第25話 dry flower

 

 目を覚ますと、世界が暗かった。あぁ……脳に血流が足りないのかも知れない。

 視線をゆっくりと左へスライドさせると、窓の外の空が見えた。

 やっぱり暗くて、グレーに見える。俺そろそろヤバイかもしれない。

 老衰なら、せめて家で最後は迎えたいな。

 俺の家って……どこ、だろう。城、かな……やっぱり。

 城じゃ、あんまり居心地は良くないかもしれない。けど、診療所は駄目だ。

 心が弱くなってる俺はきっと、診療所にいたら救いを求めてしまうだろうから。そっと、どこかの精霊が教えてくれたエコデの無事に、すがりたくなるから。

 最後に会いたいって……思いたくないんだ。俺と一緒に朽ちるのは、駄目なんだ。

「はは……何だよ、もう。俺また最後、我慢して終わるのかぁ」

 でも、男らしいか?

 大事な人の未来を願えるなんて、カッコいいよな。ドラマみたいだ。

 でも、そんなに俺は、強くないな。心で号泣確定だ。せめて、もっとロヴィと一緒に居てやりたかったな。

「リリバス」

 不意の声に視線を右へスライドさせる。

 美人が俺を見下ろしていた。……さらさらの銀髪に、色素の薄いグレーの瞳。超美人。

「どどどちらさんですかっ?!」

 黄昏モードから一転、俺はとんでもない御褒美ターンへと放り込まれた。

 視界の隅で、無言で呆れている俺の監視者ドクターが見えた。

 美人は恥ずかしそうに耳へ髪をかけ、唇を震わせていた。

 うわ、ナニコレ! 人生崖っぷちというか、三途の川の案内状を受け取った状態の俺に神様からの差し入れか?

 テンションが落ち着かない。

「えっと、元気そうで、何より」

「そそ、それはどうも」

 ……あれ? 何だろう、どことなく聞き覚えがあるな。

 俺は、重い体を何とか起こす。

 何だか幸運に体が活気付いてきたらしい。視界もカラーに元通りだ。

「ところで、どちらさんでしょうか」

 ドキドキしながら問いかけた俺に、美人が目を見開き、ついで不機嫌そうに眉根を寄せた。

「私、分からない?」

 そう言われても。

 あたまをかく俺に美人がため息ひとつ。

「ポアロ。毎月、仕事してあげてるのに」

「ポアロって……」

 あいつ、頭ヘビじゃないか?

 確かに、似てるけど。

「言うと思って、証拠持ってきた。リリバスの超下手なデザイン」

 ちらりと封筒を覗かせた時点で、俺の背筋が凍る。

 本能が危機を知らせていた。

「分かった! 信じるから頭はどーしたんだよ?」

 ぎりぎりの所で恥の安売りを止め、ポアロへ質問を投げる。

 ポアロは残念そうに封筒を仕舞った。こいつ、出そうとしてたな。

「リリバス、蛇は、嫌がる」

「そりゃ、怖いからな」

「だから特注の魔法を覚えた」

 なるほど、そのさらさらの銀髪は魔法なのか。元は……きっと蛇なんだろうな。

 やっぱり怖いな、それ。

 でも、近頃はそれがあっても人気だった気がするんだが。首を捻る俺にポアロがぽそりと言う。

「リリバスの為に覚えた」

「へ? 俺のためって……」

「すっ……好きだからに、決まってる」

 ……え。

 呆けた俺から、ぱっとポアロが顔をそらす。

 耳が真っ赤だ。血管が拡張してる。よほど興奮状態……って、逃げるな俺?!

