げたまま、言った。
「私が外に連れ出したせいで、ずいぶん長いこと苦しい思いをさせて」
「ブレンさんが悪いわけじゃないです。僕が弱いだけで。それに……外に連れ出してもらえて、僕は嬉しかったんですから」
ずき、とその言葉がブレンの胸に突き刺さる。
これから言うべき今後を思うと、申し訳なさが爆発的に膨れ上がる。
「……すみま……せん」
掠れるような声で謝罪したブレンに、クオルは表情を曇らせる。
「謝らないで、ください。僕は……」
「違うんですっ! 私は、二度と……貴方を外へ……出して、あげられない……」
クオルは少しだけ驚いた表情を浮かべたが、すぐに悲しげな笑みを浮かべた。クオルはそうなることを、予想していたのだ。
それが、ブレンの罪悪感を掻き立てた。
「自由にしてあげるつもりだったのに、これじゃ逆効果で……何のために……こんなんじゃ……っ!」
俯いて、ブレンは痛む思いをこらえる。
今までの全てが無になったのとほぼ同意だ。
「そんなに、自分を責めないでください」
優しく諭すクオルに、ブレンはのろのろと視線を上げた。
苦悩が止まらないブレンに静かに首を振って、クオルは立ち上がる。 そして、クオルはガラスに手を触れた。
温度を通さない、無機質な感覚しか、クオルの手には伝わらないだろう。
それが、クオルと他人とに課せられた距離。そしてその意味を一番理解しているのは、クオル自身で。
「……いいんです。僕は……ここに閉じ込めておくべき、存在です」
「どうしてっ!」
ブレンはそれでも、クオルの未来を諦めてはいなかった。
だが、クオルは静かに首を振った。
「ブレンさんには、ちゃんと僕の事……話してませんでしたね」
その言葉にぎくりとブレンは表情を強張らせる。
「……僕は、……人殺しなんです」
悲しい笑みを浮かべて、クオルはブレンへそう告げた。
沈黙が、降りる。
やがて、ブレンは絞り出すように声を絞り出した。
「……そんなの、私は……信じませんよ」
「ブレンさん……」
「だって、おかしいでしょうっ! 確かにシェマは言ってました。クオル様は、一瞬で何千人も殺したんだって。だけど、そんな大規模な死者が出た話なんて、ここ数年じゃ聞いたことなんてないんですよ?」
戦争ですら、もう十年以上起きていない。
シェマとクオルの言うことが正しいにしても、そこは大きな矛盾だった。
それが、ブレンにとっては最後の希望だ。
する、と手を下ろしてクオルは首を振る。
「……僕は、ブレンさんの目にいくつに見えてるんです?」
「何、言って……十五……くらいでしょう?」
「いいえ」
きっぱりとクオルは否定した。
目を見張るブレンに、小さく笑みを浮かべて、クオルは言う。
「僕は、もう三十年近く、この場所に居ます」
「は……?」
「……僕の名前、きちんと……覚えてくれてますか?」
何を言っているのか分からず、それでもブレンは戸惑いながら頷いた。
「クオル・クリシェイア……ですよ、ね?」
「はい。……きっと、僕が言ってもブレンさんは信じないでしょう。貴方は……本当に、優しい人だから」
「クオル様……?」
だから、とクオルは背中を向けた。
「……自分で、調べてみてください。きっとすぐに、分かりますから。……ありがとう、ブレンさん」
まるで別れを告げるかのようだった。
その背中は、明らかに救いを求めていた。
だが、このまま問いかけてもクオルは救えない。
ブレンはそれだけは、分かっていた。