最終話「生まれ変わる道へ、一緒に」
最期に見た景色を、今でも覚えてる。
それだけが、その瞬間だけが今の自分を支えているから。青い空が、霞んでいくのを覚えてる。
でもそれ以上に、最後まで握っていてくれた手の温もりだけは忘れない。そこに凝縮された優しさが今の自分を正しいって信じさせてくれる。
だから、ごめんなさい。
一緒の道を歩くことは出来なかった。一緒の道を歩くことはきっと、迷惑をかけることで……一番、難しい事だったから。
だって、残された時間があまりにも短かったんだ。
でも、本当はあんなことさせちゃいけなかった。分かるんだ。それは僕が背負った一番大きな十字架で、僕の一番の後悔。
だから、今も一緒の道は歩けない。同じように、いることは許されない。
これから先、きっと僕は今日という日をずっと恨んで生きていく。いやもう、生きてなんてないから……今日という悪夢を繰り返す。
だけど、今日という日を抱いて僕は、走り続けることができる。そうして一緒に同じものを目指し続けるために。
――僕は、貴方に嘘をつき続けることを選んだんだ。
◇◇◇
「何……言ってるの?」
美緒の声は震えていた。キアシェはただ黙って、そんな美緒を見据えている。
「そんな、私、そんな事は、頼んでないよ、びゅう!」
腕の中のビュテルンバイドに、美緒はそう叫んだ。
『ミオ、マダ死ニタクナイ……ト、言ッタ』
「それと拓巳は関係ないでしょう!」
「いいや、あるよ」
美緒の問いに答えたのはキアシェだった。
顔を上げた美緒を冷たく見下ろしながら、キアシェは言う。
「キミが死なないなら、誰かが死ぬ必要がある。こいつは、それだけは知ってた。死神の一番簡単なルールだけは、理解していた。……だから、キミの代わりに、池本拓巳が死ぬようにこいつは仕組んだ」
「そん、な……」
「冬木美緒。キミは、池本拓巳が紡ぐはずだった残りの時間を受け継ぐ。その命を受け取ることが出来る?」
「それは……」
「それとも、キミがその命を差し出して、池本拓巳を救う?」
ひた、と美緒を見据え、キアシェは二択を迫った。
確かに美緒は何も知らないままに、ここまでたどり着いていた。それはビュテルンバイドが懸命に隠し続けていたからでもあって。
だが、キアシェはそれでも無情に問い詰めるのだ。
死神としての使命を全うするために。
救えるはずの命を、救うために。
「……そんな美緒を追い詰めるなよ、キアシェ」
「なっ……!」
ぽす、とキアシェの頭に手を置いたのは、拓巳だった。
唖然とするキアシェに拓巳は一つ微笑み、やはり呆けている美緒に目を向けた。
「よ、美緒。悪いな……心配かけて」
「たく、み。何で……病院にいたんじゃ……」
「あ、当たり前じゃんッ! だけど、なんでっ……使徒様……!」
キアシェは慌てて待合フロアの隅に視線をやる。ブレンに支えられた状態のクオルが曖昧に微笑んでいた。
クオルの仕業だった。屋上で待つと約束したのだが、思わぬことをしてくれる。
魔法で美緒の目にも拓巳を捉えられるようでもしない限り、有り得ない邂逅。
それが、ここに実現させたクオルの意図が、キアシェには分からなかった。
「教えてくれよ、美緒。お前のこれからをさ」
「私の……?」
「もう、世話焼かれるほどお前も、子供じゃないもんな」
美緒はじっと拓巳の瞳を見つめた。拓巳はふっと笑うと、美緒の隣に座った。
「よう、びゅう。……よくも俺を代打バッターに起用しやがったな」
『ダカラ?』
「いや、よくやった、かもな」
苦笑して、拓巳は待合フロアから見える滑走路に目を細めた。
ビュテルンバイドと拓巳は、同じだ。
放っておけない、幼馴染を守ろうとしただけで。
セピア色の世界で、飛行機がのろのろとランウェイを進んでいく。
「美緒。お前の夢は、ここから羽ばたくんだな」
「拓巳……」
「教えろよ。それくらい、教えても減らないだろ」
美緒は一度視線を伏せてから、頷いた。
「そうだね。……ここから、続くはずだった私の夢だもんね」
――先月あったコンクールでね、特別賞に選ばれたんだ。
そうしたら、二年間海外で勉強してみないかって話が来たの。
凄く嬉しかったんだけど、私は即答できなかった。
だって私は、拓巳が知ってるとおり、人見知りで、外に飛び出すなんて考えたこともない人間だったから。
でも、私の唯一の特技みたいなものだったから。小さいころから拓巳が褒めてくれた絵は、私の唯一の誇りだったんだよ。
