後篇 月齢
「ただいまー、エコデ」
「あ……おかえりなさい、先生!」
ぱっと駆け寄ってくるエコデの頭を、俺はわさわさと撫でる。
エコデは嬉しそうに目を細めた。ホントに撫でられるの好きだよなー。
「あ、美味そうな匂いがする」
「今日は失敗してないです!」
嬉しそうに返答した様子に、俺は思わず苦笑する。
このアパートに暮らし始めて、約一か月が経過した。
一週間単位で給料をもらいながら、何とか生活をしている。基本的には日勤で、たまに夜勤。夜勤の方が何かと給料が良いからだ。正直、ギリギリ生活できるレベル。
でもまぁ、最初から順風満帆でも困るわな。節約にはエコデも大いに貢献していると、思う。
貧相な食生活でも、何とか頑張ってくれてるから。
たまに失敗して酷いものが出てきた時には、流石に俺も能力使うけど。食えるレベルには。
まだ、アパートを出ていける状態じゃないのがネックだ。ちらりと窓の方を見やる。
俺の張った結界のおかげか、あれ以来あの男はいない。
だが、消えたわけじゃないのは分かっていた。
だから、早く去りたいという気持ちに変わりはなかった。それが出来るかどうかは、別問題なだけで。
「先生?」
エコデの声に、はっと俺は我に返る。
心配そうに見上げるエコデに俺は無理に笑顔を作った。
「飯にするか、エコデ」
「はい!」
「そうそう。今日はギフォーレ爺さんに勝利して、シフォンケーキ買ってきたぞ」
「わぁ、楽しみですっ」
たまには贅沢しながら、俺はこの街で生きていた。
◇◇◇
しかし、疲れる。炊事洗濯掃除と、全てエコデが担ってくれているからいいものの、それがなかったら今頃俺の部屋は今頃ゴミ屋敷だったろう。食生活も偏って、生活リズムもぐちゃぐちゃになって。
エコデがいるから、しっかりしなきゃという頭があるからこそ、俺はまだやれているような気がした。
何でも能力を使えば、もっと楽なのは分かる。
でも、俺は駄目な人間にはなりたくなかった。ある意味、俺が人間であり続けるために、それが必要だった。
「先生、相談があるんですけど」
「ん? どうした?」
就寝直前、エコデは改まった様子で俺に声をかけてきた。
やっとの思いで寝具一式は手に入れたものの、スペース的にも資金的にも限界で、相変わらず一緒に寝ていた。
考えてみれば異様だけど、まぁ仕方ない。エコデが気にしてないなら、俺は問題なかった。
……これも、あるいはロヴィのおかげか。恐ろしい。
「僕、働こうと思うんです」
「は?!」
「だ、駄目ですか?」
いや、駄目っていうか……。何か、俺の無力さを衝かれたような感じ。
「日中、一人でいるの……何だか、怖いんです」
「エコデ……」
そうかもしれない。俺は、別にエコデを閉じ込めたいわけじゃないんだ。
俺が、縛り付けてていい存在でもない。独り立ちの準備でもあるはずで。だから俺は、頷いた。
「……そだな。でも、変な仕事を見つけるなよ?」
「先生も……一緒に、探してくれませんか?」
俺かぁ。何かまともな職を選べるかと言えば怪しい。
まぁ、やばそうな所を避ける、だけでも幾分ましか。
「じゃあ、明日行くか。俺休みだし」
「はいっ!」
嬉しそうにされると、何か寂しく感じるのは……俺がエコデの存在に頼ってるから、か?
うーん、よく分からん。
◇◇◇
翌朝、太陽が昇り切った頃、俺はエコデと共に街へ繰り出していた。
大通りには人がごった返していて、賑わいをみせている。
王都に比べたら大したことはないが、この街の規模で考えれば十分だ。
経済基盤がしっかりしているだけのことはある。
「エコデ、大丈夫か?顔色が真っ青だぞ」
こくんと頷くエコデだが、顔色が悪い。
先ほどまではしっかりと歩いていたが、今では俺の服を掴んでないと危なそうなくらいだ。
「さては人波に酔ったな?」
「う……」
困ったように視線を向けるエコデの頭を俺はくしゃっと撫でる。
「無理しなくていいって。少し休むか」
ちょうど、公園の近くに来たことだしな。巨大な噴水がある公園へと足を向け、俺たちは人の流れから抜け出た。
後ろをついてあるくエコデは、俺の黒いパーカーを気に入っているのか、しょっちゅう着ている。
洗った翌日、早く乾かないかと言う目でじっとパーカーを見つめているのが、何か恥ずかしい。
いや、俺の事を見てるわけじゃないんだけど、何となく。
適当な位置にベンチを見つけ、俺はすかさず腰を下ろした。
エコデはちょこんと隣に腰掛け、正面で水を天へ放出する噴水をぼんやりと見ていた。
よっぽど疲れたんだな。少し休んでいくか。ここ、緑と水に囲まれて気持ちいいし。
こういうゆったりした空間も、必要だよな。
「……先生、ごめんなさい」
「ん? どした、エコデ」
視線を横にずらすと、エコデは顔を俯かせていた。長い髪が、表情のほとんどを隠している。
「僕、先生の手伝いをしたいって思って……仕事しようかなって、思ったんです」
「うん」
それは、何となくそうかなって思ってた。だけど、何でそんな話になったんだ?
