第二話 虚無からの伝言
巨大な蛇の形をした漆黒のシルエットが、存在しない瞳でペイルを捉えていた。
獲物を狙う瞳孔が縦に細められていることが、易々と想像できる。体長十メートルを越える黒い蛇は鎌首をもたげ、ペイルの動きを見下ろして機会をうかがっていた。
その威圧感はかつての残像などではなく、肌が粟立つほどに強烈だ。
先に動いたのは、蛇だった。
大口を開き、弾丸のごとく襲い掛かった蛇をペイルは右踵を支点に身を捻ってギリギリで躱す。
風圧を両足で踏ん張って耐え、第二波に備える。
予想通り蛇はしなやかに、かつ高速で自身の尾を、振り抜く。
「っとぉ!」
海底を削りながら襲い掛かった尾の攻撃を跳躍して躱し、その間に口を開けて待ち構えていた蛇へと鎌を振り上げる。
「キアシェと班長の、スパルタ教育なめんなよッ!!」
蛇の大口に噛みつかれるより速く鎌で一閃。
上顎と下顎が分かれて、蛇は海底へ叩きつけられる。
「っしゃ!」
「まだ気を抜くには早いですよ」
着地し、勝利の声を上げたペイルを冷静な声がいさめた。
「へ?」
ペイルが振り返ると同時に、重い音を立てて、影は再度海底へ転がった。
最後の力を振り絞った蛇が唸らせた尾を叩き落したのは、ブレンだった。
「ど、どうも……」
「いいえ。これで最後ですね」
黒い光となって霧散した蛇。周囲を確認すると、すでに明確なシルエットを伴った影は消えていた。
ペイルやブレンより後方で援護していたクオルが大きく息を吐き出していたのが、見える。
「はぁ……助かった」
ペイルも息をつくと、未だに黒い澱みが湧きだす海溝へ視線を向ける。
滲みだした影で多少は薄くなるかと思ったのだが、実際にはさほど変わっていない。
つまり、先ほどの影は本体とは関係がないものという事だ。
「……ひとまずは、戻りましょうか。座標は分かりましたし」
「そうですね。……お体は?」
尋ねたブレンへ、クオルは笑みを浮かべて大丈夫、と頷く。
ほっとした気配を滲ませたブレンにペイルが心の中で、過保護だなぁと苦笑した。
◇◇◇
神殿の水晶の下で、彼らの無事を祈って居たクスフェは足音に気づき、ぱっと顔を上げ振り返った。
別れた時と寸分違わぬ様子の彼らが、女官に案内されながらやってくるのが見える。
クスフェはほっと胸を撫で下ろした。
一礼して出て行く女官に目礼し、クスフェはペイルたちへと歩み寄る。
「ご無事でよかった。流石ですね」
「いや、ははは。それほどでも」
社交辞令も素直に喜ぶペイルにブレンが苦笑した。ペイルの悪いところであり、良いところかもしれない。
クスフェは曖昧に微笑んで、視線でクオルに説明を促した。
「そうですね……、確かにあれは、この世界で起こりうる事象ではありません。議会の方へ議題としてあげるべきかと思います。対処するのは可能かもしれませんが、根本的な問題解決にはなりません」
「というと……?」
「アルトの世界でも、同じような事象を確認しています。アルトの世界の場合は、影が暴れたという事象です。ですが、根本は同じものだと思いますよ」
クスフェは黙って視線を伏せた。確かにクオルの言う事は正しいだろう。
だが果たして、議員の面々が協力してくれるだろうか。
アルト以外の議員は、自分を含めて自分の世界を守る事に対してプライドがある。だからこそクスフェも素直に助けを求められなかったという一面があるのだ。
クスフェ自身、助けを求められても即座に頷けるほど未だに議員に対して信頼を置いているわけではない。彼らと会話する場所など、あの会議室以外はほとんどないのだから。
「なぁクスフェ」
声をかけたペイルに、クスフェはゆっくりと顔を上げる。
ペイルは心底不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「助けてほしいって思ったら、まず誰かを助けようって思いを持たないと届かないぞ?」
正論だった。言葉を詰まらせたクスフェに、ペイルは小さく笑みを浮かべる。
「まぁ、見ず知らずの人に頼むのが不安なのは、分かるけどさ」