 思いっきり、分かりやすく目の前でポアロが恥ずかしがっているじゃないか。

 俺はどうやら告白されたようだ。

 何か、ポアロといいエコデといい、俺を好いてくれる存在は俺のために、頑張ってくれるやつが多い。

 何で、俺なんだろうな。俺なんて、鈍感で馬鹿で、ヘタレなのにな。

 あ、自分で思って悲しくなった。

「分かってる、リリバス」

「え、何が?」

 思考に耽っていた俺は、顔をあげてポアロを見やった。

 ポアロはくすっと小さく笑って肩を竦める。

「リリバスは、エコデが好きなこと」

「なななななんの話だ?!」

 声がひっくり返る。

 ポアロには聞こえないだろうが、ドクターが腹を抱えて笑い出していた。

 ポアロはポアロで、ふうっと息を吐いた。

「気付いてないのは本人たちだけ。全く、困った医者」

 俺は金魚のごとく口をぱくぱくと開閉させる以外の反応が出来なかった。

 恥ずかし過ぎるだろ俺……!

「だから、別に返事とかは要らない」

 淡々と話を進めるポアロ。

 そ、そういえば俺って告白されたんだっけ。

 でも、どうして分かってるなら言ったんだ? ましてや魔法覚える必要も……。

 俺の視線に、ポアロは苦笑する。できの悪い生徒に、授業する先生みたいだ。

「私の勝手。でも、言わない選択肢はなかった」

「何で?」

「結果が同じでも、言わないと私は、前に進めないから」

 ポアロの言葉に俺はハッとさせられる。

 エコデも、同じようなニュアンスだった。答えが欲しかったんじゃないんだ。

 エコデもポアロも前に進む為に、伝えたんだ。告白なんて、一番勇気がいる事を。

 俺は、伝えたいこと……全部伝えてない。また、人生未消化で、終わってしまうのか。

 ……それは、嫌だ。俺は、ちゃんと伝えたい。

「ポアロ……、ありがとう」

「何が?」

 不思議そうなポアロに俺は笑顔を向ける。

「ポアロのお陰で、俺……分かったかもしれない」

「ふーん……」

 どことなく、気のない返事。

 ぽんっと俺の肩を軽く叩いてポアロは笑みを浮かべた。

「頑張れ、リリバス」

「おう」

「それから……」

 ふと、ポアロが笑みの種類をシフトさせる。

 背筋を凍らせそうな、冷たい笑顔に。

「エコデを泣かしたら、石にする。この事、覚えておく」

 先ほどの乙女はどこへやら。

 きっと魔法でメドゥーサ本来の力も取り戻せる状態なんだろう。

 ……怖いじゃねーかよっ!

 

◇◇◇

 

「気を付けて、リリバス」

「おー、世話になったな、シャルル」

 荷物をラフェルがぶつぶつ言いながら積んでくれている間、俺はシャルルと別れの挨拶を交わしていた。

 シャルルは、何とも言い難い表情で俺を見ていた。

 医者として友人として、シャルルは俺の今後を心配してくれている。

「大丈夫だ、シャルル。俺……必ずまた、ここに帰ってくる」

「リリバス……」

 シャルルは、俺の体が限界なのを分かっている。俺だってそうだ。

 いや、俺の方が分かってる。それでも俺は、ここへ帰ってくる。

 そう、決めたんだ。

「シャルル、ちゃんとヴィアに伝えとけよ。俺は魔法きかなくて、それでもヴィアが好きだぞってさ」

 俺の発言に、シャルルが目を丸くした。

 俺自身、笑ってしまいそうだ。

 でも、俺はシャルルに幸せになってもらいたいんだ。ヴィアと思いが通じてるんだから、尚更さ。

「またな、シャルル」

 すっと差し出した俺の手をシャルルがゆっくりと握る。

 そして、眼鏡の向こうの瞳が優しく微笑む。

「……また会おう、リリバス」

 再会を祈って俺はシャルルと握手を交わした。

 俺はこれから城へ戻る。

 最後の賭けに勝つために。俺は、負けるつもりはない。

 この街へ再び帰ってくるために。

 

◇◇◇

第26話 城内急難

 