「……なのに、僕……人が沢山いるのは、怖いなって、思いました」
ああ、なるほど。合点した俺は苦笑して、エコデの頭に手を置いた。
微かに顔を上げて、エコデが俺を見やる。
「いーんだよ。子供は、大人を頼っていい権利があるんだ。これでも俺、一応大人だからな」
「先生……」
「少し休んだら、帰るか。でも……たまには外に出ような。俺も一緒に行くからさ」
ずっと屋内なんて、気が滅入るだけだ。
ましてや、あの部屋には……
「っ?!」
ぞっと唐突に悪寒が走る。
思わず周囲に素早く視線を走らせると、そいつはいた。
木々の間に、風もなく左右にゆっくりと揺れる、姿。まるで振り子のように周期的な動きの、男。
あの部屋にいる、もう一人の住人。
それが何で、ここにいるんだよ?! 部屋に住み着く悪霊の類じゃないのか?
もしかして、そんなレベルの奴じゃないのか。
「先生?」
くいっと服を引かれ、俺はエコデに視線を戻す。
どこか心配そうな顔をしているエコデと目が合った。
「汗、出て……ますよ?」
「あ……あぁ。何でもない。大丈夫だよ」
「でも、先生怖い顔してましたよ?」
「見間違えただけ。さ、歩けるようなら帰るか、エコデ」
「あ、はい」
頷いて立ち上がったエコデに続き、俺もベンチから腰を浮かす。
もう一度視線をさりげなく向けたときには、すでに男は影も形も、なくなっていた。
……何なんだ、あいつは。くそ、嫌な予感がする。
◇◇◇
数日後、俺は病院のお使いで普段は行かない通称≪下層地区≫へ足を踏み入れていた。
その名が示す通り、大通りはあるものの、街の下層に属する住人がほとんどの地区。
でも、治安が他と比べて格段に悪いという事もないらしい。その理由の一つが、お使い先だった。
『イフル診療所』
外装は薄汚れてはいるが、人の気配がする場所だった。あと、普通と違うのは。
『懲りずにまたこんな! おぬしは馬鹿か、阿呆か、それとも虫か!』
『ぎゃあぁぁ!』
何で、診療所から悲鳴が聞こえるんだろうなぁ。俺が躊躇していると、不意に扉が開け放たれた。
「おら、帰った帰った! 二度と戻ってくんな!」
声と共に蹴り出されたスキンヘッドの巨体。俺は咄嗟に左に避けて、タックルをかわした。
「……なんだ、おぬしも患者か?」
スキンヘッドの頭の輝き具合に目を奪われていた俺は、その声に我に返る。
目を向ければ、白衣を着た眼鏡の少女が腕を組んで俺を半眼で睨んでいた。
なんだこのちんちくりんの、アンバランスなのは。
「おぬし、人を馬鹿にしてるな?」
「いやまさか」
肌を刺すような威圧感に、俺は慌てて首を振る。
「えっと、ドクターイフル……でいいのか?」
「そうだが。……あぁ、もしや定期納品か?」
合点した様子の、ドクター。
俺が預かってきたのはクーラーボックスに入ったシリンジ一本。
中身については、俺も詳しくは聞いてない。
「いつも悪いな。助かるよ」
シリンジだけをクーラーボックスから抜き取ると、ドクターは二の腕まで白衣をめくりあげて、器用に筋注。
凄いな。俺は人のをやるのにすら、まだ緊張するのに。
「おぬし、初めて見る顔だな。新米か?」
「まぁ、一応」
「ふーむ」
つかつかと歩み寄って、ドクターは俺をじとっと品定めするように眺める。
何か、すっげー居心地悪いんだが。それとなく視線をそらすと、ドクターは。
「ま、何かあったら遠慮せず訪ねて来い。これでもわしは、おぬしより長く生きているからな」
「あ……それは、ども……」
よくわからない。
俺が戸惑いを覚えていると、ドクターは昏倒しているスキンヘッドを蹴って起こす。
続いて母親のごとくがみがみと「二度と喧嘩で怪我すんじゃないボケが!」とか言いながら彼を見送った。
