第十一話 stand-by
瞼が小さく動いて、それからゆっくりと瞳を開く。
壁に預けていた頭を浮かせて、そして視線を動かす。
「……ジノ」
「……おはよ、すばる」
「なにしに、ここに来たんだ?」
どこか警戒した様子で、すばるが問いかける。
ジノは一歩ずつ階段を上る。すばるとエージュは黙ってそれを追いかけた。
一番上まで来ると、ジノはすばるの隣にすとん、と座る。
「……こうだった、よな。……忘れてない」
「ジノ……」
「記憶、なんで回収してないんだ。俺の分」
その問いに、すばるは表情を曇らせて顔を伏せた。
構わずジノは正面を見つめたまま。
「そのためにお前はここに来たんだろ。他の自分も、吸収してるんだろ。でもって、クオルにも無茶やらせた。エージュも巻き込んだ」
「……ごめん」
「謝れなんて言ってないだろ、馬鹿」
「でも、ごめん。……俺は勝手ばっかしてる」
「……なぁ」
「うん?」
ジノは視線を遠くに向けたまま、どこか寂寞を過らせた声音で問う。
「すばるは、どんなに他の自分を吸収しても、俺のことを忘れたりはしないんだな」
「うん。俺にとっての特異点は全部ジノだったからさ」
すばるは頷いて、ジノの記憶と変わらない小さな笑みを浮かべた。
「俺はいろんなところで、いろんなジノの傍にいた。同位体は、よく似た人生を歩むっていうだろ。その似たところ、が俺にとってはジノっていう存在。まぁ、色々だけどさ。俺とジノの関係っていうのは」
そうして、上を見上げる。灰色のコンクリートだけが見える、頭上。
短い沈黙の後、すばるは再び口を開く。
「……ここが、好きなんだ。俺。この世界で過ごした時間が、一番痛くて、怖いけど、でも……俺はここを、失いたくなかった」
「何甘えたこと言ってんだよ」
ぼそ、とジノが咎める。すばるは視線を落として、黙り込んだ。
「お前は、王なんだろ。世界を守るんだろ」
強い口調で問い詰めるジノに、エージュは胸が詰まる思いで見ていた。
本当は、一番記憶を渡したくないはずなのに。それでもジノを突き動かすのは、監査官としての使命感か、それとも……
すばるはジノに目を向け、しかし沈黙を守る。
「何とか言えよっ……! お前が守りたいものはっ……」
「俺だけだった時の守りたいものは、ジノといた時間だけだったよ」
すばるのその言葉に、ジノが言葉を詰まらせた。
「予知夢みたいの見る、って言ったろ。前にさ」
唐突に、すばるはそんなことを言い出した。
「それって小さいころからで、そのせいで、俺の母さんはヒステリー気味だったんだ。だから俺は小さいころから、割と本気で母親から殺されそうになってた」
「な……」
「何回か救急車で運び込まれたなぁ。首絞められて」
苦笑い交じりに、すばるは淡々と語る。
凄惨な過去よりも、今のすばるの様子の方がよほど恐ろしい。
「でも、それも長くなかった。救急車で運ばれて、父さんに連れられて帰ってきたら、母さんは首吊って死んでた」
「!」
「たまに思い出すんだ。それが怖くて、そのうちリストカットが癖になってた。いつか自分もあんな風に死ぬって思うと、怖くて仕方なかった」
左手首のあたりに右手を添えながら、すばるは呟く。
その手は、震えていた。
「ジノを見たとき、同じ匂いがするなって思ったんだ」
「……すばる……」
「一緒にいると、俺も普通になれた気がしたんだ。本当の意味で。俺は、普通であろうとしてただけだったから」
そうは見えなかった。だが、すばるの心労はそれだけ深かったのだろう。
黙って、ジノは先を促す。
「だから、俺は王になるって決めたとき、ジノが笑ってくれるような世界にしようって思った。まぁ、監査官になってたってのは、実は知らなかったけど」
「すばる……」
「ありがとう、ジノ。ここに来てくれて」
そう告げて、すばるは立ち上がる。
ジノはそれを目で追い、しかし何も言えなかった。
「最後に、もう一度だけ俺が大事だった時間を確かめたかったんだ。あの頃の俺に、一瞬だけでいいから、戻りたかった。じゃないと、俺が王になるって決めた意味を、忘れてしまうって……思ったから」
言葉を返せないジノに微笑んで、すばるは一歩踏み出す。
たん、たん、とすばるは階段を下りて、エージュの前に立った。
「……ありがとう、ここまで付き合ってくれて。ごめんな。エージュの世界を壊して」
エージュは静かに首を横に振る。
すばるは不思議そうな顔をした。
「俺は今、生きていることを嬉しいって思ってます。教官とクオルさん、ソエルに会えた。俺はそれが何より、ありがたいことだって……思ってますから」
「強いなぁ。俺なんかよりエージュが王になるべきだよ」
苦笑しながらそう返したすばるに、エージュは再度首を振る。
「俺は……思い出を大事にできる貴方だから、世界のことを考えられるって思います」
「……ありがとう」
恥ずかしそうに、すばるは笑う。
エージュはそっとジノの様子を見やった。
座ったまま、複雑な表情を浮かべて、黙っているジノ。
ここからすばるが去るときは……ジノの記憶からも、すばるが消える時だ。辛くないわけが、ない。
「さてと。じゃあ行こうかな」
