第三話 .存在の証明
管理局本部、評議会会議室の空気は張り詰めていた。
調査課長であるカザレノはその空気の中心で強張った声音で、説明を続けていた。
緊張を孕みながらも、言葉を詰まらせることなくカザレノは頬を伝う汗を時折ハンカチで拭っていた。
かれこれ、三十分は説明を続けている。
室内に響くのは、カザレノが書類を捲る音と、議員がそれぞれの席の前にあるモニターを操作する音だけだった。
「……以上が、現在調査課にて掌握している情報になります」
そう締めくくったカザレノは一際ゆっくりと深呼吸をして、議員の顔色を窺った。
それぞれが深刻な顔をしてモニターをじっと見つめている。
状況を整理しているのだろう。
カザレノの心境としては針の筵だった。
些細な事でも構わない。誰かがこの重い沈黙を一秒でも早く破って欲しい。カザレノとしてはそれだけが願いだった。
「つまり……ヴァニティからの逆流が起きている可能性が高い。そういう認識でいいのだね? 調査課長」
「はい。調査課としてはその結論に達しております、遠音(おんね)様」
ふむ、と唸って木彫りの面をした遠音が腕を組む。
崩落し、王の柱へ帰り着くことの叶わなかった欠片が無秩序に揺蕩う場所、ヴァニティ。
世界がヴァニティへ飲み込まれれば、未来は失われる。ヴァニティは過去の幸福を永遠に繰り返す場所であるのだから。
「原因は、やはり例のゲートでしょう。現在の対処については、どのように?」
問いかけた風龍に、カザレノは風龍と正対して口を開く。
「現在、二柱に協力を要請し、対処中です」
「なっ……!」
誰より明確な反応を返したのはアルトだった。
腰を浮かしかけたのを辛うじて耐え、アルトはモニターのデータを慌てて再確認していた。
データ変動については抑えられつつあることは、調査課で確認している。
「対処って、どうやって……場所は一か所に集まってるわけじゃないだろ」
「王の柱にて、調査課のデータを参考に行っていただいております。あの場所が、一番全体を見渡せますので」
「柱……」
カザレノが返答すると、見る間にアルトは表情を曇らせた。
戸惑うアルトを他所に、静かに立ち上がったのは、一人の少女だった。死神協会総統のココルである。
「まずは情報を全て共有してから、考えるべきとだと思うがね」
「……死神側でも、問題が? ヴァニティからの逆流は考え方によっては魂の回収が容易になったとも言えると思うけどねぇ」
棘のある言い方で牽制する雪桜(せつおう)。だが、ココルは微塵も動じた様子を見せず、むしろ笑みを浮かべた。
少女の姿をしてはいても、浮かべる笑みは相も変わらず得体がしれない。
「物事には、順序とタイミングがある。それだけのこと。それに、ヴァニティが逆流するということは、全て呑み込まれる可能性があるという事だ。死神とて、どこへでも容易に出向けるわけではない」
『協会側の事情も了解した。しかし、本来の論点はそこではない。総統、貴殿の要求は異なるのだろう?』
色無(しきむ)の声がそれぞれの脳内で響いた。
ココルは深く頷いて、口を開く。
「輪廻の輪から抜け出した魂を二人から、直接話を聞きたい」
はっきりとした口調で告げると、室内の空気は一層静けさを増した。
カザレノは心底居心地が悪い中、そろそろと目を伏せる。
「……いーぞ。死神側にだけ情報流すな、っても言われてないし。死神の協力があった方がいいだろうしな」
唐突な声にそれぞれが声のした方へ視線を向ける。
ココルの少し後ろ、先ほどまでは誰もいなかった壁際に、二人の子供の姿があった。
手を繋いで佇む二人の姿に、ココルは口元に笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、ライレイ、ヴェロス」
「その節はお世話になりました。総統閣下」
ぺこりと頭を下げた緋色の瞳をした少女、ライレイ。黙って手を繋いでいたヴェロスも一礼する。
ココルは静かに首を振り、軽く腕を広げた。
「おおよその私たちの認識は正しいのかな?」
「ヴァニティからの逆流。それによる各世界に影が出現している。それが事象の全てです」
「では一つ、質問だ」
