第二話 着地点のイエロー
快晴の四月の空の下、一翔は久しぶりに制服の袖に手を通していた。
ロッカーの鏡で、ネクタイを締め、上着を掴む。
今日は、世田谷の中央病院へ挨拶回りに行くからついてこい、と海に命じられたのだ。
正直一翔には馴染みはない。だが、ヘリポートを持つ病院ということで、無関係ではない。
断る正当な理由も存在しない。
「わ、早坂2尉が珍しー格好してる」
待機室兼護送班の事務室へ戻ってきたりりあが目を丸くした。
りりあの反応は無視して、一翔はデスクに戻って、仕事の残りがないかを最終確認する。
「すみません、光谷1曹。出てきます」
パソコンをシャットダウンしつつ、一翔は来月の訓練計画に目を通している光谷へ声をかけた。
光谷はぺらぺらと計画書を捲っていた手を止め、一翔に首を傾げた。
「ん? 何か申告か?」
「いえ、挨拶回りだそうです。中央病院に」
「あー、そーいや言ってたな。海ちゃんと、お前さんと……器材班長だっけか」
「はい。ドライバーは三木元さんです」
なるほどなぁ、と光谷は苦笑した。
一翔は上着を羽織り、ボタンを留める。身分証と念のために運転免許証をポケットに仕舞い、デスクの上に用意していた略帽を掴んだ。
「じゃあ、後はお願いします。光谷1曹、秋田」
「はーい。お土産よろしくお願いしまーす」
りりあの暢気な発言に、遊びに行くんじゃないんだぞ、とため息交じりに零しながら、一翔は事務室を後にした。
格納庫に併設した事務室から、道を一本挟んだ向かいにある棟へと足を向ける。
格納庫から一番近いのは、裏口にあたる扉。その扉を抜けて、すぐ右手にある事務室が機動救護隊の本部事務所。
一翔や光谷も救護班だが、格納庫に近い方がすぐに出発準備を整えられるために、格納庫側に事務室がある。
一分と離れていない距離なので、特に気に留めたこともなかったが、考えてみれば、本部事務所に踏み入るのは数えるほどしかなかった。
扉の前で、思わず緊張して、躊躇してしまう。
「あ、早坂2尉。早いですねー」
かけられた声に振り返ると、徹がひらりと手を振りながら歩み寄ってきていた。
「何か、早坂2尉が制服って珍しいから、別人みたいに見えます」
へらっと笑う徹は、大抵制服姿だ。何かと書類仕事が多い徹は、この時期は少し暇だという。
年度末は忙殺寸前で、時折点滴を受けつつ仕事をすることもあるそうだ。
一翔は何と返していいかわからず、黙って頭の後ろを掻いた。
「ささ、入ってください」
徹は当然躊躇なく扉を開けて、一翔の背を押した。
ぐいぐいと徹に背中を押されて室内に踏み込むと、ふわりとコーヒーの香りが鼻腔を突いた。
入ってすぐに、右にデスクが二つ、左三つ。そして更に少し離れて左の最奥に一つだけあるのが、先任の亀村の席だ。
右が徹と三木元の器材班で、左が海と美雪、美祈(みのり)の救護班。
徹は一翔を置いて、すたすたと自分のデスクへ向かいながら口を開く。
「牧田先生、早坂2尉来ましたよ」
「ああ、では行くか」
パソコンの影に完全に隠れていた海が、すっと立ち上がる。
春の爽やかな陽射しによく映えるブルーのワイシャツに、ネクタイ姿の海に、一翔は言葉を失った。
見慣れないのもあるが、本当に別人のように見えた。
クールな海の雰囲気は、濃紺の制服にぴたりとはまっている。
海は椅子に掛けていた上着を手にすると、一翔に目を向けた。
「どうした、早坂2尉。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「あらぁ、牧田先生の制服姿にときめいたんじゃないですかぁ」
間延びした口調で、とんでもないことを言い出した美雪に、一翔はハッと我に返る。
海は眉をひそめ、一翔に視線で問いかけていた。
「違います。見慣れないのは認めますが」
「だそうだ、花山3曹」
「そうですかぁ。残念です……」
まったく動じてもいない海は、流石だった。
最も、うろたえられても一翔の方がどうしていいか分からないのだが。
海は黒のビジネスバッグを手にして、すたすたと一翔へ歩み寄る。
「行くか、早坂2尉」
「あ……はい」
「檜2尉。置いていくぞ」
「うわぁ! 待ってください! また三木元さんに怒られちゃうじゃないですかっ」
手間取る徹を無慈悲にも置き去りにした海に、一翔は黙って従った。
扉の向こうに、亀村と美雪が笑う声が消えた。
◇◇◇
「ところで、早坂2尉」
「何ですか?」
