第三話 共闘

 

 朝の陽ざしが、カーテン越しに部屋へ差し込む。

「んー…」

 ごろりとベッドの上で寝返りをうち、ソエルはその日光から逃れる。まだもう少し、寝ていたい。

 再びうつらうつらしていると、今度は枕もとに置いておいた通信機が鳴り出した。

「もぉぉ……もう少し寝かせてよぉ」

 朝の最後の抵抗を邪魔されたことに対する文句を呟きながら、手を伸ばす。手さぐりで監査官用通信端末を掴んだ。

 あくびをしつつ、慣れた操作で届いた内容を確認する。

「むぅ?」

 目をこすって、再度確認する。見間違いでないことを。

「えぇぇぇ!」

 がばぁっと体を起こして、ソエルは通信端末を両手で握りしめた。

 食い入るようにして画面を見つめ、何度も内容を確認する。

――学院周辺の現況調査を以下の者に命ずる。

  ヴェロス・枩山(まつやま)

  エージュ・ソルマル

  ソエル・トリスタン

  ライレイ・エルド・ジャロス

「不安だ。不安だよ……」

 せめてアルトが同行してくれたらいいのに、と思わず呟いてソエルは肩を落とした。

 休暇のつもりで学院に居たのにもかかわらず、仕事を割り振られた。

 本部から仕事を割り振られるのは珍しいことではないが、現実に引き戻されたような感覚だ。

「まぁ、監査官に休みなんて考えは甘いかぁ」

 一人頷いて、端末をベッドの上に置いて、ソエルは床へ足を下ろした。

 窓へ歩み寄って、しゃっ、とカーテンを開いて全身に朝日を浴びながら、伸びをする。

「よっし。気合い入れて頑張るかぁっ」

 気持ちを切り替えて頷いたソエルのベッドの上で、通信端末が再度鳴り響く。

 休暇返上。仕事の始まりだ。

 

◇◇◇

 

 集合時刻は十時ジャスト。集合場所は学院の裏門。

 そんな淡白な内容のメールが届いたのは、エージュがソエルと食堂にて合流したころだった。

 本部システムを中継すれば、通信端末の番号を知らなくてもメールや通話をすることは可能である。

 それを利用したメールが、ヴェロスから二人の元へと届いていた。

「ふーん。大変だな」

 朝食を待つ間に状況を伝えたアルトの回答はあっさりとしたものだった。

 ソエルが思わず膨れて反論する。

「他人事にしないでくださいよー! 一緒に行きません? アルト様」

「駄目だよ」

 答えたのはアルトではなく、シスだった。

 アルトは怪訝そうに傍らのシスへ一瞥を寄越す。

「珍しい。お前けしかけるタイプじゃなかったか?」

「今日中に片づけ終わらせないと。あーちゃん明日当番だよ」

「あー、そーいやそうだった」

 コーヒーカップを傾けながら返したシスに、アルトは宙を見上げて気のない返事。

 スケジュール管理はもとより、健康管理までシスが担当している。まるで母親のようだ。

 そんな事を言えば、アルトに睨まれるのは自明の事なので、口にはしないが。

「そーいうわけだから。あーちゃんに仕事振るのはなしでね」

「終わったら手伝ってやってもいーぞ」

「片づけが終わったら、明日の準備しないと。ほんと、あーちゃんは手のかかる可愛い子だね」

「最後が要らねーんだよ……鳥肌が……」

 腕を抱くようにして呟いたアルトに、シスが楽しげな笑みを浮かべた。

 いつも通りの光景。

 だが、エージュの胸中にはどこか違和感が過る。

 シスはアルトを今回の件から過剰に、遠ざけようとしている気がした。

 それも正しくはないような気はするが、直感的な感覚だ。

 とにかく現状を歓迎はしていない。

 ただ、エージュとしてもアルトを頼る気はなかった。

 それは自身の存在を否定するのと同じだ。

 命令を与えられたのは他でもない自分自身。

 その信頼に応えてこそ、監査官として存在する意味がある。

 カップに半分ほど残っていたぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、エージュは準備のために席を立った。

 

◇◇◇

 