ぴ、と一本指を立て、ココルは口元に笑みを浮かべながら、猫のように目を細めた。
「ロゼ……彼女は、≪王≫なのかな?」
ココルの問いかけに、ヴェロスは不思議そうな表情を見せる。
ライレイは表情一つ動かさず、静かにココルを見つめ返していた。
「ちょ……ちょっと待てよ、こ…死神総統」
「何かな? 水虎」
視線はライレイから離さず、ココルは返答した。
アルトは戸惑いを隠せないままに、ココルに確認する。
「ロゼが、世界の王かどうかってことか?」
「そう。彼女の存在は明らかにおかしい。加えて言うけれども、前回と比較しても、だよ。前回の問題は解決済み。彼女は、生きている存在になった」
「死神は、死者じゃなきゃいけない、ってことなのか?」
やれやれ、と言わんばかりにココルは頭を振ってようやくアルトを振り返った。
「アルト、これは個人的な忠告だけどね。もう少し、ちゃんと知るべきだよ。自分たちの存在の意味をね」
「うぐっ……」
「まぁ、仕方ないといえばそうだね。生者と死者は、本来交わらない線上にいるのだから。詳しくは、後でするとして。問題は、彼女は生者のはずなのに、死神として行動できるという事。死者であり生者……それは、王しかいないはず」
断言したココルに、アルトが息を呑んでいた。存在を忘れかけられているカザレノも唾を飲み込む。それは、根底を揺るがしかねない情報である。
再度ココルはライレイへ視線を向け、尋ねた。
「で、答えを貰えるかな?」
ヴェロスはライレイの横顔をそっと見る。
冷静さを欠片も失っていないライレイの凛とした横顔だった。
その場にいる全員が、固唾を呑んでライレイの答えを待つ。
緋色の強い意志を宿した瞳はココルを見据え、ゆっくりと口を開いた。
「代々引き継がれた王の記録。そのコピーを持つ存在が彼女だそうです」
「王ではない、と認識でいいのだね?」
「はい。現在の王は、間違いなく六連すばる、その人です」
なるほど、とココルは頷いた。
室内に安堵したような気配が広がる。その理由を応えろと言われても、誰も明確な答えを出せはしないのだが。
ふ、とライレイは表情を緩め、笑みを浮かべる。
「……さすがは、よく理解しておられますね。総統閣下」
「伊達に長年総統を務めているわけじゃないよ。……さて、となると」
ココルは百八十度ターンして、議員へ向き直り、一礼する。
「私はこれで失礼するよ、議員方」
「次回会議には参られるのですか? 総統」
「手隙であれば、参加させてもらうよ。では、物理的制御についてはお任せする。ご武運を」
地凰(ちおう)へそう返すと、ココルはひらりと背を向け会議室を出て行った。マイペースなココルらしい。
小さくため息をつくと、地凰が言う。
「では、私たちは対策についてもう少し詰めましょう」
「その件で何か追加で確認したいことがあれば、聞いてください」
ライレイの言葉に、アルトは怪訝そうに視線を送った。
「その言い方だと、こうしろっていう指針は示してくれないってことか?」
「俺たちは、あくまで伝令だから。……世界を守るのは、俺やライレイじゃ、ない」
悔しいけれど、と言葉の端に滲ませてヴェロスは返した。
――そうして誰も予想しない、世界の命運をかけた戦いが静かに始まろうとしていた。
◇◇◇
輪廻の輪の入口は、巨大な橋がある。橋を隔てて、生と死を完全に分かつ。その橋の名を最終調整橋という。
死神協会機動班≪セイヴァー≫の拠点は、ここにある。
ここに全員が揃うことは極端に少ない。
珍しく、今日は全員がここに集っていた。
緊急招集である。現在の仕事を第一支部あるいは第二支部の死神へと引き継ぎ、全員が整列している。
総勢十六名の小さな部隊だが、その任務は重要である。
並ぶセイヴァー面々の前には、ココルがセバスチャンを連れて立っていた。
「さて、緊急招集をさせた意味だけど。君たちに至急探し出してもらいたい存在がある。恐らくは、捕捉できる筈」
曖昧な言い方のココルに、口には出さずにそれぞれ怪訝そうな気配を滲ませた。
「現在の状況は、すでに伝えている通り。それを踏まえ、死神協会側では王の影を捜索する」
衝撃を受けた様にぽかんとする死神を前に、ココルは続けた。
