第五話「最悪だな」
ただいま、と玄関を開ける。おかえりと返ってくる声は、ない。
それは慣れ切った日常で、美緒は教科書で重いランドセルをリビングのソファの上に転がす。
ぼすっとソファに身を沈めて、テレビをつけるが、流れてくるのはワイドショーか再放送のミステリーばかりで、小学生の美緒には面白さが伝わってこなかった。
精々出演者の芸能人がかっこいいとか、そのレベルだ。
毎日繰り返される、そんな退屈な日常。
美緒の両親は共働きで、母親が帰ってくるのは五時を過ぎてからだった。
寂しさを覚える時期はとうに過ぎていた。
かまってもらえる時間を作るために、宿題を中途半端に残す強かさまで身に着けて。
そんな自分を、美緒は子供ながらに恐ろしいと思った。
かたん、と扉が閉まったような音が聞こえ、美緒はいつの間にか眠っていたソファから慌てて体を起こした。
一度昼寝をしていた時にお小言を言われた経験がそうさせる。美緒は床に足をおろし、ぱたぱたと玄関まで走った。
「お帰りなさい、お母さん!」
だが、そこには母は居なかった。
そこにいたのは、エメラルドグリーンの奇妙な生物。小さな子猫くらいの大きさの、何か。
そんな何かが、ぐったりと玄関の床に横たわっていた。
「ひっ……!」
ひきつった悲鳴を漏らし、美緒は背中を壁にぶつけた。
鍵だってかけて、その上扉も開いていないというのに、この生物は家の中にいた。
明らかに、おかしい。
しばし美緒はその生物を警戒して、見つめていたがぴくりとも動かない。
――もしかして、人形かも。
そう思うとすっと恐怖が抜けた。そうだ。こんな変な色の生き物、図鑑でも見たことない。
それが根拠となって、美緒の恐怖を薄れさせた。
美緒は背中を壁から離し、一歩ずつゆっくりと近づく。自分の息遣いがずいぶんやかましく感じた。
じっと見つめながら近づいていくと微かに、胴体が上下していた。生きて、いる。
「大丈夫……?」
恐怖がすっかり薄れ、興味にシフトしていた美緒はそっと声をかける。
ふるふると小刻みに震えながら、その生物が頭を上げる。
美緒の視線と、その生物の七色に輝く瞳がぶつかった。
『助ケテ……』
「助けてほしいの?……えっと、どうしよう……そうだ!」
美緒は名案が浮かび、その生物を抱き上げると自分の部屋へ走った。
両親はペットを飼う事には賛成してくれなさそうなので、ひとまずは隠す必要がある。
自室の扉を開けると、愛用のフリースをベッドの上に広げた。
「待っててね!」
フリースに包んで、美緒はそう声をかけると再び部屋を出て行った。
そして再び美緒が部屋に戻ってきた時には、もう一人が一緒だった。
「なんだよ、またネコか犬拾ったのか? しょーがねーな」
「猫でも犬でもないよー」
「じゃあなんだよ……」
何だろう、と美緒は首を傾げる。そして、声が頭に響いた。
『我ハ…ビュテルンバイド…時空ヲ溶接セシ、存在』
それは、およそ十年も前の記憶。
◇◇◇
駅前にあるバスロータリーで、拓巳はぼんやりと空を見上げていた。
キアシェたちに置いて行かれて、まだ三十分も経過していない。それでも、酷く長く感じる。
もしもこの状態でキアシェが美緒を連れて行ったら、二人で行くことになるのか、あるいは勝手に自分の体に戻されることになるのだろうか。分からない。
――これで、良かったのだろうか。
クオルから投げられた問いに、拓巳は心底肝を冷やした。
クオルは、全てを見透かしている可能性もある。それくらい当然だという雰囲気が、クオルにはあるのだ。
「……美緒じゃない。美緒が、悪いんじゃない」
自分に言い聞かせるように、拓巳は繰り返す。
少なくとも美緒は絶対に悪くない。
それは確実だ。ただ、美緒は優しすぎただけで……そして、多分『あれ』も優しいだけで。
「くそっ……」
頭をかきむしって、悪態をつく。結局ここで悩むだけで、何もできていない。
美緒を守る事も、キアシェたちに協力することも。
しようと、していない自分がいるから。
『このまま、誰にも触れられない世界に行くことを受け入れるの?』
何もしないまま。何もかも、目を向けないまま。
キアシェの言葉が、深く突き刺さる。
ぎり、と奥歯を噛み締めて拓巳は立ち上がる。
「駄目だ。ここに居るだけじゃ、何も解決しない」
拓巳はそう自分を奮い立たせる。
高校へ向けて歩き出そうとした瞬間、世界が一瞬で黒く染まった。
「え……」
時間、切れ?