「いえ……正しいと思います。私に足りないのは勇気ですから。……次回、相談してみます」
きゅっと胸の前で両手を握りしめてはいたが、どこか不安げなクスフェに、クオルは笑みを向ける。
「アルトにも伝えておきますから、大丈夫ですよ。……アルトは、そういう時、必ず立ち上がるんですから」
「あ……ありがとう、ございます」
安堵の表情を浮かべたクスフェにクオルは頷くと、傍らのブレンへ告げた。
「では、一旦帰りましょう。……処置に関しても、相談しなければならないですし」
黙って首肯したブレンから、クオルはペイルへ視線を移す。
ペイルはがしがし頭を掻きながら、少しだけばつの悪そうな顔をしていた。
何を言わんとしているのかを恐らく察しているのだろう。
それを聞き流すべきか、あるいはきちんと受け止めるべきかを一人天秤にかけているに違いない。
クスフェがペイルをそう分析していると、笑みを浮かべたクオルが口を開く。
「では、失礼しますね。……キアシェをよろしくお願いします、ペイルさん」
「あ……あぁ」
ぎこちなく頷いたペイルと、クスフェに一礼すると、クオルはブレンと共に優雅に姿を消した。
残されたペイルは深いため息をつく。
「……くっそ、絶対勝てねーじゃん。まぁ……勝てるとは思ってないけど」
◇◇◇
はらはらと舞い落ちる雪が、世界を少しずつ白く染めていく。
重く空を覆い隠す雲は、太陽をすっかり隠していた。
「うー、寒い……」
自分の体を抱き締めて、身を縮めたソエルに、エージュが苦笑しながら通信端末を取り出した。
今回の任務は『異存在』の捜索である。
『異存在』とは異世界からの影響により本来その世界にいるはずのない生命体を総称する。ゲートの影響は決してプラス要素を与えるだけではなく、こうしてマイナスの面も持ち合わせるのだ。
そしてそのために監査官がいるのだから、当然といえば当然の仕事だった。
異存在でも、生態系や文明に影響を与えないのであれば問題ないとされている。
だが、ほとんどの場合はそうもいかない。
今回はその点が不明瞭であるために、捜索と言う形になっている。できれば、穏便に元の世界に連れ帰りたい。
それが監査官の願いである。
捜索のための情報を検索するエージュから少し離れて、ソエルは自分の仕事を果たしていた。
転送座標を見失わないためのマーキングである。
通常ゲートで繋がれる座標は固定なのだが、通信端末にはその座標は記録されない。
その理由としては、通信端末やゲートパスを紛失・盗難に遭った場合に悪用を防ぐためであり、そのために転送座標を自分で認識しておかないといけなくなる。
方法は個人によって異なるが、帰還するためには必須事項だ。
「よっし、出来た。エージュ、いつでも大丈夫だよー!」
転送座標の目標となる石碑へ魔力でマーキングを施したソエルは元気よく立ち上がった。
ほぼ同じくして、エージュも情報の整理を終えた所だった。
振り返ったソエルに頷き、エージュは告げる。
「ここから、四キロほど離れた渓谷に潜んでる可能性が高いらしい。行くか」
「おっけー! 今日も気合い入れて行こー!」
◇◇◇
舗装された山道からは、山裾に広がる街が見えた。塀に囲まれた街。かたかたと揺れる馬車に乗った行商や、冒険者らしき人々とすれ違う道のり。
この道が、比較的大きな町や都市に繋がっていることが分かる。簡単な地理情報は頭に入れてあるものの、細かな情報は現場から拾うのが一番早い。
「大変だね、あんたらも賞金稼ぎかい?」
安く雑貨を買いながら上手く情報を聞き出していたソエルへ、行商はそう問いかけた。
ソエルが曖昧に頷くと、行商は心配そうに目を細めた。
「お嬢ちゃん、危ないからやめといた方がいい。最近じゃ、見慣れない強い魔物が出たからって、賞金を懸けてるみたいだけど、何人も戻っていないらしい」
「そ、そうなの? 見慣れないって……でも、見たことがある人は、いるんだよね?」
「ああ……何でも、デカい虫みたいなやつだそうだ。うぅ、私は虫が苦手でね。見たくもないよ……」