おいおい、患者に対する態度かよ。何か清々しいけど。
ふうっと腰に手を当て、ドクターは息を吐くと俺に目を向けて……くすりと、邪悪に笑った。
◇◇◇
変なドクターだったな。あのドクターがあんな場所で、診療所を開く理由は俺には分からない。
確かに、医者が見てくれる環境があれば、ある程度の治安維持に一助となるかもしれないけど。
……あのドクターだから、平和なのかもな。
苦笑して、鍵を開ける。今日の飯は何かな。最近はエコデの手料理が楽しみだし。
「ただいま、エコ……デ?」
ひゅおっと、風が流れる。
それに導かれてぱらぱらと、舞う糸。
糸じゃ、ない。青い、空を映したような艶のある髪。
窓際で、倒れているのは、
「エコデっ?!」
慌てて部屋へ駆け込む。
倒れて動かないエコデの周辺にはガラスが散乱していた。
見れば、窓ガラスが全て割れている。床のガラス片を怪我も構わず除けてエコデを抱き起す。
あちこちガラスがかすったらしく、赤い線が走り、お気に入りだった黒のパーカーは深く切り裂かれて、二の腕は今も血が伝っていた。
抱き起した勢いで、ぱらっと髪とガラス片が零れ落ちる。
「大丈夫か、エコデ! 返事しろっ!」
呼びかけに、エコデの長い睫毛がぴくりと震える。
ゆっくりと瞼を震わせながら、エコデが目を開いた。
「……せん……せ、い……?」
「何があった? どうしたんだ?」
「わか、らない……です。急に、窓が割れて……」
ベランダまで貫通して、残ったのは窓枠だけ。
そのベランダで。
きしっ、きしっ。
周期的な音を奏でる、そいつがいる。目を向けたくもなかった。
こいつだ。
「ごめん、ごめんエコデっ……」
「どうして、先生が謝るんですか……?」
だって俺はこいつが最初から危険だって分かってたのに。
それでもここに住み続けてしまった。色んな理由を後付けにして、結局エコデを傷つけてしまった。
「……ここに居ちゃ、駄目だ」
「先生……?」
でも、あいつは追ってくるかもしれない。逃げきれる相手じゃないのかもしれない。
それでも、俺はエコデだけは守らなきゃいけないと、心に誓っていたから。
エコデを背負うと俺は、振り返ることなく部屋を飛び出した。
◇◇◇
通勤先の病院で看てもらうべきだと、頭では分かっていた。
でも、何故か俺の脚が向かっているのは、ドクターイフルの診療所。
アパートの部屋から、能力フルスロットルで約2分。大して息も切らさず、でも焦りだけを募らせながら、俺は診療所の前に立つ。一歩踏み出した時、内側から扉が開け放たれた。
「ふむ。正しい選択だな」
赤い夕日に照らされたドクターがそう俺に笑った。
その笑顔が、俺のぶつけようのない感情を、見る間に溶かす。
「ドクター……頼む。エコデの治療、してやってくれ」
「何故? おぬしも医者のはしくれならば、患者にきちんと向き合え。ボケが」
辛辣。正しいがゆえに、俺は返す言葉が浮かばない。
ドクターはため息をつくと、くるりと背を向けた。
「入れ。場所と器材は貸してやる」
◇◇◇
怪我自体は大したものではない。
酷いのが二の腕と脛の裂傷。それでも、危険な血管を傷つけた様子もない。
随分と衰弱しているのを、除けば。
処置台の脇で立ち尽くす俺を、ドクターは正面で椅子に座って背もたれに頬杖をつく体制で眺めている。
「早く処置しろ。菌が入って後が面倒になるぞ」
「わかって、るけど」
体がうまく、動いてくれない。
後ろめたさが、俺の行動を全て阻害する。
「おぬしは、何のために医者になろうと思った?」
「え……?」
頬杖をついたまま、面白くなさそうに俺を眺める、眼鏡少女。ドクター・イフル。
何のため、だっけ……?
