第二話 realize ―自他境界―
ドゥーノが世界とともに消失して、数日。
日々は淡々と過ぎていくだけで、アルトもそれに慣れていた。
空っぽになった部屋の半分。元から生活感がほとんどなかったドゥーノの生活区域は、何だか元から誰もいなかったかのような印象さえ与えていた。
僅かばかりの私物だけが残る、部屋。
アルトの机の上には、ハンカチを折りたたんだ上に載せられた透明な翠の石がある。
世界の記憶の詰まった、ソルナトーンと呼ばれるものだ。見た目にはただの石にしか見えない。管理監査官が回収してくるものの、一つ。
「お前はまだ、取り上げたりはしないんだな」
石の表面に指を滑らせながら、アルトは背後に立つ存在に尋ねた。
「そうしてほしいなら、そうするけど」
どこか口調の端に笑みを含ませた声で、シスが返す。ドゥーノが消えて、ソルナトーンを手に自室へ戻ってきたアルトに、シスは何も言わずにいた。
見ればわかる状況で、それでも、何も言わずに。
「……今はまだ、本部もデータ解析で忙しいからこっちまで気が回ってないよ。だから、しばらくは大丈夫。でも、あーちゃん」
「分かってる。覚悟はしてるから。……それに」
ようやく振り返って、アルトはシスに苦笑いを向けた。
「そんなに、きつくないから。むしろ俺、すっきりしてる。やりきったって……どっかで満足できたから」
「そっか」
「つーか、お前今暇?」
尋ねたアルトに、シスは首をかしげる。
アルトは椅子から立ち上がって、ベッドに放り投げていた魔導書を掴む。
「暇だったら、ちょっと訓練に付き合え」
久しぶりに、自己鍛錬の時間がやってきた。
兄を越えて強くなる。そうして、ドゥーノとの約束を果たす。
――名に恥じない評議員になる。それがドゥーノとの誓い。
だけど、そこに至るために失わないといけないものがあるなんて、この時は知らなかった。
◇◇◇
鍛錬に使うのは大抵屋上だった。あまり人が来ないのと、魔力暴発が起きても影響が少ない場所だから、アルトは気に入っていた。
アルトの使用する『四元の章』と呼ばれる魔法は基本となる八種類の魔法と、その組み合わせからなる『連章』によって定義される。それぞれが属性を付与されたもので、世界最強と目されているらしい。
もっとも、アルトはクオルに比べれば遥かに劣る。そもそも四元の章はコントロールが異常に難しい。発動自体は容易なのだが、影響範囲や持続時間等のコントロールに対して魔力を消費するという、通常の魔法とは異なる一面を持つせいだった。
「ところでさぁ、あーちゃん」
「なんだよ」
「あーちゃんは四元の章以外にも魔法は使えるんだよね?」
シスの質問の意図が読み取れなかったが、アルトは首を振った。
「無理。練習したことない。つーかこれマスターすれば問題ないって言われてるし」
「いやまぁ、そうなんだけど。……ちなみに、武器って何使って……」
「あ? ないけど」
けろりと言い切ったアルトに、シスは大仰にため息をついた。
「あーちゃん。悪いことは言わないから……今すぐ、方針変えたほうがいい」
「何でだよ。説明しやがれ」
偉そうに文句をつけるアルトに、シスは気分を害した様子もなく頷いた。
「四元の章はそもそも、単独戦闘力で運用する魔法じゃないからだよ。知ってるとおり、付加系魔法だろう?」
「ふかけい?」
「……あーちゃん、四元の章の本質分かって使ってる?」
「あ、当たり前だろっ! そこまで言うなら説明してみろよなっ!」
若干声が裏返っていた。シスは苦笑し、説明する。
「四元の章は、武器や対象者に対して使用するものだよ。つまり、独りで戦うのであれば自分やその武器に属性や特性を付加して戦闘を優位に運ぶもの。直接的な攻撃を与えるものじゃない。武器なしのあーちゃんであれば、自分に対してかけて、先手必勝・一撃必殺で乗り切ることになるだろうね」
「へー」
素直に感心したアルトがいた。
「ちなみに、あーちゃんは今まで一体どうやっておにーさんに勝負をけしかけて勝とうとしてたわけ?」
「どうって、凍結の連章で……」
「そりゃ、勝てないわけだよね」
