第七話 存在の終わり

 

 魂の一部をかすめ取って、ライレイは世界に大きな嘘を吐いた。

 ヴェロスの存在を維持するためにすべての魔力を供給することを代償としてでも、ライレイは嘘をつき続けた。

 それが、ずっと沈んでいた真実だ。

「でも、もういい」

 目を開いて見えた世界は、どうしようもないほどに、歪んでいた。

 得体のしれない泥状に溶けた何かが、ソエルの展開した結界を叩いている。

 それはきっと、ライレイが溜め込み続けた悪夢のなれの果て。

 ヴェロスを世界から欺き続けた歪みから漏れ出した、悪夢の形なのだ。

「さて、覚悟は決まったのね?」

 ロアは結界を突破して迫ろうとする泥を魔法でもって撃退しながら、ヴェロスに問いかける。

 ヴェロスは静かに頷いて、毅然と答えた。

「ライレイは俺が守る。今度こそ、ちゃんと」

「そうでなくちゃ、困るわよ」

 苦笑して、ロアは前面で舞うようにして泥の手を叩き潰すミウへ目をやった。

「ミウ、行くわよ」

「仕方ないわね。手のかかるやつらなんだから」

「チャンスは一度。見逃すんじゃないわよ」

 ロアはそう告げると、目を細める。鎌を構え、呪文を唱えた。

「五行の監獄、獄炎の扉!!」

 ひときわ明るい炎がロアから一直線にライレイの立つ方向へ延びる。

 それはまるで炎の竜が飛び出したかのような光景で。

 炎はライレイの前で見えない壁に阻まれ左右へ逃れていく。

「くらぇぇぇッ!」

 高く跳躍していたミウが見えない壁に対し、拳による一撃を見舞った。

 耳を突き刺すほどの甲高い音が鳴り響く。

 魔法と物理的攻撃の同時攻撃。通常のシールドであれば同時に防ぐことはほぼ不可能である点をついた一撃だ。

――ぱぁんっ!