「世界は一対で構成される。それは全ての事象で。世界ですら崩壊と再生をする。だとすれば、それは王でも起こりうる。そしてロゼ……彼女は先代の王の殻といって、差し支えない」
王は、一人しか存在しない。
そして現在の王は六連すばるに間違いはない。
記憶は魂である核に刻まれ、記録は肉体である殻に刻まれる。
記憶とは感情であり、記録とはただの事象だ。
記憶はその人そのものだが、記録はそれだけに過ぎない。
だからこそ先代の記録をコピーした存在のロゼは、最早先代の王の殻そのもの。
その先代が、今も存在する。
そしてその彼女は今『生きて』いるのだ。
本来であれば存在していない『彼女』。
「ロゼ……彼女が覚醒したその時から、目覚めようとしていたんだ。先代の王の核……先代の王の魂は」
核と殻は引き合うものなのだから。
本来ヴァニティに消えたはずの王の魂が浮き上がろうとも不思議ではない。
「王の魂を、王の柱へ導く。それがこの事態を収束させる方法だ。……頼んだよ、セイヴァーの皆」
しん、と静まり返る中、この場所特有の生暖かい、甘い花の香りを連れた風が吹き抜けた。
◇◇◇
「……あーちゃん、落ち着いてお茶くらい飲みなよ。それとも、ココアに変えようか?」
「これが落ち着いてられるか!」
デスクを叩いてアルトは声をかけたシスを睨み付けた。
シスは落ち着き払った様子でデスクの上の紅茶のカップを手に取り、踵を返した。
小部屋に続く扉を開け、奥へ消えたシスに、アルトは思わず舌打ちをする。
ココアと変えるつもりなのだろう。その冷静さに、逆に腹が立つ。不機嫌な表情を浮かべ、アルトはデスクの上に広げた魔導書に視線を落とした。
会議が終了し、自分の執務室へと戻ってきたアルトは滅多に引っ張り出さない魔導書を広げて頭を抱えていた。
不意に、扉をノックする音が聞こえアルトは顔を上げる。
「どーぞ」
「失礼します」
一礼して入室したのは、エージュとソエルだった。
「お呼びですか、アルト様」
「ああ、呼び出して悪い。とりあえず座れ」
戸惑いながら二人は頷いてアルトの指示に従い、応接用ソファへ腰を下ろした。
アルトは開いた魔導書をそのままに、会議で使用した資料の印刷を手に二人の正面へ座る。
「お前たちがあの二人を連れてきたから……おおよそは聞いてるのか?」
「聞いたのは、ヴァニティから逆流。それからその原因が先代の王の魂の目覚めだろうという二点です」
エージュが返答すると、アルトは苦しげな表情で頷いた。
持ってきた資料をアルトは机の上に広げる。ソエルが身を乗り出し、その資料に目を通そうとした時だった。
「今その対処に、兄貴が駆り出されてる」
「え?」
視線を資料に向けていた二人は、顔を上げアルトを見やった。
アルトの兄は、クオルだ。血の繋がりはなくても、二人は確かに兄弟だった。
アルトは目を伏せ、膝の上に載せた拳をぎゅっと握りしめる。
「王の柱が一番効率よく、全世界を観測できる。ヴァニティの逆流を受けている世界のゲートについて強化あるいは修復をして、何とか現状から回復しているところだ」
「それは……」
「破壊の使徒と、再生の柩(ひつぎ)……二柱を動員すれば、王がもう一人いるようなもんだ。不可能なんてほとんどあるはずがない」
その理論は、アルトでも納得できる。
だが、そのためには必要な条件がある。
「柱に、ずっといることが……絶対条件じゃ、ないですか」
唖然と零したエージュに、アルトは答えなかった。険しい表情でじっと視線を落とすだけで、アルトは口を開けない。
その答えは、エージュの言葉を肯定しているのと同義だと理解しながらも、肯定することが、怖い。
さっと青ざめたエージュが、立場も忘れて身を乗り出す。
「あの人に全て押し付けて、それで解決しようってんじゃないでしょうね?!」
「そんなわけないだろッ!!」
ばん、とテーブルを叩きつけてアルトは反論した。
アルトの強い否定に、エージュが息を呑む。
傍らのソエルがそっとエージュの腕に触れることで何とか落ち着け、エージュは座り直した。
アルトは目を伏せ、テーブルに広げた資料をぐしゃりと握り潰した。
握り締めた手をカタカタと震わせ、喉を絞り出すように言葉を紡ぐ。
「そんなこと……なんのために、俺はっ……」