だから私は、勇気を出したんだ。
でもね、それを拓巳に言うのがなかなかできなかった。拓巳が反対するとかは思ってないよ。
「ただ私はね、私の勝手な考えで……拓巳と過ごした時間を失うのが怖かったんだ」
「何でそーなるんだよ。まさか、俺が忘れるとでも思ってんのかよ。たかだか、二年で」
呆れた口調で否定した拓巳に、美緒は苦笑して首を振った。
「その反対だよ。……私、拓巳と幼馴染って立場に甘えて……一番近くを占有してたんだ」
「……は?」
かくん、と首を傾げる拓巳。美緒は微かに頬を染めて、目を伏せる。
「拓巳が他の女の子と仲良くなって、私を忘れるのが怖いなって思ったのっ!」
「へ……?」
「ああもう、何でこうなるのぉぉ……」
顔を覆って俯く美緒に、拓巳はぽかんとした表情を向けていた。
泣いている、のではなく、美緒は恥ずかしさで顔を隠しているのだから。
キアシェが呆れ返った様子でそれを見つめ、ばしっと拓巳の頭を引っ叩く。
「な、え?」
「乙女心くらい悟れ。能無し」
「キアシェの口から一番聞きたくない台詞!」
「……はぁ……?」
冷たく見下ろすキアシェに、拓巳は慌てて首を振った。
そんな二人のやり取りをそっと見ていた美緒は、小さくため息を吐く。
「……そっか。……もともと、私じゃ、希望はなかった、ってことか」
「美緒?」
美緒の呟きに、拓巳は首を傾げた。
静かに首を振って、美緒は口を開く。
「ううん。……拓巳、ごめんね。痛い思い、させたよね」
「いや? 全然事故った時の感覚は覚えてないから。……気にすんな」
「びゅうを、許して、あげてね。その罪は、私が背負うから」
「いいや、それも必要ない」
美緒は拓巳の返答に首を傾げた。
キアシェはきっと拓巳を睨み付ける。
「……拓巳?」
名を呼ぶ美緒の声が震えた。拓巳の落ち着き払った態度が、言い知れぬ不安を煽る。
「良かったな。夢が叶うな、美緒」
「何、言ってるの?」
「ほら、これやるよ」
ひょいっと拓巳が美緒に何かを投げてよこす。慌てて美緒はそれを掴んだ。
小さなピアスだった。
「びゅう用。二度と他の世界には行けないけど、それさえ着けてれば、びゅうを連れてていいってさ」
「……使徒様は甘い」
ぼそりと呟いたキアシェに、拓巳が苦笑する。
確かに、と。それでも、クオルがそれを認めてくれたから、拓巳は迷わず決断できたのだ。
「じゃあ、行くか。キアシェ」
「……何言ってんの?」
そう返したキアシェの瞳は、いつにも増して冷たい。多分、数時間前の拓巳だったら前言撤回をするか、笑って誤魔化した。
ただ、それはあくまでもタイムリミットでなかったから。加えて言えば、最初からキアシェが拓巳を連れていくつもりなど無かったから、流せていたのだ。
――でも、今は違う。
キアシェが美緒を連れていく最後のチャンスなのだから。
「キミは、その意味を本当に分かってる?」
「美緒の未来をつなげるってことをだろ?」
「だから、それは言い訳だって……!」
「言い訳でも、それで一人救えるなら俺は意味があるって思うんだ」
「ない。意味なんてないッ! 何にも残らないのに、そんなの何の意味もな……」
キアシェの言葉を止めたのは、クオルだった。
いつの間にかキアシェの背後に立っていたクオルは、キアシェをそっと抱きしめる。
痛みを吐き出すようなキアシェの言葉を、受け止める。
キアシェは唖然とした表情のまま固まった。
「……そんな事ない。だから、もう自分を許してあげてください……ね」
クオルはキアシェの耳元でその名を呼ぶ。キアシェではない、名前で。
キアシェは目を見開いた。
何か言いかけたキアシェだったが、強く唇を噛み締め、俯くとクオルを押し返す。
「……何、言ってんのかわかんないよ、使徒様。……僕は僕の仕事、するから邪魔しないで」
「……ええ」
クオルは静かに頷いた。キアシェは拓巳へと視線を向ける。
その瞳にはもう、決意が宿っていた。
「池本拓巳。……キミは、本当にそれでいいんだね? 冬木美緒の代わりに、その命を捧げるんだね?」
「ああ。それでいい」
「な、何言ってるの拓巳? おかしいよ、そんなのおかしい!」
慌てて口を挟んだ美緒に、拓巳は笑った。
そして、美緒に最後の言葉を投げる。
――幼馴染の夢のために死ねるなんて、最高にかっこいい人生の終わりだろ?