ぶる、と身を震わせた行商に相槌を打ちながら、ソエルはちらりとエージュを見やった。
間違いは、ないようだった。
行商に手を振って別れ、ソエルはエージュと再び歩き出す。
「虫、ね。情報通りと。……やだなぁ、虫って動きが気持ち悪いんだよねぇ」
「甲殻は固いしな……物理攻撃も魔法攻撃も効きにくい」
若干の会話のずれがあるものの、いつも通りに二人は目的地を目指す。
他愛無い話を交わしながら、やがて峠にたどり着いた。
「わぁ」
これから向かう道の先を見渡して、ソエルは感嘆の声を上げる。白く雪の帽子をかぶった山々の間で、深い渓谷は青く輝く曲線を描いていた。
「あそこだな」
「川だけじゃなくて、周囲の岩場まで凍り付いてるよね、あれ。寒そぉー……」
目的地の寒さを想像して、ソエルは一人身震いをした。
もっとも、エージュとしては寒さよりも、足元の滑りやすさを心配してほしかった。
◇◇◇
吐く息は白く、山を下るにつれて気温が下がっていく。
こんな現象は通常では起こりえない。
高度が上がれば気温は下がっていくものだ。この場所はその逆の現象が起こっている。
ただ、それが異存在によるものかと問われれば、それは違う。
この渓谷には、調査課のデータによれば氷の聖霊を祀る祠ほこらがあるそうだ。その精霊の影響だろう。
「うわぁ、川まで氷漬けだよー……氷の精霊様のお怒りかな?」
ようやく川岸までたどり着いた二人は、周囲の景色をぐるりと見回す。
木々は霧氷に覆われてきらきらと陽の光を受けて輝いていた。
川は青く澄んだ厚い氷の下で流れているのかさえ分からない。
風に舞う氷の欠片が煌めいていた。
景色だけは、幻想的だった。
だが、空気はぴしぴしと音を立てそうなほどに張り詰めている。
川岸を辿り上流を目指してすぐに、祠を見つける。
石で組まれた小さな祠だった。視線の高さに合わせて作られた祠。だが、長らく参拝者がいないことが一目でわかる荒れ方をしている。
これでは精霊も機嫌を損ねるというものだ。
「……ソエル」
「もちろんだよ!」
本来ならば、個々の世界の事情に手出しをすべきではない。
それが世界本来の循環であるのだから。
――だけど、目の前で苦しむ存在を無視できない。
だからこそ、エージュとソエルは監査官として生きることを決めたのだから。
そして、その生き方を恥じるようなことはしたくない。
「今、綺麗にしてあげるね、氷の精霊さん」
監査官は慈善事業ではない。
だけど、小さなことでいつか多くの人を救えるなら、身を粉にして働くことも厭わない。二人はそうやって生きている人を知って、憧れているからこそ、こうして前に進むのだ。
周囲への警戒だけは忘れず、祠に積もった砂や枝を丁寧にどけていく。
ご神体であろう、青白い武骨な石が枯れ葉に隠されるように鎮座していた。触れないように枯れ葉をどける。
風化した祠の修復は出来ないが、雑草を抜いて、砂や枝葉を片づけただけでも随分と見栄えは違う。
十分もかからず、小さいながらも、威厳ある姿を取り戻した祠。その光景に二人は満足げに視線を交わした。
「さぁ、じゃあ仕事に戻ろっか」
不意に、ひゅうっと冷たい風が二人の間をすり抜ける。
風に導かれるように振り返った視線の先に……それは、いた。
玉虫色に光る成人の背丈ほどもある甲殻中の姿。ぎちぎちと耳障りな音を立て、岸壁の隙間からのっそりと姿を晒す。
触覚が小刻みに動き、こちらの気配を探っている様子が分かる。どこかの文献で見かけたカナブンという虫と同じだ。サイズは別として。
「うぅわぁぁ……想像以上に気持ち悪いぃ」
粟立つ肌を擦り、ソエルは頭を振った。
「もしもーし? ここは貴方の世界じゃないから、帰ろう?」
ソエルがそれでも仕事のために言葉を投げる。
ぎちぎちぎちぎち……と恐ろしい音が耳朶を震わせる。
エージュは警戒しながらもソエルの結論を待っていた。
だが、ソエルの言葉を聞くよりも早く、『彼』は答えを出してくれた。
ぶおっ、と風を巻き起こすほどの強烈な羽ばたきに、迷わず二人は迎撃態勢に移った。
「行くぞ、ソエル!」