「ご……ごめん、なさい。あの、エージュも悪気があったわけじゃなくてっ……」
「悪気が一ミリでもあったなら、殺してるところだよ」
ソエルが紡いだ謝罪の言葉を切り捨てたのは、いつの間にかすぐ傍に立っていたシスだった。
唖然とした表情を浮かべるソエルやエージュを無視して、シスは黙って二人の前に紅茶と、アルトの前にココアを並べる。
「あーちゃん、落ち着いて。まずは頼みたいことを言っておきなよ」
「るせ……分かって、るよっ……」
ぶっきらぼうに吐き捨て、アルトはぐいっと目を擦った。
今にも不安で潰れそうな自分を奮い立たせて。兄と慕うクオルを守るために。
安心したのか、シスは黙ってアルトの背後へと回った。
黙り込むエージュとソエルに、アルトは凛とした表情を向ける。シスの言葉で気持ちを切り替えたのは癪だが、今すべきことを見失うアルトではなかった。
「議会での今のところの結論を教えとく。議会は、二柱とその契約者を王の柱に拘束することで現状打破をしようと計画してる。永遠と言うわけじゃなくて、対策が見つかるまでの対処法としてだ」
だけど、それは永遠と言ってもいいだろう。
これから先、それより有効な方法が見つかる保証はどこにもないのだから。
それは、アルトにとってはクオルとの永遠の別れだった。
「でも、俺はそんなの認めない。議会は、王をサポートするためにあるんだ。それを丸投げなんて、完全な怠慢だ。だから、お前らに頼みがある」
「頼み……ですか?」
こくり、とアルトは頷いた。
ソエルとエージュは顔を見合わせ、真剣なアルトの表情につられたか、背筋を伸ばして頷いた。
その様子に、アルトは希望と安堵を見出す。
「兄貴を……しばらくの間、守っててほしい」
「は、はい? 私やエージュよりはるかに強いですよね、クオルさんって」
「……俺は、議会というステージで戦わなきゃいけない。その間、兄貴を評議員から遠ざけててほしいんだよ」
言いたいことは、分かってもらえているはずだった。
だがもしも議員と衝突することになれば、間違いなく自分たちでは太刀打ちできないとも判断できているはずで。
アルトの頼みは、二人を沈黙させた。
「いいよ。それは僕が引き受ける。だから、その余力は別に回してもらえるかな」
不意に室内に響いた声に、それぞれが一瞬呆気にとられる。
ふわりと、執務室の絨毯に舞い降りたのは黒いワンピースに真紅のジャケットを羽織った少女だった。
ブラウンの髪を腰まで伸ばし、その瞳は金色に輝いている。
――死神。
一目で分かるその姿に、思わず目を見張る。シスだけが意外そうな表情を浮かべたが、納得したように頷いた。
「なるほど、死神も動き出したんだね」
「気安く話しかけないでくれる? 僕はキミを許したわけじゃない」
冷たく突き放した少女に、シスは苦笑したが反論しなかった。
呆気にとられた表情を浮かべるアルトたちに、少女は軽く一礼をして見せた。
「どーも。死神協会機動班セイヴァー所属……キアシェ。回答、貰える?」
「死神が、兄貴を守る? ……何のために?」
死神の領分において、ゲートの存在はそれほど大きな問題ではないはずだ。
確かにヴァニティの逆流は厄介であるのだろう。しかし、クオルを守る意味は見出せない。
キアシェは目を細めて、困惑するアルトを見据えた。
「違う。これは協会の意思じゃない」
「は……?」
「僕がクオル様を守るのは、僕が死神として存在する意味そのものだから。僕は……クオル様の最後に立ち会うためだけに、死神になることを選んだ。だから……これは、僕自身の意思だよ」
キアシェが何を言っているのか、アルトには分からなかった。
だが、嘘を言っていないことだけは、知っていた。
死神は嘘だけはつかない。誤魔化しや偽りはあったとしても、意味のない言葉を紡ぐことは有り得ないのだ。
「キミは、クオル様を守りたい。違う?」
「そう、だけど」
「なら、何を悩む必要があるのさ。僕には出来なくて、キミたちになら出来ることはたくさんある。だって……」
――僕は死んでるけど、キミたちはまだ生きてるんだから。
キアシェの言葉は、寂しく室内に響いた。