 吸い込む空気はカビ臭い。床に描かれた魔法陣は今にも消えそうなほどに、弱々しい光を放っている。

「どう? 少しは良い?」

「そうだな。大分回復してきたぞ」

「それは良かったわ」

 魔法陣から立ち上がった俺は振り返ってサチコを見やる。

「今週で限界だろうな」

「ええ、そうね。……行くの?」

 肩を回しながら歩み寄った俺に、サチコがどこか不安げに問い掛けた。

 俺は迷わず頷いた。

「やっと、俺の人生目標が分かったからな」

「あら、老衰じゃなかったの?」

 驚いたサチコに、俺は苦笑する。大方その通りだけどちょっとだけ、違う。

「さ、ロヴィが心配するから戻るぞ」

「とっくに心配してるわよ」

 それはごもっとも。

「じゃあ、余計な心配を増やさないように戻るぞ」

「はいはい」

 何だよ、その態度?!

 サチコが指摘するから修正したんだが。

 サチコと二人、カビ臭い室内から出ながら俺は深くため息をついた。

 ここにも、あと数回しか来ないだろう。

 でも、それは終わりじゃないんだ。これは、始まるための準備だ。

 

◇◇◇

 

 城に戻ってから俺は、俺が生まれ落ちたあの魔法陣へ通っていた。

 一年前に俺が不調を抱えていたときも、サチコがあの部屋に放り込んで回復させたらしい。

 俺の命はこの魔力で補強されているようだ。

 だから、あの時サチコはメンテが必要だと言ったのだろう。俺はなにも知らなかったな。

 でも、お陰で俺の体調は大分マシになってきた。視界もクリアだし、散歩くらいは余裕だ。

 ネックなのはロヴィに心配をかけてしまう事だが。と言ってもロヴィも東部の地震対策でまだてんやわんやらしい。

 王都と東部の対策司令部をいったり来たりと忙しい。

 お陰といってはあれだが、俺の事で頭を一杯にする余裕がない。俺としては凄く助かっている。

 このまま、死ぬ気はないからな、俺は。

「あ、兄さん!」

 廊下で書類を捲りながら歩いていたロヴィが、俺に気付いてぱっと表情を明るくする。

 俺は軽く手を挙げてそれに応えた。パタパタと駆け寄って、ロヴィは嬉しそうに声を弾ませた。

「今日は城で泊まりなんです。一緒に食事、出来ますね!」

「そうだな。大変そうだな、仕事」

 俺の言葉にロヴィは悲しげな表情で首を振った。

「本当に大変なのは、現地の人達です。……何だか城で食事をすると、とても申し訳ない思いに囚われます」

「ロヴィ……」

 ロヴィは本当に心優しい。きっと、良い王になるだろう。レイルが必死に守ってきたのがロヴィだ。

 俺のせいで潰れなくて、本当に良かったと思う。

 ぽん、とロヴィの頭に手を置いた。

 不安げに視線を寄越したロヴィに、俺は微笑む。

「早く、元の生活に戻してやれるといいな」

「兄さん……、はい!」

 ああ、やっと笑った。

 ロヴィの背負った荷物は重い。代わることは出来ないけど、支えることが俺の役目だ。

 俺の存在意義そのものだ。

「俺もおやつ我慢するからさ」

「大丈夫ですか? 発狂しません?」

 それはまた、酷い印象を持ってるんだなロヴィ……。

 黙った俺に、ロヴィはくすっと笑った。

 ……なるほど、王族的ジョークなのか。

 悔しいから、こめかみをグリグリとしてやった。楽しげな悲鳴を上げたロヴィに苦笑し、再び歩き出す。

 やっぱり、兄弟はいいよな。だから、俺は頑張ろうって、足掻こうって思えるんだ。

 

◇◇◇

 