「りょーかいだよ、エージュっ!」
高らかに答え、ソエルは防御結界を展開した。
羽音を響かせながらその巨体を防御結界に叩き付ける巨大なカナブン。
その衝撃は結界を張っていたソエルにまで届く。
「ひゃわぁっ?!」
「ソエル?!」
衝撃に踏ん張った拍子、ソエルは足場を滑らせた。
凍った岩盤は思った以上に滑るのだ。
何とか転倒は免れたものの集中力が途切れたことにより、防御結界がその効力を瞬く間に失う。
「伏せてろソエルッ!」
エージュは鋭く叫び、空中から手にした杖の先を、尚もこちらに向けて突撃しようとするカナブンへ向ける。
「とりあえず、吹っ飛べ!!」
衝撃を重視した炎と風を織り交ぜた魔法を叩き付け、エージュはカナブンを吹き飛ばす。
「焦げたぁ……」
頭を抱え、身を伏せていたソエルはそう呟きながら立ち上がると、カナブンへと視線を向けた。
十メートルほど吹き飛ばされたカナブンは、それでも大したダメージを受けていないらしい。
流石甲殻虫の防御力、と思わず感心する。
ごそごそと起き上がって、こちらを再び複眼で捉えている。
再度ソエルは意識を集中して防御結界を張るための魔力を練る。エージュはソエルのやや後ろに控え、杖を構えた。
ソエルが前衛で防御し、エージュが後衛での魔法攻撃。
二人の通常スタイルだ。
「力比べじゃ勝てっこないよね」
「あの硬さじゃ一点突破でもしない限り、厳しいな」
だが生憎と、エージュが使える魔法は広範囲にダメージを与えるものが多い。
一点突破ような高圧縮魔法は高いコントロール能力が求められるため、エージュは苦手なのだ。
もっとも、そんな欠点は自分たちが一番理解している。
だからこそ、エージュはもう一つの武器の腕前も磨いたのだ。
「行くぞ!」
何も告げずとも、ソエルはその意をくみ取って動き出す。
「あんまり得意じゃ、ないんだけどねっ!」
そうは言いながらも、ソエルは笑みを浮かべる余裕を持って意識を集中させた。
同時に、青い円がソエルの足元に浮かび上がる。
繊細に編み込まれた魔力の鎖が四本、ソエルの足元に展開された青い円からしゅるしゅると先端を伸ばしていく。
カナブンは再び羽根を広げ宙にその巨体を浮かせていた。
「いっけぇぇぇっ!!」
ソエルは気合いの声と共に、鎖をカナブンへと奔らせる。
空気を裂いて鎖はカナブンの羽根へと絡みつく。
ごすっ、と分厚い氷の上にその巨体が落下した。
「エージュ!!」
このチャンスを逃すわけには行かない。
エージュはソエルが呼びかけるより早く駆け出していた。
杖から形状を変化させて、その手に槍を握る。
氷に足を取られないよう、魔法で対策を施しながら、一気に距離を詰める。
ソエルの拘束に対抗して玉虫色の四肢に力を込めている。
必死にソエルは抑え込むが時間はあまりない。
――あと数秒でいい。それだけ持ちこたえてくれればいい。
少しでも強度の低い節に狙いを定め、エージュは疾走する。
――ばきんっ……!
鎖の砕ける音と共に、ソエルの表情に焦りが浮かんだ。
だが、時間は十分だ。
「ぶち抜けぇぇぇっっ!!」
跳躍し、上空から槍に全体重をかけて突撃する。
カナブンの回避より、エージュの一撃が早く決まった。
殻と殻の隙間に滑り込ませた槍の先端。
決まった、と思った瞬間。
油断とは認めたくはないが、だが一瞬、行動が遅かったのだろう。
「――――!!」
声とも羽音ともつかない音を撒き散らしながら、カナブンは滅茶苦茶に暴れ出した。
「く、そっ?!」
瞬時に退避を判断したエージュは槍をそのままに、カナブンから距離をとる。すでに鎖を破壊されたソエルは新しい鎖を用意してはいたが、狙いが定められず、カナブンの動きを目で追うので精一杯だった。
流石に高ランク任務である。相手が硬すぎる。
再度ソエルの前に立ち、エージュは機会を窺う。
次で、決める。
「あーもう。見てられんねーな」
不意の声。ひらりと、エージュとソエルの視界の中で、白い花弁が舞った。
声の出所を探すよりも早く、炸裂音が周囲の音を掻き消した。
――ばばばばばばばばんっ!