 集合時間の十時より五分ほど早く、エージュは待ち合わせ場所の学院裏門に立っていた。

 通信端末で、学院周辺の現状を確認しつつその時を待つ。

 薄い雲のヴェールが掛かった青空に反して、学院の外に広がる森は暗い。

 光を遮るように幾重にも折り重なる木々の枝が、深い緑の香りを風に運ばせる。

「エージュ」

 不意の声に顔を上げて、背後を振り返る。

 苦笑しながら歩み寄るアルトがいた。

「アルト様。……止められてませんでしたっけ?」

「行かねーよ。反発したらめんどくせーからな。これ、持ってけ」

 すっとアルトが差し出したのは、手のひらに収まるサイズの翠の球だった。

 意図が読めずに戸惑うエージュへアルトは説明を加える。

「役目を終えたソルナトーン。この状態なら、不良魔力を回収できるから持ってけ」

「そんな使い方も……あるんですか」

 素直に驚いたエージュに、アルトは深く頷いた。

 アルトはぴっ、とエージュの手にしている通信端末を指さす。

「その通信端末の基盤にも使われてるぞ。あとは、ゲートパスのチップにもな」

 ソルナトーンはどこの世界にも存在する。

 だからこそ、この端末やゲートパスはどこでも使えるのだ。

 アルトの差し出したソルナトーンを受け取り、エージュはその表面をまじまじと見つめる。

 不良魔力の回収……つまり、魔法の使用による疲労軽減。

 長期戦であれば確かに役立つものだ。

「ありがとうございます、アルト様」

「手伝ってやれない詫びだ。どうせ使い切りだしな。気を付けて行って来いよ」

 表情を引き締め頷いたエージュに、アルトは小さく笑って背を向ける。

 ひらりと手を振って歩き去って行く背中は、小柄ながらも議員としての威厳を醸していた。

 無言でその背に頭を下げ、エージュはぎゅっとソルナトーンを握りしめる。

 これはきっと、期待と信頼の証だ。

 

◇◇◇

 