 夕食は最近は大分軽い。

 というか、食材が入手しづらくなっているのが原因だ。

 それでもツキコが美味い料理へと昇華してくれるから有り難い。

 今日は珍しく、俺とラフェルとロヴィ、そしてサチコが揃っていた。

 相変わらずラフェルはお茶しか飲まないが。今日のメイン料理、魚のムニエルに俺が格闘していた時だった。

「そうだ、兄さん」

「ん? どした?」

 あ、骨見っけ。それとトマトの中身をぶちまけないようにそっと移動。

「エコデさんに、会いましたよ」

 ピタリと、俺とラフェルの動きが見事に止まる。

 正面に座るロヴィは優雅にキノコを口に運んでいた。

「元気そう……だったか?」

「ええ。手料理振る舞ってましたよ。配給の食事に手を加えた簡単なものですけど」

 流石エコデだな。

 でも、そっか。元気そうなら良かった……。

「兄さんが寂しくて泣いてると伝えておきました」

「ななな泣いてないんですけど?!」

 狼狽する俺に、ロヴィは楽しそうに笑った。

「冗談ですよ。元気ですと言っておきました」

「ちょ……ったく……」

 安心したわ。流石に泣いてないし。寂しいのは否定しないけど、な。

「兄さんには勿体ないくらいの良くできた人ですよね」

「ふぐっ?!」

 再度襲いかかったロヴィの発言に、喉を通過しかけた玉ねぎが逆流しかけた。

 げほごほむせる俺に、サチコがニヤニヤと笑い、ラフェルが何故か睨みを寄越し、そしてロヴィが青い顔をした。

「だ、大丈夫ですか兄さんっ!」

「えほっ、はー……何とか」

 ああ、語尾がかすれる。まだダメージから回復しきってはいないな。

 咳払いを続ける俺に、ロヴィは首を傾げた。

「どうかしたんですか?」

「ふふふ。リリバスは照れてるのよ」

「そうなんですか。でも、本当にそう思いますよ? 可愛らしい女性ですよね」

 ……え?

 にこにこ笑っているロヴィはどうやら勘違いを……いや、誰でもするか。エコデなら。

 うん、ここは笑ってやり過ご……

「エコちゃんは可愛い男の娘ですよ」

「ぎゃーーーっ?!」

「え?」

 思わず叫んだ俺と呆けるロヴィ。

 ラフェルは涼しい顔でお茶のカップを傾ける。

 何で言うんだ。わざわざ言う必要なんてどこにもないだろうに! 流石悪魔!

「兄さん?」

 呼び掛けたロヴィに視線を移し、俺は固まった。

 引きつった笑顔を俺に向けるロヴィ。

 あぁ、これには覚えがあるぞ。

「弁明させてくれロヴィ。あれは、エコデが可愛いのが悪い。アイドル風衣装や、深窓のお嬢様スタイルが似合うからいけないんだ」

 似合わない奴に着させるほど俺も駄目な人間じゃないからな。

 可愛いは正義だ。

「兄さん……」

「ん? いや、謝ることはな……」

「謝るのは兄さんでしょうがっ! 何を倒錯させておいて自慢げなんですか! 最低です、人類の底辺です!」

「私もそれについては同意だな」

 居たのかよドクター!

 しかも唐突に要らないところで同意しなくていいってのに。

 激昂するロヴィに俺は何度も頭を下げながら、その後ひたすら懺悔をさせられた。

 あの優しかったロヴィはどこに行っちゃったんだろうなぁ……。

「兄さん? 反省してます……?」

 大魔王を背後に背負ったような強烈なオーラで問い掛けたロヴィに、俺はぶんぶん頭を縦に振った。

 すっかり強くなったんだな、ロヴィ。

 兄として頼もしいと共に、ちょっと切ないかな。ロヴィだけは俺の事を否定しないと信じてたんだ。

「ぬしは自己の悪癖をたしなめられている自覚はないのか?」

 ……すみません調子に乗りました。

 やっぱりドクターは怖い。

 

第27話 巫女の夜会《サバト》

 