呆れかえった様子で、シスはため息交じりに肩を落とした。アルトはむっとした表情を浮かべ、そっぽを向く。
「詠唱さえ早ければ何とかなる!」
「連章唱えてる間に、通常の魔法とかで邪魔されて完了しないパターンだろう?」
「な、何で知ってるんだよっ!!」
図星。やれやれ、とシスは頭を振った。
唸るアルトに笑みを向けて、シスはひとつ、提案する。
「被術者、引き受けようか?」
「いい。ていうか、お前何でそんなに詳しいんだよ。四元の章はうちの家系の一子相伝だぞ」
「ま、色々とね。てことは、おにーさんは知らないってことか」
アルトは首を横に振った。
「兄貴も知ってる。つーか、俺より遥かにコントロールが良いし」
「一子相伝、じゃないのかい?」
シスの指摘に、アルトは思わず呆気にとられた。
「そーいや……そーだな。まぁ、双子だし」
「全然理論的じゃないけど……じゃあ、おにーさんの方が、魔力波長が四元の章と同調しやすいんだね」
「俺は同じなのにぜんっぜん使えねーけどな!」
比較されるのが嫌いなアルトは吐き捨てる様にシスに言い放つと、魔導書をぺらぺらとめくりだす。
何も頭に入ってこない。余計に苛立つ。
「同じ……? え、あーちゃん……おにーさんと魔力波長一緒なのかい? まったく?」
アルトはシスの問いに顔を上げ、小首を傾げた。
シスが何を言わんとしているのかが、アルトには皆目見当もつかない。
「そーだけど。だからこうも歴然とした差が出るのが、納得いかねー」
「…………」
シスが、珍しく黙り込んで何かを考える仕草をしていた。アルトはそれが微妙に引っかかったが、何故か問い詰めるのが怖くて、見なかったふりをする。
「ここにいたんですね」
唐突な声に振り返ると、屋上へ上がってきたクオルがいた。ローブの裾を屋上の風にはためかせながら、いつもの穏やかな笑みを向けている。
「……兄貴、何でこんな鬱陶しいの俺に押し付けていきやがったっ!!」
クオルを認めるなり、アルトはシスを指さして噛みつく。こればかりはずっと気になっていたことだ。
だがクオルは小首を傾げて返す。
「しっかり面倒見てもらっておいて、言うセリフじゃないですよ」
「誰が!!」
「どうもありがとうございました、シスさん」
華麗にアルトを無視して、クオルが頭を下げる。
適当な返しをするのかと思いきや、シスが一歩踏み出した。
それは思わぬ行動で、アルトの目の前でつかつかとクオルに歩み寄って、シスは問いかける。
「……どういう事か、説明してもらいたいことがあるんだけど」
「それは構いませんが、時間は大丈夫ですか? ずいぶん長く引き止めてしまったでしょう?」
笑みを崩さず、クオルはシスへ確認をとる。シスは頷いて、それからアルトを振り返った。
シスの表情がどこか硬く感じて、アルトは微かに肩を縮める。
「心配しなくても、すぐ戻るよ、あーちゃん」
「な! とっとと帰れよっ」
反射的にそう返したアルトに微笑んで、シスは視線でクオルを促した。クオルは静かに頷くと、踵を返す。
「……なんだよ、ったく」
屋内へ消えた二人の背に、アルトはぼそりと呟いた。
蚊帳の外に追い出された気がして、酷く寂しく思った。表情を曇らせながら、アルトは魔導書に視線を戻し、文章に視線を走らせたが、頭に入ってこない。
このもやもやとした思いが、煩わしかった。
◇◇◇
屋上から降りて、一つ下の踊り場までたどり着く。ふわりと振り返って、クオルはシスへと切り出した。
「何から、お答えしましょうか?」
「最初からドゥーノの件だけで、済ませる気はなかったね?」
問い詰める口調のシスに、クオルは曖昧な笑みを見せる。
「貴方がそこまでアルトを思ってくれるとは、考えてませんでした」
「……誤算ってわけ?」
「いいえ。これからを考えれば、ありがたいとも、思っていますよ」
クオルの答えに、シスは苛立ちを覚える。だが、そんなシスの苛立ちさえ感じているだろうに、クオルは淡々と問いかける。
「貴方は、もう……分かってるんでしょう?」
「知りたくなかったけどね」
「その上で、どうするかは貴方が決めてください。ドゥーノの件は感謝していますが、この先は……」
