第一話 精鋭の舞う蒼
けたたましい音が、格納庫の拡声器から鳴り響く。
エプロンに駐機していたヘリの中。
その操縦席で転寝をしていた一翔は、即座に飛び起きて、膝に載せていたヘルメットを被った。
頭で考える必要もなく、ほぼ反射だ。
焦らず、一翔は手順に従い、ヘリの発進準備を整える。
輸送ヘリの後方ハッチは開け放たれており、乗員を待ち構えている。
『目的地は横浜港だとさ。航路データは転送されてるか?』
ヘルメットに内蔵されているマイクから、慣れた声が聞こえた。
太く、語尾の掠れた光谷(みつや)の声に、一翔はマイクの位置を調整しつつ、右手を伸ばしてナビ状況を確認する。
更新ボタンを押して、しばし。
直線で示された航路が表示された。
「よーし、すぐ出られるな」
一翔が顔を上げると、副操縦席にどっかりと収まる光谷がいた。
ベルトを装着し、ばしっと一度太腿を叩いて一翔に視線を寄越す。
「どれ、海(うみ)ちゃんはまだか?」
「怒られますよ、光谷1曹」
ため息交じりに返した一翔に、白い歯を見せた光谷。
どうやら、呼び名を変える気はないらしい。
操作系は異常なし。低速でローターも回転し始めている。
あとは人員が揃えば、管制官の指示で飛び立てる。にわかに、一翔の前身が緊張で強張り始める。
『早坂2尉。顔が強張ってるところを見ると、緊張してるのか? 緊張は事故の元だ。光谷1曹と操縦を交代したほうがいい』
凛とした、涼やかな声が、ヘルメットのマイクに滑り込む。
ひゅう、っと光谷が楽しげな口笛を吹いた。
一翔は眉間に更に深い皺を刻み、前を向いたままぼそりと返答した。
「適度な緊張感は必要です。搭乗完了ですか、牧田先生」
「ああ。先生、とは呼ぶなと言ったはずだが」
「それは失礼。ハッチ閉めます、牧田1尉」
ちらりと振り返ると、都市型迷彩の上下に左腕に赤十字腕章をした女性医官。
マイク内臓式イヤーマフを装備した、牧田海1等空尉。
切れ長の視線で、口を引き結び、僅かながら不服さを訴えていた。
海以外にいつものメンバーは、それぞれ座席に座ってシートベルトを装着していた。
一翔は顎で着席するよう海を促し、海は嘆息を一つ。
「安全運転で頼むぞ、早坂2尉」
無言で頷き、一翔は管制塔との交信を開始する。
その傍ら、くつくつと腹を抱えて笑いを堪える光谷を横目で睨みつつ。
そして、無線機から、渋く深みのある声で命令が発された。
『機動救護隊、現場へ急行せよ』
「了解」
答えたのは一翔ではなく、先任者の海。
だが、階級や年齢、そんな事は今この現場に関係はない。
一翔も含めた全員が、チームであり、ひとつの存在だ。
それぞれの役割を果たし、生還する事。
それが、軍人たる自分たちに与えられた、たった一つの、命令なのだから。
◇◇◇
目的地の横浜港までは、入間からならば、二十分もあれば着く。
その間、一翔は管制情報を聞きながら無心で操縦桿を握り、神経を尖らせる。
副操縦士の光谷は後部に待機するメンバーと共に、細部情報等をマイクから拾う。
「現場周辺に着陸できそうな場所はなさそうだ。まだ鎮火してねぇらしい」
マイクを一翔のみに聞こえるようにしつつ、光谷が一翔へ告げた。
高層ビル群に、高度を再確認しつつ、一翔は来たる展開を予想する。
「ホイスト使いますかね」
「それしかねぇだろうが……まぁ、海ちゃんだからな。あるなら落下傘使ってでも降りるな」
「レンジャーと勘違いしてんじゃないですかね、牧田先生は」
海は落下傘部隊出でもない、ただの医官だ。
根性が座っているのは認めるが、無謀とも言える。
ため息を吐きたくなった一翔に、光谷はぶはっ、と噴き出した。
「……何ですか、その反応」
「いや、海ちゃんにそれ言ったら、『ならば取ってくればいいのだろう』とか言い出すだろうなと思ってな」