「エージュ早いねぇ」

 アルトが去って数分後。ソエルがのんびりとした声音でやってきた。

 通信端末をポケットにねじ込み、代わりにソルナトーンを取り出す。

「アルト様から、これを預かってきた。持っててくれ」

「ん? 何々?」

 興味津々で歩み寄って、ソエルはエージュが差し出したソルナトーンをしげしげと見つめる。

 ソエルは目を丸くし、エージュに視線を向けた。

「これって……ソルナトーン?」

「今は世界の記憶は入ってないそうだ。ソルナトーンは不良魔力を回収できるらしい。アルト様が、譲ってくれた」

「へぇ……そんな一面を持ってたんだね、ソルナトーンって……」

 そっとソルナトーンを受け取り、ソエルは手のひらで転がした。

 手のひらの上でころころと転がる、透明な翠の石。興味津々のソエルに、エージュも同感だった。

 まだまだ知らないことがたくさんあるのだと、痛感しながら。

 ふと、視線を上げる。

 やってくるのは、ライレイと……ヴェロス。

「時間通りだな」

「遅刻してないだけいいだろ」

 ぶっきらぼうに返したのは、ヴェロスだった。

 傍らで、腰まで届く三つ編みを軽く揺らし、小さな会釈をするライレイ。

 ライレイもヴェロスも軽装で、手ぶらだった。ライレイも時転武器だったのだから、恐らくヴェロスもそうだろう。

「全員集合だね。じゃあ改めて自己紹介しよう!」

 ソルナトーンを腰のポーチにしまい込んだソエルが、満面の笑みを浮かべて切り出した。

 エージュとヴェロスは揃って不満げな表情を浮かべる。

「一緒に仕事するんだよ。一緒に仕事する相手の事は知っとかないと駄目だって、教官も言ってたでしょー」

 エージュはソエルに肘で小突かれ、小さくため息。

 間違っていないだけに反論はできない。

「分かってるよ。……エージュ・ソルマル。一応、管理上級」

「私は、ソエル・トリスタン。中級後期だからまだ種別はないんだー」

 ヴェロスは少しだけ戸惑った様子を見せたが、ライレイは極めて冷静だった。

 仕方なし、という様子でヴェロスはようやく口を開く。

「ヴェロス・枩山(まつやま)。渉外上級」

「ライレイ・エルド・ジャロス、討伐上級です」

「わ、珍しい。ヴェロスって渉外なんだ?」

 純粋な驚きを示したソエルに、ヴェロスは逆に驚いた表情を浮かべる。

「どこがだよ? 渉外なんて、管理に比べたら全然多い」

「えっ? そうだっけ?」

「そこは驚くところじゃねーだろ……」

 本気で呆れた様子のヴェロスに、ライレイが小さく笑っていた。

 ソエルが瞬きを繰り返していると、エージュが助け舟を出す。

「知り合いが少ないからな」

「あー、そっかー。知ってる人は管理監査官がほとんどだもんねぇ」

「それはそれですげーよ……お前ら」

 エージュとソエルの知っている監査官はほとんどが管理担当だ。

 それが普通だとソエルが思うのも仕方ないが、一般職員からしたらその環境が特異である認識がない。

 エージュも、少し前まではそう思っていたくらいだ。

「ここでこうしていても仕方ないです。行きましょう」

 そう促したライレイに、それぞれが頷いた。

 エージュは通信端末を取り出すと、慣れた手で操作する。

 事前に調べておいた現状から割り出したルートを表示し、モニターを見せる。

「ルートは、一応考えてある。確認してもらっていいか?」

「……ああ」

 まだどこかぎくしゃくとした空気の中、エージュの端末を受け取って、ヴェロスはライレイと共に確認する。

 裏門を出発し、蛇行しながら学院の周囲を一周するコース取り。

 ヴェロスはライレイに視線で確認をとる。ライレイは静かに頷き、ヴェロスも頷き返す。答えが出た、ということだ。

「これで行こう」

 端末を差しだしながら、ヴェロスは同意を示した。

 ほっとした表情を浮かべたソエルを一瞥し、エージュは端末を受け取る。

「それじゃ、行くか」

「頑張ってさくっと仕事終わらせて、お茶会しようねっ」

 一人楽しげなソエルにエージュはため息をつく。呑気なのか、あるいは場を和ませようとしているのか判別しづらい。

 ただ、一つだけ確かなのは……四名も動員しなければならないレベルの任務であるという事だろう。

 遠足気分では死を招くだけだ。

 ソエルも、それは分かっているはずで……だからこそのあの態度であるとするならば、恐らくは一番緊張しているのはエージュなのだろう。

 エージュの自覚できない不安や緊張を、ソエルは読み取って解そうとする癖があるからだ。有難く、どこか気恥ずかしい。

(落ち着いていかないと……今回はソエルだけじゃないんだ)

 守り、守られる相手は三人いるのだから。

 一人で焦っても危険なだけだ。

 森を振り返ると、ざわりと木々が風に揺られ、音を立てる。

 揺らめく枝葉は、まるで手招きをしているような不気味さを孕んでいた。

 

◇◇◇

 