◇◇◇
ジェットエンジンが轟音を響かせてその巨大な翼を空へ導く。
ごう、と空港屋上を風が吹き抜けた。
「そろそろ、行きたいんだけど」
ぶすっとした不機嫌な声が拓巳の背中にかかる。拓巳は苦笑いと共に振り返って、その主に視線をやった。
「ああ。そうだな。……無事見送ったし、そろそろ行くか」
「あの子はキミの残りの人生にあるはずだった業を、全て背負うことになったんだ。その罪、よくよく考えてこの後進んでよね」
「この後?」
「そう。キミはイレギュラーだから、通常の循環には戻れないんだよ」
頭の上に再び疑問符が躍る。
キアシェはため息をついて、続けた。
「まぁ、いいよ。あとで分かるから」
「そっか。……二人も、もう帰るのか?」
キアシェの少し後ろでたたずむ二人に尋ねると、クオルが頷いた。
「定期的に確認は必要でしょうけど。現時点では特に問題なくなりましたから」
「何か、色々ごめん。……それと……ありがとう」
クオルはいいえ、と首を振った。
拓巳の決断を最終的に後押ししてくれたのは、クオルだった。
――後悔だけはしない選択をしてください、と。
その為にビュテルンバイドの能力を全て封じるピアスさえ用意してくれた。
能力さえ封じてしまえば、もうビュテルンバイドは拓巳のような代理を立てることはなくなる。
もちろんゲートも開けない。
死神も監査官も、問題を解決することが出来た。
代わりに、拓巳の命は失われることになるけれども。
背中を向けたままのキアシェをちらりと見やってから、クオルは拓巳へ視線を戻す。
「それでは、失礼しますね」
「もう、会うことはないんだろうな」
「……そうかもしれませんし、またいつか……どこかで巡り合うかもしれません」
「そっか。その時は、よろしくな」
「はい。……じゃあ、ここで失礼します。……無理、しないでくださいね。……キアシェ」
クオルの言葉に、キアシェが驚いた表情を浮かべ、ばっと振り返る。
「クオル様ッ!」
振り返ったキアシェの瞳には、心底嬉しそうな顔をしたクオルと、安心したようなブレンが一瞬だけ映って……すぐに二人の姿は掻き消えた。二人のいた場所に、音もなく風が吹いて流れて行った。
「素直じゃないな、お前も」
ぽん、とキアシェの頭に手を置いて、拓巳は苦笑する。
キアシェはぎろりと拓巳を睨み付けて、低く言った。
「何言ってんのか分かんな……む」
ぐい、とキアシェの頭を自分の胸に引き寄せて、拓巳は言う。
「俺の最後の礼だ。今、思いっきり泣いとけよ。……後で、一人で泣かなくていいように」
「……意味わかんない。やめてよ。離してよ」
胸を押し返すキアシェを離さないように力を込めて、拓巳は言った。
「よく、我慢したな」
ぽんぽん、と頭を軽く叩く。
キアシェはもう、限界だったのだと思う。
それ以上は抵抗せずに、ただ微かに震えるだけだった。
拓巳には事情なんて分からない。
それでも、キアシェはクオルを心底慕っていて、それゆえにそれを隠し通さなければならなくて。
そんな葛藤をしていたことだけは、短時間しかいない拓巳にもよくわかった。そんな痛みをこれから一人で抱えていかなければならないキアシェを、拓巳は最後に受け止めてやりたかった。
自分の我儘を、聞いてくれたのだから。
きゅっとキアシェが拓巳の制服を握りしめる。それはとても弱々しい少女らしさと言っても良くて。
思わず苦笑して、拓巳はそっとキアシェを抱き締める。
最後まで、拓巳は真剣に悩んだ。
美緒の夢か、自分の将来か。
自分には夢がない。だがそれだけでは、命を捨てるには余りに馬鹿げていることは拓巳も理解していた。
でも、振り返っても何もなかった。平凡な人生をずっと進んできた。
今日だけが、拓巳の中で一番輝いていた。
死ぬという実感がないだけかもしれない。
それでも……今日という日を、拓巳には捨てることが出来なかった。
「なぁ、キアシェ。俺はさ……もう一つ理由が出来たから、決断できたんだ」
あるいは、それが一番の理由かもしれないけれど。
朝の退屈な往来の中に現れた、幻影のような少女と二度と会うことがない人生なら。
最後の一瞬まで、一緒に居たいと拓巳は願った。
「……キアシェに、俺の命を狩って欲しかったんだ」
――好きになって、ごめんな。
そう囁いて、涙でぼろぼろのキアシェに拓巳はキスをした。
