第四話「一つだけ嘘をつきました」

 

 美緒と拓巳は、小学校からの幼馴染だった。

 小学校に入学する少し前に、美緒が引っ越してきて、それからの付き合いだった。

 美緒は、引っ込み思案で、他人の陰で生きていた。

  目立つことはせず、かといって根暗で悪目立ちをするわけでもない。

  おとなしいながらも、ちょうどいい場所で大勢に霞んでいるようなものだった。

 そんな美緒の特技というか、拓巳が印象的に思っていたのが美術だった。

 目立つわけでもない、美緒の絵。 だが視界に入れば、不思議と引き込まれる絵。それは拓巳の幼馴染としての贔屓目ではなかったと、思う。

 拓巳は、美緒の絵が認められたらいいと心の底から願っていた。

 そして今もそう願っているからこそ……これから訪れるであろう未来を、期待していることができたのだから。

 

◇◇◇

 

 ブレーキが静かにかかり、慣性で揺られる。

 すっと立ち上がったキアシェは、拓巳に声をかけることもなく電車を降りた。

 拓巳はやや遅れながらも、キアシェに続いて電車を降りる。

 先に降りたキアシェは、黙ってホームを階段へ向けて歩いていた。

 その少し後ろを、拓巳は晴れない表情で続く。

 ホームをから改札へ続く、下り階段の少し手前でクオルとブレンが待っていた。

 黙って合流し、改札へ続く階段を下りていく。

 たん、たん、たん、と階段を下る一歩が、拓巳にとっては重い。

 少しずつ、だが確実に美緒との距離が失われているのだ。

 足早に降りていく人々が、拓巳には羨ましく思えてくる。

 階段を降りると、その正面に自動改札が並んでいる。昼間は人の往来は少ないが、朝は学生でごった返していることを、拓巳は何の気なしに思い出した。

 そんな道のりを、拓巳か美緒、どちらかは二度と歩くことはない。

 改札を出れば、後は歩いて十五分ほどで高校へ辿り着く。辿り着いて、しまう。

 先を歩くキアシェたちの背を見つめ、拓巳は口元を引き締めた。

「俺が、キアシェと行く」

 ぴた、とキアシェが足を止めた。

 クオルとブレンが晴れない表情で振り返る。唯一視線を寄越さないキアシェに、拓巳は続けた。

「だから、美緒はいいだろ。あいつに、関わるのはやめてくれ」

「……キミは、本当にどうしようもないお人好しだね。それでキミが死ぬことになるって、分かってるんだよね?」

「何でもいい。とにかく、美緒は……」

 関係ない。

 美緒に対して拓巳が今時点で出来る唯一の事は、関わらせないことだけだった。

「残念ですが、それは承諾できません」

 答えたのは、キアシェではなくクオルだった。

 意外な返答に、拓巳は思わず目を見張る。

 肩越しに振り返っていたクオルは微かに申し訳なさそうに目を伏せたが、無情にも続ける。

「キアシェさんは、それで十分かもしれませんが……僕たちは違います。監査官として、彼女からは話を聞く必要があります」

「何で……どうしてだよ!」

「言ったはずです。死神は魂を守り……監査官は魂の住む世界を守るために存在しているのだと」

 理解できないことを突きつけられたところで、何も響いては来ない。

 拓巳は監査官について何も知らないし、クオルにとって美緒は他人でしかない。埋まらない溝について抵抗したって、先に進めるわけがないのは明白だった。

 クオルは反抗する拓巳に怯む様子もなく、続ける。

「そもそも……貴方は、何故そこまで彼女に会わせたくないんです?」

「何故って、美緒に全部伝えるんだろ? 俺の状態も、美緒が本当は死ななきゃいけないってことも……」

 そんな事を美緒に伝えたら、美緒はその運命を受け入れるだろう。