それは十分ありうる話だ。
海らしいといえばそうなのだが、一翔としては、面白くない。
口を真一文字にして黙り込んだ一翔へ、光谷は豪快に笑った。
「まぁ、何でもいいさ。鎮火は間に合うだろーよ。あとは、降りれるかだ。俺たちは安全確実に海ちゃんたちを送り届け、回収すればいい」
「分かってますよ」
「ま、その前に地上部隊が現場に到着して、負傷者を回収できれば一番だがな」
無言を同意として、一翔は薄くたなびく白煙を目印に、進路を修正した。
◇◇◇
ローターのかき鳴らす轟音が収まると、一翔はやっと息を吐いた。
バイザーを上げ、続いて待機モードへ機体を変更。
完全に緊張感から解放されるのは、これが終わってからだ。
「お疲れさん、早坂!」
ばしっと光谷の大きな手が一翔の肩を叩く。
手加減がないので、重い衝撃が一翔の体を揺らした。
だが、そのお陰で張り詰めていた緊張感が、すっと体から抜けるのも事実だ。
「安全運転ご苦労だったな、早坂2尉」
背後からの声に、シートから体を傾けて振り返ると、海がすぐ傍に立っていた。
白衣の白が、この薄暗い機内ではやけに眩しく感じる。
海の表情はいつもと同じで、クールそのものだったが。
「いえ。残念でしたね、出番がなくて」
「残念?」
眉をひそめた海。一翔は苦笑しつつ、頷いた。
「だって、折角出たんですから、現場に降りたかったんでしょう。牧田1尉は」
結局、地上の救護部隊が無事に現場に到着し、負傷者を全員回収できたことで、機動救護隊のヘリは帰還を命じられたのだ。
現場進出が好きな海としては、いくらか不服だろうと、一翔は思っていた。
だが、海は口元を不機嫌そうに引き結ぶ。
「心外だな。実に心外だ」
冷たく言い放って、海はくるりと背を向けた。
怒っている……らしい。目を瞬かせる一翔を残して、海はずんずんと離れていく。
そのまま振り返ることなく、開放された後部ハッチから海は出て行った。
意味が分からず呆気にとられていた一翔の頭を、再び光谷の手が叩いた。
唖然としたまま、一翔が光谷に視線を移す。
光谷はやれやれと首を振って、息を吐いた。
「お前はまだまだ、機救隊(ききゅうたい)の事が分かってねぇなぁ」
返す言葉が、一翔には浮かばなかった。
◇◇◇
機動救護隊……通称機救隊。
編成されてまだ僅か一年足らずの新設部隊だ。
一翔が配属されたのは、丁度一月前。ヘリコースを修了しての、初度配置。
何も知らないといえば、そうで。
だがパイロットとしての任務は、きちんとこなしていると一翔は自負していた。
部隊の役割を正確には、理解していないかもしれないが。
「お疲れです、早坂2尉」
飛行記録を解析していた一翔のデスクの上に、コーヒー入りのカップが置かれる。
顔を上げれば腕まくりをした白い腕が盆を抱いていた。
「ああ、サンキューな、秋田」
「ぶー! りりあでいーですよー!」
「良くないし」
えーっ、と非難の声を上げるりりあ。身長制限ギリギリの小柄なりりあは、童顔なのも相まって、子供が拗ねているように見える。
そのせいか、年上の仲間からは自分の娘みたいだと可愛がられているが、本人は不服らしい。
暇があると年の近い一翔の傍に来て愚痴をこぼすのだ。
不貞腐れているりりあは無視して、一翔はカップに口をつけた。
「もー、早坂2尉だけですよー。りりあって呼んでくれないのー。牧田先生だって、りりあんって呼んでくれるのにー」
「ぶはっ?!」
噴いた。そしてむせこむ。
咄嗟に盆を盾代わりにした流石の反射神経のりりあがジト目で一翔を睨む。
「……うわー、ひどーい。セクハラで訴えますよー」
「なんっ……でだ!」
声がかすれる一翔に、りりあはにやりと口角を釣り上げた。
咳き込む一翔を楽しげに観察しつつ、りりあは言う。