 エージュとソエルが先を歩きながら、背後をカバーする形でライレイとヴェロスが警戒をする。

 誰が進言するでもなく、自然とその流れになっていた。

 ヴェロスはライレイよりも長い射程のライフルを使う。完全な後衛タイプだった。

「んー……微妙だなぁ」

 ぽつりと、ソエルが零す。歩き出して一時間ほど。

 今のところ危険な水準に達しているような魔物には出くわしていなかった。

 先頭を歩いていたエージュは、警戒をしたままソエルに尋ねる。

「何がだ?」

「上級三名投じてでもする任務、とは考えにくいよねぇ、って」

「リスクを減らすため、じゃないか?」

「うーん。それにしても、万全の布陣っていうか、警戒し過ぎじゃないかな」

 首を傾げながら歩くソエルに、エージュはそれ以上の否定の言葉を繋げなかった。

 自分自身、その点については、疑問を抱いていたから。

「ライレイとヴェロスはどう思う?」

「興味ない」

「うっわぁ……こっちは予想通りの反応だー……」

 苦笑いを浮かべたソエルに、ヴェロスはむっとした表情を浮かべた。

「そんな事を考察したって仕方ねーだろ」

「そーでもないよ。予想される危険度を知ることは大切だよ。知らない? 己を知り相手を知れば百戦危うからず、って」

「それは、一理ありますね」

 同意したライレイに、ソエルが嬉しそうに頷いた。

 ヴェロスは依然として不服そうな顔をしていたが、それ以上反論はしなかった。

「通常このような編成はSランク用任務にあたるそうです」

 不意にそう切り出したのはライレイ。興味深そうに、ソエルが目を向けた。

「へぇ、そうなの?」

「特級監査官単独ミッションレベル……いわゆるSランクですね」

「一人でする任務ってこと? うわぁ、何かいかに特級監査官が強いか証明してるんだねぇ」

「そうかもしれませんね」

 苦笑まじりに、ライレイは頷いた。

 特級一人に当たるのが、上級三名以上。

 無言で感心すると同時に、エージュは自分の目標が随分上にあることを、痛感させられていた。

だが、やはり引っかかる。

「Sランクなら、それこそアルト様を動員するべきだと思うけどな。上級だけど、アルト様は議員だ。特権とやらを持ってるわけだし、そこらの上級よりは強いだろ」

 エージュの疑問に、ソエルが複雑な表情を浮かべた。

「そうなんだよね。だけど……そうできない、あるいはそうしない理由もあるんだと思うよ」

「そうしない理由?」

「あるいは、私達じゃなきゃいけない理由か、どっちかだね」

 ソエルの答えに、エージュは口を閉ざした。

 自分たちでなければならない、理由。

 あるいは、この中の一人を動員するために、与えられた任務である可能性だってある。

 本部の考えはいつも不明瞭で、苛立たしい。

 だから、いまだにエージュは管理局自体を信用しきれていないのかもしれない。

 崇高な任を背負う覚悟はあっても、エージュにとっては管理局に対する信頼には直結しない。

「あ。エージュ、ストップ」

「分かってる」

 即座に返答して、エージュはその手に杖を握った。

 ぎゅ、っと拳を握りしめ、ソエルが正面を見据える。

 後ろを歩いていたライレイとヴェロスも周囲への警戒レベルを引き上げた。

「簡易計測ではレベルBってとこかなー」

「準備運動にはちょうどいいな」

 周囲から突き刺さる殺意を受けながら、そう言ってのけたエージュに、ソエルが苦笑する。

「さっさと片付けて先に進むか」

「ええ」

 後ろではライレイとヴェロスがそれぞれその手に武器をとっていた。ライレイが両手に拳銃、ヴェロスが細身の中遠距離射撃用ライフル。

「五分ってとこだな」

 そう言って、ヴェロスはライフルを構えた。

「行くよー!」

 一人楽しげなソエルの声が森に響き、ざぁ、っと殺意を織り交ぜた風が舞った。

 基本戦闘スタイルは全ての防御をソエルが担当し、遠距離からヴェロスが足止め。

 射程の短いライレイを魔法でもってエージュがサポートしながら、自身も距離を詰め、槍での近距離戦に持ち込む。

 適材適所の対応をする、完成されたコンビネーション。

 宣言通りの五分以内で魔物を殲滅完了したのは、当然と言ってよかった。

 

◇◇◇

 

 そこからしばらくは、随分と魔物に出くわす機会が増えていた。

 しかし、強さとしては通常、あるいは少し強い程度だった。あるいは、チームとしてうまく廻り出したともいえるが。

「捕まえたよーっ!」

 ソエルの展開した結界で囲われたヘルハウンドは、恐慌状態に陥っていた。

 リーダー格のヘルハウンドだったのか、周囲にいた魔物が動揺したような気配を滲ませる。

「その隙が、命とりだっての」

 魔物の隙を見逃すことなく、不敵な笑みを浮かべてヴェロスはライフルで着実に撃ち抜いていく。

 ソエルが捕まえたヘルハウンドに、ライレイが疾走し距離を詰め、拳銃を掃射し、絶命させた。

 瞬く間に静かになった森で、ソエルは大きく息を吐く。

「ほんと、凄いねぇ。あっという間だぁ」

「……そーでもない。正直、お前らに助けられてるとこ多いし」

「え、そうは見えないよ?」

 首を傾げたソエルに、ヴェロスが苦笑を浮かべた。

「俺もライレイも、防御は得意じゃねーから」

「あー……それは分かる気がする」

 二人そろって中距離以上の攻撃手段だと、基本的には最大火力で応戦する。

 近づかれたら、打つ手がなくなるせいだ。

 納得したようすで頷くソエル。

「それに、サポートする威力まで落とすのって意外と能力高い証だし」

 ちらりとエージュを一瞥し、ヴェロスはそう付け加えた。

 思わぬ賛辞に、エージュは気恥ずかしくなる。

 まさか、拒絶を隠そうともしていなかったヴェロスからそんな言葉を貰えるとは想像もしていなかった。

 それは素直に嬉しく、エージュもヴェロスの認識を改める。

 口には出来ないが、ヴェロスの精密射撃も目を見張るものがある。

 視界の隅でライレイが小さく笑っていたのが見えたエージュは、軽く咳払いをして素っ気ない口調で言う。

「任務完了までは、しばらく世話になる」

「もー、エージュは素直じゃないんだからっ」

 べしっと腕を叩かれ、エージュはソエルを半眼で睨む。

 だがソエルは楽しそうにけらけらと笑うだけで。

 ため息を吐いて、エージュは気持ちを切り替えた。

 