 それが拓巳の知っている冬木美緒と言う少女なのだから。

「誰が、そんな事を言ったんです?」

 拓巳はクオルの言葉の意味が分からず、口を濁した。

 クオルは拓巳に向き直って、笑みを見せる。

「僕には……貴方が、どうしても彼女に会わせたくない理由があるように、思えるんですけど」

「そ、んなことない」

「なら、心配するようなことはないんじゃないですか? 僕は、ただ話を聞きたいだけですよ?」

 拓巳は返答できなかった。

 クオルの言葉は、多分、嘘ではなくて。

 嘘でないだけに、こちらの嘘も通さない。

 そんな確信が拓巳の中にはあった。

「もっとも……――」

 俯きかけた拓巳はクオルの声でそれを阻まれる。

 視線の先のクオルはどこまでも純粋に、それゆえに狂気的に、告げる。

「事情如何では、それだけで済まないかも、しれませんけれど」

 言葉が浮かばなかった。どんな返しも、恐らくクオルには届かない。

 クオルは自分の使命を果たそうとしているだけなのだ。

 そこには拓巳の感情や美緒の性格などは、関係がない。

 その反対に、拓巳がクオルやキアシェの仕事に対して興味がないのと同じだ。

 次の電車が到着したのか、階段を下りてくる人の数が増えてきた。

「来たくなければ来なくていいよ。あとはキミが決めることだしさ」

 背を向けたまま、キアシェはそっけなく言い放つ。

 そして拓巳を振り返ることなく歩き出し、さっさと改札を通り抜けて行った。

「先に、行ってますね」

 クオルは拓巳にそう告げると踵を返す。

 黙って成り行きを見つめていたブレンは、最後まで拓巳に何か言いたげな視線を向けていた。

 だが、結局何も言わずにクオルを追いかけて歩き出していった。

 その場には、拓巳だけが取り残された。どうしようもなく、孤独な世界だった。

 

◇◇◇

 

 拓巳を置いてきたのを認識しながらも、振り返ることなく、歩を進める。アスファルトの上をクオルと並んで歩きながら、キアシェが口を開いた。

「使徒様、口下手だね。別に、言わなくても分かってたよ、あれ」

「よく言われます。でも……」

 クオルは一旦そこで言葉を止めた。キアシェはその沈黙に、視線を寄越す。

「でも?」

「……僕は、誰かを守るためにこの力を揮うって……誓いましたから」

 その言葉に、キアシェは微かに表情を曇らせる。

「ま、あれじゃあ根本的に冬木美緒を救う事にはならないよね」

 生じた感情を振り払うように、キアシェはクオルに同意した。

 拓巳が本心で何を思っているのかはキアシェには分からない。

 だが、拓巳なりに美緒を危険から遠ざけようとしているのは分かる。

 そのやり方があまりに稚拙なだけだ。

 逃げたって、何の解決にもならないのだから。

「池本さんには、全てを知った上で決めてもらわないといけません。でなければ、真実を知って絶対に後悔する」

 何も知らないで全ての嘘偽りを信じて逝くのも、一つの選択ではあるはずだった。

 だが、クオルの精神はそれを許さない。

 頑なだが、正しい選択だと、キアシェも思う。

「……真面目だね」

「真面目な人間は、人目の多い場所をこんな格好で歩けませんよ」

 苦笑したクオルに、キアシェは小さく笑みを浮かべた。そうかもしれない。

 いくらなんでも、女子高生の格好などしたくはないだろう。

「……ま、あれがどんな答えを出すのか知らないけど、時間は無限とあるわけじゃないし……僕らは僕らの仕事を進めようか」

「ええ、そうですね」

 そう傍から見れば楽しげな様子の二人の後ろ姿。

 それを見つめながら、ブレンが一人安心したような、微かな笑みを浮かべていた。

 

◇◇◇

 