「牧田先生いつも言ってますよ。早坂2尉には、柔軟性が足りん、って」
まったく似ても似つかない物まねを挟んだりりあに、ようやく持ち直した一翔は一つ深呼吸。
「……そうかよ。……ていうか、牧田先生、本気でりりあんって呼ぶのか?」
口にするだけで背中が痒くなるような呼び方を、あのクールな海から紡がれるとは想像もできない。
嘘であることを期待したくなるのは、海を知っている人間なら、誰でも思うだろう。
「楽しそうだな」
「あ、牧田先生」
りりあがぱっと振り返る。
ファイルを片手に入ってきた海は、幾分柔らかい気配を滲ませていた。
ミッション中には気を張って、常に厳しい顔つきをしているが、流石に今はオフモードだ。
しかし、格納庫に隣接する待機室に海が出向くのは珍しい。
「先生先生! 早坂2尉ってば、信じてくれないんですよ。先生が私の事、りりあんって呼ぶの」
「だっ、だってお前、いつも秋田士長って呼ばれてるだろ!」
唐突な発言に慌てて一翔が口を挟むと、りりあは不服そうに口を尖らせた。
海はああ、と小さく零して、頷く。
「プライベートではな。職場では流石に呼ばないが」
「ま……マジかよ」
一翔の中で、牧田海という存在が崩壊しようとしていた。
そんな一翔の様子に、海は首を傾げる。
「問題があるのか?」
「いえ、ないです」
「ならいい。秋田士長、早坂2尉と少し話があるんだが、いいか?」
「あ、じゃあ牧田先生の分のコーヒー淹れてきますね」
ぱっと身を翻して、機敏に役割を果たすりりあ。
海は黙って一翔へ歩み寄る。
一翔は立ち上がって応対しようとしたが、海が先手を取って手で制した。
「仕事の話は、すぐ終わる。まずは先ほどのミッション、ご苦労だった。経過の第一報が届いたので目を通しておいてほしい」
「分かりました」
差し出されたクリアファイルを受け取って、一翔は頷いた。
仕事の話は、と海は言った。
という事は、別の話があるということだ。
内容に予想もつかない一翔の体に、緊張が張り詰める。
「……身構えられると、話がしづらいな」
「すみません……」
「いや、私が悪い。光谷1曹は不在か?」
一翔の隣のデスクを示して、海は問いかける。
「格納庫で筋トレ中です。よければ、どうぞ」
「すまない」
言葉とは裏腹に、一切の躊躇なく光谷の椅子へ腰を下ろす。
いつも隣にいるのは熊のような存在だけに、海がそこに収まると実際よりも更に小柄に見えた。
りりあが座れば、子どもが迷い込んだと勘違いしそうだ。
光谷のデスクの上に散乱した資料を手に取り、海は徐に口を開く。
「早坂2尉は、衛生という職域は、何だと思う」
「衛生……ですか? どういう意味で?」
「運用か後方か」
海の二択に、一翔は腕を組んで天井を仰いだ。
通常空軍の運用系と言えば、パイロットや高射部隊が代表的だろう。
後方は補給や給養。要は、部隊を支える存在が後方だ。
……衛生職域は、どちらかと言えば、後方に近い気がする。
「後方、でしょうか」
「なるほど」
ぱさりと資料を戻して、海は返す。
凛とした横顔が何を考えているのか、一翔には読めない。
「私は両面を持つ、柔軟な存在だと思う」
「両面、ですか?」
「私たち衛生職域が現場に出なければ、負傷者は死へと突き進むだけだ。運用色が強く出る。後方は、基本的には前線へは出ないものだろう?」
「はぁ」
「だが、基地の医務室機能は後方の最たるものだ」
海の言いたいことは、おぼろげながら、一翔にも理解できる。
ただ、その話を持ち出した意図が、よくわからない。
ふと、海は一翔に視線を向けた。真っ直ぐな黒曜の瞳が一翔を捉える。
「私は、早坂2尉には、この部隊の価値を正しく理解し、そして……自分の任務を誇りに感じて欲しい」
「……なんですか、それ。俺が……嫌々やってる、って思ってます?」
海はじっと一翔の瞳を見据える。