 今宵も見上げれば、白く輝く月が夜を照らしていた。静かな夜ね。

 かつんかつん……と私の靴音だけが城内によく響く。

 城へリリバスが戻ってきたのは、少し意外だったのよね。てっきり、あのまま腐って死んでいくのだと思ってたから。

 それくらいリリバスは心も体もボロボロだった。

 それもそうよね。自分で大切なものを切ったんだもの。それがなければ本当はまともに立てない事さえ気付かないくらい、当たり前に存在して寄り掛かってた存在だったから。

 でも、それでも断ち切った決断は褒めてあげるべき事。

 私には出来るのかしら。もっとも、そんな存在があればの話なんだけれど。

 ひゅおっ、と城の屋上を一陣の風が吹き抜ける。少し肌寒い風に、私の自慢の髪が翻る。

 月光に照らされて、より輝くオレンジ色の髪。軽く手で押さえて、私は口を開いた。

「こんな夜更けにどこへ行くのかしら? 悪魔イスラフェル」

 血のような真っ赤な髪を夜光に靡かせた背中へ私は声をかけた。

 ゆっくりと顔を振り向かせた悪魔の瞳は今日も妖しく金色に輝いている。

「また、貴方ですか。懲りない人ですね」

「それは仕方がない事よ? 私は巫女で貴方は悪魔。相容れない存在なのだから」

 悪霊を焚き付ける悪魔を滅するのは、巫女の仕事だ。裏を返せば悪魔の最も嫌い、消し去りたい存在が巫女。

 存在をかけたもの同士、和解は有り得ない。

 それがリリバスの元に居たのが腹立たしくてならない。悪魔のくせに実にこの悪魔は、『悪魔らしくない』のだから。

 イスラフェルは軽く肩を竦め、私へと向き直った。身を包む衣装は黒。その背には蝙蝠のような濃紫色の一対の翼。

 普段隠している翼は大きく、威圧感を与える。ま、大して感じはしないのだけれど。

「で、貴方は一体どんな脅威になろうとしているのかしら?」

 私は余裕の笑みを浮かべて悪魔へ問い掛ける。

 肩まで剥き出しの悪魔の腕。その右腕には、赤黒い蛇が巻き付いたような紋様が蠢いていた。

 私特注の呪いの紋様。リリバスの生活を脅かす時に発動する悪魔さえ呪い殺す魔法。

 やっと、本性を表したわけね。

 その呪いが全身に拡がった時、悪魔は絶望と恐怖に悶絶しながら消える。

 ふふふ……何て素敵な呪いかしら。一度使ってみたかったのよね。

「全く本当に。どちらが悪魔か、疑いたくなりますね」

 呆れたように吐き捨てる悪魔。

 何とでも言うが良いわ。少なくとも、イスラフェルは何かしらリリバスへ害を及ぼそうとしている。

 それだけは確実なのだから。

「私は、確かに意思に背くのかもしれない。だけど、それが不幸を招くとは思ってはいませんが?」

 存在を苛まれながら、しかしそれでも悪魔は笑みを浮かべる。

 私の呪いを馬鹿にするように。腹立たしい悪魔だ。

「それは悪魔ごときが決めることではないわ。リリバスが決めることよ」

「リリバスは、私の選択を認めはしないだろう」

 不意に、悪魔の口調が変わる。

 私には自然に聞こえるけども、恐らく今は悪魔語で語っているんだろう。

 自動翻訳はこういうとき少し戸惑う。悪魔は口元に笑みを乗せたまま、しかしどこか寂しそうな表情を見せる。

「私は、エコデを連れ戻しにいく。それが、私の結論だからな」

 びしっ、とひび割れるような音と共に、悪魔の右腕にあった紋様は顔や足にも表れ、最早右半身を覆った。

 半身の自由を奪われたも同然で、その紋様の内側は苦痛が駆けているはずだ。

 だが悪魔は、それでも実に堂々と、立っていた。

「貴方、連れ戻してリリバスが喜ぶとでも思っているの?」