音に呼応してカナブンがその硬い巨体を躍らせるように跳ねさせた。氷の表面にその体躯が打ち付けられるたびに、氷の欠片が舞い上がる。
凄まじい銃弾の雨。
――ダンッ!
一際強い音が青白い世界に木霊した。
カナブンは緑色の体液を放射状に広げる以外、ぴくりとも動かなくなった。
ひゅう、と冷たい風に乗って舞い上がった氷の欠片がきらきらと煌めく。火薬の匂いが風と共に広がった。
「ったく、しっかりしろよなー。エージュ」
幼い二人の少年少女が、その手を取り合いながら、氷上へ舞い降りた。
ふわりと氷の上に降り立った、二つのシルエット。
黒髪の少年と、茶髪の少女。
少女の手には、白い花が握られていた。
緋色の瞳を優しく細めて、少女が口を開く。
「……お久しぶりですね、ソエル、エージュ」
「ら……ライレイ? それにヴェロス?!」
にこりと微笑む少女と、少し照れくさそうに鼻を擦る少年に、ソエルは目を見張る。有り得ない存在に、ソエルもエージュも疑問が思考を埋め尽くし、言葉が出てこない。
「悪いな、事情説明は後だ。まずは伝言を届けさせてもらう」
「伝言?」
首を傾げたソエルに、少年――ヴェロスが頷いた。
「そう。こんな小さい問題に構ってる場合じゃない。……今のうちに手を打っておかないと今度こそ、世界が滅ぶぞ」
物騒な響きに息を呑むソエルとは対照的に、冷静さを取り戻したエージュはヴェロスを見据える。
「何故、俺たちの前に来たんだ? それほど重要な案件なら、議会に直接乗り込むべきだろ」
「そりゃ、お前……――」
ヴェロスは苦笑し、エージュの問いに答えた。
――お前らを一番信用してるからだろ、と。
◇◇◇
――死神協会 総統執務室。
暗い色で統一された室内で、死神協会総統ココル・ナイトレイは上がってきた報告書に目を通しながら思考を巡らせていた。
新設した機動班「セイヴァー」も近頃は軌道に乗って上手く機能している。
特異な存在であるロゼと言う死神でもあり監査官でもある少女の助けもあり、必要な魂の回収に不備はなくなりつつあった。
「うーん……、どーしたものかなぁ」
黒い革張りの回転椅子に腰かけたココルは報告書片手にくるくると回っていた。
壁際、本棚の傍に控えたココル専属の付き人であるセバスチャンは静かにココルを見つめていた。
背筋をしゃんと伸ばし、身に着けた服に折り目正しくアイロンのかかった、初老の外見をしたセバスチャンは一見すると執事と間違える死神も多い。生前は社長だった経歴を持つ。礼儀作法はその賜物である。
「ねー、セビー。一緒に考えよっか?」
「何をです?」
ぱさっと資料を机の上に置くと、ココルは手を組んでその上に顎を乗せ、微笑んだ。
逆光で影のかかるココルの表情で、その特徴的な赤い瞳が怪しく輝く。
「世界は必ず対で構成されている。光と影。物理面と精神面。協会と管理局。そして、核コアと殻シェル」
「はい。そのようですね」
頷いたセバスチャン。ココルは口元に笑みを浮かべ、続けた。
「それを考えれば、有り得ないよね」
セバスチャンはココルの双眸を、静かに見つめる。
多くを語らず悟れ、というココルらしい。
試されていると言っても過言ではない。
そしてそれを悟れるからこそ、セバスチャンは今の地位にいる事が出来ているのだ。
セバスチャンの思考と、その答えを待つココルの間に沈黙が降りる。
やがて、セバスチャンは口を開いた。
「……ロゼ様、ですね」
「ご名答。さすがセビーだね」
くす、とココルは赤い瞳を細めて暗く笑う。
少女にしか見えない外見特徴をしていても、流石は死神のトップに立つ人物。形容しがたい威厳と、滲みだす威圧感がそこにある。
ぎし、と背もたれに体重を預け、ココルは天井を見上げた。
「あの子は、死神であり監査官であることが出来る。つまり、死者であり生者」
「まるで、王ですね」
「そう。まさにその通り。恐らく……」
くるりと椅子を回転させ、ココルはセバスチャンに背を向ける。椅子を軋ませココルは立ち上がると、軽く腕を広げて、肩越しにセバスチャンを振り返った。
「彼女はどちらなんだろうね? もしくは……」
――まだどこかに、いるのかな?