すばるの無情な言葉。本人さえも苦しめる言葉に違いない。
だが、エージュはそれを止められない。それが、自分の役割だから。
「……ジノ」
視線を上げて、すばるはジノを見やる。
ジノはぐっと口元を引き結んで黙っていた。
今、口を開けば、きっと止めてしまうから。
「本当に、ありがとう。今のジノに会えたから、俺は思うんだ」
「え……?」
「王になって、よかったって。最後まで我儘に付き合ってくれて、ありがとう。一つだけ、教えてくんない?」
「何、を?」
やっとの思いで、ジノは言葉を紡ぐ。
すばるは少しだけ申し訳なさそうに、言った。
「俺を殺して、ジノは……未来を得られた?」
ジノはしばし沈黙し、やがて、深く頷いた。
「……クオルに拾われて、監査官になれた。人を殺すしかできなかった俺が、世界を守れる力になれた。これからも、未来に希望がある」
「うん。じゃあ、俺も悔いはないなぁ。……もしも」
世界が徐々に白く染まっていく。
時間が元に戻される。
二度と戻らない時間を飲み込みながら。
「もしも、もう一度会えたら。今度もまた、親友になれるかな」
すばるの問いかけに、ジノは呆れた様子で息を吐いた。
「……当たり前だろ。……それに」
「それに?」
「忘れない。俺が今ここにいるのは、お前を殺したからなんだから」
ぽかんとしたすばる。そして苦笑する。
「ほんと、おかしな関係だなぁ、俺とお前は」
白く包まれる世界で、聞こえる声が、遠ざかっていく。
「すばる」
「うん?」
「……またな」
白くかすんだ世界の中で、すばるが泣き笑いの表情を浮かべて頷いた。
◇◇◇
しゅるしゅると、時間の糸が引き戻される。
(王の記憶が全て世界から消えたら……俺の中の教官の記憶も消えるんだろうか。ソエルとの時間もすべてなくなって、俺はどこへ辿り着くんだ……?)
ゆらりゆらりと、意識が揺らめく世界中で、そんな事を考えていた。
そして不意に。
「……エージュっ! しっかりしてよ、エージュっ」
ものすごい勢いで揺さぶられ、驚いて目を開く。
本部の医務室、だった。
胸ぐらをつかんで揺すっていたのはソエルらしい。涙目で見つめるソエルと目があう。
「ソエル……?」
「よかった、分かる? 心配したんだからねぇっ」
「教官は?」
手を放してもらいながら、エージュはソエルに問いかける。
ソエルは左方向を指さした。
目を向けると、ラナに点滴をしてもらっているジノがいた。
「教官……」
「うぁ、エージュ……?」
かすれたような声で、ジノが返す。エージュはソエルとともに歩み寄った。
ひどく、不安があった。教官では、ないのかもしれない、と。
「気分が悪いんですか?」
「頭がガンガンする……」
「俺とソエルの、教官です、か?」
その問いかけに、ソエルが不思議そうな顔をした。
エージュにとっては、その答えが怖いものであるには変わらない。
ジノは苦笑して、頷く。
「うん。変わらず、な」
「……なんで、そこは変わらないんです?」
ほっとしながらも、そう質問せずにはいられなかった。
「馬鹿だからよ」
その問いに答えたのは、ジノではなくて、ラナだった。
あまりの答えに若干驚いていると、ラナは呆れた様子で首を振る。
「じょーだんに決まってるでしょ。そう……王の力より、四元の章の方が優位なのね。それはさすがに驚いたわ」
「俺も。……でも、さすがに王だよ。……ほとんど持ってかれた。残ってるのは、あの数十秒だけ」
寂しげな、しかしどこか安心した様子で言ったジノに、エージュも安堵した。
ふと、違和感を覚える。
何故自分は覚えているのだろう、と。
「あ。ところで、アルトとクオルは? いないみたいだけど」
ジノがラナに尋ねる。
ラナは白衣を脱ぎ、椅子にひっかけてから答えた。
「王が戻ってきたから安定し始めたっていうんで、さっそく会議よ。忙しいことね、まったく」
「会議?」
「そ。そいつに時間を遡らせたことによるいくつかの世界の崩壊と、再生遅延についてと、色々ね」
ずき、とラナの言葉がエージュの心に突き刺さる。
王を取り戻すための行動だった。だが、世界はそれに耐えきれるようにはできていない。
くい、とソエルがエージュの袖を引いた。
エージュが目を向けるとソエルは真面目な顔で尋ねる。
「エージュは、後悔してるの?」
「後悔?」
「世界を守るために、世界を犠牲にした、ってことに対して」
「…………いや」
首を振った。
以前なら、悔しくて仕方なかったと思うだろう。
だが、その悔しさは誰のためでもない。自分の無力さを悔しがるだけの、意味のないものだった。
「教官や、クオルさん、それに王が教えてくれた」
「何を?」
「俺は俺の信じた道を行けばいいって。後悔は、その道が間違ってて、行き止まりになった時でいい」
「ふーん……」
ソエルが手を放して、笑った。
久しぶりに。明るい、ソエルらしい笑みで。
「それでこそエージュだよ。きっとまた忙しくなるねー」
「ああ、そうだな」
答えながら、エージュは思う。
王との記憶は、きっと王からの最後のメッセージだろう、と。
簡単に時間を戻せる自分への、戒め。使い方を間違えるな、と。