 ガラスが叩き割れるような音と共に、ライレイの周囲の空気が炸裂した。

「ライレイっ!」

 勢いで吹き飛ばされかけたライレイの手を、ヴェロスが掴んで引き止める。

 そのまま引き寄せると、ヴェロスの胸にライレイの額がぶつかった。

「ヴェロス……? どうし、て……」

「ずっと、一人で抱えさせてごめんな……ライレイ。でも、もう一人で抱えなくていい。時間がどれだけあるか分からないけど。俺は……一緒にいるから」

「私……見つけたの。やっと、本当の方法を。だから……」

「いいんだ」

 ぎゅっと、ライレイを強く抱きしめて、ヴェロスは言う。

「俺は、ただ生きたいんじゃない。ライレイの隣で、同じ時間を過ごせたなら、それだけで良かったんだ。だからもう、嘘つかなくていい」

「嘘……?」

 ライレイが吐いた、一番大きな……そして、一番ささやかな、嘘。

「お前の主の願いは十分果たしたよ。ありがとう。よろしく、言っといてくれよ。……ライレイにさ」

 ばっとライレイが顔を上げ、ヴェロスを見上げる。

 ヴェロスは笑みを浮かべたまま、ぽす、と頭に手を置いた。

 ライレイは微かに唇を震わせ、そして、微笑む。

「はい」

 それを合図に、ライレイの体は光の粒になって弾け飛ぶ。

 ライレイの消失と同時に、泥状の物体も動きを止め、音もなく霧散した。

「う、そ……ど、どういうこと……?」

 ソエルは唖然とした表情をヴェロスに向けた。

 エージュがそっとソエルの脇に立ち、言う。

「おかしいことは、いくつもあったんだ」

「エージュ? ライレイは……何で? どうして?!」

 パニック気味のライレイに、エージュは努めてゆっくりと説明する。

 かつて、ヴェロスは確かに死に、ホムンクルスの肉体で今存在していること。ヴェロスの魂の一部をライレイが持っていたこと。

 そして……ライレイはとうの昔に亡くなっており、今存在していたライレイは確かに、ホムンクルスであったことを。

 ソエルは息をのんで、ヴェロスや、ミウたちを見やる。

「そんな、嘘だよ。だって、ホムンクルスは主が死んじゃったら、一緒に消えるんだよ? 体を構築する魔力が保てなくなるんだよ?」

「ライレイは……自分に対しても嘘をついてたんだ。ホムンクルスであることさえ嘘にして、ヴェロスの魂を救うためだけに。世界に、どうしようもないほど小さくて、脆い嘘をつき続けてたんだ」

「そう。それがあの子の覚悟であり、願いだったから。魂を持たないホムンクルスの、魂から託された願い。自分の存在が潰えても、続けたかった願い」

 ロアはそう告げ、黙って空を見上げるヴェロスへ目をやった。

「さぁ、行きましょうか」

 声に反応したヴェロスは、視線を向けて、穏やかな笑みで頷いた。

「手間かけさせて、悪かったな」

「それが死神の仕事だもの。気にすることはないわ。お礼を言うなら、私じゃなくて二人に言いなさい」

 ソエルとエージュを示して、ロアは言う。ヴェロスは苦笑した。

「それもそうだな。……訳も分からないままに狩られなくて済んだし……ライレイのホムンクルスも解放してやれたしな」

「わかんないよ……ヴェロス……わかんないよぉ……」

 涙をにじませながら、ソエルは言葉にならない想いを吐き出す。

 別れは、望まないのだから。

 だが、ヴェロスは静かに首を振った。

「俺はとっくに終わってたはずなんだ。だけど、そうじゃない。ライレイのおかげで、俺はここまで存在を繋げた」

「これでいいの? ヴェロスはこんな終わり方でいいの?」

「こんな、なんて言うなっての。俺は、生きてる間に手に入れられなかったものを、手に出来たってのに」

「え……?」

「……ありがとな、エージュ、ソエル。……お前らと、今度会うときは……また、友達になれたら最高だな」

 言葉が、出なかった。

 それは悲痛であり、歓喜でもある発言だったから。

 つい、とヴェロスはロアへ視線を移した。

「行こう。……ライレイも、きっと待ってるから」

「ええ」

 背を向けた二人に、ソエルが何か言いかけ、しかし何も言えなかった。

「ヴェロス」

 呼び止めたのは、エージュだった。肩越しに振り返り、ヴェロスはエージュに続きを促す。

 拳を強く握りしめながらエージュは口を開いた。

「またな」

「……ああ」

 たったそれだけだった。それ以外に言葉は不要だった。

 存在が消えても、消えない願いがあるように。

 消えない願いがある限り、その存在はいつか未来で届くはずだから。

 

◇◇◇

 