そう思い当たった瞬間、恐怖がせりあがった。それと同時に、理解する。
(ああ、俺はまだ死にたくないんだ)
黒く染まった世界が、形を変えていく。
瞬く間に、どちらが出口かもわからない長い長い回廊に、拓巳は放りこまれていた。
「ここ、何なんだよ……」
膨れ上がる恐怖を掻き消すために、拓巳は周囲を見回しながら言う。誰もいない、ただ長く続く閉塞された場所。
熱くも寒くもない、かといってちょうどいいかと言われれば、少し息苦しい空間だった。
――ごそ、と背後から音が聞こえ、拓巳はぱっと振り返る。
「……はい?」
そこに居たのは、期待した存在ではなく。
肌が顔まで真っ赤な顔に牙をむき出しにし、頭に二本の角を生やした鬼が居た。
振り上げている黒い棍棒には棘が見える。
あまりの出来事に、拓巳は呆気にとられた。
「…ォォォォオオオオ!」
喉から爆発したような鬼の声と共に、棍棒が振り下ろされる。
拓巳は咄嗟に転がるように左へかわした。
ずごん、と振り下ろされた床に棍棒がめり込む。
石造りの床が砕け、跳ね上げられた鋭い石の破片が拓巳の皮膚を薄く切り裂いた。
「あ…ぁ……」
爆発的な恐怖が膨れ上がり、鈍い動作で鬼が棍棒を引き抜こうと太い腕に力を込めた。
拓巳は腰が抜けそうになりながら、ふらふらと立ち上がり、鬼へ背を向け脱兎のごとく走り出す。
――ヤバイヤバいヤバいヤバい!
ぐしゃ、とまたどこかが壊れたような音が聞こえた。
しかし振り返ったが最後、恐怖で動けなくなると懸命に自分に言い聞かせ、振り向かないように拓巳は全速力で駆ける。
どすどすと背後から迫る足音に叫びそうになりながら。
ただ直線の回廊。聞こえてくるのは自分の息遣いだけで、もはや思考の大半を恐怖が占めていた。
「!」
不意に前方に影を見つける。ちょうどヒト型の、影。
助かった、と思わず拓巳は安堵する。
「そこの誰か、助けてくれぇぇぇっ!」
思いっきり喉から声を絞り出し叫ぶと、その影が振り返った。
しかし、その姿は拓巳を更なる絶望へと叩き落す。
その影は、頭の半分が溶けて、赤い顔の筋肉を無残に晒していた。
ゾンビ……――その言葉が思い浮かび、拓巳は総毛立った。
拓巳の姿を認めると、遠目でもわかるような大きな笑みを、ニタリと浮かべる。
よくよく見れば、その手には大きな包丁を握っていた。
拓巳は足を慌てて止め、後ろを振り返る。
後ろは赤鬼が棍棒を片手に、どすどすと追いかけてきている。
前を見れば、包丁を振りかざしてぺたぺたと歩み寄ってくるゾンビがいる。
「は…ははっ……これ、罰だよな。クオルやキアシェにちゃんと伝えなかった俺の罰だ……」
絶望感が拓巳の気力を根こそぎ奪い去り、がくりと膝をつく。
情けなくて、悔しくて涙も出やしない。
「……キアシェ、悪い。俺……ついてくことも、出来ないみたいだ」
どちらに殺されるのだろうか。
いや、そもそも殺されるのか?