超えることのできない絶対的な境界線。生者と死者との隔たりを認識させられる。キアシェの瞳は冷たくアルトを見下ろしていたが、その奥には同じように暖かな感情が溢れている。
誰かを守りたいという願いがそこにある。
だからこそ……アルトは、頷いた。
「分かった。兄貴を、議会の奴らから見つからないように匿ってくれ。頼む」
「りょーかい。……ありがとう、信じてくれて」
そう答えたキアシェにアルトは苦笑いを向けて答えた。
――だって俺は、それくらいしか出来ないから、と。
◇◇◇
王の柱は、一通りの対処を終え、ひと段落ついたところだった。
「はぁ……何ていうか、厄介な事態になっちゃったなぁ」
ため息をついたすばるに、すたすたとアリシアが歩み寄って、両頬をぱしん、と勢いよく両手で挟み込んだ。
「すばるが悪いわけじゃないでしょ!」
「でも、クオルとガディにまで迷惑かけてるし……」
「気にしないでください。僕もクオルさんも契約者です。王のサポートが大切な仕事なんですから」
アリシアの契約者……再生の柩である、ガディがそう言って微笑んだ。
ガディは普段、管理局の転送処理課長であるファゼットの元で静かに暮らしている。まだ十代に届かない幼い外見ながらも、その年齢はとうに三百を超えていた。
曰く、呪いのようなものだそうだ。
ただ、やはり外見から人は相手に対する対応を変える。
すばるも頭では分かっている。
しかし、心情的には、こんな幼い子に過酷な仕事をさせている、という罪悪感をどうしても持ってしまう。
アリシアの手から解放された頬をさすりながら、すばるは曖昧に頷いた。
「それに、おじーさまが必ず良い方法を見つけ出してくれます。僕はそう信じられるからこそ、契約者であり続けられるんです」
「クオルは?」
すばるが肩に小さな青い竜を乗せたクオルへ視線を移す。
竜……ライヴを撫でながら、クオルは笑みを浮かべて頷いた。
「アルトが、このままを黙って受け入れるはずありませんから。……反対の立場だったら、僕がそうするように」
「そっか……」
確信があるわけではないだろう。
だが、それが彼らの信頼なのだ。紡いできた絆の強さが、自然とそう信じさせてくれる。
少しだけ、羨ましくも感じた。
「俺は王なのに、相変わらず何も分かってない。こんなんじゃ駄目だよなぁ……」
「全てを知っているから王で居られるわけでもない。知らないからこそ、新しく踏み出すこともできる。王として、ではなく自分として、世界を導けばいい」
すぐ傍らに佇むエリスがすばるの肩にそっと触れた。
肉球を通して伝わるエリスの温もりが、すばるは好きだった。
自然と強張っていた表情筋が緩み、すばるはエリスに頷いた。
「もしも、俺が出来るとしたらすべてのゲートを凍結するくらいだよな? 一つ一つ管理するのは時間がいくらあっても足りないし」
「管理局でもそれは最終手段でしょう。全ての世界を再び独立させる。今回はゲートの存在こそが原因でしょう。だったら、それですべて解決する」
アリシアの言葉に、すばるは表情を曇らせて頷いた。
管理局も不要になる。死神も、人手は余るほどになるだろう。
全て、それで円満に解決できる。
だが、それではそれこそ管理局と協会が存在する意味がない。
ましてや、評議会と総統が苦労して築き上げた今を自分たちで否定するなど。
「でも……すばるはまだ、可能性を信じたいのよね?」
「うん。俺は……みんなに、後悔して欲しくない。いつか、もっと多くの人にたくさんの世界を見てもらいたい。その上で、自分の世界を好きになって欲しいんだ。それが、俺の目指す最高の世界だから」
監査官とか、死神とか。そういう役職に囚われずに。
それがすばるの王としての願いなのだ。
だから、ゲートを閉鎖することはしたくない。
「素敵な世界だと、思いますよ」
不意に同意したクオルに、すばるは視線を向ける。
柔らかい微笑みを浮かべたクオルは、その中に壮絶な過去を背負っている。
それでも。
「僕は……他の世界を見ても、やっぱり自分の故郷が、好きですから」
その言葉は、なによりもすばるの力になる。
「ありがとう、クオル。……大丈夫。俺は、守ってみせる。この世界を。全ての存在を」
生者も死者も、すばるにとっては同じくらい大切なのだから。
