プロローグ 第八の世界
見上げれば背の高い木々が葉を生い茂らせ、地面を見下ろせば、木々の間から差し込む日光を頼りにその小さな体で懸命に上を向く植物たちがいる。
植物の根や花には小さな昆虫たちが静かな命の循環を繰り返す。どこにでもある、普通の生命の循環。
空は微かに緑がかったブルー。今日はよく晴れている。
昨日までその勢力を拡大していた薄黄色の雲は、どこかに追いやられてしまったようだった。
「うんうん、今日もたくさん獲れたもんだにゃー」
鼻歌交じりにその深い森に一本だけある細い道を歩く姿。
ぴょこぴょこと頭の上で跳ねているのは彼女の耳。
「これだけあれば、明日までは余裕だにゃ。にゃはは、さっすがラディシュ族一の食いしん坊、ハーブちゃんだにゃー!」
スキップしながら、彼女は独り言を続けていた。
両腕で抱えるほどの大きさの籠には、たんまりとオレンジ色に輝く根菜が入っていた。
「……にゃ?」
ふと、彼女は足を止める。その持前の長い耳をぴんと立て、息を殺す。
「……誰、にゃ?」
周囲を見回し、音が聞こえたほうへと一歩ずつ歩み寄る。
なるべく物音をたてないように。そして、見つからないように、身をかがめながら。
かさこそと枝葉を掻き分けながら忍び寄った先には、静かに青い水を湛える泉があった。
彼女も良く来る、聖水の元となる水が湧き出ている浅い泉だ。
晴れた空から降り注ぐ日光がきらきらとその水面を輝かせている。
そしてその泉の中心には、一人の少女が佇んでいた。
「だ、駄目にゃ!? そこは神聖な泉だにゃっ! 神官様に怒られるにゃー!」
ふ、と少女が彼女へ視線を寄越した。
少女は、彼女が息を呑むほどの美貌だった。
長い髪は銀から、毛先に行くにつれて見事な赤い葡萄酒の色に変化し、透き通るような白い肌がよりその変化を際立たせる。
深い緑の瞳が、まるで雪の中に芽吹いた新芽のよう。
泉にでも潜っていたのか、全身濡れていた。着ているクリーム色のワンピースが張り付いてしまっている。
「な……ななっ……」
彼女は少女を観察してあることに気づく。
彼女と少女の決定的な違いを。
彼女は震えた指先で少女を指さし、思わず叫んでいた。
「何でここに人間がいるにゃーーーっ?!」
森に響き渡った彼女の声は、木々にとまっていた鳥を驚きのあまり羽ばたかせるに十分だった。
この世界の名を、『深聖(しんせい)の樹海』といい、この世界には通常『人間』は存在しない。
魔導評議会議員、第八の座・遠音(おんね)の属する世界である。