一翔は心臓が激しく脈打つのを感じていた。
その、意味も。
「……私はエスパーじゃない。早坂2尉の心のうちは、読めない。ただの戯言だ。聞き流せ」
すっと視線を外して、海は立ち上がった。
りりあが丁度コーヒーを入れて、戻ってきたのと鉢合わせる海。
その場でコーヒーを一気飲みして、りりあに短く礼を述べると、海はそのまま出て行った。
一翔は、それを黙って見送る他できなかった。
落ち着きを見せない心拍数。
海の言葉が、じりじりと燻る痛みに火を灯す。
誇り。価値。
考えたくもない。
それが、逃げているだけだとは、理解しながらも。
◇◇◇
海が事務所に戻ると、医療器材の点検を終えた美雪と亀村が一息ついている所だった。
「あらぁ、お帰りなさい。牧田1尉」
「戻りました、花山3曹」
ふわふわとした笑顔を浮かべる美雪に、海はそれだけ返すと自分のデスクへと戻る。
事務所は救護班と器材班の二班に分かれている。
海を筆頭とした実働部隊が救護班。そして活動のための資器材調達や予算担当が器材班。
総勢僅か十名足らずの機動救護隊は、隊長の小森博臣(こもり ひろおみ)1等空佐を軸に活動している。
今の海の仕事は、先ほどのミッションの報告書作成だ。
すでに時刻は三時を過ぎている。定時報告の時間まで一時間もない。
おおよそは頭の中で完成しているが、きちんと形として現れるまでは気が抜けない。
気持ちを入れ替えて、海はキーボードを叩き始めた。
「はぁぁ……この所、一週間に一度はミッションで、物騒になったものですねぇ」
かえるのプリントされたマグカップを両手で持ちながら、美雪は零す。
海のデスクから一番近いのは美雪だ。左斜め前に座った美雪は、肘を突きながらほぅっと息を吐き出す。
「警備も追いつかないんだろう。未だに、一般人に紛れ込んで、突然牙を剥くようなテロ行為が多いからな」
短く刈りそろえた髪をゴシゴシと掻きながら、亀村は零す。
自席は海の右側、ぽつんと存在する先任デスクだが、今は美雪の正面に座っている。
本来の主の、桐嶋美祈(きりしま みのり)は来週の射撃訓練の合議周りに外へ出ていた。
「今後は、秋田や横白(よこしろ)にも、負荷が大きくなるだろう」
「……本当、怪我だけはしないで貰いたい、ですよねぇ」
そっと目を伏せた美雪の気持ちは、海にも痛いほど分かる。
気付けばキーボードを叩く手が、止まっていた。
「でも、今週末は宴会ですからねぇ。楽しみですよぉ」
不意に明るい口調で、美雪が言う。
海も顔を上げ、美雪を見やった。にこにこと楽しそうな横顔は、それだけで気持ちが和らぐ。
目じりが下がっているのがコンプレックスだそうだが、いつも笑顔を浮かべているようで、海には羨ましい。
どちらかと言えば、海は釣り目がちで、きつく見えるタイプ。
年齢も海が二十九で、美雪が三十とほとんど変わらないせいで、お互い気になってしまう。
全く、隣の芝生は青く見えるものだ……と、海は自嘲した。
「設立から一年か。……少しは、軌道に乗ってきたのだろうか」
「どうだかな。でも……転機は、転機だぞ」
亀村の発言に、海も美雪も首を傾げる。
よく日に焼けた顔に、不敵な笑みを浮かべて、亀村はとても五十近いとは思えない筋肉質な腕を組んだ。
「早坂だ。あいつはきっと、化けるぞ」
「……化けるって」
妖怪じゃあるまいし、と海は呆れてしまった。
そもそも、一翔は……正直、今の配置を喜んではいないのだろうから。
海の心に、微かに影が落ちる。
「出もいいし、偉くなるだろう。奴が見たものは、思ったことは、いずれ組織を変える」
「……そうだろうか」
「牧田1尉よりは、変化を起こせるさ。言っちゃ悪いが、所詮医官の先生にゃ、限界がある」
反論は、出来なかった。