「あら、お客さんね」
気の抜けるような声でアリシアが視線を向けた先に、それぞれ視線を向かわせる。滲みだす様に、彼女は現れた。
「キアシェ……?」
クオルが茫然と名を呼ぶと、彼女はぴくりと表情を一瞬だけ強張らせる。
だが、キアシェはきゅっと口を引き結び、つかつかとクオルへ歩み寄った。
「迎えに来たよ。……クオル様」
クオルは目を見張る。すばるたちも、思わず言葉を失った。
死神の、キアシェの迎えと言えば、一つしかない。
すると、キアシェは表情を崩した。
「……ごめん、言い方が悪かったよ。……頼まれたの。クオル様の、弟……に。暫くの間、クオル様を匿(かくま)うように」
「アルトに、ですか?」
「そう。キミは、再生の柩の子だよね?」
キアシェに確認を取られたガディは戸惑いながら頷いた。
「キミも一緒に行こうか。管理局は二柱両方ないと意味ないだろうし」
「あらあら、いいの? それって、死神側としては手を出してはいけない領分じゃない?」
にやにやと意地悪な笑みを浮かべてアリシアはキアシェに疑問をぶつけた。
キアシェは冷たくアリシアを一瞥し、鼻を鳴らした。
「だから? 僕は、命令に従うだけの存在じゃない。ちゃんと感情と理性を持ってる。いいよ、それで僕と言う存在が消されたとしても。それでも僕は……」
ぎゅっと拳を強く握りしめ、キアシェは自分を奮い立たせるように言った。
「クオル様と一緒に、世界を守りたいんだ」
さぁ、とどこからともなく風が吹き、キアシェの髪を靡かせた。場を満たす沈黙を破ったのは、珍しく、エリスだった。
「最終調整橋で待つといい」
「え……?」
エリスは音もなく黒いローブを揺らしてキアシェに歩み寄り、その耳元に顔を寄せた。
「総統は全て予想済みだよ」
こそりと耳元で囁いたエリスに、キアシェは露骨に眉をひそめた。
エリスはそのアーモンド形の瞳を細め、微笑むと体を翻す。
「我が契約者の事は、任せたよ。……死神キアシェ」
「食えない猫」
吐き捨てたキアシェに苦笑し、エリスは再びすばるの傍へと戻る。気を取り直し、キアシェはクオルとガディを順に見やる。
「さぁ、じゃあ行こうか」
キアシェの言葉に、二人は静かに頷いた。
◇◇◇
クスフェは、神殿の水晶を見上げながら思考していた。
ヴァニティからの逆流を防ぐ方法は、一つ。
ゲートに生じた穴を防げばいい。
数が多すぎて王だけでは対処できないからこそ、二柱に依頼している状態だった。
それで解決できるなら、それでいいのではないか。
議会の風潮はまさにそれだった。
アルトだけが、最後まで反対した。それはアルトにとっての兄を守るためだ。
個人的な感情だと一笑に伏すのは、簡単だろう。
だが、自分はどうなのだろう。もしも自分が同じ立場に置かれたら……きっと、同じことをする。
それに、アルトの言葉がクスフェの中でぐるぐると回るのだ。
精一杯の抵抗の言葉だったのかもしれない。
でも、深く心に突き刺さって、じわじわと痛む。
――何のために議会があるんだ、と。
王のサポートが議会の存在意義だというのに。
これじゃ、責任を丸投げしたのと同じだ。
巫女としての仕事を投げ出したら、自分は自分でなくなる。
クスフェにとって、議員であることは巫女であることと同じくらい重要なのだ。
議員であるからこそ、世界を守る事に直接関われる。
その采配を、左右できる。それは、同時に責任を負う事だ。
「クスフェや、今度は何を悩んでいるのだえ?」
「ばば様。……人は、どうしてこうも弱いのでしょう」
世界という大きな存在の前においては、ひとりではそよりとも風を起こせない。どうしようもなく、矮小な存在だった。
すい、と傍らに立った老婆……――先代の巫女だ。
クスフェと同じように水晶を見上げて、彼女は口を開く。
「そうさね。だが、一人でないなら、どうだえ?」
「一人じゃない?」
「ぬしは、一人きりで何か大きなものと闘う気かえ? 愚かしいのぅ」
老婆はくつくつと笑って、その身を翻した。
クスフェは去っていく背中をじっと見送る。
(そうだ。……アルトが、教えてくれた。死神の方も言ってた)
きゅっと唇を噛み締め、クスフェは表情を引き締める。
覚悟は、決まった。あとは、実行するだけだ。