「病気で死んで、転生までして、能力も付加して。それで何故医者になった?」
言葉が、出てこない。何で、それを……。
ふうっと息を吐いて、ドクターが立ち上がる。
雑にまとめたポニーテールを揺らして、ドクターは俺に歩み寄った。
「わしも、希望して転生した身だ。その時に、わしは『千里眼』を希望した。先を見通し危機を回避するために。それと、皺くちゃに老いていくのが嫌で、不老を付加して。その結果が、これだ」
軽く腕を広げて自嘲するドクター。
小さな体の外見は、老いていない。けど、結局人間と言う枠からはみ出せない。
「わしは、後38時間で死ぬ。期限の、78年の年月を消費してな。だから、わしは最後に同じような存在の道を示すことを目標にした」
「み、ち……?」
「おぬしは、何も希望せず適当に条件付けて来た。だけど、お上がそれなりの能力は与えてくれたわけだ。……その使い道を、決めろ」
「使い道ったって……俺は、何かしたいわけじゃない!」
平凡に生きて、平凡に人生を終えられたらいい。
それだけが望み。だけど、そうは行かない状況に『生れ落ち』て、今も逃げてる。
「なら、何故城で適当に弟に押し付けて、生きていく道を選ばなかった? 他にもあるだろうに、何故医者を選択した?」
何でって、それは……
「病気や怪我が苦しいって、俺は良く知ってるから……だから」
「だから、その苦痛から解放するためになった、だろ?」
頷く。
だけど、そう思っていたはずなのに、今目の前で痛みを抱えているエコデは、自分が生み出したのだ。
最悪、だ。
「なら、その道を貫け。その手で、救うべきものを見定めろ」
ドクターは俺の手に、診療用手袋を握らせる。
達観したドクターの言葉を、俺はまだ受け止めきれていない。
だけど……覚悟だけは、決まった。
◇◇◇
そして俺は、また部屋へ戻ってきている。エコデの治療を終えて、目が覚めるまでドクターに付き添いを頼んで。
月が見えない、新月の晴天。暗い闇が、窓ガラスのない部屋にしん、と潜んでいる。
周囲の灯りだけの、僅かな光源で揺れる、シルエット。
ぎゅっと拳を握りしめて、俺は踏み出した。
見る間に近づく距離感。ベランダに存在する、彼。
びょうっと強い風が俺の進行を阻もうとする。
でも、俺は歩みを止めない。粉砕されたガラス片を靴底で踏みしめ、俺は彼の前に立った。
「俺、馬鹿で鈍感で、ごめん」
呟いて、ぴんっ、と指で空気を弾いた。
ごとりと落下した彼は、びっくりした様子で俺を見上げる。
俺は苦笑して、だらんと垂れ下がったロープを彼の首から外してやった。
首筋には、くっきりと跡が残ってる。何か、見てる方が苦しいな。
俺は、ぽん、と彼の肩に手を触れた。
「……あんたもう、ちゃんと死んでるよ。だからさ、苦しみ続けなくていいって」
仕事に疲れたサラリーマン風の彼は、軽く目を見張り、それから薄く笑みを浮かべて、
――ありがとう。
口の動きが、そう告げる。
そして、彼は煙のように消えて行った。
気付いてほしかったんだな、あんたは。だけど俺しか見えないし、結界なんて張ったもんだから。
あんたにとってはカーテンで仕切られて、無視されたような感じだったのかな。
ごめん、ほんとに俺は、まだまだガキだ。分からない事ばっかりだ。
救うべき能力を持っても、救うべき覚悟が足りてない。サチコと一緒に対処してた悪霊は分かりやすく攻撃的だったから。
でも、そればっかりじゃ、ないよな。
「さて……」
散らかった部屋を見回し、俺は苦笑する。
「たまにはズル技使うか」
それくらいしないと、俺は生活が持たないからな。
◇◇◇
俺がドクターの診療所に戻ってきたのは、深夜12時を回った頃だった。
「戻りましたぁー……」
「先生っ!」
「うぉあ!?」
勢いに負けて、俺は尻餅をついた。
蒼の髪がぱらぱらと、重力に負けていく。
「馬鹿、怪我してんだから大人しくして……」
「大丈夫ですっ! 先生が治療してくれたから、僕元気ですっ!」
エコデはそう笑顔を見せてくれた。
その言葉と笑顔に、俺は情けないけど、泣きたくなる。
ごめんな。ドクターが居なかったら、俺は今頃、エコデを助けられなかった。
病院に預けて、逃げてたかもしれない。
「ありがと……ありがとう、エコデ」
そんな俺を、それでも慕ってくれて、ありがとう。
ガラスで切れたせいか、折角の長かった空色の髪は、ばらばらに。
無残としか言いようがない。髪も揃えないとな。
「戻ったか」
「あ、ドクター……」
白衣のポケットに手を突っ込み、興味なさそうな視線を向けたまま、ドクターは告げる。
「そうしたら、話がある。こっちへこい」
相変わらずの傍若無人ぶりで、ドクターは俺を促した。
◇◇◇
連れてこられたのは、診察室。
エコデを一人にもできないので、同席させていた。
「ほれ、これにサインしろ」
そう言ってドクターが机の上に置いたのは、
『土地権利者証明書』
それにサインをしろと?
