第六話 十字の輝く青の翼
ぴたりと、頬に触れた冷たさに一翔は重い瞼を開く。
のろのろと顔を上げると、目の前に缶コーヒーが提げられていた。
「よう、起きたか早坂」
「光谷さん……」
起きたというよりは起こされた、という方が正しいだろう。疲労感はまだ拭えない。それでも、操縦席に預けていた背中を、ゆっくりと浮かす。
まだ頭がぼんやりとしていた。光谷の差し出した缶コーヒーを受け取る感覚もどこか鈍い。
「これでも飲んで、シャキッとしろ。そろそろ出るぞ」
歯を見せて笑った光谷に、一翔は目を見開く。
記憶がすっかり抜け落ちていた。
「おいおい、お前もしかして、すっかり忘れちまったのか?」
「え、っと……」
流石に即座に肯定するのは憚られ、一翔は記憶を遡る。
一度中央病院へと搬送。負傷者を引き渡すと再び現場に戻ったのは記憶している。
そして再度収容して、戻ってきたのだ。周囲にはビル群が見渡せる。中央病院のヘリポートには間違いない。
「何々―? もしかして、早坂2尉ってばなーんにも覚えてないのー? まだまだだなぁー」
「秋田」
ひょいっと後部貨物室から顔をのぞかせたりりあに、一翔は声も出ない。
すすで黒くなった頬に、少しだけ血が混じったりりあの表情は、それでも明るかった。
そして。
『どうした、早坂。飛べる体調ではないか?』
滑り込んだ声に、背筋が伸びる。
きっと、声の主はりりあと同じようにすすや埃、そして血に汚れているのだろう。
それさえ、誇りにしながら。
胸が熱くなるのを、一翔は自覚する。
『早坂?』
再度呼びかけた声に、一翔は首を振った。両頬を自ら叩き、前を向く。
「いえ。問題ありません。……帰りましょう、牧田1尉」
『ああ。安全運転で頼むぞ』
ふっと、マイク越しに海が笑ったのが分かる。一翔も、知らず笑みが浮かんだ。
帰還するまでが、ミッションだ。そしてその最も重要な役割を担うのは自分で。
「座席に着け、秋田。飛ぶぞ」
「りょーかいっ。道中よろしくお願いしまーす」
無言でうなずき、一翔はひとつ息を吐く。目はすっかり冴えて、疲労感は吹き飛んでいた。
見上げれば、空は青く静かに広がっている。自分の役割を果たすべき、場所がそこにはあった。
「……空は、良いですね」
「どうした、唐突に感傷的だな」
「俺は、そんな空が純粋に好きだったはずなのに。いつの間にか、そんな気持ちを忘れてしまってた」
「でも、お前さんはそんな空を、今も自由に飛ぶ術を持ってる。それと」
ぽす、っと光谷の拳が軽く一翔の肩を叩いた。
「お前はその手で、命を救ったんだ。奪う事しかない軍隊って組織の中で。最高だろ?」
横目で見やれば、にっと笑う光谷が見える。
それを肯定するのが、あるいはずっと、恥ずかしかったのかもしれない。
「……ですね」
「さぁ、帰るぞ早坂。檜の坊主が冷や冷やしながら待ってるだろうからな!」
「はい」
苦笑して、一翔はエンジンのスイッチを入れる。回り出すローダー。周囲の安全を確認して、更に回転数を上げる。
ふわりと重力に反抗してヘリが舞い上がった。
そしてまだ、ミッションは終わっていない。
◇◇◇
父の最後を、一翔は今でもよく知らない。それでも、誰かを守るために、誰かの批難を受けていたことは、母の背を見て知っていた。
そんな父の夢を、引き継いで空を目指し続けた。
パイロットに憧れた父の代わりに、自分が空を舞う事を夢見て。
今ではもう、届かない空がある。
それでも今の一翔には、新しく見つけた居場所があった。
この場所は、特異な場所であることも、理解している。いずれ、この場所を離れることも。
だが、そんな事は一翔にとっては重要ではなくなりつつあって。
――アラートが響き渡る。
すかさず席を立ちあがり、一翔は駆けだした。
事務室を飛び出し、格納庫へ滑り込むと、小柄なりりあが武装準備を進めているのが視界に入る。
だがそれに目をくれることなく、操縦席へ。僅かに遅れて副操縦席へ滑り込んだ光谷と共に、一翔は手際よく離陸準備にかかった。
発進命令が出るかはまだ分からない。それでも、これが役割なのだから。
「さてさて、どうなるかね」
「やるべきことをやる、それだけでしょう、光谷1曹」
ヘッドセットを調節しながら返した一翔に、にっと光谷が笑う。
一人前の口ききやがって、と嬉しそうに零して。
『さて、では行くか早坂2尉』
海の声が、ヘッドセットから滑り込む。
一翔は口元に笑みを浮かべながら、海に返した。
「安全運転、かつ最高速度で行きますよ。任せてください、牧田1尉」
姿は見せないが、海が笑んだのは、気配で分かった。
そして、小森の声が、発進を告げる。
命を救い出すための十字を背負った翼が、舞い上がる。
限界高度のナイチンゲール 終