殺されるだろう。この場所は、普通とは違うようだから。
頬から微かに伝う血がそれを裏付ける。
美緒も救えない。クオルの仕事の手伝いさえ出来ない。
何より、キアシェの仕事を全うさせてやれない。
自分が決断できないがゆえに、色々と手を尽くしてくれた少女。死神という響きからは連想しがたい、人としての暖かさを与えてくれた少女。
でも、結局何もできなかった。
拓巳を包むのは後悔だけだった。
「ごめん。だけど……美緒は、許してやってくれよ……」
ぽつりと、拓巳が呟いた。
そして、出来るなら、キアシェが仕事の件で誰かから責められることがないといい。
気配が、前後で止まる。同時に、違う殺され方をするようだ。
「最悪だな」
呟いて、瞳を閉じる。
諦めの強い覚悟で、拓巳はその時を受け入れる。
唐突に心が平静さを取り戻し、その脳裏で思い出したのは、何故か美緒ではなくて、キアシェだった。
思わず、自嘲する。
本当に、災難続きで最悪な一日で、最悪な人生の終わりだ。
「まったくだよ」
「え……?」
その、声は……――
破裂音が拓巳の耳を劈いた。
襲い掛かった唐突な衝撃と共に、拓巳は床に転がる。
暗い色をした床に背中を打ち付けた拓巳。視界に星が舞う。
「へ……は……」
ぐい、と胸ぐらを掴まれ、拓巳は無理矢理起こされる。
何が起きたのか理解できない拓巳は、パニック状態だった。
「いつまで寝ぼけてんのかな? ……キミは」
その声が、拓巳の鼓膜を震わせた。
拓巳の瞳を、冷たく見下ろすのは金色の瞳。
キアシェだった。
「何してんの? キミさ、どんだけ人に迷惑かけたらわかんの? 自分の立場」
絶対零度の金色の瞳で、キアシェは拓巳の胸倉を掴んだまま、淡々と責め立てる。
キアシェの声が拓巳の思考に冷静さを取り戻させ、拓巳は張り付いたような喉から声を絞り出す。
「キア、シェ?」
「キミの魂はね、僕が守る義務があるんだよ。死神は魂を守らなきゃいけない。それがどんなに外道で、最低で、ぶち殺したい相手でもね。キミは……」
言いかけたキアシェの言葉は、拓巳の頭上を通過する。
拓巳が、キアシェに抱き付いてしまったから。
「……まったく」
普通立場逆じゃない? と呟いて、キアシェはそっと拓巳の頭を撫でた。
黙って震える拓巳に、キアシェはため息を吐く。
「よく逃げ切ったよ、キミは」
「ごめん……キアシェ、ほんとに、ごめん……」
ずっと、キアシェは守ってくれていたことを拓巳はようやく理解した。
間違ったから、というだけでなく。死して訪れる孤独も恐怖も、今後も生きていくはずの拓巳が感じなくて済む様に。
その気遣いが、今になってようやく拓巳にも染みる。
死神だというのに、キアシェから感じる温もりが拓巳の恐怖を溶かす。
じんじんと痛む拓巳の左肩。先ほどキアシェに問答無用で蹴られた痛みだった。
だが、それはキアシェが心配してくれていたが故に、拓巳へ与えられた罰だ。
「……とりあえず、さっさと落ち着いてよ。まだ仕事は終わってないんだから」
頷いて、拓巳はようやくキアシェを離す。罵声を浴びせたいような、一発殴りたいような。
そんな複雑な表情を浮かべたキアシェに、拓巳は小さく笑った。
「ありがとう、キアシェ」
「別に、キミを探してたわけじゃないよ。ただ、キミの気配を感じたから来てみれば、殺されかけてただけ」
その口ぶりに嘘はないようで、拓巳は苦笑する。
(運がいいのか悪いのか、今日の俺はどちからに振り切ってるな)
「さぁ、もう行くよ。脱出しないと。使徒様もそろそろヤバいしね」
「え?」
キアシェが後ろを顎で示す。