三木元の運転する官用車が衛門を抜けて数分後、今日の日程を検めていた海が徐に口を開く。
後部座席に並んでいた海に視線を寄越すと、海は相変わらずの静かな表情だった。
「何故、略帽なんだ?」
「は? いや、俺……どっちかっていえば、略帽派なんで。荷物になるし」
海は形の良い眉をひそめて、不審げな気配を漂わせた。
そう言えば、海と徹は制帽だと今更気づく。
どうやら、海はそれがお気に召さないようだ。
一翔は海から視線を剥がし、ふとルームミラーを見やると、苦笑する徹と目が合った。
やっぱりな、という感じに。
「……すみません」
何だか悪者になった気分に陥った一翔は、ぼそりと不本意ながらそう零す。
「いや。私の落ち度だ。明確に示していなかった」
確かに計画自体には記載がなかったが、そこまで言われると一翔としても申し訳なくなる。
事前に統制をとるか確認すればよかっただけなのだから。しかも、数分と離れていない距離での話だ。
海の真面目さを少しは分かっていたつもりだったのだが。
「いーじゃないですか。どうせ使わないと思いますよ。ほとんど屋内だし。外見るっても、何にもないですよ」
「班長、何のフォローにもなってないですよ。黙ってたほうが良いですね」
「えぇ! 三木元さん酷い……」
がっくりと肩を落とす徹に、三木元は爽やかな笑顔を浮かべながらハンドルを切る。
そんな二人の様子に、車内の空気が和む。一翔は海と二人きりでなくて良かったと、内心ほっとした。
上手い返しも、冗談も、一翔には難易度が高いオーダーだから。
「地下駐車場に停めますから、帽子は置いてってください。特に檜2尉。絶対失くしますから」
「だから……三木元さん……」
どうやら、三木元は徹に厳しいらしい。思わず、一翔は苦笑していた。
◇◇◇
世田谷区。渋谷からほど近い場所に、中央病院は存在していた。
新緑の枝葉を茂らせる公園の脇を抜けた先に、屹立する白い巨塔。
一翔には馴染みのない景色だった。半ば呆然と短い景色を眺めていると、不意に病院の正面入り口の前で、車が止まる。
怪訝に思い、三木元を窺うと、ルームミラー越しに笑みが見えた。
「地下駐車場に停めますんで、先行っててください」
「だが……三木元1曹はあまり馴染みがないだろう?」
海が眉をひそめて問いかけると、三木元はくいっと左親指で助手席の徹を示す。
「班長が詳しいんで、集合場所さえ教えてもらえれば。ほら、牧田先生は挨拶したい先生もいるでしょうし」
「……気遣い感謝する」
「いいえ。時間は有効活用してください」
海は頷いて、視線で一翔を促した。
「え、俺もですか?」
「いいからいいから」
何故か三木元が急かし、一翔は小首を傾げつつ車を降りた。
さわ、と風が並木の葉を揺らして音を立てる。都心にあるというのに、静かな場所だった。
流石は病院と言ったところで、一翔には少し、居心地が悪い。ヘリのローター音の方が余程馴染みがある。
ばたん、と扉が閉まり、車が去って行く音に振り返ろうとすると、海が隣に並んだ。
ぎょっとして視線を落とすと、海は一翔を見もせずに端的に促す。
「行くぞ」
「あ、はい……」
颯爽と歩き出す海の後を、一翔は慌てて追いかける。
親鳥にはぐれないように慌てて追いすがる雛のようなぎこちなさで。
◇◇◇
勝手知ったる、といった様子で迷いなく院内を進む海。
一翔に比べ歩幅こそ狭い海だが、歩みに躊躇がない分、足早だ。
きょろきょろと周囲を見回せば、簡単に一翔は置いていかれてしまいそうなほどに。
検査に向かう患者や、見舞いの来客の合間をすり抜け、海は職員用エレベーターの前でようやく足を止めた。
六階、と表示灯が知らせているのを見上げる海に、一翔は問いかける。
「良く知ってるんですか、ここ」
「一昨年までは、ここで勤務していたからな」
なるほど、と一翔は頷いて過ぎ行く人々を、視線で追う。
からからと点滴スタンドを引き連れて、白衣の女性看護師に付き添われる壮年の男性。
その体躯は日に焼けて、逞しい腕には注射針が不釣り合いだった。
「……入院患者って、全員軍人ですか?」
「ああ。かつては民間にも開放していたらしいが、今の時代それは難しいだろう」
去って行く体格のいい背中。それを見送りながら、一翔は頷いた。
頭部に巻き付けられたネットガーゼが、負傷部位を明確に示している。
彼も、どこかで戦闘に参加していたのだろう。