◇◇◇

 

 予定コースの四分の一程度を消化したころ、唐突に「それ」と出くわした。

 最初に気づいたのは、ヴェロスだった。

「あれは……」

「え? 何? どしたの?」

 ヴェロスは進行方向に対し、左方向を顎で示す。

 ソエルとエージュもその方向に視線を向け、目を凝らす。

 木々の間に見える、影。形だけが明確な、黒いシルエット。

 その正体に、エージュはすっと背筋が寒くなる。

「え、冗談でしょ?」

 ソエルがひきつった表情でそうこぼす。

 場の空気が一気に張りつめた。

 じっと、その場で動かない黒い影。

 エージュは息を呑み、頬を伝った汗を、ゆっくりと拭い取った。

「影、か。厄介なのにでくわしたな。いや……だからこその、編成か」

 納得した様子のヴェロスに、ライレイは不安げな表情を向けた。

 その視線に気づいたヴェロスはライレイを見やり、笑みを見せた。

「心配すんな、ライレイ。……こっちは数の利もある」

「……ええ」

 歯切れの悪い返答をして、ライレイは影に目を向けた。

 向こうはまだ、動いてはいない。ただ、気づいてはいるようだった。

 じっと、動かずにいるから。

「どうしよぉ、エージュ。影だよ? 対策なんてしてきてないよぉ」

 ソエルはエージュの後ろに隠れながら、泣きそうな声で訴える。

 ソエルを安心させてやりたいのは山々だったが、エージュとしても逃げ出したいのを堪えるのが精一杯だった。

――『影』

 それは、学院と本部世界にのみ観測される存在だった。

 崩壊した世界は王の柱へと戻ってくる。

 学院と本部はその柱の直下あるいは直上にあるため、全ての世界を再現することができる。

 だからこそ、失われた世界の蔵書や、魔法、科学技術が今も存在している。

 それは、言うなれば世界の表。物質としての、名残。

 世界は、生きている。精神として、生命としての名残が『影』だった。

『影』が厄介とされる理由は、その存在様式に依存する。

『影』は穢れ切った魔力そのものだ。

 ただ黒いだけの姿と、攻撃性だけを持った明確な姿かたちの定義がない存在。

 魔力で固められた姿は、触れることはかなうものの、明確なダメージを与えられない一面も持つ。

 通常、『影』と戦うなど時間と労力の無駄であり、まともに相手ができるのはかなりの腕利きだけというのが監査官での常識だった。

「そぉーっと下がるのがいいんじゃないかなぁ」

「熊じゃないんだから、意味ないだろ」

「森のくまさんかもしれないよっ」

 ソエルの必死の冗談に、エージュは笑って返すだけの余裕がなかった。

 それはヴェロスも同じようで、表情が硬い。

「……どうにかして逃げるか、あるいは」

「倒すしか、ねーだろ。Sランク編成ってことは、つまり戦えるはずだ」

「……だな」

 ヴェロスの決断に、ため息交じりに返し、エージュはその手に杖を握った。

 状況は、四対一。勝てない戦力じゃない。

「ソエル、やれるな?」

「やれるって、言うしかない状況作っておいてひどいよー……」

「お前はやれるって信じてるよ、俺は」

 ソエルは膨れつつ、エージュから数歩下がると両手を握りしめ、魔力を練りだした。

 エージュは小さく笑って、心の中で礼を述べる。

「治癒用魔法球の余裕は少ないの、忘れないでよ?」

「分かってる。……何とか、努力はする」

「……くるよ」

 こく、と頷いて、エージュは影めがけて直径三メートルはある炎の球を打ち込んだ。

 影は動くそぶりも見せず、火球の直撃を食らった。

 少なくとも、エージュたちにはそう見えた。

 轟音と共に、木々が炎に呑まれて熱風を撒き散らす。

 もっとも……影が炎でダメージを食らうわけもない。

 炎の中からゆらりとその黒い姿を晒したのは、予想されてしかるべき事態だった。

「頭では分かってても……やっぱり気持ち悪い」

 ソエルが震える声でそう呟いた。

 それは人の形をした影で、立体的な黒いシルエットは炎に照らされても、なお黒い。

 生命の気配を感じられない恐怖が、そこにはあった。

 その恐怖を飲み込んで、エージュは杖を握る手に力を込める。

「とにかく魔力を叩き込む。あの影を構成する魔力を圧倒すればいい」

「分かってる。頼んだからね、エージュっ!」

 影は魔力で構成される。

 ならば、その魔力を越えるだけの量を叩きつけることで、魔力を拡散することができる。拡散すればもはや影は影として再構築することは難しくなる。それが通常の対処法だ。

 魔力を魔力でもって希釈する、というもっとも基本的な対応。

 ライレイとヴェロスが影を足止めしようと弾丸の嵐を叩きつけるが、その歩みは止まらない。

 一歩一歩近づく影が、ソエルの張った結界に、一度弾かれる。

 一旦の停止。

 そして、ソエルの展開した防御結界に対し、影は拳を振り下ろす。

――ばんっ!