示された方向を見やると、クオルを背負ったブレンが苦笑いを浮かべていた。
一部始終見ていたということか。
今更ながら、拓巳は顔から火が出るほど恥ずかしくなる。
一人頭を抱える拓巳を放置し、キアシェは周囲を見回した。
「けど、これだけ探してないってことは……出口は自分で作れってことかな、これは。ムカつくやつだな」
「これだけの空間、簡単には作り出せないと思いますが」
「そーなんだよね。なんか、引っかかるんだよね、あれ」
ブレンの指摘に、キアシェも同意する。
拓巳はゆっくりと立ち上がり、制服をぱんぱんと叩いた。
状況から完全に置いてけぼりを喰らっている拓巳は、意味もなく周囲を見回し状況を確認する。
鈍い明かりだけで照らされる、前も後ろも同じような景色が伸びる回廊。
窓もない回廊が放つ圧迫感に、拓巳は息が詰まりそうだった。
「ビュテルンバイドと言ってましたっけ?何者でしょう」
「……ていうかさ。キミ、知ってるよね?」
不意に話題を振られた拓巳は、首を傾げる。
はぁっとため息をついて、キアシェは拓巳に指を突きつけ言う。
「ビュテルンバイド。……冬木美緒が、びゅうとか呼んでる、あれ」
「びゅ、びゅうに会ったのかっ?」
思わず声を荒げた拓巳に、キアシェが不機嫌そうに目を細めた。
それは紛れもない非難の視線だ。
拓巳は慌てて口を手で覆い、キアシェの視線から逃げる。
「つまり? キミはそいつの存在を知っていて、冬木美緒が今回の件に噛んでると踏んで、自分が行くと言い出したわけかな?」
「そ……そいつって、誰だよ?」
「まだしらばっくれる気? ビュテルンバイド。びゅう。キミを殺そうとした、冬木美緒のペットだよ」
「びゅうはともかく、美緒がそんな事するわけないだろ!」
拓巳は反射的に言い返してキアシェを睨み付ける。
意外にも、キアシェは笑みを浮かべていた。
――はめられた。
拓巳は一瞬で悟る。冷や汗がつう、と一筋拓巳の頬を伝った。
「何故、そうじゃないって、言い切れるのかな?」
「だ、って……美緒は、誰かを傷つけるようなこと、出来るような奴じゃないんだよ」
「人は感情で、簡単に裏切るよ。ましてや、それが生死に関わってくるようなことならね」
言い返す言葉もない拓巳は目を伏せた。そんな拓巳に、キアシェは小さく息を吐く。
ぽん、とキアシェは拓巳の腕を軽く叩いて、口を開いた。寂しげな笑みを浮かべながら。
「それでいいんだよ」
「え?」
キアシェの言葉の意味が汲み取れず、拓巳はキアシェに目をやった。
だが、拓巳がその意味を問いかけるより早く、キアシェは続ける。
「あのビュテルンバイドについて、何を知ってる?」
「え……、びゅうが自分で言ってたのは……時空の溶接をするとか」
「溶接……そう。なるほどね、ここは厳密には亜空間じゃないってことか」
何か納得した様子で、キアシェは一人頷く。
「まさか、世界を連結させているだけ、ですか?」
「可能性としてはそれが一番高いね。出口のないゲートの途中、って考えでもいいけど」
「だから、ゲートが……」
納得したブレンに、キアシェが頷いた。
分からないのは、拓巳だけだった。当然と言えばそうなのだが、思わず表情を曇らせてしまう。
そんな拓巳に、ブレンは苦笑して説明を始めた。
「ここはわざわざ作り出された別世界ではない、ということです。まだあくまで、貴方の世界の延長線上にここは存在する」
「えーっと……全然分かんない、かな」
「無駄な時間を使ったね、ブレン」
キアシェがそう毒を吐き、拓巳はしゅんとうなだれた。
「さて、じゃあここを出る前に、少し整理しようか」
「そうですね」