 他愛無い会話を続けられる時間は、そう長くはなかった。

 もう数分で……高校の校門までたどり着く。

 時刻は十二時五分……ちょうど昼休みに差し掛かったところだ。

 学生がわらわらと廊下を行き過ぎる時間帯と丁度重なっている。

 あまりに人目に付きすぎる、とキアシェが認識されないように魔法をかけてから校内へ踏み込むこととなった。

「一つだけ、嘘をつきました」

「え?」

 廊下を歩きながら、クオルがぽつりと零した。

 階段の前に立ち、踊り場を見上げながら、クオルは続ける。

「彼女に話を聞く前に、確認したい場所があるんです」

「……言うと、思ってたよ」

 キアシェはため息交じりに言って、たん、と階段を上り始める。

 クオルは微かに驚いた気配を見せたが、すぐにブレンを視線で促してキアシェを追いかけた。

 駆け下りてくる学生を避けながら、三人は無言で階段を上り続ける。

 あくまで認識されないだけで、実際に姿を消しているわけではない。

 触れてしまえば『認識』されてしまう……朝とは異なる魔法ゆえの制約だった。

 実体の有無は、こういった時に響いてくる。

 四階までたどり着くと、キアシェはすたすたと目的の部屋まで歩き……――ぴたりと足を止めた。

 『美術室』

 用があるのは学生が授業で使用する美術室ではない。

 部活動で使用する美術準備室だ。当然この時間に学生はいない。音楽室や美術室のある四階は、静かなものだった。

「……ここですね」

 キアシェの傍らで、クオルが告げる。目的とする場所は、二人とも同じだったという事だ。

 クオルに頷いて、キアシェは扉に手をかける。

「開けるよ?」

 こくん、とクオルは頷く。

 キアシェは頷き返すと扉を勢いよく開いた。

 がらっ、とどこか引っかかる様な音で引き戸が開かれる。

 ほんの少し遅れて、美術室独特の絵の具の匂いが流れ出た。

 暗幕カーテンが閉められた部屋は薄暗い。

 当然ながら、誰もいない室内。

 壁には立てかけられたキャンバスがいくつも並んでいた。中央にある机には絵筆や絵の具が散乱している。

 部活動の空気がそのまま、ここにはある。

 ふと、クオルが引き寄せられるように一枚のキャンバスへと歩み寄る。

 キアシェは不思議そうにそれを見やり、声をかける。

「使徒様?」

 キアシェの声に振り返ることなく、クオルはそのキャンバスに触れた。

「これですね」

「え?」

 キアシェとブレンは顔を見合わせ、クオルが見つめている絵に歩み寄る。

 何の変哲もない、絵にしか見えない。

 夜色の背景に浮かぶ、古城の絵。三棟からなる古城はどこか要塞じみた堅牢さが垣間見える。

 その景色に、キアシェは見覚えがあった。

「まさか……これ、ランティス?」

「恐らくは。この景色は、通常監査官が転送される場所からの景色とほぼ同一です。それから……」

 つ、とキャンバスの下側にクオルが指を滑らせる。

 そこには記号と数字が並んでいた。その数字思い当たるものはなく、キアシェは眉根を寄せる。

「これが、何?」

「これはゲートシステムの指定する、ランティスの転送地点座標です」

「よく、覚えてるね。そんなの」

 感心と呆れの狭間で、キアシェが言う。クオルは苦笑して、頷いた。

「ええ。ここだけは、必要なので」

「……なるほどね。つまり……」

 並ぶキャンバスに視線を走らせながら、キアシェは肩にかかった髪を払う。

「ここは簡易型転送室状態ってわけだね」

 世界と世界を繋ぐシステム『ゲート』を、監査官の属する管理局が維持管理している。

 そのシステムを利用できる権限を与えられたのが監査官だ。

 それ以外には使用できないような制限があり、その制限がゲートパスと呼ばれる身分証だった。

 そしてそのゲートパスを使用し、異なる世界へ向かうための転送室……その簡易版が今ここに存在する。

 三人はそう結論付けた。

「座標だけで、ゲートは使えない。ゲートパスがあるならば、この座標も必要はないはずですよね? クオル様」

「そのはずです。でも、可能性はゼロじゃない。やはり、話を聞く必要がありますね」

 キャンバスの隅にはその絵の作者のサインが入っている。

――Mio.fuyuki

 作者である冬木美緒が何も知らないという事は、描かれた景色を知らないのと同じなのだから。

「何、してるんですか?」

 若干震えたような、声。唐突な声に、三人は揃って振り返る。

 美術準備室の入口には、一人の少女が扉に手を添え立っていた。

 まっすぐな黒髪を肩まで伸ばした女子生徒が目を丸くしてこちらを見ている。

「冬木……美緒!」

 キアシェがその名を絞り出すように名前を呼ぶ。