 結界を通して空気が震えるほどの衝撃が走り、ソエルは表情を凍り付かせる。

 怯んだら負けだ。エージュは冷静に魔力を収束させ、最大火力でもって応戦する準備を進める。

 ライレイとヴェロスが一斉掃射で援護してくれているのだから、失敗は許されない。

 二人の持つ銃の砲身は怒涛の勢いで発砲音を響かせていた。

 あと、数秒だけ持ちこたえてもらえればいい。

 掃射を食らいながらも、何も堪えていない様子で結界を殴打し続ける影を睨みながら、エージュは魔力を凝縮させる。

 感じる魔力自体は、それほど多くない。

 これで、いけるはずだ。

「喰らえッッ!!」

 声と共に、限界まで濃縮された魔力を影に叩き付けた。

 魔法に変換さえしない魔力の塊が影と直撃する。

 接触と共に微かに収縮した魔力が、次の瞬間爆発的に空間に広がる。魔力が影を飲み込み、突風を巻き起こした。

 ソエルの張った防御結界がなければ、突風で巻き上げられた枝葉で怪我をするであろう勢いの風が吹きすさぶ。

 あまりの強風に思わずそれぞれが目を閉じた。

 風が弱まり、そっと目を開く。

 影は、微かに境界が揺らいでいたが、まだ平然と立っていた。

 ぞっとする光景だった。

 圧倒的な差が、ここにはある。

 今更気付いたところで遅いが、これは、逃げるべき相手だったのだ。 

「ライレイ?!」

 切迫したヴェロスの声に思わずソエルが振り返り、エージュも視線を走らせた。

 見れば、後方にいたライレイは膝をついて、小刻みに震えていた。

「くそ、あてられたのか!?」

「ヴェロス……、へい、き。私は……」

「平気な状態じゃねーだろ!」

 決して状況がいいようには見えない二人に、エージュは必死に凍り付きそうな思考を働かせる。

 四人が万全ならまだしも、この状況で打ち倒せる相手ではない。逃げるにしても、ライレイがまともに歩けるかも怪しい状態だ。

 ゲートで逃げるにしても、どうしたってタイムラグが生じてしまう。ゲート解放中に攻撃を食らえば、どんな影響があるか分からない。迂闊には使えない。

 だとしたら、使える手は。

「……ソエル、奥の手で逃げるぞ」

 影を睨みながら、エージュは宣言する。

 ソエルは一瞬呆気にとられた表情を浮かべ、次いで慌てて首を振った。

「だ、駄目だよ! アルト様の命令に背くのは!」

 ソエルの気持ちも分かっていた。エージュとしても、アルトの命令には背きたくない。

 それはアルトが評議会議員だからではなく、誰より監査官の痛みを分かろうとしてくれているアルトだからだ。

 エージュはその期待と命令に背きたくない。

 だが、それだけでは守れないものがあるなら。

「全滅なんてもっと望んでない」

 正論だとはエージュ自身も思っていない。だが、ソエルは反論しなかった。

 他に打つ手がないと、エージュよりも思考回転の速いソエルでも、結論付けたのだろう。

 ゆらゆらと揺れていた境界が徐々に鮮明になる影。回復しつつあるのだ。そしてエージュは罪を背負う覚悟を決める。

――ざぁ、と風が知らない空気を滲ませて舞った。

 ぎゅ、っと杖を握りしめてエージュが瞳を閉じかけた、瞬間だった。

「簡単に使えるもんは奥の手とは言わないもんだよ」

「え?」

 ぽんっ、とエージュの頭を軽く叩き……ふわりと跳ぶ姿。

「一発勝負の、一撃必殺ッ!」

 楽しげな声と共に、影に躍りかかったのは紫のワンピースを翻した少女。

 唖然となるエージュたちの前で、少女は腕を横に振りぬいた。

 放たれたのは翠の球。影の表面に触れた瞬間、光が広がり影ごと飲み込んだ。

 眩しさに目を細めていたエージュの視界で、少女が地面へ舞い降りた。光が収まると同時に、影がいた場所にふわりと少女が降り立つ。