キアシェは腕を組み、改めて口を開いた。
「あのビュテルンバイドとかいう奴は、疑似ゲートを作り出すことが出来る。冬木美緒は、そのゲートで別世界に行き、その絵を描いた。その絵に座標を重ねることで、繋いだ状態を維持している、と。監査官側の問題は説明がつくね」
「そうですね。ビュテルンバイドそのものが、ゲートパスのような役割を果たしている可能性があります」
「問題はこれなんだよね」
キアシェは拓巳を見やり、そう呟いた。
何となく悪いことをした気になり、身を縮めた拓巳から興味もなさそうに視線を外し、キアシェは言う。
「キミ、今朝は普段通りに登校してたんだよね?」
「え? ああ……朝、いつも通りに出て……学校には、始業十分前に着く予定……」
――おかしい。
さっと青ざめた拓巳の様子に、キアシェは何かを感じ取ったようだった。
「キミが、今朝あの場所から登校したとして?」
「………二十分、前」
「なるほどね」
短縮された十分間が、そこには生じていた。勘違いでは、ない。
拓巳の時計は、今朝の事故以来一秒たりとも進んではいないのだから。
「あのビュテルンバイドとか言うの、時間と空間を溶接するってわけか」
「ゲートに限りなく近い方法ですね……」
ブレンも納得する。拓巳だけが、凍り付いていた。
話を総合すると、ビュテルンバイドの能力によって、拓巳は殺されかけたということなのだから。
「あいつは、その能力で先を見通す力も持ってたんだろうね。だから冬木美緒が死ぬことを悟った」
「だから、代わりに俺を差し出そうとした……?」
「冬木美緒が命じたから、っていう可能性もあるけど。……ま、案外、誰でもよかったのかもね。でも、そうなるとあいつをほっとくのは、いよいよ危険だね」
「な、何で?」
問いかける拓巳に、キアシェは視線を寄越し言い切った。
「ビュテルンバイドの独断でやっているなら、今後もあれは冬木美緒を守るために、誰かを犠牲にするからだよ」
「な……」
「キミの生死なんて、あれにとってはどうでもいい事に過ぎない。ビュテルンバイドが守ろうとしてるのは、冬木美緒、ただ一人なんだから。だからこんな回廊にキミも放り込まれたんだろうしさ」
キアシェは簡単に言うが、拓巳にとっては衝撃である。
ビュテルンバイドが拓巳に対して抱く感情が、殺意しかないなど。
めまいがしてきた。
拓巳の困惑を他所に、ブレンはキアシェに確認をとる。
「確保か、討伐か……どちらかは必要ですね」
「だろうね。さて、そろそろ出ようか。これだけ死神に手間かけさせたんだ。事情だけは、きっちり問い詰めてやらないとね。使徒様、動ける?」
キアシェはじっと黙っていたクオルに声をかける。
話は聞いていたはずで、異論を唱えなかったという事は、同意見だという事だろう。
ブレンが背中のクオルに視線を寄越すと、ゆっくりとクオルが顔を上げた。顔色は相変わらず悪い。
「何を……すれば?」
「ゲート転送は、耐えられる?」
「……問題ありませんよ」
そう微笑んだものの、拓巳の目でもクオルがそろそろ限界なのは分かった。
キアシェは頷いて、その手に空中から鎌を握り、構えた。
「それじゃ悪いけど、少しだけ耐えてもらうからね」
すう、とキアシェは息を深く吸い込んだ。
「死神を見くびってもらっちゃ困るんだよね!」
言って、キアシェは床へ鎌を滑らせた。三六〇度円を描くようにキアシェは床を削り取る。
「さあ、戻って決着と行こうか!」
だん、と床を踏みつけるとばらばらと床が崩れ出す。そこを起点として、回廊が瞬く間に崩壊を開始した。
◇◇◇