 不思議な点は、振り返ってみれば山ほどある。

 他人の魔力を常時受け取り、送り続けることなど、出来るはずがない。

 でも、ライレイがホムンクルスであるなら魔力は血液と変わらない。方法さえ知っていれば、輸血と同じで難しくはない。

 そして何より、一つの肉体に二つも魂が存在できるほど、ヒトの肉体はよくできていない。

 たとえそれが一部でも、それは他人であって、通常拒絶反応が起こる。でも、もともと、ライレイには魂が存在していなかったのだから、拒絶反応など起こるはずもない。

 そして何より……エージュが見た過去のライレイは、ロアが現れる記憶の直前までずっと車いすに座っていたのだから。

 ロアが訪れる直前に、本物のライレイは命を落としていたのだろう。だから、今のヴェロスが生み出される直前から、ライレイはホムンクルスとして存在していたのだ。

 ヴェロスの存在を隠し、守り、生かし続けるためだけに存在したライレイと名乗った、ライレイの存在を引き継いだホムンクルス。

 世界さえも欺き続ける禁術指定のホムンクルスは、静かにその願いを果たして消えたのだ。

「ヴェロスも、ライレイも……まるで夢の世界の住人みたいだったね」

 ソエルは、不意にそんな事を呟いた。

 ミウが代わりに済ませてくれた任務の始末書を書いて、本部へ提出し、学院へと戻ってきている。

 自室へ続く廊下を歩きながら、ソエルは続けた。

「ずっと悪夢の中で生きてて、それでも最後は幸せだったのかな。……本当のライレイの願いは、ヴェロスが生きていてくれることだったのに」

「俺は、ヴェロスの選択は正しいって思う」

 そう答えたエージュに、ソエルは不思議そうな顔を向けた。

 窓の外を見やりながら、エージュは言う。

「これ以上、ライレイに嘘をつかせ続けるなんてあいつには、出来ないから」

「エージュにとって、ヴェロスは……友達だった?」

「いいや」

 静かに首を振ったエージュに、ソエルは表情を曇らせた。そんなソエルにエージュは小さく笑って言う。

「今も、これからも友達だよ。過去形なんかじゃない」

「……そっか。そうだね。……そうだよね」

 声を詰まらせながら、涙をこらえてソエルは何度も頷く。嬉しそうに。

 目じりをぬぐって、ソエルは明るく笑った。

「そうだ。ヴェロスがね、監査官が嫌いな理由は、あの場所に立ち入り調査をしようとしてたからなんだろうって。管理局からしてみれば、禁術の調査をしたかったんだと思うんだけど」

「ああ、なるほど」

「でも、私は違うと思うんだ。それも理由にあったと思うけど。でも一番は……本能的にライレイと自分の唯一の居場所を踏み荒されたくなかったんじゃないかなって」

「これからも、立ち入り調査なんてない」

「え?」

「あいつの守りたかった場所を、俺が守ってやらないで誰が守るんだよ」

 きっぱり言ったエージュに、ソエルは呆気にとられた表情を浮かべた。

 思わぬ発言ということだろう。

 ソエルの反応に、エージュは仏頂面で返す。

「なんだよ」

「ううん! そうだよね!」

 楽しげなソエルに、エージュは気恥ずかしさから目を伏せた。

 嘘はないが、やはり少し自分らしくはない。

 不意に、二人の通信機が鳴り響いた。それぞれが通信機を取り出しモニターを確認する。

 緊急指定任務だ。

「ほんと、休む間もなしだねぇ」

「それが、俺たちのいる意味だからな」

 誰かを守るために戦えるからこそ、監査官であり続けられるのだから。

「行くぞ、ソエル」

「りょーかいだよ! 準場だけは万端でね!」

 互いに頷き合って、二人は走り出す。終わりのある世界の中で、終わらない任務を誇りに思いながら。

 

◇◇◇

 

 そこは、桃色の空と、満開の花畑を貫く、一本のまっすぐな道があるだけの場所。それ以外は何もない、静かな空間。

 そんな道の途中で、じっと立ち尽くす、十歳前後の緋色の瞳の少女がいた。

 少女の右手には白い花が握られている。握った花は力なくうなだれていた。もうずっと長い間、少女がそうしていたから。

 通りすぎる人は居ても、誰も少女に声をかけたりはしなかった。そこは、言葉を交わすような場所ではないことを、誰もが知っていたから。

 それでも少女はその場に立ち尽くしていた。

 ふわりと、少女の目の前に、少女の握りしめていた花と同じ白い花が現れる。

 少女は微かに驚いて目を見張り、花に手を伸ばす。そっと手にした花の向こうに、同じ年ごろの黒髪の少年がいた。

 少年は少しだけ困ったような笑みを浮かべ、手を差し伸べた。

 

――待たせて、ごめんな。

 

 少女は左手に白い花を持っていた。少年は、左手に少女の右手を握っていた。

 どこまでも続く一本道を、いつか終わる一本道を、小さな姿が歩いていく。

 少年と少女の存在の終わりまでの残時間は……貴方の夢が、醒めるまで。

 

第四章 断罪のナイトメア 終幕

 

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