第一話 世界の形
全力で、エージュは木々を駆け抜ける。背後からは猛然と迫る、殺気。
――あと、十五メートル。
ばきばきと木々をなぎ倒しながら、一直線に突っ込んでくる獣の気配。その獰猛な欲望に呑まれないように、目的の方向だけを見て、疾走する。
あと、八メートル。
間に合う。いや、間に合わなかったら自分が致命的なダメージを負うだけだ。
背後から迫るのは、二つの首を持つ四足の獣、ヘルハウンド。黒い体毛と、鮮烈な赤い眼。大きさとしてはおよそ六メートル。魔物にしては小柄だが、強靭な体を持ち、足も速い。その牙が一番の武器だ。距離は徐々に縮まっている。
二メートル。
地面を滑って、方向を九十度左へ変更する。すぐに体勢を立て直して、再び走る。その先には呪文の詠唱を完了待機中のソエルが立っていた。
「おっかえりぃー！」
ソエルの暢気な声とエージュはそのまますれ違う。返答なしで、ソエルの脇を駆け抜けた。生じた風が、ソエルの長いツインテールをなびかせる。
エージュが駆け抜けたのからわずか数秒遅れて、ヘルハウンドがソエルへと飛び掛かった。武器もなく丸腰のソエルに、ヘルハウンドの牙が襲い掛かる。
――バン！
「ギャッ！」
見えない壁にヘルハウンドは激突し、声を上げた。勢いを殺されたヘルハウンドが、見えない半球状の壁に沿って、地面へ滑る。
「残念でしたー！ 今だよ、エージュ！」
ソエルが振り返って、輝く笑顔で呼びかける。
振り返った先には、エージュがいる。エージュは全力疾走の疲れも見せず、白銀色の杖を構えていた。
「吹き飛べっっ！」
エージュの声と共に周囲に浮かび上がった無数の光の矢。
にわかに周囲が明るくなり、そして光の矢はヘルハウンドを襲う。強固なヘルハウンドの皮膚を突き破り、その体に突き刺さった光の矢。同時に、高熱そのものと化し、ヘルハウンドの体を内部から焼き尽くす。
ヘルハウンドが断末魔の叫びをするより早く、絶命させた。圧倒的な、魔力攻撃だった。
白い煙を上げて、動かなくなった獣を確認し、ソエルはエージュへ頭の上に掲げた腕で丸を作る。
「ばっちりだねー」
「……詠唱に手間取った。反省材料だな……」
正反対の回答を呟いたエージュに、ソエルが呆れた、と言わんばかりの表情を浮かべた。
相変わらずの、ストイックさ。思わずソエルは苦笑する。ぽんっと肩を叩かれ、エージュはソエルに視線を向けた。
「まーたそんなに眉間に皺寄せてー。失敗を反省するのもいいけど、良かったことも振り返らないと駄目だよ。次に生かさないとね！」
指を突きつけ、そう笑ったソエルにエージュは言葉を飲んだ。
……正論だったから。
「ほらほら、帰ろう！ 任務完了の報告しなきゃね！」
笑顔で急かすソエル。
近頃、エージュはソエルの的を射た発言に反論できない日々が、続いていた。実に頼りになる相方だとは思いつつも。
◇◇◇
世界は、破壊と再生を繰り返している。一つの世界が壊れて、新しく再編された世界が生まれて来る。
それが、この世界構造のルール。
そしてその世界の循環をサポートする役割を担うのが、次元総括管理局。管理局の手足となって世界と言う現場で日夜奮闘するのが、エージュたち監査官だ。魔物退治然り、言語や文明調査しかり。世界は様々な形があるからこそ、任務も多様で、休みがない。
「そろそろ昇級試験の訓練もしないとなぁ」
「そうだな」
管理局本部の廊下を歩きながら、エージュは相槌を打つ。
任務以外にも、監査官としてのランク分け試験もあり、本部に人が途切れることは少ない。今日も行き過ぎる人は、皆忙しない。
「ソエルなら、次の試験は大丈夫だろ」
「うわー、先輩風だ！ エージュってば自分の心配しなよー。上級は難しいんだよー」
「そんなの嫌ってほど知ってるよ……」
肩を落としたエージュに、ソエルはくすくすと楽しげに笑う。栗色の髪をかき上げて、エージュはじろりとソエルを睨んだ。
「何だよ」
「ううん。相変わらずエージュは真面目だなーって」