「……おにーさん、もしかして……勘違いしてない?」
「何を、ですか?」
不思議そうに首を傾げたクオルに、シスは首を振る。
「いや……一つだけ、教えてもらってもいい? おにーさん」
「ええ、どうぞ」
「何で……僕だったんだい? 偶然会ったから、ってわけでもないだろう?」
ああ、とクオルは楽しそうに笑った。そしてシスを見やって、告げる。
「貴方は、断れない顔をしてましたから」
「何それ」
「それはご自分が一番よく、知ってらっしゃると思いますよ」
「……そう」
シスはクオルにこれ以上問い詰めることは出来なかった。
絶対に踏み込ませようとしない意思が、クオルにはある。ならばそこへ踏み込むのはただのお節介に過ぎない。シスは、クオル相手にそこまでする気はない。
「……好きに、させてもらうよ」
「ええ、お任せします。でも……」
「でも?」
にこりと微笑みながら、クオルは表情と不釣り合いに強い言葉を告げる。
「僕と、アルトの邪魔だけは、しないでください」
◇◇◇
シスはクオルとそこですぐに別れ、屋上へと戻った。
屋上に上がると、冷たい風が髪を舞い踊らせる。見れば、アルトは目を閉じて、何か詠唱中だった。
「あーちゃん、戻ったよ」
声をかけると、アルトは不機嫌そうな表情で目を向けた。
邪魔をされたから、ではないのは明白で。もともと、シスはアルトに邪険に扱われている。
「何で。帰れよ」
「そんなに寂しがらなくていいよ」
「ど・こ・が・だっ!!」
怒鳴りつけたアルトに笑みを浮かべて歩み寄る。しっしっ、と手を払って嫌がるアルトを無視して、シスは傍らに立つ。
ぶすっとしたまま、目を合わせる事をしないアルトに、シスは口を開いた。
「あーちゃん。伝えておきたいことが、あるんだけど」
「あ? なんだよ。帰る日取りなら今すぐでいいぞ」
「その逆。もうしばらくいるから」
アルトは何も言わずにシスを見やって、つい、と視線を逸らした。
「勝手にしろよ」
拒否も肯定もしなかった。それは正直、手間が省けて有難い回答だ。
シスはひとつ頷いて、アルトの持つ魔導書に視線を落とす。見慣れない術式の解説だった。恐らく、四元の章に関係するものだろう。
「あー、いた。あーちゃーん」
「なんであいつまでそんな呼び方なんだ……」
ぼそりとアルトは呟き、眉根を寄せながら顔を上げる。
桃色の髪をツインテールにした少女と、紫の髪をポニーテールにした少年。顔立ちの良く似た双子。ニナと、レンが屋上に上がってきていた。
二人が歩み寄って、ニナがアルトに一通の封筒を差し出す。薄いクリーム色の封筒に、アルトの名前が記載されていた。
「あーちゃんの実家から。指令書だと思うよ」
「何でだよ」
受け取って、適当に開けようとしたのをシスがすっと抜き取って、代わりに開封する。アルトに開けさせたら、肝心の中身まで破る勢いだ。
不服そうな顔をしてはいたが、奪い取ろうとはしないのがアルトの妙な所だった。
「はい、あーちゃん」
中身を取り出して、アルトへ差し出す。アルトは奪うようにして手紙を手にすると、不機嫌そうに中身に目を通す。
「あーちゃん、なんて?」
「ニナの言う通り、指令書。学院周辺の魔物が増えてきたから、間引きして来いってさ」
「じゃあ一緒です。頑張りましょう、アルトさん」
レンに目を向け、アルトはしょーがねーな、とため息をついた。
◇◇◇
学院の周囲は深い森に囲まれている。学院自体は強固な結界に囲われているため、魔物が侵入してくることは滅多にない。
ただ、増殖するのを放っておけばいずれは悪影響を及ぼしてくる。そのために、定期的な間引きが行われていた。
魔物も、通常の動植物と同じで、絶滅させることは許されていない。魔力による影響を受けて狂暴化したものであって、ある意味で魔力の状況を目に見える状態で知らせてくれる貴重な存在なのだ。
特に、別の世界からの影響を受けた魔物というのは、従来のそこに住む魔物とは明らかに異なる。それらを察知して監査官は世界管理の一助としている。
今回は、増えすぎた魔物を適度に間引くだけだろう。異変を察知したわけではない。