 美緒は不思議そうに首をひねる。

「私の名前を、どうして……」

「……すみませんが」

 美緒に向き直って、クオルは口を開く。

 そしてキャンバスに手を触れ、クオルは笑みを浮かべて言った。

「この絵について、伺いたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「絵、ですか?」

 美緒は不審げな瞳を三人へと向けた。

 空気が重く淀んでいく中、クオルは努めて静かに続ける。

「この絵、とても素敵だな、と思いまして」

 途端にぱっ、と美緒の表情が明るくなる。絵を褒められたことが余程嬉しかったようだった。

 キアシェは黙って動向を見守っていた。

「ありがとうございます。私も気に入ってるんです」

「ええ、綺麗な絵ですね」

 相槌を打つクオル。

 その相槌に気を許したらしく、美緒は逆に問いかけた。

「えっと、転校生さん……ですか? 校内に外国の方がいたなんて、知りませんでした」

 美緒はクオルの金髪からこの国の人間ではない、と判断したらしい。

 そういえば、拓巳もクオルを見て外国人がどうの言っていたな、とキアシェはどこかぼんやりと思い出していた。

「そんなところです。……ところで」

 クオルは笑みを浮かべたまま核心の問いを繰り出した。

「この景色、どこで見たんです?」

 その問いかけが投げられた瞬間、美緒の表情は一気に失われた。

 無表情から、若干の戸惑い、そして怯えに。

「見た、って?」

「まるで風景をそっくりそのまま切り取ったような、そんな絵なので。どこかで見られるのであれば、見てみたいと思ったんです。この近くには、こんな建物ないでしょう?」

 流れるようなクオルの問いに、ブレンは心の中で苦笑する。相変わらず、攻め入り方が鋭い、と。

 美緒は視線を泳がせ、そして答えた。

「本で見たんです。場所は、忘れちゃいました」

「じゃあ……こちらは、覚えてます?」

 別の一枚……もちろんこれも、クオルの知っている世界の一つなのだろうが、それを示して、美緒へ尋ねる。

 美緒は言葉に詰まり、目を伏せた。

 それはもはや、答えているに限りなく近い。

「……すみませんが」

 たん、とクオルが踏み出した一歩に、美緒がびくっと身をすくませ顔を上げた。

 クオルは温和な表情で、言う。

「貴方の知っていることを、全てお聞かせ願えますか」

 美緒は表情をひきつらせたまま、微かに後ずさった瞬間だった。

『耳貸ス、駄目。ミオ』

 頭に直接声が響く。

 それと同時に、エメラルドグリーンの毛並みを持つ、四足の小動物が美緒の前に舞い降りた。

 七色に光る瞳を持ち、大きな耳が蝶のように揺れる、四つ足の動物。

 その動物は、明らかにこの世界の物ではなかった。

『時間、ナイ。早ク行ク』

「びゅ、びゅう?」

 びゅう、とはこの生物の名前なのだろう。

 キアシェたちの視界が唐突に変化する。暗転し、そして遠くに光の見える、長い回廊へと。同時に、美緒の姿は消えていた。

 正面にいるのはびゅうと呼ばれた生物のみ。

『我ハ、ビュテルンバイド。主ヲ守ルガ役目』

「笑わせてくれるじゃん」

 くす、とキアシェが暗黒の笑みを浮かべる。明らかに苛立ちを含んだ声。

 見るからにこの世界の生物ではない。

 魔法も使用できることからも、魔導生命体であるのは明白だ。

 この動物がゲートを開き、恐らくは拓巳を代理に立てた張本人に違いない。

 だからこそ、キアシェは強く言い放った。

「守るものがあるのは、こっちも一緒なんだ。邪魔なんてさせない」

『ナラバ、答エハ、ヒトツ』

 滲みだすように、姿を現す異形の数々。種類の統制など取れてはいない。

 恐らく、このビュテルンバイドが連結したゲートから呼び出した魔物なのだろう。

 敵意だけは、統一されてこちらに向いている。

「まぁ、こんな空間に飛ばしたことだけは褒めてあげるよ」

 おかげで手加減なしに武器を振るうことが出来るからね、とキアシェは付け加えた。

 その目はビュテルンバイドをひたりと見据えている。

 ひゅんっ、とキアシェが宙で手を横へ振りぬくと、その手に赤い鎌が握られた。

 クオルとブレンも同じくそれぞれ武器を手にする。クオルは月を模した杖を。ブレンは漆黒の刀身を持つ、剣を。

『ココカラ逃ゲル、不可能』

 ビュテルンバイドと名乗った生物はいつの間にか宙に浮いていた。

 キアシェは金色の瞳を邪悪な色で輝かせて、口角を釣り上げる。

「その自信過剰、ぶっ潰すッ!」

 言い放って、キアシェは地面を蹴った。同時に周囲の異形が全方位から襲い掛かる。

「四元の章 雷の章」