少しだけ、塩の味がした。
◇◇◇
単純明快にして、稚拙。
そんな拓巳の感情のために、キアシェの仕事は少しだけ回り道と手間が加わる。
拓巳の視界には、青空が見えていた。
右頬で疼く痛みにも関わらず、拓巳は笑みを浮かべている。
――もちろん、拓巳はキアシェに殴られていた。
「……何してくれんの…? キミは……よほど、命が惜しくないんだね……」
地獄の底から響くような声で、冷たく見下ろすキアシェに、拓巳は苦笑いを向けた。
「いや、もう死んじゃうし、冥土の土産に……」
「そんな冥土の土産持ってくな、馬鹿ッ!」
顔を真っ赤にして怒るキアシェは、とても死神とは思えない普通の少女だった。
泣き腫らした目には、まだ涙が少しだけ残っていた。
あまりに普通すぎて、死神という言葉がアンバランスだった。
(それが、可愛いんだけどさ)
口下手で、仕事熱心で、でも命の重さを常に考えているそんなキアシェに、拓巳は惹かれてしまった。
人生最後の最後まで、何が起こるか分からない。
「まぁ、キアシェ」
「何」
「ありがとう。それから……うん、ありがと」
意味わかんないよ、とそっぽを向いたキアシェに拓巳は思うのだ。
――キアシェで良かった、と。
あの場所にいたのがキアシェでなければ、きっと拓巳は助けに飛び出そうとしなかった。
キアシェでなければ、きっと拓巳は自分自身の命について、まともに向き合おうともしなかったに違いない。
「なぁ、キアシェ。人間は生まれ変わるってのは、本当なのか?」
「そうだよ。その循環をサポートするのが、死神の役目」
「じゃあ、俺はまた……キアシェに会うことが出来る、ってことだよな?」
その問いに、キアシェは心底不愉快そうに眉根を寄せた。
「……僕は会いたくないけどね」
「いや、俺は待つからな。キアシェが来てくれるまで、死神に抵抗してやる」
「こいつ、救いようのない馬鹿だ」
ぼそりと呟いて、キアシェはため息をついた。
拓巳はもう一度、青空を見上げる。
良く晴れた空。旅立ちを迎えるには悪くない。
拓巳はようやく立ち上がって、キアシェに言った。
「そーいうツンデレ態度なキアシェが、俺は大好きだぞ」
キアシェが何とも形容しがたい表情を浮かべる。
怒りと照れと、そしてどこか、泣きそうな。
「忘れんなよ。俺が、未来永劫、生まれる度にキアシェを待ってる男だってこと」
拓巳が胸を張って言い切ると、キアシェは大きくため息をついた。
呆れた、と言わんばかりに首を振って、キアシェは言う。
「……まったく、とんだ変態だった。行くよ」
「ああ、行くか」
キアシェがくるりと踵で回転する。ふわりと、その衣装が変化する。
拓巳の高校の制服から、黒のワンピースに赤いジャケットという最初に出会った時の格好へ。その手には、赤い鎌。
拓巳の視界に鮮やかに輝く、凛とした姿。
それだけで、満足したような気持ちになってしまうのは、惚れた弱みかも知れないな、と拓巳は苦笑する。
「僕も、最後に言っとく」
ふと口を開いたキアシェに、拓巳は視線を向けた。
キアシェの金色の瞳が、柔らかに細められ、ひらりと、手にした鎌が空気を裂いた。
――ありがとう、拓巳。
池本拓巳の人生は、こうして最期を迎えた。
◇◇◇
死神なんて、誰からも愛されない存在だった。
誰だって死にたくはないというのに、死神は死の瞬間に現れるのだから。
でも、貴方の魂が迷子にならないように道案内をするのが、死神なんだとしたら、貴方は納得してくれるのだろうか。
貴方が最期を一人で迎えなくていいようにいるのだと伝えたら、貴方は最後くらい笑ってくれるんだろうか。
貴方に……最後にもう一度会うためにいるのだとしたら、貴方は最後まで諦めないで生きてくれるのだろうか。
――たん、と今日もその一歩は死を招きよせる。
楽しげに談笑するカップルの脇を抜け、少女は歩む。赤のジャケットに、黒いフレアワンピースをなびかせて。
その手には、大きな赤い鎌を持って、少女は彼の後ろへ立った。
「さぁ、一緒に行こうか」
呟いて、胸を押さえて苦しみだした彼へと刃を振り下ろした。
「新しく生まれ変わる道へ、一緒に」
魂を狩り、道を示す存在がいる。
彼らは人々に忌み嫌われ、しかし陰ながら世界を守っている。
そんな彼らを、畏敬を込めて人々はこう呼ぶのだ。
――死神と。
第三章 Soul Saver 終幕