 この悪魔だって見ている筈だ。

 リリバスが決断を下して今もどれだけ苦しんでいるのかを。

 それだけじゃない。エコデがこの選択をするのに、どれだけ辛かったのか。傍にいた悪魔が分からない筈がない。

 私は毅然とした態度で、月明かりに怪しく佇む悪魔を睨む。

「リリバスは、エコデの幸せを願った。それを否定出来る要素はどこにもない」

「それは、独り善がりな言い分で、身勝手な思い込みだ」

「な……」

「人間は愚かだ。いつまでも希望的観測で動こうとする。現実が見えていない」

 つらつらと言葉を紡ぐ悪魔。

 悪魔の言葉は思考を食い荒らす。だから、耳を貸してはいけない。

 でも、今の私はそれが出来なかった。悪魔の言葉が、私の心の奥底にあった疑問に触れてしまったからだ。

「リリバスは、死ぬ気はさらさらない。だから、いずれはエコデに会いに行くのだろう。だが、その時はいつだ?」

 それは誰にも答えられない。

 準備はしてるけれど……成功するかは未確定。失敗する可能性だって大いにある。

 流石悪魔……痛いところを突くわね。

「私は、エコデを苦しませるくらいならリリバスの決断など軽く謀叛にしよう。今ならまだ、繋ぎ止めれる筈なのだから」

「どうやって?」

 ふ、と悪魔は実に悪魔らしい邪悪な笑みを見せた。

「必ず迎えに来るから待っていろ、と伝えれば良いだけだ。実に簡単だろう」

 それは、リリバスが決して言えなかった言葉。

 可能性がゼロに近いから、下手な希望を与えたくなかったリリバスの優しさ。

 この悪魔はその痛みを孕んだ決断を無為にしようとしている。

 だからこそ、呪いが発動したのね。

 ……何て悪魔かしら。

「手のかかる医者ね……本当に」

「全くだな」

 悪魔にまで恋路を心配されるなんてね。

 でも、私はまだ、揺るがない。

「もしも、リリバスの命が潰えてしまったら、貴方はどうするつもりなのかしら?」

「それこそ簡単だ。私を誰だと思っている?」

 あぁ、なるほどね。

 思わず私は苦笑してしまった。

「悪魔の好物だものね。濁りきった魂は」

「ああ、きっと至高の味がするだろう」

 魂を食らうのが、悪魔本来の姿。なにも不思議なことはないのよね。

 むしろ今までが不自然だったのだから。

――パチン。

 小気味良い音が宵の空気を震わせた。悪魔は微かに驚いたような顔を作る。

「言っておくけど、私は貴方を許した訳じゃないわ。貴方は悪魔で私は巫女。その構図は崩れない」

 それでも、私はこの悪魔に賭けたくなった。

 だからこそ、私は呪いを解除した。

「ふむ。異論はない。だが」

 ばさりと、悪魔の翼が大きく広がる。怪しい金色の瞳を歪ませ、悪魔は言った。

「同意をしてくれたこと、感謝しよう」

 そして悪魔は夜の空へ舞い上がる。瞬く間に夜の色へ溶けていった悪魔。

 ふっと、私は口元に笑みを浮かべる。

「感謝する悪魔なんて、初めて見たわ」

 ざぁっと風が吹き抜け、私は目を閉じた。

 ゆっくりと瞳を開けながら、私は空を仰ぐ。

 星が瞬く空は吸い込まれそうな闇を広げていた。

「頼んだわよ。悪魔イスラフェル」

 そしてどうか、リリバスの願いが届きますように。

 一筋の光が夜空を切り裂いた。

 あの流れ星は願いを聞き届けてくれたかしら。なんて、私も随分乙女な思考をしてるわね。

 誰かさんが女々しいからかしら。

 

 

 

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