 紫のワンピースの上に、白いドレスエプロンを着ている。その姿はまるで屋敷のメイドのようで。

 そして……光の消滅と共に、影は消え失せていた。

「……ったく、何で私が、変態の頼みなんて聞かなきゃいけないのかしら」

 不機嫌そうに吐き捨て、少女はスカートの裾を翻して振り返った。

 肩まで伸びたブラウンの髪に結われた白いレースのリボンがはずみで揺れる。

「で、無事? 新人さん?」

 少女の声にエージュは我に返った。

 助けてくれた少女を置いて、ソエルと共に慌ててライレイとヴェロスへと駆け寄る。

「ライレイ、大丈夫?!」

 ソエルが声をかけるも、ライレイは苦しげに呻いて震えたまま、ヴェロスに支えられていた。

 支えるヴェロスも心配からか、顔色が悪い。

 ソエルは治療用の魔法球を取り出して使用を試みているが、反応がない。

 焦りが滲みだし、エージュはぐっと拳を握りしめた。

「無視すんじゃないわよ、新米」

 ぼす、とエージュの肩に拳が叩きつけられる。

 振り返ると、少女が不機嫌な表情を浮かべていた。

「あ……」

「……その子の状況、説明なさい」

 有無を言わせぬ勢いの少女に、エージュが戸惑っていると、ソエルが顔を上げて早口で告げる。

「影を倒そうとして、魔力叩き込んだんですっ。そしたら、ライレイ具合がっ……」

「ふーん……ま、そうでしょうね」

 エージュを押しのけ、少女が歩み寄った。

 少女は膝を折り、ライレイとヴェロスを順に見やって、怪訝そうに眉根を寄せた。

「……? 変ね……まぁ、いいわ」

 一人で何かしらの結論に達した少女は、頷いてライレイに手を伸ばした。

――ばし、っとヴェロスがその手を跳ね除ける。

「触るな」

 ヴェロスの明確な拒絶。

 その態度に少女は笑顔のまま、額に青筋を浮かせた。

「そう。……じゃあ勝手にどうぞ?」

「待ってください。貴方……何者ですか? 影を一撃で消滅させるなんて監査官でも数える程度しかいないはず……」

 エージュの問いに、少女は黙って立ち上がるとスカートを叩き、土ぼこりを払う。

 くるりと爪先でターンすると少女の紫のスカートが真円状に広がった。

 そして歩き出す。

「え、ちょっ、待ってください?!」

「部外者は首を突っ込むな、って言われたんで失礼するわ」

「ま、待ってくださいぃぃっ」

 咄嗟にソエルは少女のスカートを裾を掴んで引き留める。

 少女は機敏に振り返って、ソエルの手を音を立てて手で払いのけ、スカートの裾を押さえる。

「ちょっとっ! やめてよ?! クオル様が買ってくれた超絶大事なワンピースを破ったりしたら、あんた殺すわよッ!?」

 まさに鬼の形相。エージュは思わず絶句した。

 本気で怒り狂う少女とは対照的に、ソエルがぱっと表情を輝かせた。

「クオルさんの知り合いだったんだっ! 良かったぁぁ」

「っ……しまった……」

 安堵したソエルに、エージュも遅ればせながらにハッとする。

 大きなため息をつくこの少女は、クオルの知り合いだったのだ。ならばその強さも合点が行く。

 ふと、少女はライレイを一瞥する。

 すぐに不機嫌そうな表情を浮かべたのは、恐らくはヴェロスの拒否の視線でだろう。

 肩を竦め、腕を組むと少女はエージュに視線を寄越す。

「とりあえず、その子に関してはそいつが何とかするんでしょう。私が頼まれたのは、あんたたちが危機的状況になったら助けてやってほしいってだけよ」

「クオルさんにですか?」

「違うわ。まぁ、誰に頼まれたかなんてのは重要じゃないでしょ。とりあえず引き上げるべきね。これ以上の任務続行は感心しない」

 それ以外に、選択の余地がないことは明白だ。

 少女の意見に賛同したエージュは、ヴェロスを見やる。

 複雑な表情で少女を見ていたヴェロス。

 頭では、分かっているのだろう。ただ、ヴェロスはライレイを守ろうとしているだけだ。