「……悲しい時代だな。この場所が、人で溢れるなど本来あってはいけないのに」
寂しげに零した海。
その言葉は、突き詰めれば海の存在を否定する。
怪我人が居なければ医者は不要で。矛盾に満ちた自分を、海は嘆いているように一翔には見えた。
それが、かつての自分と重なる。
――何故、キルコールを出さなかった。遊びじゃないんだぞ。
そうだ。遊びではない。
だが、遊びではないからこそ、一翔は躊躇した。その感性は人としては正しくて、軍人としては最悪だ。
そのトリガーは、何のためにあるのかなんて、頭では分かっていたはずなのに。
「……早坂2尉?」
海の静かな声に、一翔はいつの間にか俯いていた顔を上げる。
口を開けたエレベーターの中で、開ボタンを押した海が、不思議そうに一翔を見つめていた。
一翔は慌ててエレベーターに乗り込み、小さく海へ頭を下げた。
「どうした?」
「いえ、何でも」
「具合が悪いなら、ついでに診療してもらうといい。ここの方が、医薬品は揃っているからな」
大丈夫です、と笑みを向けた一翔に、海はそれ以上食い下がらなかった。
少しだけ不服そうな気配は滲ませたものの、視線を外して海は素っ気なく呟く。
「なら、ぼんやりするな」
まったくだ。一翔は曖昧に笑うほかなかった。
◇◇◇
三階でエレベーターを降り、海の後ろを歩いていた一翔だったが、ついに足を止めた。
「あの、俺ここで待ってます」
「は?」
眉根を寄せて、不審げに振り返る海。一翔は後頭部をさすりながら、それとなく海から目をそらす。
「流石に、場違いすぎるんで」
海の向かおうとしている先には、医局の扉があり、厳重にもカードリーダーが備え付けられていた。
無言で掲げられた、関係者以外立ち入り禁止。医者以外にもはいれるようにだろう。インターフォンが備え付けられてはいるが、部外者を固く拒む空気。海はともかく、医者ではない一翔には簡単に踏み入れない空気だ。
「牧田先生は、挨拶行ってきてください。ここで待ってるんで」
「……何を遠慮などして」
「遠慮じゃない。立場の違いです」
きっぱりと断った一翔に、海はむっとした表情を浮かべる。
海が、自分を対等に扱おうとしてくれていることは、一翔も薄々は感じていた。
だが、それでも越えられない一線はある。
海はこの先もずっと、誰かを救う医者であり続けるだろう。
一翔は、分からない。今は輸送ヘリのパイロットでしかないが、いつかは機種転換で攻撃用ヘリだって操縦することになるかもしれないのだ。
……海とは正反対の役割を担う可能性は十分にある。
そして、衛生という職を理解すればするほど、きっと一翔はトリガーを引けなくなってしまう予感がしていた。
だからこそ、この線だけは、越えられない。
海の責めるような視線をじっとこらえて、一翔は時が過ぎるに任せた。
やがて海は正面に向き直って、背を向けたままぼそりと零す。
「すぐ戻る」
その声音は、どこか切なげに、一翔の胸に響いた。
インターフォンを押して、数秒遅れてロックが外れた扉を、海がくぐる。
ぱたりと扉が閉まると同時に、一翔はひとつため息を吐いた。
「……落ち着かないな、ホント」
静かすぎて気持ちが悪い。
壁に背を預けて、一翔は腕を組んだ。見上げた天井が低く感じるのは、格納庫に慣れているせいか、あるいは閉塞感すら感じる空気のせいか。
どちらにせよ、長居はしたくない気分だった。
「あ、早坂2尉」
右へ視線をスライドさせると、ひらりと手を振って歩み寄る徹と、苦笑いの三木元。
背を浮かして、一翔は組んでいた腕を解いた。
案外と早い合流だったな、と思いつつ。
「牧田先生は?」
「挨拶」
「いやだから、何で一緒に行かないんですか?」
さも当然だろう、と言いたげに徹は首を傾げている。逆に何故と問い返したいところだったが、そう言えば、徹は薬剤官だった。
今更ながらそれを思い出し、一翔は肩をすくめるに抑える。
「……案外と、早坂2尉も頑固ですね」
「はい?」
三木元の発言が、一翔の眉間に皺を刻む。
悪気はなさそうな笑顔を返すだけの三木元に、徹が若干表情を引き攣らせていた。
◇◇◇
「国防中央病院は、陸海空共同で運用しています。もちろん、人数比の多い陸軍の人員構成が多くを占めていますが、病院長はローテーション制でやってるんですよ」
そう病院内を案内してくれているのは、中央病院勤務の空軍所属企画班長、1等空尉皆上明日香(みなかみ あすか)。