海がどんなに頑張ろうとも、組織を大きくは変えられない。それは、どうしても越えられない壁がある。
そう考えれば、確かに一翔はきっかけとは、なれるかもしれない。
だが。
「……私は、早坂2尉を、好きになれそうにない」
「そういう所だな、牧田1尉」
苦笑交じりに返された海は。口を噤むしかなかった。
定時報告まで、残り三十分。……無駄話をしている余裕は、いよいよもってなくなった。
◇◇◇
「戻りました……」
「ああ、遅かったな」
定時報告へ無事間に合った海は、別件で報告書を作成していた。
肩を落として戻ってきた器材班長の檜徹(ひのき とおる)。
識別帽を脱ぐと、癖の強い色素の薄い髪が、徹の感情とリンクしてか、潰れていた。
徹はその後から入ってきた、細身の1曹に小突かれる。
「しっかり頼みますよ、器材班長。この計画通さないと、次の四半期、班長のポケットマネーから器材買う羽目になりますよ」
「勘弁してくださいよ?! そんな、俺より三木元1曹の方が稼いでるじゃないですか!?」
「計画責任者は、檜2尉です。当然じゃないですか」
真顔で言い切られ、徹は口ごもり、ついには黙り込んだ。
自覚はあるらしい。
三木元は顔立ちこそ優しいが、指導自体は誰よりも厳しい。笑顔で負荷をかけられるのは、隊内では三木元くらいだろう。
もちろん、ポケットマネーの話は三木元の冗談だ。
徹の経験が浅いからこそ使える冗談。
それを分かっている美雪や亀村は、笑いを堪えていた。
海も口元に笑みを浮かべ、徹をフォローする。
「期日は来週までだろう。きちんと形にはなっているんだろう?」
「はぁ。……多分?」
ぼすっ、と音を立てて三木元が容赦なく徹の脇腹に一撃加えた。
徹はすかさず背筋を正して、出来てますっ! と叫んだ。
堪え切れず、美雪や亀村が腹を抱えて笑う中、三木元が嘆息して、徹は肩を縮めた。
何もなければ、こんな空気なのだが。少し前は、りりあや光谷もよくここにいた。
一翔が来てからは、気を使ってあまり顔を出さない。
……一人に出来ない、という彼らなりの優しさだ。
(歩み寄るのは、こちらから……だろうな)
一翔にとっては、この隊はまだ、得体のしれないものなのだろうから。
目の前のモニターに表示されている報告書を見ながら、海は思考を回す。
どうにか、一翔をこちらに引き込む方法を、巡らせる。
◇◇◇
基地から車で十分ほど離れたアパートへ、途中で買ってきたコンビニ弁当を提げて一翔は帰宅する。
流石にミッションのあった日は、疲労感が強い。
迎える人のいない、ワンルーム。
脱ぎ散らかした靴下を爪先で退けながら、ベッドまでの道を切り開く。
ベッドに今日の夕飯の弁当を置き、一翔はまずは、テレビの隣に並んだ写真立ての前に膝をついて手を合わせる。
「今日も無事にミッション終わったよ、父さん」
五歳の一翔の隣で、しゃがみこんで笑顔を返す父の姿に、一翔は小さく微笑んだ。
今では、同じ色の制服を着ている自分を、一体どう思ってくれているのか。
答えのない問いが、一翔の胸に、すっと寂しさを過ぎらせる。
テレビのリモコンで電源を入れて、一翔は立ち上がると飛行服から着替え出す。
脱いだそのままのTシャツとジャージを手繰り寄せ、テレビから流れ出すニュースを聞いていた。
『本日、横浜港にてテロと思われる爆発事故がありました。国防省発表によると目標は、民間展示中だった国防海軍輸送艦との見解が出ています』
今日のミッションの内容だ。
Tシャツから顔を出したところで、一翔はテレビ画面を注視する。
上空からしか見えなかった、地上の細部が映し出されており右上には国防陸軍提供、と小さく表示されていた。
『爆発に引き続き、銃撃戦が発生。犯人は八名、五人拘束、三名は射殺されたとのことです。民間人被害は三十四名、重傷者八名、軽症者は二十六名との発表です。また応戦した海軍にも被害は出ているとのことですが、細部は未だ不明です』