それはつまり……
「言ったろ。わしの時間の話。今のおぬしなら、わしの意思を預けられる」
ドクターには時間がない。
最後まで、ここで過ごそうとは考えていないようだった。
それは、何となく理解できる。ドクターは慕われている。その死は、この周辺の人々を悲しませるだろうから。
あと、多分、恥ずかしいんだろうな。
「……さっさと書け、愚図」
ぶっきらぼうな物言い。当たってるんだな。
だけど。
いいんだろうか。俺みたいなひよっこが、ドクターみたいにこの周辺の人たちを、助けられるか?
「おぬしには」
不意に、ドクターが口を開く。
俺が顔を向けると、ドクターは眼鏡の奥の瞳を優しく緩ませた。
「……やりたいことが、あるだろ?」
やりたい事。平穏無事に、生活していくこと。背負った重圧を感じずに、生きていくこと。
それが、ここでなら……出来るのか? いや、違うか。
ここで、生きたいのか、だけか。ドクターが聞きたいのは。
ちらりと、隣に座っているエコデを見やる。
包帯に絆創膏と、痛々しいばかりのエコデ。エコデは、そんな俺についてくるというだろう。
俺は最低限、エコデの生活を守ってやる義務がある。ここが安全とは、言えないかもしれない。
もっと生活はきつくなるかもしれない。
ふと、俺の視線に気づいたのかエコデが目を向けて、くすっと笑った。
「……ご飯は、任せてください。先生」
「……うん」
それが一番、助かるわ。
俺はペンを借りて、そこに名前を記す。
この世界で新しく与えられた、俺の名前を。
レイル・リリバス・ラプェレ。やり直しの、『再誕』の名を。
ドクターは満足げにそれを見届けると、診察室のベッドを使えと命じて、そのまま自室へと消えた。
……そして、予想通り、ドクターは翌朝にはその存在の痕跡すら残さず、姿を消した。
◇◇◇
それから。
「へたくそだな。イフルとは大違いだ」
がははは、と笑う眼帯のおっさん。そこを比べられると痛い。
だけど。
「大丈夫ですよ! 先生はちゃんと看てくれますからっ」
俺の隣で援護するエコデに、眼帯のおっさんの鼻の下が二センチくらい伸びた気がする。
ぱっくりいってた左腕の裂傷を縫合し終えた俺は、続いてもう一本用意する。
「おいおい、先生。もう怪我はないぞ」
「いや、今鼻の下が伸びてたから、きっと病気だ」
「おおお、そんなことねーから?! 問題ないっ!いや流石先生様!」
針をちらつかせる俺にへりくだるおっさん。
エコデの力は偉大だな。
じゃあお会計お願いしまーす、とエコデに連れられて行くおっさんを見送り、俺は息を吐いた。
保険診療外の医療行為。だからこそ、奴らは奴らの価値観で金額が変動する。
一応エコデにはおおよその金額は提示するよう示してるけど。大体、ちょっと多めにおいてく患者が多い。
エコデ個人に出資してるらしいが、財布は一緒なので問題なしだ!
「だけどまぁ、ドクターの偉大さがあるからこそ、まだ来てくれるんだよなぁ……」
精進しないと、患者が来なくなる。
……いずれ、俺がいるから来てくれるような患者ができたらいいな。
何か、俺にもささやかな目標が出来そうだ。
とりあえず。
「せんせーい。ガースさんで午前中おしまいです。お昼にしましょうー」
肩より短くなった空色の髪を揺らして、エコデが笑った。
「おー、すぐいくー」
カルテに記載を終えた俺は、席を立つ。
新しい、小さいながらも背負うものが大きい我が城。せめてこの城くらいは、守れるような存在になろう。
平穏な日々を、守るために。