ただ、一つだけシスには気になることがあった。
「……レン、聞いていい?」
「何をです?」
声をかけたシスに、レンは不思議そうに目を向けた。
「あーちゃんって武器なしで、四元の章しか使えなくて、どうやっていつも戦ってるわけ?」
前方をニナと並んで歩くアルトを見ながら、シスが尋ねる。
「基本的には、防御担当です」
「……だよね。よくて凍結の連章……分かってないなぁ、あーちゃんは」
「そうでしょうか。僕は、本人のためにはこれでいいと思います」
ちらりとレンを見やり、シスは小さく息を吐いた。
「どうするつもりかは分からないけど。……このままじゃ不公平だ」
頭上を覆う木の枝葉が、ざわざわと風に揺れ、シスの呟きを掻き消した。学院を囲う森はひたすらに深く、昏い。それが言い様のない不安を掻き立てる。
◇◇◇
「うーん、いい感じ。そうじゃないとね」
ぱしんっと、左手のひらを、右の拳で打ち付け、ニナが笑みを浮かべる。
前方約十メートル先で牙を剥いているのは、犬型の魔物。白が一匹と、黒が六匹。白は黒に比べて一回り小柄だった。
しかし、肌で感じる強さは白が上。
「フェンリルと、ヘルハウンド。……魔力装甲が付加されてる」
ニナのすぐ後ろでレンがそう呟いた。ニナは前方を見つめたまま、レンへと冷静に尋ねた。
「破れるレベル?」
「厚さはない。一点集中で突破できる」
「じゃあ、あたしの出番だね」
「……ちょっと待った」
作戦会議を聞いていたシスは、ふと口を挟む。ニナはフェンリル達から目を離さず警戒したまま、問い返した。
「今忙しーから後にしてもらっていいかな?」
「あーちゃんと僕に任せてもらいたいんだけど」
「は?」
「へ?」
完全に蚊帳の外だったらしいアルトが間の抜けた声を漏らす。傍観者か、あるいは防御担当のつもりでいたのかもしれない。
だが、シスはアルトがその役割に甘んじている事を認めない。
「行くよ、あーちゃん」
「い、行くって?!」
「四元の章。本当の使い方を教えてあげるよ」
「は……?」
すたすたと前に歩み出て、シスは剣を抜く。細身の、淡い青色をした刀身の剣を手に、シスはアルトに言った。
「まずは手始めに、簡単なほうから行こうか」
「ちょ、待っ……」
「来るよ。あーちゃん、炎の章」
アルトが躊躇する間に、突撃をかけるフェンリルとヘルハウンド。レンとニナがそれぞれ動き出そうとして……――シスの剣が赤い光を帯びる。
「それでいいよ。よーく見といてよ、あーちゃん」
ひた、と迫る七匹を見つめて、シスは地面を蹴った。
先頭を走る、白い狼。フェンリル。喉から唸り声をあげて、唾液を滴らせながら、見る間に肉薄する。その巨大な口でもってシスを食いちぎろうと飛び掛かる。
「甘いね」
ひらりと左に体をずらして回避。そしてそのまま右手に握っていた剣ですれ違いざまにフェンリルの後ろ脚を切りつける。
魔力装甲を突破したものの、魔物の特有の厚い外皮を傷つけただけだった。
ただ、これだけで十分だった。
白い毛並みを、赤い炎が包み込んだ。
「ガアアアアァアァッ!」
フェンリルが炎にまかれながら、悲鳴じみた咆哮を上げる。ヘルハウンドがその様子に怯えて後ずさる。
「さて、逃がすとは言ってないよ?」
パチン、とシスが指を鳴らすと、六匹のヘルハウンドの足元に赤黒い魔法陣が展開される。ヘルハウンドが恐慌状態に陥り、魔法陣の外へ飛び出そうとするも、見えない壁に阻まれ、逃げ出すことは叶わなかった。
魔法陣へ歩み寄りながら、赤い宝玉を取り出す。それをシスはぽい、と魔法陣の中へ放りこみ、同時に宝玉が爆裂した。
魔法陣という密室が白い灼熱の光に呑まれた。一瞬でヘルハウンドは跡形もなく消え去った。
たった数分で、殺意がこの空間から消えていた。
「……容赦ないなー、相変わらず」
呆れたような口調でニナが言い、炭化したフェンリルの塊を足で崩していた。
シスは振り返って、呆然と立ち尽くすアルトを見やる。その様子に思わず苦笑して、アルトへと歩み寄った。
「あーちゃん、分かった? 本来四元の章っていうのはああやって使うもので……」