 詳細な理由は、分からないが。

 不意に視線がぶつかり、エージュが視線で促すと、ヴェロスは目をそらした。

「……分かってるよ」

 ぼそりと答え、ヴェロスは苦しげなライレイを抱き上げ、奥歯を噛み締めた。

 

◇◇◇

 

 学院への帰路は、あっという間だった。

 ミウと名乗った少女により、前方の敵は瞬く間に殲滅されていくのだから。

 エージュたちとしてはそのあとをついていくだけで十分だった。

 メイド服、といって差し支えない衣服からは想像できない機敏かつ攻撃的な戦闘スタイル。武器さえ持たず、拳ひとつで骸骨騎士の頭蓋骨を粉砕した瞬間は、表情が引き攣るほどだった。

 納得できる強さではあるのだが、桁違いだった。

「あっ」

 ソエルが嬉しそうな声を上げる。

 学院の門が見えたのだ。ソエルだけではなく、エージュもほっと息をつく。

 流石に負傷者一名を抱えて、魔物の徘徊する森を長居はしたくない。

「……ちっ」

 エージュたちの安堵とは裏腹に、ミウは舌打ち。

 不機嫌そうに眉根を寄せて、門へと向かっていく。その先には、アルトと、シスがいた。

 呆気にとられた表情のアルトへ歩み寄ると、ミウは抑揚のない口調で告げた。

「戻ったわよ、アルト、変態」

「な、何でミウがいるんだよ?」

「それどころじゃないわ」

 ミウは背後を顎で示す。

 アルトが首を傾げ、顔をのぞかせた。

 反射的にエージュはソエルと共に軽く会釈。

 そして二人の後方には、複雑な表情のままライレイを抱えたヴェロスがいる。

「え、ら、ライレイ?! どうしたんだよっ? 何でお前が倒れっ……」

「魔力にあてられたんです。当然でしょう」

 冷たく言い返したヴェロスに、アルトは再び唖然とした表情を浮かべる。

「魔力って……それこそ……」

 口を濁したアルトに、ヴェロスは睨むような視線を向ける。

 全てを拒絶するような、冷たい光を宿した視線で、ヴェロスは言い放った。

「ホムンクルスは魔力の質変化に弱い。そんなの貴方だって知ってるはずだ」

 アルトはますます困惑した様子で口を閉ざす。

 しかし……エージュはヴェロスの発言を、理解しきれなかった。

 何故ここでホムンクルスの話になる?

 戸惑うエージュを他所に、ミウが盛大なため息を吐いた。

「……どーだっていいじゃない。そんなのは。アルトはあんたたちを心配してるだけでしょ。いちいち噛み付いてんじゃないわよ」

「見張ってるだけだろ。議員だから」

 瞬間、アルトが酷く傷ついた表情を浮かべたのを、エージュは見逃さなかった。

 アルトは器用なタイプではない。不器用だと自覚するエージュでさえ、アルトは不器用だと感じる程だ。

 裏表などないアルトだから、エージュはその命令に従える。

 そんなアルトを、悪く言うのはどうにも許せない。

 エージュはぐっと手のひらを握りこんで、反論を紡ごうと口を開く。

「どのみち、ホムンクルス相手に治療なんて無意味だろ。ほっといてくれ」

 エージュの擁護より先に紡がれたヴェロスの言葉。エージュは小さく息を吸い込み、目を見張った。

 傍らのソエルは、さっと青ざめ口元を手で覆う。

 言いかけた言葉さえ凍り付いた空気。

『ホムンクルス』……その言葉の意味が、エージュは一瞬理解できなかった。

 ヴェロスはそれ以上何かを語ることはなく、学院の門をくぐり、中へ消えていった。

 茫然と見送るしかなかったエージュとソエルの耳に、不意にミウの声が聞こえた。

「……そういう事ね」

 何に対する納得かは分からなかった。

 エージュは今、目の前に広げられた現実さえ、消化できないのだから。

 

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