横須賀になら海軍病院がある。
ただ、今回は横浜だ。近くの緊急病院に搬送されているだろう。
「海軍側の被害は不明……か」
飛行服をハンガーにかけながら、一翔は呟いた。
報道発表では恐らく正式な数は伝えられることはないだろう。
死者三名、重症二名、軽症者は十三名だと、海から届いた報告書には書いてあった。
日本も、すでに安全な国ではない。
ベッドに腰を下ろして、弁当のラップを剥がしていると、報道カメラの移す映像に、見慣れた機影が見えた。
一翔の操縦する、特別塗装の機動救護隊ヘリ。
青い機体の底面に描かれた赤十字。ジュネーブ条約とやらに守られた証だ。
もっとも、本気で戦争となれば、一翔が敵国なら一番に狙う。
戦術の基本は、補給路を断つことだ。食事や薬だけではなく、人的補給もあるだろう。
衛生職域は、人的戦力を確保する。治療して、再び戦地へ送りだす。
一番に絶つべき場所だ。条約で守られていなければ、真っ先に狙うのは基本だ。
もっとも……テロリスト相手に、条約も法律も、無意味でしかないだろうが。
テレビから流れるニュースをぼんやりと聞きながら、一翔は胃に夕飯を流し込む。
「……ごめんな、父さん」
思わず、一翔はそう零す。
固定された笑顔に、応えられなかった自分がここにはいる。
父の夢だった空を、一翔は飛んでいる。
だが、一翔と父の目指した空は、もっと遥か上空……高度三万フィートクラスの世界。
一翔の操縦する、ヘリ程度では決して届かない、雲の上の世界だ。
カーテンレールにひっかけたハンガーにぶら下がる、濃緑色の飛行服。
それを見やり、一翔は弁当の肉じゃがを口に運ぶ。
ちっとも味が染みていなかった。
◇◇◇
テロリストが世界中に蔓延している中、それでも日本は一応の平穏を守ってきた。
戦争なんて他人事で。
テロリストなんてテレビの中だけの光景で。
当時は自衛隊だった。
ただ、見えない敵から国を守り続けるのが、自衛隊だった。
戦力となる装備品を捨てろと声高に叫ぶ人々だっていたくらいで。
今でも、戦闘機や潜水艦を捨てろと叫ぶ人もいる。
こんなものがあるから、テロリストがやってくるのだと。
それも、あるいは正解かもしれない。
だが、もしも、自国を守る存在を失くしたら。
誰も、攻め入らない保証なんてしてくれやしないのだ。
どちらも正解で、どちらも不正解。
勝者の正義しか通らないこの歪な世界では、どんなに罵られようとも、敗者には、なれない。
政治家がミサイルから守ってくれるわけでもなく。
遠くに本国を持つ大国が、代わりに全域を守ってくれるなんて保証はなく。
隣国が黙って手を結ぼうとしてくれる希望的観測なんてできやしない。
宗教戦争だった二十一世紀当初。
今ではただ社会に対する不満だけで、簡単に爆薬を投げつけてくるような、モラルなき世界。
そんな世界で、日本も沈黙は許されなかったのだ。
テロリストに、ついに日本人が加担し始めたその時から。
自衛という曖昧な言葉は、通用しなくなってしまった。
自衛隊は、国防軍へと名称を変更し、軍備増強を図らなければならなくなり、世界は姿なき敵と戦い続ける混迷の時代を迎えていた。
そんな時代に、一翔は生まれてしまった。
そんな時代だからこそ、父を失った。
そんな世界だから……一翔は、空を目指した。
――自分の手で、何かを守るために。
その志だけは残り、しかし高高度の世界には届かなかった。
ジェットエンジンを唸らせる銀翼を、見上げるのが一翔の限界。
それでも空への未練は、捨てきれない。
中途半端な願いのままに、一翔は今日も、機動救護隊本部へ、出勤した。
「おはようございます」
最前線とは程遠い、しかし日本唯一の部隊という、今の自分の居場所へ。