声をかけると同時に、アルトはシスの腕を掴んだ。
「おまっ、怪我っ、怪我してないか?! 大丈夫なのか?!」
「大丈夫だよ? 心配してくれるとは嬉しいなぁ」
「当たり前だろっ!! 俺史上最悪にコントロールが悪いんだぞ! 炎の章なんて攻撃性最凶のじゃねーかよ! ミスったらお前が消し炭になって……」
くしゃ、と必死に訴えるアルトの頭をシスが撫でた。アルトが停止し、茫然とシスを見上げる。
「あーちゃんは、そんな卑屈になるほど下手じゃないよ。自信持たないと」
「だけど……」
「こうやって、使うんだって分かってくれればいい。ああいう威力、独りでやるには限界があるんだしさ」
ちらりと、アルトがフェンリルの残骸を見やる。
圧倒的な火力。通常の魔法と同じようにつかっていては、この威力は出ない。凝縮された魔力の生み出す、圧倒的な殺傷力。それが四元の章の神髄だった。
◇◇◇
それから何度か魔物に出くわしては、アルトはシスの言葉に従って四元の章を駆使して戦闘を潜り抜けた。ニナとレンもそれぞれに魔物を屠りながら、三時間が経過しようとしていた。
「これで半分。後は囮に引き寄せられてくるのを逐次倒せば今日中に終わる……はず」
通信端末で周囲の状況を確かめながら、レンが告げる。軽く三百体は倒したはずだ。アルトが要領を掴んでからは、一回の戦闘時間が短くなっている。
相変わらず、どこかたどたどしさは残していたが。
「お腹すいたー……」
岩に座り込んで、ニナが膝を抱えながらぼやく。漆黒のワンピースに、赤いグローブは目立つ。その拳ひとつで魔物を粉砕するのが、ニナだ。小柄な体躯を生かして素早く敵の懐に飛び込み、急所を一撃。物理的な接触面に魔力を叩き込み、破壊する。子供ながらに恐ろしい。
さすがは、監査官だった。
ふと、シスはアルトへ視線をスライドさせた。
「……あーちゃん? 具合悪いの?」
先ほどからじっと黙ったままだと思ってはいたが、アルトは仏頂面で木々を睨むように眺めていた。あるいは、ニナやレンの戦いっぷりにまたひねくれているのかも知れない。
ちらりと視線を寄越し、アルトは素っ気なく返す。
「別に。ただちょっと」
「ちょっと?」
「……兄貴の記憶みたいのが流れてきて、鬱陶しい」
「ずっと?」
「ちょっとずつな。……あー、くそ。苛々する」
頭をがしがしと掻き毟って、アルトは吐き捨てた。シスはニナとレンを一瞥する。二人は複雑そうな表情を浮かべて、アルトを見ていた。
事情を分かっていて、その上で心配しているのは間違いない。
「ニナ、レン。二人なら……どうするのが正しいと思う?」
「……あたしは、何もしない。それが、どれだけ残酷でも」
「僕は、教えるだけは、します。あとは本人に任せます」
こく、とシスは頷いた。多分、ニナもレンも正しい。
多分、自分が一番間違った答えを出している。だとしても、間違っているとは思っていない。これは、シスなりの正義なのだ。正義なんて言葉、自分が一番大嫌いだけど。
面白くない、という顔のまま周囲の木々を眺めるアルトにシスが歩み寄る。
「あーちゃん、先に言っとく。ごめんよ」
「……は?」
アルトが怪訝そうにシスに目を向けた。迷っている時間はなかった。
シスは黙ってアルトの左手首に触れる。
ぱきんっ、と甲高い音が静かな森に響いた。
「な……」
アルトの左手首には、青色の線で複雑な模様が腕輪のようにぐるりと一周していた。模様は絶えず変化を繰り返し、生きているかのようにも見える。
「これっ……遮断結界?! 何のつもりだよお前ッ!?」
「あーちゃんは、おにーさんが好きだろう?」
「ば、馬鹿言うなっ! 兄貴なんて別に好きじゃ……!!」
「大好きなおにーさんを失わないために、あーちゃんには必要なんだよ」
「話聞けよ!?」
喚くアルトに、シスはただ首を振るだけだった。理解させる必要などなく。だが今のアルトにとっては間違いなく必要なものだ。
ちらりとニナとレンを窺うと、相変わらず複雑そうな顔をして見ていた。
「シスだとそーいう結論になるよね。だけど」
「多分、黙っちゃいない連中が多い、だろう?」