 クオルの詠唱と共に、ブレンの持つ剣が雷を纏う。タイミングを違えず、ブレンは襲い掛かってきた異形へ一撃を見舞った。 

 同時に滞留していた電流が、周囲の異形をまとめて焼き尽くす。見事な連携であり、援護だとキアシェは感心しながら、突撃する。

 だんっ、と床を強く踏み切って、キアシェはビュテルンバイドへ躍りかかった。

 振りぬいた鎌が裂いたのは、ビュテルンバイドではなく、異形の一体だった。

 ビュテルンバイドの命令が働いているのだ。

 キアシェは思わず舌打ちをする。

 着地と同時に更に一閃しようとしたのだが、ビュテルンバイドは見る間にその姿を透明に変えていった。

 やがて視界から完全に消える。

 消えたのは姿だけではなく、気配も消えていた。認めたくはないが……逃げられた。

「ふん。この程度で死神から逃げられると思ったら大間違いだよ」

 キアシェはそう吐き捨て、周囲を確認しようと視線を巡らせた。

「クオル様っ! しっかりしてください!」

 ブレンの声にキアシェが振り返ると、クオルが蒼白な顔で倒れこんでいた。

「ちょ……ど、どうしたのさ! クオル様!」

 ばっと身を翻してキアシェが駆け寄る。

 クオルはブレンに支えられながら何とか立ち上がったが、顔色がひどく悪い。

 外傷はないが、この閉鎖空間に少しあてられた可能性もある。

 あれこれ可能性を思考するキアシェに、クオルは苦しげに笑みを浮かべた。

「大丈夫……です。少し、力を使いすぎました」

「冗談でしょ? あの程度で使い果たすほど低くないよ……使徒、様は」

「……じゃあ調子が悪いことにしてください。……今は、ここを突破して、追いかけないと」

 キアシェは反論しかけたが、飲み込む。

 どのみち、クオルの性格上キアシェが何を言っても聞きはしないだろうから。

 代わりに、キアシェはため息をついた。

「分かった。……僕が先に行くから、ブレンは使徒様を背負うか、担ぐか、お姫様抱っこかで頼むね」

「最後に悪意を感じます」

 ブレンが冷静な声で返すと、キアシェは苦笑した。

「そういう突っ込みを返せる余裕があるって、いいことだよ」

「褒めてもらってどうも」

 そして、キアシェは二人にくるりと背を向けた。

 正面には遠くに見える光。この回廊の果てにあるはずの、出口だ。

「さぁ……それじゃあ」

 ぐっと強く鎌を握り直し、キアシェは笑みを浮かべる。

 かん、と一歩踏み出す音が、この終わりの見えない回廊に良く響く。

 腰まで伸びたキアシェのブラウンの髪がふわりと靡いた。

 見据えた視界の先には滲みだす異形が、数を増していく。

「迷宮の出口まで、障害物競走と行こうか!」

 キアシェの宣言が、高らかに響いた。

 

◇◇◇

 

 美緒は、立ち尽くしていた。

――……美術準備室に、忘れ物を取りに来ただけだったはずなのに。

 見知らぬ人間が、あの絵の事を知っていた、というのが恐ろしかった。

 やましいことなんてしていない。

 でも、あの『絵』は美緒にとっての最大の秘密だった。触れられることが、一番恐ろしかった。

 ビュテルンバイド…美緒がびゅうと呼ぶその生物は、美術準備室にいた不審な三人の人間と共に姿を消した。

 一瞬だ。瞬きよりあるいは短いかもしれない。

 一度に多くの事が起こりすぎて美緒はパニック状態だった。

 大体、今日は朝からひと時も落ち着ける時間がない。

 朝一番で、幼馴染は事故に遭遇した。

 昼休みに美術室に来てみれば、これだ。夕方までこの事態は続く。直感的に美緒はそう感じていた。

「何なの……もう、何なの……っ」

『ミオ、心配無用』

「びゅ、びゅう?」

 ふわりと、ビュテルンバイドが美術室の床に舞い降りる。

 美緒が凝視していると、七色の瞳が美緒を捕らえ、言葉をダイレクトに脳へ届ける。

『亜空間ニ拘束。暫クハ、脱出不能』

「そんな、大丈夫なの? あの人たち……」

『出立ノ邪魔サセナイ』

「それは……そうかもしれないけど」

『時間』

 急かすビュテルンバイドに、美緒は頷くしかなかった。

 どのみち、関わるのが怖いのは本当だ。

「分かった。行こう、びゅう。……それから、寄りたいところがあるの」

『寄リ道?』

 こくん、と美緒は頷く。どこか泣きそうな笑みで美緒はビュテルンバイドへ返した。

「病院。せめて、拓巳には挨拶をしていかないとね……」

 ビュテルンバイドは肯定も否定もしなかった。

 踵を返した美緒の影に入ると、影に沈むようにしてビュテルンバイドは姿を消した。

 

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