真面目と言うか、堅物と言うか。エージュは自分をそう分析している。
ため息をついて会話を流しながら、二人は図書室へ向かっていた。
「今日は時間あるから、ゆっくり探せるねー」
「俺に言うな。俺はソエル頼りだ」
「わわっ、エージュらしくない！」
目を丸くして驚きを露わにするソエルに、エージュはついっと視線を逸らした。
言い方の問題もあるのだろうが、実際嘘はない。本部には、全世界から集められた書籍が収蔵されている。
世界が違えば、言語は違う。だからこそ、ソエルの能力が必要なのだ。
翻訳言語、という多言語を解読できるソエルの存在なくして、エージュは資料探しもままならない。適材適所と言うが、まさにその通りだ。
図書館など、昔は興味もなかった。そんな場所に出向くようになったのは良くも悪くも、あの一件があってからだ。
崩落する世界を前に、生存者を救おうとして、結果として救えなかった現実。 自身の能力不足だけでは片づけられない問題だった。
崩壊する世界から、人を救う。人として、正しい選択だとエージュは確信している。
選択としては、間違っていないはずだ。でも、世界はそんな人の傲慢を許すように出来てはいなかった。
世界はそこに住まう人々と見えない糸で繋がり、彼らを引きずり込みながら崩落する。それに歯向かえば、更に残酷な結果を招くこともあるのだ。
そんな結果を二度と招かないように……今は、知るべき時なのだ。世界の仕組みを。世界の……意思を。
エージュは、そう信じて、今日も図書室の扉の前に、立った。
◇◇◇
「んー、これなんかどうかなー？」
傍らでソエルが指をさす。
もちろんエージュには読めない、異界語だった。
翻訳言語はソエルの方が相性が良く、エージュに比べてはるかに多くの言語を解読する。こればかりは個人差が大きい。
努力すれば伸びるという可能性も極めて低いという、特殊な魔法。割り切りが肝心だ。
「中身は？」
問いかけたエージュに、ある本を手に取ったソエルは表紙の文字を指でなぞる。
「世界創造原理。ざっと見て、六百年は前かなぁ……まぁまぁ古い本だね」
「……概要を説明してもらえると助かる」
古かろうが新しかろうが、エージュにとっては読めないので同じだった。
いいよー、とソエルはページをめくり、ざっと目を通したのち、音読する。
「本書は、王の柱の主、つまりは『王』の正負ある遺産と、十三世界のパワーバランスおよび機能について考察したものである」
「……は？」
読めないという点を除いても、エージュには理解できない文面だった。
ソエルはさらにページを読み進めながら……恐らく目次を眺めながら、首をひねる。
「うーん。見た感じ、『王』のしてることの、定義みたいなものかな？ あとは、評議会の世界の解説。十三世界は、確か第三王政歴からあるはずだもんね」
「……第三王政歴から、か……」
世界構造も、色々な段階がある。構造は世界の王と呼ばれる存在が決定する。
現在は第四王政歴。つまり、第四番目の構造だ。間もなく二〇〇〇年を迎える第四王政歴。魔導評議会の指揮の元次元総括管理局が組織されて、約一五〇〇年だったはずだ。
（そういえば、十三世界は、第三王政歴から存在することで有名だったな……）
そう考えると、十三世界の歴史は王政歴より深いことになる。
思考するエージュの脇で、ソエルは軽快にページを捲っていた。すでにその言語に慣れつつあるらしく、ふんふん、と頷きながら読み進めている。
「なるほどー。これなかなか面白いねー」
「たとえば？」
「ここかな。王の交代による変化」
少し前のページへ戻り、ソエルは笑顔で一文を指さす。 読めるソエルには、読めないエージュの感覚は分からないらしい。
あっ、という顔をしてソエルは苦笑した。
「ごめんごめん。えっと、読むね」
悪気はないのがソエルの良いところで、エージュが苦手とする部分だ。
つ、と本の文字を指でなぞりながら、ソエルは音読する。
「王の交代、つまり王政歴の変化は、世界の成り立ちそのものの変化である。第一、第二王政を我らが知る由もないが、第三王政は浮島、第四王政は大陸である」