「そゆこと」
ニナはため息をつくと、遮断結界を解除しようとあれこれ試行錯誤しているアルトに歩み寄って、ぺし、とその結界を叩いた。
「何なんだよ、お前らっ。そんなに俺に兄貴を越えるなってのかよっ」
若干涙目のアルトに、ニナは冷静に否定する。
「違うよ。確かに、越えてほしくない。だけどね、それはあーちゃんのためだよ。あーちゃんがクオルっていう兄を失わないために必要なものだよ」
「意味がわかんねーんだよ! 説明しろよ!」
「説明なんて不要ですよ」
ざぁ、と森が鳴る。声の主を見やると、そこには静かに微笑むクオルがいた。
「……言いましたよね」
シスに視線を合わせて、クオルは言う。口調こそ穏やかだが、心中荒れ狂っているに違いない。
だがその程度で行動を撤回するつもりのないシスは黙って続きを促した。
「邪魔だけはしないでください、って。……お忘れですか?」
「覚えてるよ。ボケるにはまだ早いからね」
「なら、どうして邪魔をするんですか?」
「邪魔、ね」
シスは諦めた様に息を吐いた。考え方の違いだろう。確かに、シスは今のでクオルの目的……あるいは、使命を邪魔したわけだから。
「あーちゃんが何も知らないのを良いことに、勝手に色々と進めてるのは卑怯だと思うけどね」
「な、何の話してんだよ?」
完全に置いてけぼりを食らったままのアルトにちらりとクオルが視線を寄越す。一瞬だけその瞳に申し訳なさが過った。
「ニナ、説明してやってよ」
「な! 何であたし?! あんたがすればいーじゃん!!」
「あーちゃんは僕の説明はちゃんと聞いてくれないよ」
苦笑交じりに肩をすくめると、当然とばかりにアルトが頷いていた。ニナは呆れて右手で頭を押さえて、首を振った。
「信じらんない。ほんっと頭痛い」
「……説明はしなくて結構です。知ったところで、何かが変わるわけじゃない。時間の無駄です」
そんな冷たい言葉を投げるクオルに、アルトがむっとした表情を浮かべた。アルトはクオルに対して反抗心の塊だ。そんなことを言われたら黙っているわけがない。
「教えろ。俺だけ知らないなんて癪だ」
「アルトには関係のない話です。それよりも、指令を片づけるべきでしょう?」
「これじゃ無理」
手首を示して、アルトはクオルの言葉を突っぱねる。クオルは笑みを浮かべて一歩踏み出す。
同時に、シスが間に割って入った。
クオルの表情から、笑みが剥がれる。
「貴方に用は、ありませんよ?」
「何で、おにーさんは納得してるのかが理解できない。おにーさんは、おにーさんのままで居られなくなることを嫌だとは思わないのかい?」
クオルはじっとシスの瞳を見据え、そして小さく微笑んだ。
「……それが僕の役目ですから」
「キミはいつもそれで自分を誤魔化すんだ」
思わずシスは呟く。それが本心だとしても、それを認めたくないシスがいる。
不意に背中が掴まれ、振り返るとアルトが何か言いたげな表情を浮かべていた。
意外な様子に、驚かずには居られない。
「どしたの、あーちゃん?」
問いかけるも、自分でも無意識の行動だったのか、アルトは何も言わずに手を離して目を伏せた。
「……っ、やば?!」
ニナが声を上げて座り込んでいた岩から飛び降りた。その背後から、死霊とゾンビの群れが現れる。
「うぅ、気持ち悪ぅ。あたしこいつら苦手ぇ」
言いながら、戦闘態勢に入るニナ。そのすぐ後ろに控えて、同じく魔力を練りだすレンにクオルが一瞥寄越し、小さく息を吐く。
「話は、あとですね」
「ま、そういう事だね」
シスが同意し、クオルは黒の鎌をその手に取る。戦闘能力を失ったアルトの手を引き、シスは後退する。
「お前は戦えるだろっ」
「何言ってるかな。丸腰のあーちゃんを放っておくわけないだろう?」
「お前のせいだし?!」
苦笑して、シスは戦闘を開始した三人を見やる。三人でも十分におつりがくるレベルだろう。ならば、することは一つだった。
「行くよ、あーちゃん」
「へ? ちょ、おい?!」
シスはアルトの手を引き、背を向けて走り出した。
少しでいい。邪魔をされずに話す時間を確保しなくてはならない。