スーツケースを預け、諸手続きも済ませた。あとは出発時間まで待っていればいい。何もかも、それで解決してくれるはずだ。
美緒は固い表情で、待合フロアの椅子に座っていた。ぎゅっと手のひらを握りしめて、膝の上に乗せ、視線を落とす。
気を落ち着けるために、美緒は目を閉じて、小さく息を吐いた。
――目を開けば、全てが夢ならいいのに。
美緒は心の底から、そう願った。
有り得ない願望を抱きながら、美緒がゆっくりと瞳を開く。
見覚えのあるローファーが美緒の見下ろす視界の中に映っていた。
驚いて顔を上げると、心底不愉快そうな顔をした少女と目が合う。
金色の瞳をした少女は、息を呑む美緒へと言った。
「先刻は、どうも。ちょっと聞きたいことがあるんだよね」
「貴方は……」
「キアシェ」
美緒の表情は明らかに凍り付いていた。
だが、もはや美緒の精神状態に構っていられるような時間的猶予は、キアシェには残されていない。
「私は、貴方と話すことは何も……」
震える声で、美緒はそう言葉を絞り出す。
だが、キアシェは冷たく見下ろす瞳を動かさなかった。
「僕もないね。キミと仲良く話すようなことはない。だけどキミから聞き出さないといけないことは、あるんだよ」
息を呑んだ美緒に、キアシェはやれやれと頭を振る。
そして、ぱちん、と指を鳴らした。
「な、なに……?」
周囲の色が、一斉に色褪せ、セピア色になって人の姿が消えた。
鮮明な色を残したのは、キアシェと美緒だけだった。
この場にいるのは、キアシェと美緒の二人きり。
「これで、キミと僕は誰の目にもつかなくなった。さぁ、出てきなよビュテルンバイド。決着をつけよう」
『決着ナド、不要。手ヲ引ケ』
美緒の足元の影から、ビュテルンバイドが浮かび上がる。
ビュテルンバイドは、美緒とキアシェの間に浮遊し、その虹色の瞳を細めキアシェを睨み付けた。
キアシェは肩をすくめてみせる。
「分かってないね、ビュテルンバイド。キミの存在が、冬木美緒の存在を危うくしてるんだよ。それから……下手に死神の仕事を邪魔するから、僕の目につくような展開になるんだよ」
「ま、待って! 違う、びゅうは悪い子じゃないの!」
美緒がビュテルンバイドを抱き締めて、キアシェに反論した。
キアシェは興味を微塵も宿していない冷たい視線で美緒を見やる。
「じゃあそれを説明してよ」
「びゅうは、私が寂しくないようにいつも傍にいてくれた。私が……退屈じゃないように、たくさんの世界を見せてくれたの」
今にも泣きそうな声で、美緒は必死にキアシェに訴える。キアシェは黙って美緒を見下ろし、続きを促した。
「それでとても素敵な場所があったからっ……絵に描いてしまったの。それが、悪い事なら……それはびゅうが悪いんじゃない。私が悪いの……!」
「……そう。そっちはどーでもいーよ。問題はね……僕を出し抜こうとしたことだよ」
『………』
キアシェはビュテルンバイドを見下ろしながら言う。
「確かに、死神は誰か一人を連れていければいい。だけど僕ら死神は、本来狩るべき人間を狩る義務がある。だから……」
『我ニハ主以外ノ存在ナド、意味ナドナイ』
「……確かにね、言う通りだ」
ぽつ、とキアシェが零す。
美緒は困ったようにキアシェに視線を向けるが、何も言えずにいた。
一時の沈黙の後、キアシェはその瞳に決意を載せて美緒へ告げる。
「冬木美緒。僕はキミに確認をしに来たんだよ」
「え……」
「キミは、本当は今朝死ぬはずだった。だけど、今も何故か、キミはここに居る」
美緒は目を見張る。ビュテルンバイドは止めることもしなかった。
「キミは、そのビュテルンバイドに命じて、池本拓巳を殺そうとした。そうだね?」