ココルの言葉にセバスチャンは黙って視線を返すだけだった。
◇◇◇
真っ白な衣装をまとったアリシアは、鼻歌を歌いながら、螺旋階段を下っていた。
階段に接する壁はぎっしりと本が並んでいる。
色、装丁、厚さ、全てが一つとして同じもののない、無数の本。その背表紙を指でなぞりながら、少女は階段を下る。
天井の代わりに光が降り注ぐ、果てのない頭上。終わりの見えない遥か上空まで続く、螺旋階段。
この場所は、無限書庫と呼ばれる。
そして、アリシアはこの場所の管理者だった。
少女の姿をしたアリシアの正式名称は、≪無色の実像≫……世界を支える二柱の一つだ。
「アリシア」
不意に名を呼ばれ、アリシアは背表紙に触れていた手を離す。
「どうかしたの? すばる」
アリシアが答えると、無限書庫は幻のように消え去る。
代わりに正面に現れたのはブレザーにベージュのコートを羽織った少年と、真っ黒なローブに身を包んだ、少年と同じくらいの背丈の猫だった。
少年の姿をしたその存在は、≪世界の王≫……名を、六連むつらすばる。その傍らに控える猫は、アリシアと対をなす存在、≪夜闇の幻影≫……通称≪エリス≫。
アリシアの見知った人物たち。そしてこの三人しかこの特殊空間には存在しない。
すばるはアリシアに歩み寄りながら、柔らかく微笑んだ。
「定期検査してくれてたのか? ありがとう」
「何言ってるの。それが私の仕事よ。それより、何か用?」
「あ、えっとな。エルミナさんが輪廻の輪から二人出した理由、何か聞いてるか?」
アリシアは眉をひそめ、首を傾げる。
破損した魂を修復する過程である輪廻の輪と呼ばれる場所が存在する。
その管理を司るのが、エルミナの一族、ドーヴァ家だった。
世界を統率する役割を担う、世界の王が座す場所こそがここ、王の柱。そしてそのサポートをするのがアリシアとエリス、ナイトレイの一族と魔導評議会、そしてドーヴァ家。
全ては円滑な世界循環の為の配置。
そのドーヴァ家が輪廻の輪から魂を出すなど、初耳だった。
「知らないわ。何も聞いてないし、逆に説明して欲しいわよ。二人も出したの?」
「先ほど出たのを確認した。ライレイ・エルド・ジャロスとヴェロス・枩山まつやまの二名だ」
エリスの答えに、アリシアは呆れた様子で息を吐き出す。
「あいつら、まだ輪廻の輪の中でいちゃついてたの? 信じられないわね」
「アリシアも知らないのか……じゃあエルミナさんに直接聞いた方が良いかな」
「いいわ。それは私が聞いてきてあげる。それよりも、すばる」
「うん?」
アリシアはすばるへ歩み寄ると、体を傾けてその顔を覗き込む。あまりの至近距離に驚いたか、すばるは仰け反って息を呑んだ。
「な、なに?」
「貴方こそ、大丈夫? 何か、違和感ない?」
「違和感?」
すばるは首をひねる。
特段何かを感じているわけではないのだろう。
隠していれば表情に出るすばるだ。今の反応を見る限り、その様子は感じない。
アリシアはすばるに微笑み、細い指でその額を突いた。
「ないならいいの。でも忘れないで、世界の王は、貴方なのよ。貴方が作りたい世界を見失わないで」
それが、アリシアと沈黙で見守るエリスの願う、ただ一つの事なのだから。