また随分と抽象的な書き方をしている。あるいは、ソエルの翻訳言語でも、適切な言葉に変換することが出来ていない可能性もある。
それでも義務とばかりに、ソエルは続けた。
「しかしこの表現もまた、ふさわしくはないだろう。第四王政は、第三王政にひと手間加えたものだ。浮島のままに、橋を渡そうというのである。その橋の存在の源泉を、エリスとアリシアという」
エージュは思考回路を自分なりに必死に転がしているが、それでも理解には遠く及ばなかった。
ソエルはソエルで、少し困ったように眉根を寄せている。
「このエリスとアリシアが共鳴しあうことで、橋が形成・維持され、王へ続く道を伸ばし行く。橋と浮島で繋がれた世界構造。それが第四王政である」
そうソエルは締めくくった。
橋だの浮島だの……つまりは、どういう事なのか。頭の回転の速いソエルに希望を託し、説明を求めてエージュはソエルの動向を見つめる。
ソエルはもう少し先まで目を通しているらしく、眼球が文字列を追って動いていた。
「そっかなるほどねー」
「分かったのか？」
問いかけたエージュに、ソエルは意外そうな顔をする。さも理解していたかのような表情で、エージュのプライドが若干傷付いた。
だが、知識量や頭脳でソエルに勝てるとは思っていない。
適材適所だ。無駄に意地を張るのは、任務の時だけだとエージュは決めている。だからこそ、ソエルに素直に頼み込む。
「説明してもらえると助かる」
「えっとね、ゲートの事だよ」
「ゲートって……あのゲートか？」
「うん、そう。私達監査官が使うあのゲートだよ。あれが、世界を繋ぐ橋なんだってことかな」
それは少し妙だ……――。
ゲートは常に解放されているわけではない。蓋をしているだけという可能性はもちろん捨てきれないが、新しい世界が生まれたときには、ゲートは連結していない。
「そうか。……だから渉外監理官が」
「初回渉外はゲートの確立が本当は重要なのかもね」
だから、初回渉外と言う任務は上級以上のレベルに達しないと割り当てられないのだ。
そう考えれば、次元総括管理局の監査官レベルに応じた任務振り分けにも納得がいく。
「でも……ゲートパスランクとリンクしないのは、どうしてだろうな」
「何でだろうね？」
流石にそれは文献にも載っていないらしい。
再び沈黙が降り、ソエルは無意味にページをぺらぺらと捲った。
不意に手を止め、首を傾げたソエル。エージュもページに視線を向けると、一枚の絵が載っていた。
球体を貫く、一本の柱。 その柱の両端に、何か書いてある。
ソエルは目を見張って、茫然と呟いた。
「本部と……ランティスだ」
「え？」
「この柱の両端、本部とランティスを示してるんだよ。ああ、だからなんだ。やっとわかった！」
嬉しそうに声を弾ませたソエルを、エージュは唖然と見つめた。
どんどんソエルに置いて行かれている。その発見がよほど嬉しいのか、ソエルは頬を上気させてエージュの手を握って上下に振る。
「王の柱は、世界の記憶が集まるでしょ！ その柱の上にあるから、本部とランティスは全世界の魔法と科学技術が使えて、それに関する蔵書が揃ってるんだよ！」
「な……」
それはエージュも絶句するのに十分な情報だった。
凄い凄い、と声を弾ませるソエルは、嬉しそうにページを捲っていく。
偶然にも見つけたその蔵書は、とんでもない情報の宝庫だったらしい。
「でも……分からないなぁ」
不意にソエルは表情を曇らせて、首を捻る。
「どうして、管理局がゲートを繋ぐんだろう。世界を生み出すのは、王の役目だから……王がすればいいんじゃないのかな」
「それは確かに……そうだな」
「まぁ、王が管理局に任務付与したってことも十分ありうるけどねー。ほら、魔導評議会の議員の世界って、前の王政歴の引継ぎらしいから」
それも不思議だけどね、とソエルはくくる。
いずれにせよ、末端の自分たちがその意味を知ることはないだろうと、エージュは何となく思っていた。