丸いフレームの眼鏡が顔の幅より若干広いのが、皆上の一番の特徴だった。
三木元が開口一番「まだその眼鏡なんですか」と呆れていたくらいだ。
年齢四十三の皆上と三木元は中学生の同級生だったらしい、と徹がこっそりと一翔に説明を加えた。
十三階の最上階を目指して稼働するエレベータの中、どうやら自分だけが中央病院について何も知らないと一翔は気付く。
「……もしかして、俺のために案内頼んだんですか」
近況を語らう海と皆上に聞こえないよう、一翔はこっそりと徹に問いかける。
徹は苦笑して、肩をすくめた。
「俺は、牧田先生に言われてついてきただけですよ。近くの医務室に搬送ってわけにもいかないですから、挨拶はしておくべきだとは思いますよ。それに、新しいメンバーが入れば、必ず連れてきてますから」
「……そう、ですか」
「牧田先生は、クールですけど、意外とみんなの事考えてますからね。って、三木元さん、視線で責めるの止めてください」
一翔は、何だか恥ずかしくなって、目を伏せる。
振り返ってみれば、今の言葉は海が自分を特別扱いしてくれていると、勘違いしているような発言だ。
そんなつもりはないのに。
「早坂2尉はパイロットなんですよね?」
不意に皆上に話しかけられた一翔は、即座に反応できなかった。
海の冷静な視線と、小首を傾げた皆上に、一翔は慌てて首を縦に振る。
「は、はい。その、まだ……配属されて間もないところではありますが」
「その若さで一身に隊の期待を背負ってるなんて、立派ね」
くすっと近所のおばさんのように笑った皆上に、一翔は曖昧な笑みを返す。
正直、一翔は操縦以外の事はてんで分からないままだ。
それに、隊の中心は医官である海だ。海のサポートのために一翔や他のメンバーはいるのだから。
自分が期待を背負ってなどいないと信じている一翔は、皆上に上手く返答できない。
その上、海は何か言いたげにじっと視線を突きつけて来るが、一翔には何も返せなかった。
十三という数字が点灯する。
目的の階だ。静かな駆動音をたて、扉が開く。
風が滑り込み、それと入れ替わりに皆上が先導を切って降りた。
照明が最低限なのか薄暗い短い廊下。
電子ロックではなく、アナログなシリンダーキーを開錠した皆上が扉を開けると、太陽の光が薄暗い廊下を照らす。
舞い込む風は、自然そのものの、春の穏やかな空気だった。
目の前に続くスロープを上った先にあったのは、黄色の巨大なアルファベット。Hの文字の描かれた平面区域。
ヘリポートだ。
「……ここが、中央病院のヘリポートですか」
「ああ。そして」
振り返った海の向こうに、ビル群が立ち並ぶ。
上空特有の風が吹き抜けて、海の前髪を揺らした。
「……早坂2尉が、患者の命と共に、着陸する場所だ」
「俺が……」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
一翔がヘリを操縦するのは、医官や救命士を現場まで運ぶため。そして、応急手当の後に、生命維持をさせながら、搬送する事。
基本的には、中央病院へ搬送する事になっていると、光谷からは聞いていた。
その場所が、ここ。
一翔は周囲をぐるりと一周見回す。
傍の公園以外は、高層ビルの立ち並ぶ景色。都心だから仕方がないこととはいえ、操縦の弊害要素は数多くある。
ぽん、と肩を叩かれ左を振り向くと、徹が人懐っこい笑みを浮かべて一つ頷いた。
「職種は違っても、早坂2尉は、俺たちの仲間なんですよ。一緒に、頑張りましょうね」
「檜2尉……」
「まだまだ俺も新米だから、フォローしきれるかは分からないですけど。早坂2尉は、一人じゃないですから。っていうか」
ちらっと徹が前を見やる。一翔がその視線の先を確認すると、海が三木元と皆上と会話している光景。
微かに眉をひそめた一翔に、徹がくすっと笑った。
「……早坂2尉に、牧田先生を初めとして、みんなが命を預けてるんです。お願いしますね」
びゅっ、と短く風が空気を運び去る。
見上げた青空は、どこまでも遠く高い。
その空を舞う翼を、一翔は持っていた。
そして、その翼は……一翔だけのものでは、なくなっていたのだ。
この機動救護隊へ来た時から。
何よりも、求められている存在になっていたとようやく気付く。
……それでも、一翔はそれを素直に受け入れられずにいた。
夢と現実の間で、そして翼の種類が違うだけで、一翔は悪魔にも天使にも成り果てる。
それが一翔にあと一歩を、躊躇わせていた。